ハンガリーのジプシーが目にする法と現実

オリヴィエ・マイヤー(Olivier Meier)
ジャーナリスト、1995〜99年にかけハンガリーに滞在

訳・萩谷良

line

 「1993年にハンガリーで、マイノリティの権利を認める法律が採択された。これは欧州の他の国にはなく、まずは国際政治上の快挙だった」と、社会学者のアンゲラ・コツェは評価する。しかし、マイノリティの人権を専門とするコツェにとって、この法律が採択されたことのもつ意味は、単に象徴的なものにとどまらない。「欧州人権裁判所によって認められた集団的人権の、初めての認知ということだ」と、彼女は言う。

 93年7月7日に法律LXXVII号がほぼ満場一致で国会を通過した(1)ハンガリーは、マイノリティの権利を保障するための、異例の法的手段をもつことになった。認定された13のマイノリティのうち、12は歴史の所産であるナショナル・マイノリティであり、残る一つがエスニック・マイノリティのロマ族(2)で、その数は50万人にのぼる(この国の人口は1000万人)。この法制のかなめは、民族評議会の設立である。これは、それぞれの集団から地方自治体単位で選出され、一定の予算の管理などを任された「マイノリティ自治政府」である。また、全国的にマイノリティを所轄する政府機関として、「ナショナル&エスニック・マイノリティ局」が設置された。

 98年10月には、ツィガニ(ロマ)(3)の民族評議会の数は766に達した。94年末の415に比べ、4年間でほぼ倍に増えている。地域の公共生活に参加したいという熱意がうかがわれる。93年の変革は、諸制度や機関に対する彼らの関係を根本的に変えた。これによって、マイノリティや複数民族が存在するという現実を否定する態度が改まり、ロマ族は尊厳を取り戻し、政治権力の内部に代表者を送り込むことができるようになった。しかし、実際の民族評議会では、二つの障害が現れている。活動を妨げる予算の不足と、地方議会との摩擦である。

 民族評議会の財政は複雑だが、大部分は地方議会のさじ加減で決まる。たとえば北東部にあるエズドのツィガニ評議会の場合、予算規模は13万5000フラン(約225万円)相当と全国で最大だが、行政の諸経費を引くと1万1000フラン(約18万円)相当しか残らない。また、ブダペシュト市19区では、区の住民の十分の一にあたる6000人のツィガニが暮らしているのに、彼らの評議会が99年に区議会から獲得した助成金は2万2000フラン(約37万円)相当にすぎないとロマ人権センターは嘆く。他方、スロヴァキア系住民は250人で4万9000フラン(約82万円)、150人しかいないクロアチア系住民は3万2000フラン(約53万円)相当の助成金を、それぞれの評議会の予算として獲得している。

 93年法の体制には、もう一つ弱みがある。正規の代表機関におけるツィガニの議員が少ないことである。今の国会にロマの議員は一人もなく、大多数の地方議会も同様である。これらの議会と連携を図ろうとするうえで、民族評議会は大きな困難にぶつかっている。また、法律ができたために、市民運動を熱心に行っていた人々が無力な評議員と化しただけ、という側面もある。「農村部では」とコツェは語る。「この変化はしばしば悲劇的なものだ。以前には、自主的に主張し、活動資金をもつ市民組織があった。それが今では、財政を支えてくれる団体もなくなり、民間からの収入源は消滅し、活動しようにも予算が来るかどうかわからない状態になってしまった」

 ではどうすればいいのか。いわば全国レベルの「マイノリティ自治政府」というべき、「ツィガニ全国評議会」の議長であるフロリアーン・ファルカシュのような人物にとっては「最も重要なのは、法が存在すること、そして、その可能な改善について討議することができること」であり、彼はこれを中道右派の現政府から得たいと思っている。だが、欧州ロマ人権センターの調査員、ヴィクトーリア・モハーチはそれより厳しい判断を下している。「この法によって、ハンガリー政府は、本気で私たちの境遇を改善しようとしたのではない。ただ、国境を接する諸国がそこで暮らすハンガリー系マイノリティに同様の権利を与えるように仕向けようと考えただけだ」。ルーマニア、ウクライナ、スロヴァキア、スロヴェニアには、それぞれの国に統合されたと言えるハンガリー人が500万人いるが、彼らの権利を拡充することは、彼らが政治の表面に現れるのを後押しすることにつながる。

 ハンガリーは、サロン音楽の花があでやかに開いた19世紀後期以来、ツィガニの楽才に負う名声をほしいままにしてきたが、彼らの存在を過去においては恥と感じ、現代においても皮肉な思いでながめている。ロマ族の排除は、かつての暴力的な迫害から、もはや忘れられた第二次大戦時代の絶滅収容所をへて、現在進行中のゲットー化にいたるまで、何世紀にもわたって続いてきた。それでも彼らの文化は、つねに不死鳥のごとくその灰の中から再生し、社会的な認知を求め続けている。

 それゆえ、インテリ層は時たま思い出したように、ツィガニ問題に向き合うことになる。統合に向けた動きに革命的転換をもたらすとされた法律が制定されて6年たった今、なぜ、またどのようにして、状況は、いくつかの点で、悪化すらしたのか。問題の社会的あるいは民族的性質をめぐって、「ツィガニ学」論争が果てしなく繰り返される。

進むべき道をめぐって

 「統合が失敗しているのではなく、社会的条件が統合を妨害するのだ」と、コツェは強調する。当年29歳になる彼女は、ハンガリー社会で居場所を見つけようと考えながらも、自らのルーツや文化を保とうとしているのが自分の世代だと語る。ただし、そうしたものの価値は「共同体の枠組みから抜け出す」必要があると言う。彼女自身、生まれ故郷の村、キシュパラードでは窮屈に感じると言う。そこは、ウクライナ国境にあり、住民は500人で、その半数がジプシーだ。学校はなく、医師もいない。高校を出ると、コツェは仕事を探しにブダペシュトに移り住んだ。重工業の工場で働き、ついで小学校教師をしたのち、ニューヨークに行き、アルバイトをしながらコロンビア大学を卒業したが、ここで、人権をテーマにした博士論文で口頭試験を受ける。こうした経歴の持ち主だから、統合という用語に彼女が違和感をもたないのも驚くにはあたらない。ただ、この言葉が否認の意味を帯びる時は、話が異なる。

 国家は、人種差別や暴力行為に十分な注意を払っているだろうか。学校の段階から、様々な文化の間の交流を推進する努力をしているだろうか。93年に法律を制定したハンガリーをほめた「欧州反人種差別・反非寛容委員会」は、97年には、そこに「人種を理由とした侮辱や誹謗中傷、日常の差別や、公務員による差別の禁止」がないと、遺憾の意を表明した(4)

 だが、ロマ族に対する差別は否定しようがない。ハンガリー全体では11%の失業率が彼らの場合は70%近くに達する(5)。ロマ族は伝統的に放浪生活を送っていたとはいえ、20世紀には定住するようになっている。戦後に大量に労働者として統合されていったが、それはしばしば強制されたものだった。放浪生活は50年代にはほぼ消え去った。90年代初めの社会変動の結果起こった国内工業の破綻は、非熟練労働者であるがゆえに解雇対象になりやすい彼らにとっては致命的だった。

 4万人の人口の三分の一をツィガニが占めるエズドでは、89年以降、冶金工場や製鉄工場がさびれ果て、それが失業率を平均で40%にまで押し上げたが、周辺のツィガニの村落では、それはほぼ100%である。600人が住む近隣の村、ヘテシュでは、不衛生で有害な昔のぼた山から掘り出した鉄の塊を売りさばくのが、今や唯一の収入源となっている。一家の生存が、生活保護と政府の助成によって支えられることも多い。

 ツィガニだけに限ったことではないにしろ、新自由主義の経済政策でいちばんひどく、そしていちばんすぐに傷めつけられたのは彼らだった。公式統計によると、彼らの寿命は、ヨーロッパでも低いうちに入るハンガリーの平均に比べてさえ、10年も短い。また、25歳から29歳の年齢層で8年間の初等教育を終えたツィガニの若者の比率が71年から93年の間に26%から77%にあがったにせよ、その大多数は高校を修了することがなく、大学に進むこともなかった(6)

 こうした悩ましい問題をどう解決すべきかについて、彼ら自身にも議論の対立がある。統合が困難なのは、社会的要因のせいか、文化的要因のせいか? 違う民族の子供を分けて教育した方がいいのか、一緒に教育した方がいいのか? メディアはツィガニの生活の苦労を見せ、彼らを苦しめる差別を告発すべきか、それとも、彼らの伝統と民俗の魅力を広くアピールすべきか?

 93年の法律で政治機構を備え、ハンガリー社会への通路をもつようになって以来、内部の論争はますます激しくなっている。「私の政策はツィガニ問題を革命的に変える」と、ファルカシュは断言する。「私の提案は、マジョリティにもマイノリティにも受け入れられるからだ」。しかし、もう一人の中心的活動家で彼と反対の立場に立つアラダール・ホルヴァトは、ファルカシュを「日和見主義」と批判する。

 アンゲラ・コツェは楽観的な姿勢を崩さない。これまでの道を振り返り、米国滞在の後でツィガニの闘争を黒人の市民権運動になぞらるようになったコツェは、自分たちが権利を認められ、ハンガリー社会が差異を尊重するようになる日の来ることを信じている。「私は、欧州連合(EU)が、ロマの状況を改善するよう諸政党を動かしていくうえで、私たちを助ける力をもっていると確信する。それが、西側諸国への新たな移民の流出を防ぐためであろうと、ともかく、私たちの人権が尊重される方向で支援してくれることが重要なのだ」

(1) 同法は、有効投票の96%を得て成立した。反対票を投じた3人のうちの1人は、ロマから出た唯一の国会議員、アラダール・ホルヴァトだった。
(2) この集団は、民族的に均質ではない。ハンガリー系ツィガニは、ハンガリー語を母語とし、三分の二を占め、残る三分の一は、ロマニー語を話すヴラシュからなっている。さらにわずかながら、国の南部にベアシュもおり、その母語は古いルーマニア方言である。
(3) 通称として用いられる「ジプシー」は差別語とされ、現在では自称である「ロマ」が推奨されている。ハンガリーでは「ツィガニ」、ドイツでは「ツィゴイネル(ツィゴイナー)」とも呼ばれる。本文の表記はほぼ原文に従った。[訳註]
(4) ハンガリー政府に向けた1997年7月の報告
(5) ナショナル・マイノリティおよびエスニック・マイノリティの状況についての隔年報告で、政府は、失業率が「ハンガリーの平均の4倍から5倍にのぼる」ことを認めている(「国会への政府報告J/3670号、ブダペシュト、1997年)。ツィガニの諸団体は、現実はもっと劣悪と見ている。
(6) 国会への政府報告J/3670号、同上


(1999年11月号)

* 五段落目「ロムの議員」を「ロマの議員」に訂正(2003年9月1日)

All rights reserved, 1999, Le Monde diplomatique + Hagitani Ryo + Saito Kagumi

line
line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)