国家の空洞化

リッカルド・ペトレラ(Riccardo Petrella)
ルーヴァン・カトリック大学教授

訳・安東里佳子、ジャヤラット好子

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 この20年間、国家の役割と権力は世界中で制限され、縮小される方向で定義し直されてきた。通貨や軍事に関する主権も、経済や情報や通信に関する規制権限と同じように弱められ、縮減され、あるいは切り刻まれさえした(1)。 国民を代表する能力や信用性も同様である。世論にとって、国家は世界的企業や「市場」の前で力を失いつつある一機関と化した。何もネオ・リベラリストや保守派だけが反国家キャンペーンを展開しているわけではない。北アメリカ、日本、インドといった地域の民主派、そしてヨーロッパの社民主義や社会主義の人々の大半も彼らにくみした。なぜ、とりわけ左派を標榜する指導者たちまでが、ここにいたったのだろうか。

 もっとも一般的な説明では、福祉国家(Welfare State)(2)および国民国家の「存亡の危機」にその原因を求める。しかしながら、大多数の国々の指導者が推し進める公権力の自己空洞化のメカニズムを理解するには、これだけでは不十分である。おそらく、彼らの社会に対する見方の根本的な変化も影響しているに違いない。つまり、社会を語る時の新たな話法、個人・市場・「公平」・企業・資本という五つのキーワードを巡る話法である。それは結局、政治の瓦解を物語っているのである。

 1929年から1932年にかけての金融資本主義の大恐慌、および第二次世界大戦を受けて整備された福祉国家は、19世紀と20世紀前半の社会闘争の到達点であった。それは、資本力と労働力の妥協の産物であり、可処分資源の割当や生産性向上分の再分配を以前よりも公正で連帯感のあるものとした。その結果、1945年から1975年の間に、欧米諸国では例外なく個人間の所得格差が縮まり、全般的な生活水準の向上が見られた。

 にもかかわらず、60年代も終わりになると、福祉国家は事あるごとに非難の的となり始めた。個人を無責任に追いやった、非効率的だ、公共債務の増大を回避できなかった、時宜を得ない経済介入を行う、公務の腐敗を招いたなど、ありとあらゆる批判を浴びたのである(3)。こうしたもっともらしい非難の背後には、60年代終わりからの資本利潤率の低下がある。その原因の一部は、労働報酬に有利な再配分に求められた。そこで、高資本利潤率を回復することが、世界中の保守派やネオ・リベラリストの第一目標となり、福祉国家に対する彼らの闘いの推進力となった。

 国家の「専制」に反対する「地方分権派」の批判にもまして、国家の妥当性、有益性、効率に異議を唱える主張に説得力を与えたのは、経済のグローバル化であった。資本が自由に流通するようになったために、通貨は市場によって価値を決められる商品になり下がり、国家は通貨を統制する力を失った。貿易、企業、生産システムのグローバル化は、経済の上で戦略的に優先されるべき準拠枠としての国家という空間の価値を低下させた。

 自らの領土と市場を統御する力を剥奪された国家は、もはや政治規制の主体としても場としても、大した発言権を持たなくなるだろう。これが、自由化政策を正当化した。そして、ここ20年間で、関税および貿易に関する一般協定(GATT)とそれを継承する世界貿易機関(WTO)という枠組みのうちに、米国を筆頭とする大国の政府の支持と賛同のもと、巨大企業の利益に従って調整をつかさどる世界的権力を出現させた。大多数の国における全経済分野にわたる規制緩和と民営化の波は、こうした自由化の当然の論理的帰結であった。

 この点で中心的役割を果たしたのが、科学技術政策である。広範な参画や公共の利益にのっとって定められる代わりに、工業・食品産業・第三次産業などの私企業の利益追求の道具と化していった。こうした流れを容易にするうえで知的所有権が決定的な道具となり、知識の商品化と私物化を押し進めた。学校や教育の制度は、経済の要請に服従させられた。われわれの未来像だとされる「新しい」社会、要するに「情報社会」は、トップに立つ政治家たちと結託したマイクロソフト、シスコ、インテル、IBM、エリクソン、ノキア、タイムワーナー・ウォルトディズニー、CNN、ベルテルスマン、マードック等々の大私企業の手中に落ちた。これらの企業によれば、情報社会は新たなポリテイア、国家抜きの世界的な直接統治体制を築きつつあるのである。

五つのコンセプト

 ここまで見てきても、欧米諸国を率いる政治家たち、とりわけ「左派」を自認するトップ政治家たちがどうして、このような国家の自己空洞化に積極的に荷担してきたのか理解しきれない。だが、次のような仮説を立てることはできる。つまり、科学技術はフランス革命以降の左翼にとって、技術進歩と経済発展の原動力であり、さまざまな形での抑圧や隷従、あるいは自由と人権への制限から解放するための手段だったのではないか。そして今世紀半ば、左派指導者たちが政治と経済を担い、富裕な中産階級の一員となると、実務精神にあふれた彼らは、生産性と国際競争力という二つの目標のもと、他の指導的階級と接近したのではないか。

 こうした文化的・社会的基盤があったところに、60年代末、社会と世界を語る新たな話法の構築への積極的な参加を左派政治家に促すような三つ(数あるなかでの三つ)の現象が重なった。一つ目は、オートメーション、情報、通信などの分野における科学技術の新たな革新の波である。それは、生産システム、雇用、労働市場、国際競争に影響を及ぼした。二つ目は、新たな外部の競争勢力の抬頭を前にして失速した欧米経済における資本利潤率の低下である。三つ目は、資本主義に代わるモデルと目された、いわゆる「社会主義」国の問題がはっきりと現れてきたことである。

 世界を率いる指導者たちが提案する新たな話法の中心には、五つのコンセプトがある。第一の中心コンセプトは、改革者・消費者・生産者である個人の優位性を認める、というものである。ルールは、個人が他者とのかかわりの中で作っていく。こうした相互作用の基盤として、個々人の効用を最大化するために、行動と相互作用の自由を保証するという原則がある。その効用は、所有する財やサービス、あるいは入手可能な財やサービスを貨幣価値に置き換えたものとして評価され、算定される。社会の基盤である経済取引において、各個人は時間・知識・財・サービスの交換を通じ、コストの最小化と利潤の最大化を追求する。社会の調整はもはや、個人の「外にある」原理をもとに上から押しつけられる規準による縦型の調整ではない。個人の「内にある」原理をもとに、契約と合意によって下から定められる横型の調整となる。

 第二の中心コンセプトは、常に自己規定と変化を繰り返す手続きのみが、一般的規準に代わって幅をきかせる状況の中で、取引の最適化を可能にするのは明らかに市場だ、というものである。市場は、例えば協同組合、共済組合、共同体の連帯、国家、無償といった他の仕組みに勝る。なぜなら、市場は資源の割当や再分配に関し、個人間に(価格を通じて)常に調節される合意点を見出すことを可能にすると考えられるからである。こうして、社会は市場となる。市場経済にとどまらない「市場社会」は、町の営みの組織と調整に当たる「自然な」形態と見なされる。

 第三の中心コンセプトは、市場は「公平」によって真の社会正義を実現する、というものである。個人の自主性をくじく再分配政策を理由に、不公正の要因となると言われる福祉国家と異なり、「市場社会」は根本的に公正だというのである。たしかに、すべての個人に競争への参入を可能にする市場社会は、個人が自己責任を負い、自主性と創造性によって自らの福祉を確保する道を開く。こうした主張は、ジョン・ロールズの思想(4)、およびブレア英首相のブレインであるアンソニー・ギデンズら「第三の道」の理論家たちの思想(5)に酷似する。

 こうした考え方では、個人責任の原理が重視される。例えば、失業も個人責任である。しっかりした教育を受けなかった、キャリアの途中で過ちを犯した、あるいは人に互していく能力が不足しているせいだ、というわけだ。従来の労働権という考えから「雇用適性」の証明へと考え方が変わったことは、90年代にありとあらゆる指導者たちが乗ったイデオロギーの地滑りの大きさを示している。

 その点で中心的役割を与えられるのが、初期教育と生涯学習である。目まぐるしく変わる社会にあっては、情報・知識・適応能力といった面で適切な武器を獲得しなければ、競争力を保ち続けることはできない。これを達成するための手段が教育である。「公平」の原理によれば、万人に教育の門を開いた政策を実施する国家が公平なのであり、学校での競争を通して最大限の利益を引き出していくのは個々人の問題である。こうした政策を進める指導者たちは、主に個人の才能と努力に起因する正当な不平等が存在するという考えばかりか、教育制度はますます社会淘汰の役に立つものにならなければならないという考えを公認した。われわれの日常の現実にその証拠が見て取れる。

 第四の中心コンセプトは、「市場社会」において、競合する取引を最善の形で調節し、世界市場でコストと利潤のもっとも公正な再分配を可能にする組織は私企業だ、というものである。私企業はまた、ネットワークシステムへと変身することにより、情報通信革命から最大のメリットを引き出した組織でもある。その機能原理は、ますます横型となり、権限が分散され、「参加型経営」システムを通して組織の各メンバーに責任感を持たせ、関係者全員の利害を汲み上げる意思決定制度にある。

 そして最後、社会を語る新話法の第五の中心コンセプトは、資本が価値の源泉であり、人間を含むあらゆる有形無形の財やサービスの価値を計る物差しだ、というものである。「人材」という目でしか見られなくなった個人は、「収益性」を失ってしまえば「価値」がなくなる。このルールは、生産メカニズム、財、あるいはサービスにおいて一層顕著である。それらの価値はつまり、金融資本の収益性への貢献度に応じている。目移りする社会、使い捨てる社会、ごみを吐く社会は、この考え方に立って自らを「正当化」する。要するに、左派を標榜する指導者が市場経済に賛同するようになったと言う時、彼らは上に述べてきたこと全体、つまり「市場社会」に忠誠を誓っていることを、はっきりと認識しているのである。社民派の中にはこの事実を隠そうとする者もいるが、共同で「ヨーロッパ ―第三の道、新たな中道」という声明を発表したブレア英首相とシュレーダー独首相は、まったく臆するところもない(6)

公共の政策が求められる分野

 こうした全面的撤退を前にして政治を再構築するためには、少なくとも五つの「時空間体」レベルで、あるいはこれを超えて、さまざまなアイデンティティーを見直す必要がある。五つの時空間体とはつまり、都市、地方、国、大陸、世界である。これらのアイデンティティーが、共通の利害や異なる利害を抱える個人および集団としての主体の総意を表明するためには、(同じく何重かの)ダイナミックな帰属意識からの形成を図るしかない。この点に関し、都市と世界という、両極に位置する時空間体を例に説明したい。

 仮想現実の域にまで延べ広げられ、一時的に通りかかった放浪者にあふれた流動ネットワーク社会へと、都市は溶解しつつある。都市の政策として、次のようなことを考えるべきだろう。人々が自らを帰属させ、代表させる場を作り出し、ともに連帯感をもって暮らす地域共同体のきずなを再構築する。新たなる都市民会や市民フォーラムに権限を与え、目立つように引き立て、正当性を持たせる。これにより、政策を公共の場で評価する機会とともに、新たに創設すべき公共ネットワークや新聞雑誌・放送機関の組織する討論の場がふえ、町の営みに市民が積極的に参加できるようになるだろう。地域住民サービス交換システム(7)と知識・能力の共有ネットワークを称揚すること、融資・消費・イベントなどに関わる新たな協同組合や共済組合を発展させることも考えるべきだろう。フランスではパルトネー市が積極的に参加している欧州プロジェクト「デジタルシティー」の一環として現在進行中の実験も、探求に値するもう一つ別の道である。

 世界という時空間体に関していえば、公共の利益の推進が政治の緊急課題である。これはまず、数十億人の暮らしの最低環境を守ること、あるいは最低環境を築き直すことを意味する(8)。空気、河川湖沼、海洋、太陽エネルギーなどは人類の共有財産として認められるべきものであり、それにふさわしい「統治」を受けるべきである。つまり、世界的な公共の規制を受けるべきである。地球規模での政治の第二の分野は、共通安全保障(食料、環境、金融、衛生など)、平和、文化の多様性、人道に対する犯罪の抑止である。この点に関しては、新たな世界金融通貨システムと国際貿易ルールを定め、実施することが急務であるが、国際通貨基金(IMF)やWTOの規準とは断絶したものにしなければならない。

 こうした提言には事欠かない。市民のための取引課税推進協会(ATTAC)、コペンハーゲン・グループ、リスボン・グループ、第三世界負債帳消し委員会、世界オルターナティブ・フォーラム、多国間投資協定(MAI)のクローンに反対する調整委員会といった団体が提言を行っている。去る6月にATTACが開催したパリ国際会議でも、いくつかの提言が発表された(9)。他の緊急政策としては、国際刑事裁判所(ICC)の強化が挙げられる。ICCは、地球規模で倫理にかなった政治意識と世界法治「国家」の創造に向けた大いなる象徴なのである。

(1) 主権に関する考え方については、ピエール・ド=スナルクラン『グローバリゼーション、主権、国際関係論』(アルマン・コラン社、パリ、1998年)参照。また、スーザン・ジョージ「ミレニアム・ラウンドを急いでいいのか」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年7月号)、モニク・シュミリエ・ジャンドロー「発展途上の国際司法秩序」(同上)も参照されたい。
(2) 「福祉国家」の意味では、"Etat du bien-etre(福祉の国家)" ないし "Etat social(社会政策国家)" のほうが、侮蔑をこめた "Etat-providence(恩寵国家)" よりも好ましい。
(3) 経済開発協力機構(OECD)が福祉国家の正当性を疑問視するきっかけを作った。
(4) 主著『公正としての正義』(田中成明編訳、木鐸社、1984年)参照
(5) Anthony Giddens, The Third Way, Polity Press, London, 1998.
(6) ホセ=ビダル・ベネイト「旗を降ろした欧州社民」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年7月号)参照
(7) 専門技術を金銭的報酬なく互恵的に交換し合うシステム。例えば、屋根を直すのが専門の職人が、お金がないのでテレビを直せず、テレビ修理は何でもできるという人が、屋根を直したいのだがお金がない、という場合など。[訳註]
(8) 国連開発計画(UNDP)『1999年世界人間開発報告』(デ・ブーク社、ブリュッセル、1999年)
(9) この会議の結論「市場の専制か、いや違う世界も可能だ」はATTACのホームページ http://attac.org で閲覧できる。


(1999年8月号)

All rights reserved, 1999, Le Monde diplomatique + Ando Rikako + Jayalath Yoshiko + Ikawa Hiroshi + Saito Kagumi

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