テクノロジーに狩り出されるプライバシー

ドニ・デュクロ(Denis Duclos)
社会学者、国立学術研究センター主任研究員

訳・斎藤かぐみ

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 「カメラを随所に設置し、常時作動させておく行為は、プライバシー権や肖像権をはじめ、個人の自由を極度に侵害するものである。これは、裁判所の許可があるとか、公共秩序上の必要があるとか、交通違反ないし財産や人命への危害の現場を捉える必要があるとかの事由で正当化されることはない」(マルセイユ行政裁判所、1990年6月21日)

 プライバシーが政治で問題にされている。米国大統領の私生活に関連して起こされた訴訟は、欧州や日本その他の政治家を見舞ったスキャンダルの嵐の絶頂というだけではなかった。言ってみれば格好の事例となった。モラルや財務状態、健康状態をガラス張りにすることが求められる潮流がはっきりした。グローバル化する欧米モデルは徳に満ちたものとなるだろう。さもなければ、不品行やマネー・ロンダリングが足かせとなって崩れていくだろう。

 こうした勢いはとどまるところを知らない。市民団体アクトアップ・パリが、民事連帯契約(PACS)法案(1)反対デモに参加した一議員の性的傾向を暴露すると脅迫したのも、まともな政治の土俵に立ち返るより先に、ガラス張りを熱望する時代の波に乗ろうとしたからだ。

 常に私生活を注視される大物に限らず、一般庶民の家のドアとて、近親相姦や虐待の疑惑をかけられれば、令状の有無にかかわらず破られる可能性は大いにある。コルベイユ・エソンヌ市タルトレ地区で事件が起きた時も、非難の嵐が吹き荒れ、渦中に置かれた地元の青少年の評判は地に落ち、無実の者たちが逮捕された。ベルトラン・タヴェルニエの映画『今日からスタート』では、共和主義の崩壊を食い止めようとする教員が、親に殴られたら知らせるようにと児童を指導したり、見捨てられた生徒を送っていって恵まれない家庭に入り込んだり、他意のないまま突っ走っていく様子が描かれているが、現実は社会派ドラマを超える。うちひしがれた貧困世帯にとって、住まいはもはや、プライバシー保護に関する草分け的な判決(1604年にさかのぼるケベックの判決)が語るような砦ではなく、吹き抜けの通路と化している。執行吏にソーシャルワーカー、カウンセラーだけでなく、自分以上に貧しい者への連帯精神だとか、仲間や親や隣近所の情だとかも入り込んでくる。

 プライバシーは四方から攻撃されると同時に、これまで以上に主張され、要求され、防衛されるものとなっている。専門家の領域で、職業上の秘密厳守の重みが増している。医者や精神分析医、ソーシャルワーカーや教師といった「プライバシーの専門家」を利用しようとする(時には違法な)裁判所の圧力に対し、多くの者が職業上の論理と名誉を訴える(2)。あるイギリスの大都市で、危険と目される人物の連絡先を公にし、辞職に追い込まれた低所得者向け住宅の担当官の例のように、処分が実施されることもある。

 今や、個人データの保護が広範にわたって必要とされる。欧米の大半の国では、電気通信が非常に問題になっている。さまざまな民間や官公庁、国内や国際、商事や刑事のデータベースの接続を批判する声が高まっており、私信を不可侵とするための新しい暗号技術に賛成する者は多い。最近イギリスで実施された調査によると(3)、電話帳に番号を載せないオプションを望む者が9割もいた。企業は顧客の個人情報を他者に開示すべきではないと考える者も、同じく9割にのぼるという。

 ここに見られるのは、個人に属する絶対的権利として公権力を超越した私権の要求である。ジュペ前内閣が、外国人の宿泊を統制するために家宅調査権を法定しようとして受けた拒絶反応の象徴的な重みは、そうした意味で、はたして充分に計られてきただろうか。

 だが、「私権」への執着は、専守防衛というわけではない。それはリベラル・イデオロギーの礎石でもある。私性などあるよしもない経済集団の私有化が進むにつれ、古い思想が息を吹き返してきた。主人たることができるならば、つまり自らの事業観を徹底させうるならば、持てる者は共同体を富ませることになるのだという。そして、一般人の私権と持てる者の私権では、後者が優位に立っていく。最も「私物化」の進んだ社会では、雇用主の世界の外での私性を認めないような法解釈が定着している。公的機関によるプライバシーの尊重に関する1974年の米国法(プライバシー法)は、民間部門には拡大されてこなかった(4)。判例によれば、従業員は業務上の動作だけを行うと考えられるので、監視カメラは従業員の名誉を侵害するものではない。

 私権を襲う私権という逆説は、電気通信の分野に如実に現れている。暗号利用権がなかなか確立しない事実は、通信内容をガラス張りにしようとする企業の活動と好対照をなす。企業は従業員と並んで消費者集団に対しても、暗号アルゴリズムの制限、ICカード、製品内蔵コード、呼び出し番号送達モデムなど、本人の知らないうちに詳細な個人情報を転送するための装備を次々に標準化している。マイクロソフトとインテルという「パーソナル」情報機器の二大企業が、購入者に知らせないままウィンドウズ98(OS)とペンティアムIII(プロセッサー)に識別コードを仕込んでいたスキャンダルも、できるだけ匿名で不透明な存在でいようとする他者を「ターゲット化」するための壮大な闘争のなかの事故でしかない。

 強力な分析と接続の手段さえあれば通信傍受は可能であるため、国家は民間に凌駕されることを懸念し、私信を内偵する。こうした国家の「隠密検閲室」自体が怪物的なデータ自動処理装置と化す(5)。中身に手を付けずに信書を宛名人に届けるという公共郵便の伝統的な職業倫理が、即座に読めるデジタル情報の性質によって危うくされる。次のように言う者さえもいる。「プライバシーなど忘れるべきだ。もうなくなってしまったものなのだから」

めくるめく循環運動

 事態はさほどに単純ではない。現実には、プライバシーの防衛と侵害が交錯する。ほとんどの大都市で、ますます多くの商店や民家が、私財を守る目的で入口に監視カメラ装置を備え付けるようになっている。イギリス内務省も同様の理由から、公共の場に1999年度で1万台のカメラを追加設置することを考えている。解雇不安から会社への忠誠心の薄くなった従業員の動作や通信を雇用主が見張るのも、会社の秘密が盗まれることを防ぎたいからだ。

 同じくプライバシーを守ろうとして、米国や第三世界の多くの国々のゲイテッド・コミュニティー(検問所付き高級住宅街)の住民は、厳しい内部規則に従い、内部の治安死守と招かれざる客の撃退のために警備員を雇い入れている(6)。米国の諜報機関が、世界各地の人々の通話内容を解読したり、その動静を追跡したりする能力を持とうとするのも、自国の領土の「聖域化」の追求に他ならない。

 あるいは、自分の身元を確認したいという気持ちから、出生の真実を知ることを求め、匿名出産の廃止を訴え、父親を証明する遺伝子テストの商用化を望む者もいる。これらの措置は、プライバシーを守りたいという一部の母親の願いを侵すことになる。また、私性の「究極の」冒涜であるレイプを防止するために、監察官は「強姦魔」その他の「性犯罪者」の内面を侵していく。

 不透明な存在でいたいという望みと、住居や心身に入り込んで他者を先読みしようという攻囲妄想的な懸念が、悪循環を形づくっていく。世界が侵略的であると感じれば感じるほど、私たちはそれに予防的な干渉をもって応ずる。とられた予防対策をいわれのない不信のように見れば見るほど、私たちは公共の場で市民が持つはずの特権を放棄して私的領域へと退く。そうした放棄に走る者が増えると、相互監視が全般的に広がっていく。哲学者ジェレミー・ベンサムによって唱えられ、19世紀に英仏で監獄の構想に利用された集中監視方式、パノプティコン(一望監視施設)を踏襲して、新鋭社会学者ミカリス・リヤノスが「ペリオプティク(周望的)」と呼んだ状態が出現するのだ。

 こうして私たちは、公と私の区別の溶解に加担する。明日の世界で、位置探知用の腕輪を付けた受刑者と、トイレに立った時間を給料から差し引く「インテリジェント」社章を付けっぱなしの自由人とで、何が違うというのか。少なくとも冷蔵庫や自動販売機などに近づくのを在宅受刑者の腕輪は妨げたりしないが、同様の社章は、今や原子力発電所に限らず、ラジオ・カナダのオフィスや「ホーム・エレクトロニクス化」された企業で実用化されている。

 こうした逸脱や逆説を前にすると、いつしか疑問が沸き上がってくる。プライバシーの欲望とプライバシーの侵害は関わり合っているのではないか? 私的領域は、個人あるいは集団から羨望されるがゆえに、攻撃の的になるのではないだろうか?

 干渉と防御、襲撃と保安の循環運動は、プライバシーをめぐる火花を見つめずして理解することはできない。私たちが自らの私性を欲するあまり、人々の私性を剥ぎ取ろうとするまでになるのは、一体どうしたことなのだろう? 米国の社会学者リチャード・セネットが予見した「公共的人間の失墜」(7)を奉じる人々が、現在巻き起こっている論議を通じて予告する「データ監視」社会、あるいは逆に「暗号アナーキー」社会を、私たちが恐れつつも到来させようとしているのは、一体どうしたことなのだろう?

 次のような答えが浮かび上がってくる。私たちが私性を堅持するとともに征服しようと欲するのは、それが一般的流通を逃れ、すべての特殊価値は貨幣によって無化されるという傾向を逃れるからではないだろうか。普遍的な圧延を逃れる場所、対象が存在することを、眼差しや志向、行為の源そのものを、中世神秘家のエックハルト師が語った「心の中の小さな城」を、私たちは信じたいのだ。

 そこには、秘宝中の秘宝が埋蔵されていると考えられている。いたるところで不断の戦争にさらされている精神と身体、あまねく問題に取り囲まれているとおぼしき精神と、社会の要請に抑圧されているとおぼしき身体が、そこで内密に折り合いをつけている。かくして、私性は白サイの角のようなものとなり、絶滅の危機に瀕しているだけに珍重される。

 悲劇はここから生まれる。私たちは自分なり誰かなりに属する宇宙を夢見るほどに、大きく口を開けたリベラル全体主義から自衛するようなセクトに対して、気色ばんだ(とはいえ妬ましげな)眼差しを向ける。そして、プライバシーを万人から、なかでも特に集団的襲撃を通じて自分の神経症を癒そうとする者たちから、渇望される対象と化すことに加担していく。

ホモンクルスか遺伝子か

 私たちがプライバシーに高い価値を認めるからこそ、企業や警察、司法国家や官僚などの集団も、これを新たな植民地、新たな内部帝国主義として入れ込んでくる。1998年に米国経営協会が1085社を対象に行った調査によると、従業員に対して何かしら干渉的な監視を行っている企業は4割におよぶ。こうした企業は電子メールや通話内容、ボイスメールをチェックし、パソコンのキーワードを押さえ、デジタルビデオで業務状況を記録する。41%の米国企業が血液中のドラッグの有無を勝手に調べている一方、内心や態度を知るための心理テストを行う企業も15%にのぼる(8)

 ケベック企業の2割(米国企業も同じぐらい)が従業員の志向を調べるために(格好よくポリグラフと呼ぶ)嘘発見器を用い、このポリグラフの9割が北米の場合は経済界で利用され(司法手続での利用は1割にすぎず)、世界的企業のかなりが特に理由もないまま常に監視カメラを作動させているのも、「本当の」私たちは心の奥深くにいて、それが時に神経の高ぶり、姿かたち、声音、場合によっては遺伝子から透けて見えるという思想が広まっているからだ。

 実に多くの米国企業(と今では欧州企業)が、採用に当たって600項目の質問から成る「人格多面調査表」のたぐいを使っているのも、企業にとっては名誉の尊重やプライバシーの保全よりも真実が重要だからだ。ここでいう真実とは、アングロサクソンの言語哲学において存在の内奥を意味する「志向性」を指している。

 潜在性の文化では、頭の中に隠れ住むホモンクルス(小人)が万事を決すると信じられているようだ。そうしたわけで、雇い主、世界の支配者、その他の現し世の人間に対して「本当に」思うところについて、小人をおびき出して自白させようということになる。

 このような見立ては、単純素朴で古くさい(宗教裁判の「審問」の決め手とされた「告白」に近い)とはいえ、効果的であることに変わりはない。国家が政治的志向や犯罪的志向を内偵する権利が合法化され、民間機関がむやみに心身を取り調べることが広く正当化されるのも(9)、ウェブのハードユーザーの電子メールアドレスがひそかに集積されるのも、この見立てによる。集められた足跡は、秘めた志向で貫かれていると想定され、「プロファイル化」された同一のターゲットに属するものとして扱われる。

 究極の私性の単純素朴な追求はまた、科学の衣をまとって、脳内物質の色とりどりの流れや遺伝子署名の痕跡のうちに心を発見しようとする。

 こうして、50歳になると飲酒癖を発現させる遺伝子もあれば、飛行機のパイロットであるという条件がそろえばハンチントン病(の舞踏運動)を発症させる遺伝子もあるということになる。また別の遺伝子の場合、血液型がB型なら「創造性が豊か」、A型なら「思慮に富む」人間にするという・・・(10)

 けだし、遺伝子に潜在する資質というものは統計値にすぎず、その個人の他の遺伝子特性の(入手不能な)全体像なしには証明されない。だが、遺伝子の狩人は気にしない。そもそもの志向を宿し、人間存在の運命を定めているのは遺伝子だという信念に駆られているからだ(11)。これに近い思想から、イギリス警察は全犯罪者につき、カリフォルニア州は全新生児につき、遺伝子データベース作成を実施した。また、ペンタゴンが職員をはじめとする300万人分の遺伝子データベースを保有しているのも(12)、市民が「むやみに取り調べや拘禁を受ける」ことはないと保障した憲法(修正第四条)を備えた某国の話である。

 何人も「自らの内奥まで取り調べられるのを拒絶すること(13)」ができると請け合ってみても、人間に究極の聖域、自己と他者に関する絶対的知見の場が存在するとの「遺伝子主義」幻想に与していることに変わりはない。人身の尊重は、科学的原理ではなく政治的原理なのだから、想定上の秘めた内奥ではなく、個人のあらゆる側面を適用対象とすべきことを認める方が合理的だろう。

支配者の論理

 「雇用主の追求する目的が規律であろうと、生産性や安全性、あるいは盗難防止対策の改善であろうと、カメラはその本質からして、いちじるしく均衡を欠く手段である。就業中の従業員の一挙一動を常時記録すれば、業務に関わる要素だけでなく、個人の人格や自己の領域に属する要素も映し出すことになってしまう」(マニュエラ・グレヴィ「企業の監視カメラは従業員管理のまっとうな方式か?」、『労働関連法務』4号330ページ、パリ、1995年)

 だが、私たちはあまり合理的でなく、ハリウッド映画の駄作に出てくる超常現象の探求者のように壁に耳を押し当ててみる。その場にいた人々の音声や熱映像を伝導したり、どんな波動経路もさかのぼったりするようなガラス振動を用いた精巧な装置を思い描く。「安全対策」の名目で群衆や個人を観察するにとどまらず、泥棒の特徴と考えられる素早い動き、放心しかけた従業員の発見につながる重い腰や遠い目、私たちの経済的覇権や軍事的覇権に立ち向かおうとする潜在的テロリストあるいは積極的ライバルを示すキーワードなどを、すぐに疲れる監視要員に代わって見つけ出してくれるデジタル記録の山を解読するためのソフトを発明する。

 と同時に、すばらしきプライバシーへの信仰を高めようとでも言うように、インターネット上のメッセージへの暗号利用権に関連して「いい感じのプライバシー(Pretty Good Privacy:代表的な暗号ソフトの名称)」問題を世界的に提起する。これは確かに世界中の当局への挑戦であり、なかでも数十年にわたって他国以上に国際電気通信を内偵してきた英米軍事連合(UKUSA)への挑戦である。だが、暗号化されたデータは価値が高く、それを手に入れれば世界の支配者になれるとの幻想を増幅することにもならないだろうか?

 私的世界を隔てる薄墨色の壁の向こうに、生きた身体の充実の内側に、隠された何かがあると信じるあまり、こぞって攻撃ないし防衛に走ろうとする風潮が広まり、不当な行為が当たり前になってい く。あるカナダの商店主は、(もともと強盗防止のために設置した)カメラでレジ係のミスを見つけて御満悦である。もっと笑える(気分次第では嘆かわしい)ジャンルとしては、性的行為にふけっている最中にCCTV(Close Circuit Television)に急襲された人々の様子を収めたフィルムなどもある(14)

 こうした暴走が必至であるにもかかわらず、左翼も右翼もあやまちを上塗りする。フランス社会の礼節を守る「情報処理と自由に関する国民委員会(CNIL)」が創設された背景には、税務当局に対し、国民台帳の識別番号をデータベースの相互接続に利用することを認めようとする「サファリ」計画への反対運動があった。四半世紀後の今、左翼政権が提出した1999年度財政法修正法案という無難な姿のもと(15)、数々の反対運動も空しく(16)、まんまと同じ計画が通ってしまった。左翼はまた、右翼以上に熱心に、セクト対策を口実として市民団体の統制を強化した。右翼政権の路線を忠実に引き継いで、社会保険の情報化の下地を作り、医者に患者の病状を(皆の利益のためということで)データ化する義務を課そうとしているのも、やはり同じく左翼政権である。

 そして、できるだけ多くの情報をできるだけ長期にわたって集中管理する警察データベース計画、という不気味このうえない化け物も、茫洋とした「犯罪情報処理システム」として復活し、表向きは自由を愛する「複式」左翼政権のもとで可決されるに至った。

 緊急に効果を必要とするとの名目によって行政や政治の良心がことあるごとに棚上げにされてきた事実は、悪しき官僚支配という以上に抗しがたい誘惑の存在を、あますところなく示している。こうした誘惑が確実によみがえるのも、隠された真実を最終的に知ることができるという幻想が、私たち一人一人のうちに根を張っているからだ。同じ建物の住民が「協同監視」体制をしき、閉じた社会の内部をそれぞれ自室からうかがい、率先してテープやビデオを回覧したり、不審な挙動を知らせ合ったりする状況は、鎧戸の陰から村の様子をうかがう老人たちの不眠症の現代版として片づけられるものだろうか? 当局者や技術者に鼓舞されて、人々の無意識の密告欲が頭をもたげているのではないだろうか?

 イギリスのサイバネティクス学者ケヴィン・ウォーウィックは、未来のビッグ・ブラザーの力を見せるという口実で、ドアの開閉と連動した電子チップ(トランスポンダー)を身体に埋め込み、大いに評判を呼んだ。生体に機械を侵入させたいという欲求、ピアシングやブランディング(商業ロゴの形のタトーやヘアスタイル)の流行に呼応しつつ、私性への入れ込みを至高の喜びとして打ち出す欲求の現れと言えないだろうか?

 このように、私性の追求と極度の私有化は軌を一にする。両者が結合し、単一の現象を形成する。それが歴史上、今に始まったことでないのは明らかである。古代ローマ貴族の大邸宅は、公法のおよばぬ私的な別世界そのものだった。奴隷は寝所を与えられず、扉の陰や列柱の踏み段の上に、わら布団を引きずって回った。これらの奴隷は、権勢を振るう主人によって家具同然の状態に落とされたがゆえに、主人のプライバシーを破る存在でもあった。

 ギリシアとローマの市民が、子供を買ってきて「お気に入り(deliciosi)」として使い、かなりの数の奴隷や(恩義を与えた)解放奴隷を妾腹の子や孫の群と同じように扱う一族の主人、パトロヌスへと歴然と傾いていったのも、私性を「(他者から奪い取るべき)真の秘宝」として求める熱情によって説明できる。私性のうちに他者を呑み込もうとする渇望は、公空間が崩壊した中世初期に引き継がれたパトロヌスの伝統にも見られる。「お館さま(signor:領主)」は、庶子や養子の「ひよっこ(gwas:家臣)」を仕切って独身を課し、城や村の奴隷を包括した「奉公人(mesnie)」に自分の床の相手をさせた(17)

 古代にしろ中世にしろ、私性信仰は強大化する私的領域を生み出した。市民階級が均衡勢力となった時期もあったが、市民階級が最終的に駆逐され、その必然の結果として弱者が強者に食われ、城主や王や皇帝の一族の領地が広大な「私国家」と化した時期もあった。13世紀以降のヨーロッパでユダヤ人が君主に属していた(servi camerae)ことや、わずか一世紀前にコンゴ全土がベルギー王の私有地だったことを思い出してみればよい。

 私性信仰を打ち立てた資本主義の進展が、私性を捕捉しようとする貪欲の常道を免れていると信じてはならない。1996年にイリノイ大学の研究者が行った調査によると(18)、フォーチュン誌がフォローする500社のうち4分の1が従業員に関する秘匿情報を政府機関に渡し、3分の2が顧客に情報を流す一方で、4分の3が従業員に自分の業務書類へのアクセスを禁じ、4分の1が自分の医療関連書類へのアクセスを認めていなかった。現代の経済支配層が、その服従者の最たる私性を「表す」情報を自由に処分し(逆は真ならず)、所有意識を持っていることが明らかに浮かび上がる。古代の主人たちが行っていた良い下僕・悪い下僕についての情報交換と、大きく違うものだろうか?

 そして、雇用主が在宅ワークというあいまいな概念を通じてプライベートと拘束との混同を利用しようとする現在の傾向から、身体の生産ライン向け調教という古典的なテイラー式労務管理がどこまで来ているのか、さかのぼって見つめ直すことができる。結局のところ、労働力の売り買いという外観を超えて常に追求されてきたのは、人間のすてきな作業能力を創造性の源泉において押さえ、囲い込み、吸い上げることではなかったか? 経済価値の本質が何かと言えば、機械化しつくすことはできず、家庭の内部まで探らないと奪い去れない労働の奇跡に他ならないのではないか? たとえばカリフォルニアでは、本部の視察を受け入れられるような空間で作業することを、在宅ワーカーに義務づけた法律が作られた。

意志を新たにせよ

 「何人も、業務成績、融資返済力、信用度、言動など人格の一部の側面を評価することを目的とした自動データ処理に基いて、法的効果を発生させたり、相当の影響を与えたりする決定に対し、服従しない権利を有する」(1995年10月24日付EU指令15条)

 胸中の真実なるものが現に存在するという信仰をふくらませるような、私たち自身の欲望に用心しなくてはならない。そんなものは、ある種の合意の薄弱な効果にすぎない。この心もとない協定の目的は明らかに、いわゆるところの礼節と、その積年の成果である文明を枠組みとして、生きる者が互いに防御しあうことにある。

 今や本質的な問題は、(大量管理テクノロジーによって嘆かわしくも厄介視される)公的な規制には私的な自由が必要であるということではない。ある人々の認識や行動が、別の人々の認識や行動の余地を残すために制約される人間社会を、私たちが望んでいるか否かということなのだ。

 たとえば民族的出自や肌の色は、私的(属するもの)であるとともに、共同的(分かち持つもの)であり、公的(示すもの)でもある現実の特徴をなす。こうした特徴が人口統計や警察データベース(内務省総合情報局の「暴力取り締まり」データベースなど)で言及されることが問題となるのは、いったん実務のなかで語られ始めると、社会問題のゆがんだ見方を定着させかねないからだ。そこで語られる真実は、「ささいな違い」を重大なもののように捉えさせる誤りをはらんでいる。ただし、「ささいな違い」が憎悪と差別に火をつけかねないのも周知の事実である。

 プライバシーとは、隠したり掘り返したりするような秘宝ではなく、互いの尊重を決意することであり、他者の行動の限度を任意に確認することである。法を支える政治的意志だけが、プライバシーを創造する。内面性というものは、そうしたものとしてしか現実に存在しない。これを忘れると、はてしなく空しいゴールドラッシュになってしまう。無実の被害者で腹をふくらませるか、モラリズムの外套をまとって、加害者の行為ではなく想定上の「秘めた志向」を攻撃し、市民全般をことごとく容疑者にしてしまうかである。

 最悪の事態を避けるには、CNILのような防御の要と、職業上の秘密やプライバシーに関する法律を強化していくしかない。さもなければ、身分証明書のない自由な国と言われながら、一歩進めばデジタルカメラにショットを撮られ、契約を結ぼうとすれば嘘発見器を差し出されるか、遺伝子データや情報処理用データを取られるかする国々に、私たちも仲間入りしてしまうだろう。

 自主的奴隷状態に舞い戻ってもいいというのでない限り、技術的合意さえできればよいという姿勢に、プライバシーを投げやってしまってはならない。

(1) 契約を交わした同性・異性のカップルに、結婚に準じた社会的地位を認め、諸々の付帯的権利を認めるという法案。[訳註]
(2) シメール35号(パリ、1999年1月号)、また「プライバシーの専門家」をテーマとして「狂気の実践協会」が1998年6月11〜12日にパリのサン・タンヌ病院で開催したシンポジウムの作業報告を参照。
(3) The Future of Privacy, Vol. 1 & 2, Demos, London, 1998.
(4) David Lyon, Elia Zureik(編), Computers, Surveillance and Privacy, University of Minnesota Press, Minneapolis, 1996.
(5) フィリップ・リヴィエール「明日のヨーロッパは全域盗聴中!」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年3月号)、「エシュロン・システム」(マニエール・ド・ヴォワール46号、1999年7-8月)参照
(6) ロバート・ロペス「リッチな町の高い外壁」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年3月号)参照
(7) リチャード・セネット『プライバシーの横暴』(スーユ社、パリ、1979年)
(8) Rodger Doyle, Scientific American, New York, January 1999.
(9) これに関し、監視・警備・現金輸送の分野の民間事業に関する1983年7月12日付の法律は、監視員が店の顧客、あるいは「現ナマに手を出しているところ」を押さえられた従業員さえ、強制的に取り調べることを認めていない点を指摘しておく。
(10) 10年ほど前に行われ、今でも国際的な玄人筋にまじめに受け止められている日本の研究による。
(11) 米国の遺伝子信仰に関する Dorothy Nelkin の研究は、この点で印象深い。The DNA Mystique. The Gene As a Cultural Icon, W. H. Freeman & Co, New York, 1996.
(12) パトリック・サバティエ「遺伝子データベース作成に血道を上げるアメリカ」(リベラシオン紙1998年12月9日付)
(13) シルヴァン・ルフェーヴルは次の必読書の著者である(本文中の銘句も同書による)。『フランスとケベックの労働現場における新テクノロジーとプライバシー保護』 (労働関連法センター、エクス・マルセイユ大学出版、1998年)
(14) Caught in the Act(バリー・グールディングによるモンタージュ、1995年)
(15) 1999年度財政法70条は、共産党と連合し、しかも「省庁横断セクト監視センター」に名を連ねるジャン=ピエール・ブラール議員によって提出された。
(16) 「人権連盟」「情報処理・データベース・市民権団体」「社会の情報化に対する市民の権利のための自主団体」。これに関しては、ドミニク・デボワ「動くな! 息を止めろ! おまえたちはデータベースに載っている」(テルミナル1998-1999年冬季号、パリ)参照
(17) 名著『プライバシーの歴史』 (フィリップ・アリエス、ジョルジュ・デュビー監修、スーユ社、パリ、1985年、全2巻)参照
(18) David F. Linowes & Ray C. Spencer.


(1999年8月号)

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