変わりゆくアメリカ対日政策

ブルース・カミングズ(Bruce Cumings)
シカゴ大学歴史学教授
最新刊 Making Sense of American-East Asian Relations
at the End of the Century,
Duke University Press, Chicago

訳・安東里佳子

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 第二次世界大戦以来、アメリカが世界で共産主義に対抗する上で、日本の経済成長と安定は枢要であると考えられてきた。こうした重圧がよくわかっていたとはいえ、九〇年代に起こったアメリカからの「国家主導型」発展モデルに対するバッシングに日本の指導者層は顔をしかめた。今日、荒れ狂う経済危機に直面した日本に残された選択は、アメリカが自国流の自由主義教義を説くのを拝聴することだけだ。ただし、日本の社会的団結は危うくなってくるかもしれない。[訳出]

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 法務省の数百人の官僚を前にして年頭の挨拶に立った中村法相(当時)によると、一切の統制なき自由市場を称揚する新自由主義の福音は、九〇年代に入ってアメリカにライバル諸国と差をつけさせたようにも見えるが、それは「真の自由ではない」。むしろ、「他国が勝ちそうになると原子爆弾やミサイルが飛んできそうな自由」である。そして「日本人は(中略)軍隊も持てないような憲法をつくられて、それが改正できないでもがいている」と、法相は同じ口調で続けた。

 想像される通り、小渕首相はこの発言をただちに批判し、中村法相は最終的に辞任に追い込まれた。事実、近隣諸国は間髪を入れず、法相発言を危険視する姿勢を見せていた。かなり前から、いつか日本が平和憲法を破棄し、軍事化を進めるのではないかとの懸念が広がっていた(1)

 こういった爆弾発言とその撤回は、うんざりするほど(ほとんど政権交代と同じ数だけ)繰り返されている。中村法相の発言には、日本が胸に秘めた様々な不満が表れていた。四〇年代末以降の日本は地域システムに閉じ込められ、政治的にも軍事的にも制約を課され、自己主張を封じられ、国家としての自主性を押さえつけられ、大国アメリカの管理下の依存状態に置かれてきた。

 この体制のおかげで、四十年にわたって日本が工業発展を遂げ、経済繁栄を実現できたことは明らかとはいえ、アメリカ式資本主義が他の発展モデルを制圧したかに見える今、日本の従来路線は先細りになっている。

 周知の通り、日本経済は袋小路に入ってしまっている。九〇年代初めに金融バブルがはじけて以来、経済は低速成長かマイナス成長になっている。世界の銀行番付の上位十位に名を連ねていたような大銀行の前には、総額一兆ドルの回収不能債権や不良債権の山がある。かつて世界を席巻していた日本産業は、八〇年代末から九〇年代にかけて国内外で過剰投資に走ったため、今や稼働率は九二年と比べて七十五パーセントに落ち込んでいる(2)。技術面でも、もう日本の華々しい活躍が話題に上ることはなく、アメリカを追い越すようなキー分野も見当たらない。

 さらにまた、日本は政治面でも歴史的な危機を迎えている。五五年以来の政権与党の自民党寄り合い政権は九三年に崩壊した。かつては世界的な賛辞の的であった日本の国家行政システムは破綻し、今では国内にしか賞賛する者はいない。

 国際社会での日本の立場はあまり知られても理解されてもいない。日本は、四七年から五〇年にかけてアメリカがお膳立てした二番手の国、「Japan as Number Two」の地位に甘んじてきた。名前を挙げるのは三人にとどめておくが、ディーン・アチソン、ジョージ・ケナン、ジョン・フォスター・ダレスなどの当時の有力な政治参謀は、日本をいわば遠隔操作システムの下に置こうとした。つまり、こちらから要求しなくとも、自らするべきことをするように仕向けるという意味だ。こうしてアメリカは、日本の限界を正確に定め、その行動に制約を加えた。なお、この限界は現在でも有効に存在する。

 封じ込め政策は、主に共産圏の膨張を防ぐための安全保障政策として構想されたが、東アジアにおいては、国力と資源を解きがたく結びつけた。アメリカの政策立案者は、その目的を完成させ実現するために、市場と原料へのアクセスを保証することで日本の産業を生き返らせ、そして日本が地域経済の牽引車となることを思い描いた。これによって次のような一石数鳥の効果が考えられていた。社会主義経済化するおそれのある国々を互いに結びつける。日本を経済的に自足させる。日米間に経済依存関係を発展させる。日米両国が仏フラン圏と英ポンド圏に割り込むことにより、旧植民地諸国をヨーロッパの勢力範囲から引きはがす。

 戦後の大国間の「長い平和」は、双対システムを軸として形成されていた。敵対する共産主義国ばかりでなく、資本主義の同盟国も封じ込めの対象だった。ケナン・ドクトリンは双面のヤヌス神のようなもので、一面はソ連とその同盟国の封じ込めに、もう一つのひそかな面は敗戦国、つまりドイツと日本の封じ込めに向けられていた。

 この冷戦期の政策論理は、五〇年から七五年にかけて大いに強まった。日本はアメリカに追随して経済的な成功を享受し、朝鮮戦争やヴェトナム戦争に乗じて利益を得た。日本の新重商主義と経済力はアメリカの政治参謀たちを悩ませはしたが、政府は前例のない規模の技術と資本を注ぎ込んで、日本を支援し、甘やかしてきた。

東アジア戦略の中で

 日本が力を回復したとはいえ、政治・工業技術・軍事・原料において依存状態に置かれている限り、ウェスティング・ハウス、ジェネラル・エレクトリック、IBM、ジェネラル・モーターズ、フォード、ロッキードといった当時のアメリカのハイテク産業や多国籍石油会社にとって、まったく恐るるに足りなかった。日本の日は昇ってもよいが、高すぎてはいけなかった。下り坂の産業分野(繊維、軽電機器、自動車、製鉄)で他の資本主義同盟国の輸出力を抑える程度に高く、アメリカの最先端産業の脅威とならず、とりわけ日本が産業全域にわたって優位に立たない程度に低くなければならなかった。要するに、戦後の日本は世界経済の試験場であり、アメリカに政治力と軍事力をむしられた「エコノミック・アニマル」という実験材料であった。

 九〇年代に入って、アメリカが考えられる限り世界で最良の位置を占めることになったのも偶然ではない。しかし冷戦が終了すると、日本式システムは新自由主義の新時代と両立するのかという問題が避けられなくなってきた。九七年にアジアを襲った金融危機の奥には、日本のような後発発展モデルに終止符を打ち、その成功を阻止するためにアメリカが打った手を読みとることができる。というのも、日本の強力な新国家重商主義は、韓国、台湾、シンガポール、また東南アジアの「新興諸国」など、主権に限界のあるアジアの小国に広がっていたからだ。

 九七年の秋、韓国を襲った流動性の危機がヤマ場を迎えていた時、アメリカの力が見せつけられた。窮迫状態に陥った銀行を助けるためのアジア通貨基金の設置という日本提案はつぶされ、国際通貨基金(IMF)からの融資と引き換えに、韓国とインドネシアに対して大規模な経済再編が強制された(3)。もしも日本の提案が通っていたなら、前例のない日本の自主路線とアジア地域における覇権的な役割につながっていただろう。

 日本がアジア地域で優位に立つのに同じく反対する中国の協力を得て、アメリカは巧みに日本の試みを阻止した。それとは別に、日本の立場も弱くなっていた。九七年十一月、日本の金融システムはどうしようもなく危機的な状態に陥っていた(同じ月、金融当局は三百億ドルの資本注入を行わざるを得なかった)。 専門家の見積もりによると、ほぼ半分の主要銀行が廃業か売却となるおそれがあり、金融機関の資本強化には少なくとも八百億ドルが必要とされる。回収不能債権の総額は当時で六千億ドル、現在では一兆ドルと見積もられる。金融危機の拡大を前にしたアメリカは、日本が自主路線をとるのを阻止しようとし、また同時に、日本が総崩れになってロシアや世界経済を道連れにする危険を避けようとした。IMFプランの実施が決まると、ワシントンの有力コメンテーターたちは、数十年間ほめたたえていた日本式発展モデルを批判する論陣を張った。フィッシャーIMF副専務理事は、「韓国式モデルやジャパン・インク式モデル」を維持するようなら、東アジアの本当の経済再編にはつながらないだろうと語った。またワシントンでは、IMFが求める改革の多くは米財務省の意向によるものだとも言われている。つまり、カンター前通商代表の表現の通り、IMFはアメリカの利益を打ち出す「破壊の大槌」であると言えるのだ(4)

 九三年以来のクリントン・ドクトリンは、アメリカの製品や投資について特定国をねらい打ちした経済開放要求、輸出促進というアグレッシブな国際経済政策を柱としている(5)。それと同時に、冷戦期からの安全保障制度を維持することにより、同盟国に影響を及ぼす手段を確保し、中国を含む潜在的な対抗国に対し、巧妙ながら明確な威嚇を維持している。こうして、戦後長期にわたってアメリカの枠組みの中で繁栄し、一見すると自立性を持ったかに見える「アジアの虎たち」は、目の前に突きつけられた覇権的な機構の前で、呆然としたまま依存状態に置かれる。彼らの理解を超え、彼らの社会経済をアメリカの掟に従わせようとする機構である。この掟は、アメリカ式モデルに対峙した唯一のモデルを、抹殺とは言わないまでも骨抜きにしようとしているのだ。

 中村法相事件に象徴されるように、日本の保守勢力は戦後の社会契約をアメリカ式新自由主義の福音の手から守ろうとしている。しかし、李洪九(イ・ホング)元韓国首相など他のアジアの指導者層は、すでにこの論争には決着が付いたと考えている。「モデルははっきりしている。欧米であって、日本ではない。現在の危機によって、古いスタイルではうまくいかないことが証明されたと言ってよい(6)」。この最後の見解は、ほぼ現実に示されている。なぜなら、戦後の枠組みから出ようとでもしない限り、韓国も日本もワシントンの命令に逆らえないからだ。

 九〇年以降のアメリカの世界観の中で、過去一年半に東アジアの安定軸と考えられるようになった「共産国家」に比べ、日本の影は薄くなった。こうして、九八年六月の米大統領による北京訪問や、通貨政策面での中国政府の努力に対する称賛(7)からもわかるように、ルービン財務長官とクリントン大統領は明らかに北京寄りになっていった。アメリカの中国への接近には、「新たな日本」の浮上を阻止するために、世界市場への中国の登場をうまく適当な形で準備するという重要な関心が働いている。しかしながら、中国はアメリカによる戦後の安全保障システムに組み込まれおらず、アメリカは中国に対して、伝統的に日本や韓国に対して及ぼしていたような影響力を行使することはできない。それゆえ中国に制約の網をかぶせ、欧米諸国が創設し、支配する多国籍機関という枠組みの中に中国をからめとることも、ワシントンの政策の一環となっている。

(1) Nicholas D. Kristof, << Japanese is Sorry He called US a Bully >>, The New York Times, 6 January 1999. [The New York Times
(2) ニューヨーク・タイムズ紙1999年1月6日付に載せられた数字
(3) 韓国の例では、ルービン財務長官が感謝祭の休暇を返上してグリーンスパン連邦準備制度理事会(FRB)議長と会談し、サマーズ財務次官を含む二人の高官をソウルに派遣することを決めた時が、決定的瞬間だった。それ以来サマーズ財務次官は、「アジアをアメリカの利益にかなうように作り替える(刈り込む)現代のマッカーサー元帥」と呼ばれている。
(4) カンター前通商代表の言葉を引用しているのは、Devesh Kapur, << The IMF : A Cure or a Curse ?>>, in Foreing Policy, No.111 (Summer 1998), p.115. この論文では、「自動車分野と金融分野の開放など韓国に対して要求された条件は、IMF出資国(日米)の圧力を反映している」とIMF筋が語ったことも示されている。[Foreing Policy
(5) とりわけサービス業は、アメリカの国内総生産(GDP)の八十五パーセントを占めている。
(6) Nicholas Kristof, << Asian Style Capitalism Giving Way to the Free Market >>, The New York Times, 17 January 1998.
(7) 中国の通貨である人民元は交換性がないため、逆に安定している。投機筋その他のヘッジファンドの取引を防いできたからだ。さらに、中国は台湾や香港と同様に大量の外貨準備を保有している。この二つの点が、中国を金融危機への直接感染から保護してきた。フィリップ・S・ゴラブ「転機に立つ中国の経済政策」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年1月号)参照


(1999年4月号)

All rights reserved, 1999, Le Monde diplomatique + Ando Rikako + Saito Kagumi

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