国なきスンニ過激派の群像

オリヴィエ・ロワ(Olivier Roy)
国立学術研究センター主任研究員

訳・斎藤かぐみ

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 すべては1983年に始まった。イスラム過激派の衝撃が欧米を駆けぬけた。フランス落下傘部隊とアメリカ海兵隊の兵舎爆破事件が、数百人の死者を出したのだった。革命後のイランは「大悪魔」アメリカに対する敵意をむき出しにしていた。同じ頃、レーガン米大統領にとって悪の帝国だったソ連がイスラム国家アフガニスタンに爆弾を浴びせかけていたが、イスラム過激派は奇妙にも容認姿勢を示していた。アメリカは頭をめぐらせた。ソ連にアフガニスタン占領のツケを最大限に払わせよう。イスラム過激派の矛先を共産勢力と、ついでにイランのシーア派にも向けさせよう。スンニ過激派を支援すれば、シャーリア(イスラム法)の完全実施を打ち出すだけで、イスラム「革命」とまでは言わないでくれるだろう。 こうしたアメリカの思惑は、サウジアラビアの利益とも一致していた。スンニ派のサウジ王国はシーア派のイラン共和国に対抗して、イスラムの正統としての地位を強化したいと望んでいたからだ。他方、パキスタン情報局の当時(から現在にいたるまで)の狙いは大局的だった。アフガニスタンをコントロールし、中央アジアへの足がかりを築くために、スンニ派イスラムというカードを使おうとしたのだ(1)

 作戦を立てたのは米中央情報局(CIA)、サウジ中央情報局長(現在と同じトルキー王子)、パキスタン統合情報局(ISI)だった。ただし「手を汚す」構えがあったのは ISI だけだった。CIA はヴェトナムやラオスでの隠密作戦に懲りており、局員を現地で直接関わらせたくなかった。サウジはと言えば、国防からロールスロイスの運転まで、何でも下請けに出すのが常だった。そういったわけで、実務はアラブのムスリム同胞団とパキスタンのイスラム党(77〜88年の大統領、ハク将軍の顧問を輩出)に委ねられた。

 84年末以降、中東のイスラム活動家の中でも血気にはやった数千人が、続々とアフガニスタンに向かった。サウジの富豪、ウサマ・ビン・ラーデンが募兵の調整に当たった。志願兵はパキスタン北部のペシャワールの事務所の世話を受けた。事務所を率いていたのはアブドッラー・アッザーム、ヨルダンのムスリム同胞団に属するパレスチナ人で、89年9月に何者かの手で暗殺された。「アフガン」と呼ばれるようになった志願兵の多くは中東諸国の反政府活動家だった。唯一の例外がスーダン人で、イスラム人道援助組織を中心に活動していた。当然ながらシーア派は皆無だった(2)。「アフガン」は主にヘクマチヤール元アフガニスタン首相率いるイスラム党の軍事拠点に送りこまれたが、現在タリバーンの強力な支持者となっているジェッラルディン・ハッカニのような地方司令官に従うこともあった。

 ソ連のアフガニスタン撤退(89年2月)、湾岸戦争(90〜91年)、ソ連崩壊(91年)が状況を一変させた。「アフガン」はアメリカにとって用済みになっただけでなく、イスラムの地で戦争を行ったアメリカに背を向けるようになった。サダム・フセインを支持してサウジの不興を買ったヘクマチヤールを見限ったパキスタンは、94年8月になって、同じくイスラム主義だが保守派のタリバーンというカードを切った。94年から96年までの間は、アメリカもタリバーンに好意的な視線を向けていた(3)。ふたたび状況が変わったのは、タリバーンがビン・ラーデンに庇護を与え、ケシ栽培から利益を上げ、女性を激しく抑圧したことによる。97年秋には、オルブライト米国務長官はタリバーンからはっきりと距離を置くようになった。

 だが、アフガニスタンの部族支配地帯に設けられ、反ソ連ムジャヒディン(聖戦士)の養成に用いられた軍事拠点が閉鎖されることはなかった。アフガニスタンのイスラム国家、94年の再分裂未遂以前のイエメン、カシミール、ボスニア、そして今やアメリカといった世界各地で続行中のジハード(聖戦)に向けて、国際ネットワークを通じた募兵が続けられた。追いつめられた活動家がアフガニスタンに逃れ、鍛え上げられた闘士となって帰国するという流れが確立された。 「アフガン」の姿は各国の過激派グループの中に見つかる。それぞれのグループには独自の歴史があり、「アフガン」の産物というわけではないのだが、アルジェリアの武装イスラム集団(GIA)は例外かもしれない。イスラム救国戦線(FIS)にもサイド・メクルフィ、カマレッディン・ケルバーン、アブダッラー・アナス(本名はブジェマ・ブンヌア、84年にアフガニスタンに渡って前述のアッザームの娘婿となった)などがいるが、GIA への影響は際立っている。92年11月に殺害されたタイエブ・エル・アフガーニー、94年3月に殺害されたジャッファール・エル・アフガーニー、94年9月に殺害されたシェリフ・グスミ、と初期の GIAリーダーはすべて「アフガン」帰りである。機関誌アル・アンサールをロンドンで発行する GIA の思想的指導者、アブ・メッサーブ(シリア人)やアブ・ハムザ・アル・ミスリ(エジプト人ムスタファ・カメル)も、ペシャワールを体験している。

 エジプトについても、81年のサダト大統領の暗殺者の兄弟、モハンメド・アル・イスラムブーリーは十数年来アフガニスタン暮らしを続けている。イスラム集団のリーダー、フアド・カッシムやアフメド・ターハ、それにビン・ラーデンとよく共同声明を出しているイスラム聖戦機構(ジハード団)のアイマン・ザワヒリも「アフガン」帰りである。カシミールの活動グループ、ハラカート・アル・アンサールも、アフガニスタンのコスト地方に軍事拠点を置いている(この軍事拠点がアメリカによる8月21日の爆撃の主目標だった)。

反欧米テロリストの養成

 だが、続行中の紛争の中に居場所を見つけられない「アフガン」帰りも多い。根なし草となった者はペシャワール、そして最後の「郊外イスラム地域」となったニュージャージーを徘徊している。93年2月に起きたニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件の捜査で、奇妙なグループの存在が急速に浮かび上がった。主犯のエジプト人、オマル・アブドルラフマン師は、以前ペシャワールに居住していた(2人の息子はアフガニスタンで戦列に加わり、現在もタリバーン軍にいる)。サダト大統領暗殺に加わったことを認め、イスラム集団の創設者の一人としても知られる人物なのだが、90年5月にハルツームの在スーダン米国領事館でビザを取得し、ニュージャージーに到着するとグリーンカードも取得した。共犯者のユッスフ・ラムジ(クウェート育ちのパキスタン人)、モハンメド・サラメー、アフメド・アッジャジ(ともにパレスチナ人)もアフガニスタンの軍事拠点にいたことがあった。

 世界貿易センタービルの爆弾テロは単発の事件ではなかった。同じ93年に、パキスタン人ミル・アイマル・カンシがヴァージニア州ラングレーの CIA 本部に侵入し、職員に向けて銃を乱射するという事件を起こした。米連邦捜査局(FBI)は95年にラムジを、97年にカンシをパキスタンから「連れ戻した」が、当時のグルISI局長は激怒し、2人の「引き渡し」に関わった将校を軍法会議にかけることを主張した。97年11月11日、カンシの有罪宣告への報復として、カラチで4人の米系石油会社職員が殺害された。犯行声明を出したグループの中に、「アフガン」の軍事拠点で訓練されたカシミールのハラカート・アル・アンサールも含まれていた。また、97年9月のルクソールのテロの主犯とされるメハト・モハンマド・アブデル・ラフマンや、98年6月のエジプトへの引き渡しがビン・ラーデンの報復声明を招いた活動家、サイド・サイエド・サラマも「アフガン」帰りだった。

 他の事件に比べ、サウジで起きた2件の反米テロの真相は薮の中である。95年11月の国家警備隊兵舎へのテロの犯人、ハッサン・アブデル・ラブ・アル・サリヒ(35歳、サウジアラビア人)はパキスタンに居住していたが、アフガニスタンのヘクマチヤールの下にいたことがあるようだった。サウジが FBI に「尋問」させずにアル・サリヒを処刑したことは、アメリカにとって大きな痛手だった。96年6月のアル・コバールの米軍宿舎へのテロについても、背後関係が激しい論争の種になっている。アメリカのマスコミは1年前からイランの名を挙げ、イランとの接近に水を差されたくないサウジが犯人グループを黙らせているのだ、と非難している。だが、97年12月にテヘランで開催されたイスラム諸国会議の準備の過程で、サウジとの接近を図ったのはイランの方からだった。また、唯一の被疑者アル・サイーグ(イランの聖地コムへの巡礼歴があるシーア派サウジアラビア人)がアメリカに引き渡されて以来、奇妙にもイラン説は聞かれなくなってしまった。

 足早に描いてきた以上の見取り図から、パキスタンとアフガニスタンのはざまを本拠地とするスンニ過激派勢力が、主要な反欧米テロに関与していることがわかる。

 新勢力のスンニ過激派に目立つ特徴は、政治的には過激だがイデオロギーの面では保守的という落差であり、この点にホメイニ主義などの既存イスラム運動との違いがある。典型的な例がタリバーンだ。欧米のマスコミがタリバーンを破廉恥と見ようが、イスラム社会の一部世論にタリバーンへの共感があることは否定できない(4)。保守的で厳格、非常にスンニ的な新イスラム原理主義の眼中にあるのはシャーリアだけだ。社会的なメッセージは姿を消している(たとえばエジプトのイスラム集団は、97年秋にムバラク大統領が実施した反農業改革を承認した)。シャーリアこそすべて、シャーリアの他には何も要らないといった姿勢だが、スンニ過激派のシャーリア観は非常に限定されている。「イスラム国家」よりも「シャーリア首長国」が語られる。

 スンニ過激派勢力のシャーリア観の背景には、中心的な活動家が私設「マドラサ(神学校)」出身者で構成されていることもある。国による教育制度が整っていないパキスタンなど一部のイスラム諸国で、私設神学校は爆発的に増加している。サウジの資金や、シャーリアを持ち出すことで過激派の先回りをしようとする政府当局の人心懐柔策も寄与している。すでに何千人もの卒業生がちまたに溢れているが、身に付いたものは漠然としたシャーリアの知識だけという聖職者にとっては、社会をイスラム化することだけが自分の立身出世の道と思われているのだ。

 こうした状況からすれば、ビン・ラーデンは世界のイスラム過激派の「総帥」というより、活動家養成者と言える。個々の活動家はそれぞれの道に進むか、さもなければビン・ラーデン率いるアル・カイダに残って、派手で象徴的な作戦を遂行する。国際ネットワークのかなめは人間関係であり、パキスタンの古くからのイスラム政党も一役買っている。その代表的なものがイスラム・ウラマー団(タリバーンも属するデオバーンド派(5)の流れを組む伝統路線・保守路線の政党)と先に触れたイスラム党であり、各々から近年生まれた過激派集団として、シーア派との闘いを使命と考えるシパーヒ・サヘバン、87年に設立され、カシミールで活動するダワトウル・イルシャードがある。イスラム・ウラマー団のハク上院議員が経営するアコラ・カタク神学校(ペシャワール近郊)などの個人経営「マドラサ」は、何千人もの神学生をタリバーン支援のためにアフガニスタンに送り出している。

ジハードからジハードへと

 では、彼らの活動の何が「過激」なのだろうか。まず手段の暴力性である。また「十字軍」・「ユダヤ人」・シーア派に対する骨の髄からの敵意、この10年間にも(湾岸戦争や、ネタニヤフ・イスラエル首相へのアメリカの迎合に対する不満から)積もりに積もった敵意である。星条旗を焼くための根拠がシャーリアに代わったという違いはあるが、伝統的な「反帝国主義」が復活しているのだ。その号令が、98年初頭のビン・ラーデンとザワヒリによる「ユダヤ人および十字軍と闘う世界イスラム戦線」創設宣言だ。 スンニ過激派はシーア派を異端と見なしている(6)。パキスタン国内の地域紛争激化や、タリバーンによるシーア派地域包囲を見るがよい。80年代にシーア派とスンニ派の断絶を超えて世界イスラム革命の旗手となろうとしたイランにとっては、歴然とした失敗である。イランはアメリカと並んでスンニ過激派の標的になっている(97〜98年冬、タリバーンによって外交官を、パキスタンでは士官候補生と外交官を殺害された)。アフガニスタンとスーダンに対するアメリカの爆撃に対し、アラブ連盟と違って抗議しなかったイランは、今やタリバーンと一触即発の状態にある。

 アメリカとサウジにとっても失敗だった。保守的なイスラム原理主義と欧米の同盟というサウジ・モデルは失敗に終わった。アメリカにとって問題なのは、対イスラム圏政策の代替案がないことだ。親アメリカを信条としつつ、スンニ過激派勢力を支援する(98年春の時点でもタリバーンの所に行っていた)というサウジのトルキー王子の二重外交は限界に達した(7)。サウジが大金を費やしたスンニ過激派ネットワークは、心の底ではアラブの王国とペトロダラーを軽蔑しており、サウジアラビアが一応はイスラム国家だとしても、サウド王家がない方がさらにイスラム国家らしくなると考えているのだ。

 逆にパキスタン側では、スンニ過激派運動への支援が政府レベルで堅持され、地域戦略(カシミールのゲリラ活動、アフガニスタンのコントロール、中央アジアのイスラム煽動)の一環をなしている。98年8月20日の爆撃の際、グル元ISI局長はアメリカに対して非常に厳しい姿勢を示した。過去にナシル将軍がイスラム主義者への共鳴を理由として ISI局長を解任されたことがあるが、現在のレガリ大統領自身はイスラム主義者に共鳴している。98年9月には、シャリフ首相がパキスタン法をイスラム化する意向を発表した。パキスタンは時に反米テロの関与者(前述のラムジとカンシ、ナイロビのテロに関わったオデー)の引き渡しに応じつつ、手の中にはタリバーンというカードを握りしめているのだ。

 こうなってくると、パキスタンが核兵器まで持つ「やくざな国(rogue state)」になったのかどうか、アメリカは見極める必要がある。つまりアメリカは敵を取り違え、ちょうどイランが反欧米テロへの関与を止めた時期に、95年のダマート法によって対イラン制裁を始めてしまったのかもしれないのだ。対外政策に弱い政府と無知な議会を備えたアメリカは、艦長不在で慣性航法のまま方向を失い、間歇的にトマホークを放つ大型船のようなものになっている(8)

 スンニ原理主義ネットワークは派手に活動し、対米闘争の先陣を切るかのような態度を取っているが、実際のところは(パキスタンとアフガニスタンは別として)イスラム諸国の現実の戦略とほとんど関わりがない。国際性と「脱領土性」こそが新たな特徴なのだ。活動家はジハードからジハードへと、主に中東の外(アフガニスタン、カシミール、ボスニア)を渡り歩き、国籍などは気に留めない。複数の国籍を持つ者もいれば(「パキスタン人として生まれたがパレスチナ人となることを選んだ」と言ったラムジ(9)や、ヨルダンでパレスチナ人として生まれてケニア女性と結婚したオデー)、無国籍の者もいる(ビン・ラーデンはサウジ国籍を剥奪された)。スンニ過激派は、自らをムスリム国際主義者と定義し、特定の国家の大義には加担しない。彼らの「センター」は、アフガニスタンとパキスタンのはざまの部族支配地帯、ノー・マンズ・ランドにある。

 そして、スンニ過激派は既存の国家(特にイラン)と関わりがないだけでなく、分派としての認知を拒む既存イスラム運動とも関わりがない(「アフガン」帰りのアナスの一派も含めて FIS は GIA の逸脱を非難する)。エジプトのムスリム同胞団、アルジェリアの FIS、トルコの福祉党、パレスチナのハマスといった既存イスラム運動の方は、闘争を国家の枠組みの中で考えており、紛れもない政治勢力として認知されることを目指している。つまり(イランの場合も含めて)「イスラム民族主義」と呼ぶことができ、ビン・ラーデンの仲間が夢見るウンマ(イスラム共同体)との間には大きな隔たりがある。彼らは真の政治構想を欠いたスンニ原理主義の赤軍派のような存在であり、その予備軍は、政治展望のない中で緊張が高まる中東の地域のはずれ、社会のはずれに控えているのだ(10)

(1) パキスタンの軍部にとってのアフガニスタンとは、対インド戦略上の後方拠点であり、中央アジア方面への足場である。こうした政策からして、ムジャヒディンに対するパキスタンの支援は、イスラムの名目の下(また同じパシュトーン民族を通じて)、アフガニスタンが解放された暁の保護領化を正当化するためのものだった。偏向と弁明に満ちてはいるが興味深い証言として、ISI の将軍の手になる Mohammed Yousaf, The Bear Trap, Lahore, 1992.
(2) イランもアフガニスタンのシーア派の後ろ盾に若干のパスダラン[革命防衛隊員]を派遣したが、スンニ派の「アフガン」に相当するような存在ではなかった。80年代のイランの活動家は、アフガンではなくレバノンに戦いに行った。ソ連と面倒を起こしたくなかったという理由もある。
(3) オリヴィエ・ロワ「アフガニスタンの勢力争い - シャーリアとパイプライン」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年11月号)。
(4) 親タリバーンのインターネット・サイト http://www.taliban.com が発行するダルブ・ウル・ムミン誌などを参照。
(5) イスラム教へのヒンズー教の影響に対抗するために19世紀に興ったインド亜大陸の流派。
(6) イスラム関連テロの陰には必ずイランがいると繰り返す最近の風潮には、スンニ過激派によるシーア派敵視がひそんでいる。パキスタンでは無名の反シーア本が山のように売られている(デオパーンド派の Maulana Nomani が著し、Sayyed Nadwi が序文を付け、イラン革命を非難する Khomeyni, Iranian Revolution and the Shia Faith など)。親タリバーンのダルブ・ウル・ムミン誌が公表したマスジデ・ナバヴィのモスクの Sheykh Hudaybi 師の Khotba(説教)も、キリスト教徒やユダヤ教徒を標的とした事件を受けて、シーア派を不信心・異端・偽善と非難している(1998年8月2日、http://www.taliban.com)。
(7) 激しい反欧米思潮がサウジの一部地域だけでなく、これまでは王室に従順だったワッハーブ派の宗教エリートの中にまで広がったため、王室は懐柔策をとる必要に迫られている。
(8) 米国議会の見方を集約するのがケン・ティマーマンなる「専門家」で、テロ事件の裏には必ずイランがいることを証明しようとする。ウォール・ストリート・ジャーナル紙1998年8月11日号の同氏の記事は、ケニヤとタンザニアの大使館に対するテロの責任はイランにある、と裏付けのないまま断言した。
(9) Washington Post, 5 June 1995.
(10) イスラム原理主義の行き詰まりについては、オリヴィエ・ロワ『政治的イスラムの挫折』(ル・スーユ社、パリ、1992年)参照。


(1998年10月号)

* 最初の小見出しから三段落目の「ヘクトメチヤール」を「ヘクマチヤール」に訂正(2002年11月15日)

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