| 今から40年前の1958年12月末、ひげを生やしたゲリラ兵フィデル・カストロは、バティスタ独裁軍事政権を打倒し、キューバから追放した。革命の始まりだった。ラテンアメリカ中で、社会正義への大いなる希望が芽生えた。革命政権は教育制度や医療制度の面で名を上げたが、自由の確立、農業、経済政策で挫折したことも知られている。どこまでカストロ個人に責任があるのか? 何にでも首を突っ込んで自分の手で率い、あらゆる分野で(たとえ料理だろうと)専門家以上に博識でありたいという「コマンダンテ(指揮官)」の意欲に、数々の成功と失敗の理由を見てとることができるだろう。[訳出] |
ローマ法王来訪を翌日に控えた1998年1月、ハバナの革命広場にいた私は、チェ・ゲバラの大壁画の正面、「祖国の父」ホセ・マルティの大きな彫像の足元に、やはり巨大な「イエスの聖心」の絵が広げられるのを目撃した。法王ヨハネス・パウロ2世を迎える準備をしているところであった。人々はカストロの命令で働いていたのだが、法王に対して現実的な願いごともしたいと思っていた。「主よ、マイアミにいる親戚がドルを送ってくれますように。肉と魚が豊かになり、配給の『肉もどき』に取って代わりますように」 キューバ人は食べ物への執着が強い。あの「非常時」の頃(1)の食糧難については色々な笑い話が作られた。最も毒がないのは「椰子の実とキューバ人の冷蔵庫との違いは?」「どちらも同じ。中には水しか入っていないから」というものだった。最もきつい笑い話は次のごとし。食糧難が激しくなるにつれて、動物園の立て札を変えなければならなかった。「動物に餌を与えないでください」「動物の餌を食べないで下さい」「動物を食べないで下さい」‥‥。ハバナの猫という猫が姿を消したと報じたスペインの新聞特派員には、国外退去命令が出された‥‥。 当時のテレビ局は、バティスタ政権時代のパーソナリティ、ニッツァ・ビラポルを招いて、限られた配給食材でできる肉抜き料理法を紹介した。例えばジャガイモのオーブン焼き、ラードとオレンジジュースを混ぜたマッシュポテトのたまねぎ風味・にんにく風味、砂糖とオレンジピール入りポテトのデザート、といった具合だ。 フィデル・カストロは、緊急に食糧問題を解決する方法を寝る間も惜しんで思案していたが、その一方で趣味の実験農業も続けていた。ハバナ郊外の水田、手間のかかる果物の栽培、カナダから連れてきたフリーシアン種の乳牛の飼育、採算の合わないフランスチーズの製造。「オールド・ハバナ」ウイスキーを飲めばフィデルの隠れた好みがわかるのだが、これは外国人向けの店でしか販売されていなかった。「コマンダンテ」直属の実験農場で育てられた鵞鳥のフォアグラは、毎年のダニエル・オルテガ勝利記念日にニカラグアのサンディニスタの幹部のもとに届けられた。 フィデルは料理の話が大好きだった。ドミニコ会修道士のフレイ・ベットは『フィデルと宗教』という対談集の中で、「コマンダンテ」が事細かに小エビと伊勢エビの調理法を説明した様子を記している。「沸騰したお湯の中で茹でると、味や旨味が落ちるし、身が少し固くなってしまうんだよ。オーブン焼きか、串焼きがいいと思うね。小エビの串焼きは5分、伊勢エビはオーブンで11分、炭火なら6分焼けば十分だ。調味料はバターとにんにくとレモンだけ。うまい料理には手がかからないものさ。国際的な料理人という奴には無駄が多すぎる」 フィデルが料理に干渉することはよく知られている。アメリカ人夫婦の家に牛ロースと子羊の腿肉を持って行ったときのこと、フィデルはチーフシェフのように台所に上がりこみ、肉にパン粉をつけて揚げるようにと言った。しかし夫人がグリルのほうがいいと言いだしたため、自尊心を傷けられたフィデルは、好きにしろといった感じで背を向け、その場を去ってしまった。 学生時代にフラヒナルス教授の家に招待されたときも、フィデルは台所へ直行して夕食の準備を眺めると、夫人に向かってこう言った。「私にバナナ・フリッターを任せてください。作り方を教えてあげますよ」。驚いた夫人が、自分は何でも知っていると思っているのかと聞いたところ、「ほぼ何でも」と答えたという。 野鴨を討ちに行けば、火加減まで見ている。フォアグラとフランスチーズには目がなくて、国産の鴨への強制給餌や、美味しいチーズを作るための高品質な牛乳の生産の研究まで始めるほどだった。その成果を最初に口にしたのは特権階級、まずは「ピンチョス(軍人エリート)」、次に「マジェンベス(文民エリート)」だった。カストロは知りたがりだった。革命につきものの(相対的)特権階級を揶揄するために人々が作った呼称でさえ知りたがった。 フィデルにとって料理は女性と結び付いていた。料理は母マリア・メディアドーラ(2)を思い起こさせる。父親よりも懐かしく思い出される母ではあるが、年老いた母は農地の没収に抗議して、息子のフィデルであっても土地を取り上げることはできないと銃を取った。フィデルは母に銃を下ろさせるために、兄のラモンを母の元に送って説得に当たらせねばならなかった。 この女性と料理という関係には、彼を歴史の立役者にしたすべての女性のために料理したいという情熱も働いている。夫の料理の才能に気付いた最初の妻はミルタ・ディアス・バラルトだった。フィデルが愛した他の女性達と同様とても美しい女性で、独裁者バティスタと結びついた保守派の大地主の多いオリエンテ地方の裕福な家に育った。ミルタの兄[弟?]ラファエルはフィデルの大学時代の同級生で、内務省の高官に収まり、後に「フルヘンシオ・バティスタ万歳!」という小冊子を書いた。 モンカダ兵営襲撃の前後ミルタと長男フィデリトと暮らしていたフィデルは日常生活の厳しさを知った。家賃や子供の薬を払う金もなく、友人の情けに頼らざるを得なかった。不渡手形を現金化したり、ハバナのアパートの軒先でフライドチキンを売ったりと、怪しい仕事もこなさねばならなかった。48年10月に新婚旅行で行ったニューヨークで、彼は『資本論』とマルクス&エンゲルスの初期の本を買った。そしてミルタも夫とともに活動家になった。53年7月26日のモンカダ兵営襲撃後にサンチアゴで逮捕され、ピノス島に拘置されたフィデルは、読みたい本のリストをミルタに送った。フィデルはナタリア・レベルタにも手紙を書いた。彼女はモンカダ兵営襲撃の資金を援助するために家族や夫からもらった宝石を売り払い、ブルジョアジーであることをやめ、リサンドロ・オテロの『人生の木』(3)に出てくるヒロインのような「新しい女性」、あらゆる試練に耐える模範的な共産主義活動家になろうと努力していた。ナタリアはフィデルが自分の家、自分の人生に少しでも長くいてくれるためには何でもした。二人の娘アリナは、それを批判と優しさ、若干のヒステリーをこめて見つめていた。フィデルがナタリアの家を訪ねてきた中で一番の思い出は、フィデルが配給では手に入らない食料を腕一杯に抱えてやって来た時のことだとアリナは言う。時にはかぼちゃの種のような食べ物を持ってきては、調理法を伝授した。「アリナ、かぼちゃの種は先に油をひいておいた鉄鍋で調理するのがいいんだよ、ちょうどコーヒーを炒る時みたいにね。皮が自然に剥けてくるまで弱火で炒めるんだ」 刑務所の中では美食の代わりに書物を深く味わった。マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』からは多くの教訓を引き出し、今でも革命疲れを防ぐために読み返している。ヴィクトル・ユーゴー、サッカレーの『虚栄の市』、ツルゲーネフの『貴族の巣』、ブラジルの共産主義指導者でコミンテルンのメンバーだったカルロス・プレステスの自伝、クラウゼヴィッツの『戦争論』、カントの『先験的感性論』、レーニンの『国家と革命』、フランクリン・ルーズヴェルトやアインシュタインの著書、とりわけシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』をよく読んだ。フィデルによればシーザーは革命家で、ブルータスは反動分子であった。 ナティ・レベルタに宛てた手紙では次のように書いている。「人間の思考は、時代の状況に絶対的に左右されるものだ。政治の天才の才能が開花するかどうかも、100%そこにかかっている。レーニンがエカテリーナ2世の時代に生きていたら、ロシアのブルジョアジーの熱心な擁護者となっただろう。ホセ・マルティがイギリスによるハバナ占領の当時に生まれていたら、父親と一緒にスペインの側に立って戦っただろう。ナポレオン、ミラボー、ダントン、ロベスピエールがシャルルマーニュの時代にいたら、貧しい農奴か無名の中世領主で終わったかもしれない。シーザーのルビコン川横断は、共和制ローマの初期ならありえないことだった。ローマを揺さぶった過酷な階級闘争が激化し、平民が成長して、初めて彼が権力の座に就くことが可能になったのだ」 刑務所の外からフィデルを支援したのは女性、特に腹違いの妹[姉?]のリディア、そしてメルバ・エルナンデス、アイデ・サンタマリアだった。3人は、刑務所からしわくちゃになって送られてくるフィデルの手紙にアイロンをかけた。手紙にはレモン汁で書かれた『歴史が私を無罪にするだろう』のテキストが隠されていた。彼女達は手紙を判読してタイプで打ち、何十部も作って活動家に配った。さらに2人の女性、ビルマ・エスピンとセリア・サンチェスがいた。ビルマはサンチアゴ(キューバ)のカストロ主義の指導者フランク・パイスの助手と運転手を務めており、恩赦に訴えるために学生を動員し、後にラウル・カストロと結婚した。セリアはピノス島の囚人達に缶詰や食糧の小包を送り続けた。 今は亡きセリア・サンチェスは、フィデルに23年間協力し続け、彼の人生に決定的な役割を果たした女性である。フィデルは革命宮殿でも、セリアが住む11番通りの小さなアパートでも、彼女の傍で仕事をしていた。11番通りのアパートは「コマンダンテ」のお気に入りの家で、そこで夜を過ごすことも多かった。休みなく仕事を続けるためにフィデルが料理をすることもあったが、大抵はセリアがその役割を受け持った。フィデルが出張すると、簡単だが美味しくて滋養に満ちた手料理を送り届けた。彼女はフィデルの好みをよく知っていた。素材の味を損ねるのが大嫌い、混ぜ物のない亀のスープが好物だった。 どんなに緊迫した時であっても、フィデルは決して食事をおろそかにしなかった。モンカダ兵営襲撃の前日も、メルバとアイデに戦闘員120人分の鶏のライス添えを作らせ、制服にアイロンをかけさせた。「ボロを着て腹が減っていては戦さはできない」と言うのだった。58年5月にバティスタ軍に対して大攻撃をかける前に、彼はセリアに悲壮な手紙を送った。「ここにはタバコもワインも何もない。甘口ロゼのおいしいスペインワインがビスマルクの家の冷蔵庫にあったはずだが、あれはどうなったかねえ?」 長老の秋フィデル・カストロは実に孤独な人ではあるが、完全な孤独は好まない。話を聞いてくれる人、答えてくれる人、手紙を書いてくれる人が必要であった。彼は女性の尊さを保護する人でもある。彼が革命を起こしたのは、キューバをアメリカ人の売春宿にしたくなかったからであり、水兵達がホセ・マルティの記念像に放尿するような状態を放っておけなかったからだった。現在キューバに蔓延している売春の話になると口が重くなる。観光がもたらした弊害であり、食べるためではなく、西側の消費文明の誘惑のため、そして十分な消費財を生産できない国内経済の不信のためだった。彼はなかなか「新しい男性」「新しい女性」が現れないと嘆く。 フィデルは、ワシントンが経済封鎖を解けば、目下の困難は乗り越えられると信じている。キューバは1965年当時のように、売春婦もいなければ売春宿もない状態に戻るだろう。革命後、彼女達には違う仕事を覚えたり教育プログラムを受けたりする機会が与えられた。その間、本人と家族に食費と住居費の手当ても支給された。こうした理由から、現状の責任は政府にあると言う者に対して、「コマンダンテ」は非常に厳しい態度を示す。数年前には次のような外電を打ったフランスの特派員に退去命令を出したこともあった。「大きいのも小さいのも、太ったのも痩せたのも、白人も黒人も、若いのも老けたのも、キューバ女は一律7000ドル」。この特派員は後になって、キューバ女性が外国人と結婚するのに必要な書類を揃えるための政府手数料のことだと説明したが、外電の文章はどうにでもとれ、キューバ政府を女衒扱いするようなものだった。 現代の歴史の中で自前の革命を行う機会のなかったヨーロッパ諸国では、キューバ革命を身代わりのように思っている人々が多い。40年前、キューバ革命は新しい春を約束した。そんな風に賞賛した人々は今、過去を懐かしみながら長老の秋を眺めている‥‥。
(1) 1989年から1991年にかけてのソ連ブロック崩壊後、カストロは「平時の非常時」を宣言し、物資不足、特に食糧難を克服するための厳しい配給制を打ち出した。 |
| (1998年12月号) All rights reserved, 1998-1999, Le Monde diplomatique + Yamada Junko + Saito Kagumi |
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キューバ略史
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