クルド労働者党とオジャラン議長の戦略

ミシェル・ヴェリエ(Michel Verrier)
ジャーナリスト、ベルリン在住

訳・横井健司

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 欧州連合(EU)入りを目指している政府が相手。このことはトルコ国内のクルド人の自治権要求運動にとって、イラクやイラン国内の同胞と比べて強力な切り札といえる。EU加盟という目標の達成は、トルコ政府に人権の尊重とクルド問題の解決ができない限り不可能だ、とスウェーデンのシュリー大臣[海外開発協力担当]は言う。1984年以来、トルコ東部での「汚い戦争」は3万人以上の死者を出し、数百万もの人々を立ち退かせ、親クルドと目された3000以上の村々を破壊した。政府軍は「国家テロリズム」の罪を犯していると言える。

 すべての「戦争文化」を非難しながらも、シュリー大臣は「わが国はPKKを支持するつもりは断じてないが、クルド人の味方である。わが国はクルド人の自治権と固有文化の表現を支持する」と明言する。すでにオジャランPKK議長は何度も繰り返し、少なくとも93年以来、もしトルコ政府がクルド問題の存在だけでも認めれば、何らかの枠組みによる対話開始が可能だと主張している。スウェーデンかドイツ、もしくは別のEU加盟国などの第三国が調停役を務めるだろう。その場合、PKKには武装解除する用意があると言うオジャラン議長は、誠意を証明するために、シリアを追放される以前、一方的に98年9月1日以降の再停戦を宣言していた。

 しかし、こうしたイニシアティブが交渉に結びつくためには、2つの条件が満たされる必要がある。1つはEU15ヵ国がクルド問題解決に向けた強い意志を表明することだが、現実はほど遠い。もう1つは、オジャラン議長がトルコ政府から付けられた「地上で最も血にまみれたテロリスト」というレッテルを外し、PKKに限らずクルドの自治権を求める運動全般を代表できるようになることだ。

 オジャラン議長が98年12月13日、親クルドの衛星放送テレビ局メッドTVに出演して、PKKの司令官によるテロ行為を糾弾し、日刊紙ミリエトのインタビューでも同じことを繰り返したのは、こうした方向性を示すものである。しかし、彼の過激なほど決然とした声明は信頼できるのだろうか? 数日後の翌年元日に、もしトルコ政府が和平の機会を与えないようなら「我々には大々的な戦争が必要になる」とも述べてはいなかったか?

 これまでもオジャラン議長は何度もテロを糾弾してきた。トルコ軍傘下の反PKKクルド民兵が村を襲撃した時に、PKK部隊がトルコ人教師や女性、子供までも虐殺したことを激しく非難した。これを公式の理由として、80年代末には幾人もの武闘部門の幹部たちを処罰した。95年1月24日にジュネーヴで開いた記者会見の席では、戦闘行為と民間人保護に関する1949年のジュネーブ条約と1977年の議定書を遵守すると発表した。そして、軍人・憲兵・反PKK民兵(攻撃目標)と民間人との明確な区別を打ち立てた。

 この数年、オジャラン議長は亡命先のダマスカスから、武闘部門の主要幹部の一人であるサクク司令官を孤立させようと努めていた。彼は冷酷な人間として知られ、オジャラン議長の右腕として通っていた。93年3月17日にPKK議長が宣言した最初の停戦期間中に、サクク司令官は待ち伏せ攻撃の挙に出て、休暇中で非武装だった若年兵30人を死亡させた。ついに全ての職務を解かれたサクク氏は、98年初頭にPKKを離党し、部下を一人も連れずに、バルザニ率いるクルド民主党(イラクKDP)に合流した。

 オジャラン議長は、自分が代表する範囲を拡大するためにクルド民族会議構想を支持している。最初の会合はブリュッセルで98年12月19、20日の両日開催され、イラン、イラク、シリア、トルコからクルド人の代表団が約20、およそ100人が集まった。この組織はクルド人にとって、パレスチナ人にとってのPLOのようなものになるかもしれない。4つの主要なクルド地域とヨーロッパのクルド人コミュニティーの代表者によって構成され、ブリュッセルに本部を置く亡命クルド人議会も、クルド民族会議構想を支持している。しかしながら、バルザニ議長の下でイラク北部を掌握し、PKKに対抗してトルコ政府と結んだKDPは参加を拒絶している。

武力闘争と外交攻勢

 バルザニKDP議長はイタリア内相に宛てた手紙の中で、オジャランPKK議長がイラク北部の村落や民間人に対しテロ行為をしていたと弾劾し、裁判にかけることを求めている。98年10月10日にベルギーのルーヴァン・カトリック大学にて、ミッテラン前大統領夫人を迎えて開かれたクルド人の連帯会議の席で、オジャラン氏の右腕であり、ヨーロッパにおけるPKKの指導者であるユルマズ氏は「我々は戦争を求める組織ではなく、紛争に政治的解決を見出すことを求めている」と主張した。PKKヨーロッパの最近の展開は、こうした主張を裏付けているように見える。

 トルコ出身クルド人の最大コミュニティーはドイツにある。200万人のトルコ系住民の内、50万〜60万を占めている。PKKは93年まで、ヨーロッパにおけるトルコの数十年間来の「特別」な盟友ドイツを、反トルコ政府活動の主戦場の一つとみなしてきた。オジャラン議長の支持者はドイツ国内のトルコ関連施設へのテロや暴力的なデモを組織したため、93年11月26日、コール内閣はPKKを活動禁止にした。巻き起こった抗議の波は警察のバリケードに砕けて散った。

 そして続く2年間で、PKKは次第にドイツ国内での武力闘争を放棄し、政治・外交上のクルド連帯の輪を広げようとした。この変化にさらに影響を与えたのが、95年11月に行われた非公式交渉だった。コール首相の密使とオジャラン議長自身がダマスカスで会談したために、トルコ政府の対独感情に禍根を残すことになった。

 PKKはそれ以後、多数の人権団体によって支持された「和平への列車」などの和平キャンペーンに加わるようになった。この列車は、97年3月にケルンから「トルコ領内クルディスタンの首都」ディヤルバキールに向けて出発したが、トルコ当局によって強引に停止させられた。PKKの変化はオジャラン議長を最近の外交攻勢に導いたが、これが挫折したことが春のゲリラ活動再開への引金となったと思われる。

 1月初めに開催されたPKK大会は党綱領を修正し、武力闘争の正当性を再確認したが、テロリズムは否認した。クルディスタンの統一と独立という要求は放棄し、連邦制の下でのトルコ領内クルド自治州という要求に代えた。また、より民主的な内部議論を可能にするために透明性を高める組織変更の採択も必要だった。

 PKKの内部では、都市部でのゲリラ活動の拡大について、オジャラン議長の現在の役割について、山積みの議論が噴出していた。彼は「クルドの大義におけるマンデラ」となってヨーロッパにとどまるべきなのか? それは彼をカヤの外に置くための手段ではないだろうか? トルコ政府の期待に反して、反乱の首謀者たるオジャラン議長は、レバノンやシリアで組織した「軍事アカデミー」で鍛え上げたPKK部隊に対して、政治的、イデオロギー的な影響力を強めてきた。PKKが軍事的には袋小路に陥っているという自覚が、司令官たちにないわけではない。しかし、PKK部隊の力は侮りがたく、政府軍から武力によって粉砕されるものではないと確信されている。 オジャラン議長はトルコ政府に政治的解決を強いることを目指しているが、この点はPKK内部でも異論がないようだ。彼のシリア脱出とその後の展開は、心の準備ができていた支持者たちにとって驚くことではなかった。1月中旬にイタリアを離れることになったオジャラン議長と一線にいる部下たちが、戦術上の相違から対立した可能性はあるが、彼が彼らと縁を切ったのか、それとも逆だったのかは別の話である。オジャラン議長にとって部下たちは、EUと世論とゲリラの間にトルコをはさみ撃ちにし、紛争の政治的解決を引き出すための主要な切り札なのである。


(1999年2月号)

All rights reserved, 1999, Le Monde diplomatique + Yokoi Kenji + Saito Kagumi

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