湾岸に交錯する米ロの視点

アラン・グレシュ特派員(Alain Gresh)
ル・モンド・ディプロマティーク編集長

訳・斎藤かぐみ

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 ロシアの経済状況がさらに悪化し、かつてアメリカと覇を競った大国の行方は霧につつまれている。改革派のコーズィレフ外相を更迭した2年前から、昔日の面影を追っているのか、そう考えることこそ偏見なのか。世界の盟主を任ずる米国政府の方でも、内と外の板ばさみとなって行動が制約される局面が何度もあった。記憶に新しい湾岸危機の再来と一応の解決。フセインの首を真綿で締めようとする政策は、果たして成功の見込みがあるのだろうか。[斎藤]

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 モスクワ川から数百メートル、外国製品がウィンドウにあふれ、例によってマクドナルドも並んだ繁華街アルバート通りを下った所に、ロシア外務省のビルがそびえ立っている。50年代にスターリンがモスクワに立てた7つの摩天楼のうちの1つである。石に彫られた「鎌とハンマー」が、その由緒を示す。黒塗りのリムジン、古めかしいシンボル、大臣には元ソ連高官のエフゲニー・プリマコフ。ここでは時が止まっているかのようだ。

 モスクワでは時が止まっている、と数百キロ離れたワシントンの評論家やジャーナリストが言い立てる。イラク危機の起こった1998年2月以降は更に口さがなくなっている(1)。フセイン揺さぶり戦略を推進した元国防総省高官のパール氏に言わせると「当時のロシアの立ち回り方には失望した」ということになる。「プリマコフは、ブレジネフやグロムイコの時代に我々を引き戻す。プリマコフは、ソ連が冷戦で負けたのを遺憾に思っている男だ。外相の人選は遺憾だとクレムリンに言ってやらねばなるまい」

 逆にロシアのポスワリュク中東担当外務次官の方も、開いた口がふさがらないという顔をする。完璧なアラビア語を話し、一時は作曲もこなし、イラク大使を経験したポスワリュク外務次官は、「大統領宮殿危機」とフランス政府が名づけた時期に1ヵ月半以上にわたってイラクに滞在した。フセイン大統領と3回会談し、アジズ副首相と数十時間交渉し、イラクからは攻撃せずとの約束をイスラエル政府に伝えたポスワリュク外務次官は、こぶしを震わせて言う。「冷戦への逆行だって? 冷戦時代のルールに従って行動していたら、水面下で開戦に加担していたところだ。爆撃に踏み切ったアメリカには重いツケが回り、ロシアは得な役に回るというわけだ。実際はまったく逆に、平和的解決に向けて行動したというのに」

 「ロシアの目的は不明で、アメリカに張り合おうとしているような印象だった」とペルトロー元国務次官補は反論する。水かけ論の背景にあるのは、誤解なのか「冷戦への逆行」なのか、それとも形をなしつつつつある米ロ間の新しい「ゲームのルール」なのか。

 モスクワのネザヴィシーマヤ・ガゼータ紙の国際面を担当し、外務省にも近い有力アナリストのプシュコフ氏は、次のような議論を展開する。「ロシアの外交政策の流れを理解するためには少し前に戻ってみなければならない。1991年当時、我々は西洋の仲間になりたいと望んで政策の調整も行った。そんなものは恐らく幻想だったのだ‥‥。とにかく西洋の方は我々を望まなかった。旧ワルシャワ条約機構の3ヵ国への北大西洋条約機構(NATO)拡大の件でよくわかった。我々の安全保障を脅かさないまでも、形をなしつつある政治/戦略機構の中にロシアの居場所がないことをはっきりと示したのだ。そこで選択肢がはっきりした。西洋の下位パートナーに甘んじるか、西洋からの孤絶は避けつつもロシアの国益に応じた自主路線をとるか。我々のとったのは第二の選択肢だった」。プシュコフ氏はインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙の論壇で「ロシアとアメリカは敵ではない。だがライバルにならなければならない」とも説いた(2)

 世界は多極的になるべきだという見解がモスクワで主流となった。ワシントンに合わせるべきだと唱える者はもはや皆無に近い。「イラク危機によって、地球のすべての問題を一つの大国だけで解決できるはずがないことが確認された」とロシアのルーキン下院外交委員長は力説する。「民主派」に属するルーキン委員長は、米議会への「説明旅行」から帰ったばかりだ。「あの時期、同盟国などに対するアメリカの態度がまずかったにしても、国際社会に役割分担が生じたのも事実だ。アメリカはそれに慣れなくては」。米国議員との対話はルーキン委員長に違和感を残した。「ヘルムズ上院外交委員長はアメリカの外に出たことがなく、国際紛争の解決も連続テレビドラマの結末と同じだと思っている。保安官が勝ち、悪者は罰されるべきだとね」

 だが現実は現実、世界はまだしばらく「唯一の超大国」に支配されたままだろう。この過渡期にロシアは何をなすべきなのか、と中東問題に明るいナウムキン氏(戦略国際研究所長)は問い詰める。「それぞれが自国の国益を守ろうとするのを後押しすべきなのだろうか。トルコやイラン、中国の野心を鼓舞すべきなのだろうか。多極的な世界とは、それぞれが自分の利益を守ろうとする世界なのだろうか」

ロシアの切り札

 ナウムキン氏の詰問に答えるのは難しいまでも、ロシアの指導者は経済面などでの行動に限界があることを自覚し、何が死活的な国益かを見定めようとしている。カーネギー国際平和財団モスクワ支部のイスラム研究者のマラシェンコ氏の見解では「優先順位が高いのはスラヴ圏ヨーロッパと中東、つまりロシアと国境を接した地域だ。中東や湾岸の出来事はロシアや近隣諸国に飛び火する。チェチェン、タジキスタン、アフガニスタンなどを見るがよい。イスラムの統一なるものがスローガンにすぎないとしても、カフカス地方の急進イスラム主義の発展に中東の影響があることは否定できない」

 マラシェンコ氏によればロシアは1700万人のイスラム教徒をかかえたムスリム国家であり、「昨年のことだが、下院議員を含む一部の指導者がイスラム諸国会議機構(OIC)への加盟を求めさえした。外務省も水面下で支援した動きだ」。チェチェン戦争以降のロシアで反イスラム感情が強まる一方では、イスラム教徒が今や圧力団体の重みを持つようになっている。

 ロシアの専門家は「東方地域」を定義上3つに区分する。最も重要なのは中央アジアとカフカス、つまり旧ソ連地域。次いで、それを囲む南部ベルト地帯のイラン、トルコ、アフガニスタン。最後はアラブ諸国とイスラエルとなる。「ロシアも地域の一部だ」という点をポスワリュク外務次官は強調する。「地域で起こったことはロシアに影響する。今のロシアは弱体化し、経済力も限られ、無制限の兵器輸出には国民の賛成が得られない。しかし、ロシアには切り札がある」

 新たな切り札もある。第一に、イデオロギーゆえにシリアやイラク、南イエメンやリビアなどに交流先が限られていた80年代と違って、もはやイデオロギー同盟にこだわる必要はない。現在のロシアは、揺さぶりをかけ、革命を鼓舞し、無神論を主張する大国とは見られていない。サウジアラビアやエジプト、イスラエルも含めた中東各国との交流も深まった。イスラエルには旧ソ連からの移民が何十万人も住んでいて、故国との「橋渡し」の役割を果たしている。ロシアとネタニヤフ政権との対立は消えないが、貿易は活況に満ち(1996年には7億5000万ドル)、文化交流も盛んに行われ、定期的な政治協議も開かれている。ちなみに1967年から1990年までの間、ソ連はイスラエルとの外交関係を絶っていたのである。

 80年代まではクウェートにしか在外公館を置いていなかったロシアは、今や湾岸各国に大使館を開き、兵器の売り込みも始めた。湾岸には多数の政府高官やビジネスマンが駐在し、アラブ首長国連邦だけで7000人を数える。

 権力中枢が複数あることもロシアの切り札となっている。石油会社、ガス会社、兵器輸出公社ロスヴォルジェニエ、実業家、そしてクレムリン、外務省、国防省、下院といった政治機構。それぞれが独自の戦略を展開し、「ロシアの政策」に大きな幅を持たせている。たとえばトルコ政策について言えば、アゼルバイジャンやチェチェン、キプロスやクルディスタンなどが絡んで政治的対立も多いのだが、地域で最大の貿易相手国にもなっている。そればかりかトルコ向けの攻撃ヘリコプターの輸出承認さえ与えられたのだった‥‥。

 ヨーロッパでも見られる反米論が中東で高まり、世論や有識者のみならず政財界にまで広がっていることも、ロシアにとって有利である。ネタニヤフ政権には弱腰なのにイラクには強硬というクリントン大統領の態度の差は、湾岸戦争以降の不公平な「ダブル・スタンダード(二重基準)」政策の延長と捉えられている。「中東危機と湾岸危機は関連している。イスラエル・アラブ交渉が難局にあったために、反イラクでアラブ諸国を動かそうとしたアメリカは壁にぶつかったのだ」と認める声が、初めて米国政府内からも(個人の立場でと断りつつも)出てくるようになった。

 ロシアにとって環境は良好とはいえ、中東などの国際舞台への復活が万事順調に進んでいるというわけではない。プシュコフ氏も認めるように「大多数の国では、先を越したアメリカがしっかり根を下ろしていた。それゆえロシアは、切り札を持っていたイラクやイラン、インドやキューバなどでの復活を優先するほかはなかった」。だがアメリカのみが支配する「新国際秩序」に失望していた国々は、ロシアの復活から何が引き出せるかを見てとった。イラクは何としてでもロシアを自分の側に引き込もうとした。「食料のための限定石油輸出」協定(3)の第3期(1997年12月〜1998年5月)に輸出される石油について、40%の購入権はロシア企業12社に与えられた。

 クレムリンの政策は湾岸危機の当初から明確だった。ロシアの近くを舞台とするだけに危険なアメリカの軍事攻撃を回避すること、大統領関連施設の査察に関する妥協策を見つけることが目標に置かれた。アメリカの脅しは、イラクの明白な義務違反と比べても度を越していると思われた。ロシアはフランスとともにイラクに対して影響力をもつ唯一の国であり、フセイン大統領とのパイプをもつがゆえに、アメリカとの接触を拒否するイラク政府に「メッセージを伝える」ことのできる立場にあったため、仲介役を巧みに果たした。ロシアは自国の行動にプラスの自己採点を与えている。

 モスクワとワシントンに見解の不一致が生じたことも事実だ。ロシアは一時期、大統領関連施設の査察回数を限定する方向で協定をまとめられると考えていたが、ホワイトハウスは取り合わなかった。根本的にはフセイン体制の将来の展望も両国の分析が分かれるところだが、これは今に始まったことではない。ナウムキン氏の記憶によれば「フセイン大統領の変化や進歩の可能性を説いた最初の人物」は、非常に欧米寄りで1996年1月にプリマコフ現外相に交代させられたコーズィレフ前外相だった。フランスも同様の見解を持っており、1998年5月のイラクのアジズ副首相の訪問の際にフランス外務省広報官は「国際社会へのイラクの復帰は可能であり、望ましいものだ」と述べた(4)

アメリカのお家事情

 ロシアやフランスのイラク観は、ワシントンにおいては言語道断である。よくある話だが、アメリカの政治家は自分のセリフに引っかかっており、フセインはヒットラーという図式を堂々と繰り返す。「第二次世界対戦以来、他の国を抹殺しようとした国はイラクだけだ。こんな国を復権させるわけにはいかない。問題外だ(No chance)」と国務省高官の言葉は険しい。

 1998年1月から2月にかけてのイラク危機の結末は、軍事攻撃を行っても変わらなかっただろうと認めはしても、後味が悪いものだった。マーフィー元中東担当国務次官補(1983〜89年)も「フセインの勝利でもあり、アメリカの勝利でもあった」ことは否定しない。「フセインとイラクに対していわば礼を欠いていたと国連事務総長が認めたことは、イラクの得点だ。大統領関連施設も含めた UNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の査察権を再確認させたことは、アメリカの得点だ」。だが「バランスのとれた」決着ながら「議会やイスラエル・ロビー、マスコミの怒り」を買ったことも事実だった。

 アナン国連事務総長とアジズ副首相が調印した1998年2月23日の協定は、「国家の安全や主権、尊厳に関するイラクの正当な懸念に配慮する」義務を UNSCOM に課すものだった(5)。大統領関連施設の査察に関しては、査察団に外交官も加えられ、査察団の活動について煩雑な手続が課された。「1991年以来イラクが得ようとしていた条件そのもの」と、CIA やホワイトハウスを経てワシントン近東政策研究所に移った新鋭アナリストのポラック氏は明かす。「イラクは UNSCOM と国連の間にくさびを打ち込むことにも成功した」

 フセイン大統領の立場はイラク危機を経て強くなったという点には異論がない。議会選挙を数ヵ月後に、大統領選挙を2年後にひかえた米国政府にしてみれば、たまったものではない。クリントン大統領も次期大統領を狙うゴア副大統領も、共和党のギングリッチ下院議長が「対イラクで、ブッシュ大統領は鮮やかに勝利したのに、民主党政権は敗北した」との説をテレビで述べたてるのを見たくはない。イラク問題は今や内政問題となっているのだ。

 保守派の議員には、80年代のニカラグアのサンディニスタ革命政権に対する反政府ゲリラ(コントラ)支援作戦にならった「コントラ・オプション」を唱える者も多い。アメリカが凍結している12億ドルのイラク資産を反対勢力に渡し、「自由イラク」ラジオを開局し、イラクの南北に「解放地帯」を設けて「自由の闘士」を米空軍が支援する、などの作戦である。しかし、現実的な戦略として考えられているわけではない。イラク反対勢力は統制を欠いているし、長期介入は米国民に支持されないからだ。クーデタがフセイン体制を終わらせることを昔から願っている米国政府も、将軍の誰かれを公然とけしかけて、フセイン体制が終われば経済制裁も終わるとの言質を与えることは避けている(6)

 ポラック氏の見解では、「コントラ・オプション」が現実的でないからと言って現状固定を図るべきではない。「もちろん経済制裁を3年や4年のあいだ続けることもできるが、同盟国とアメリカの緊張は高まるだろう。制裁解除について同盟国と話し合うべきだ。ただし交換条件は厳しいものでなければならない。イラクの大量破壊兵器を長期的に管理するだけでなく、通常攻撃兵器の入手も禁止する。クウェートの地位をイラクに承認させ、国境が侵害されたら自動的に軍事介入を行うと念を押す。フセイン体制の危険性は同盟国も承知しているのだ。今言ったような措置をとるのに3年後では遅すぎる」。しかしながらポラック氏自身も、軟化戦略が日の目を見そうにないことは認める。「サダム・ヒットラー」に対する制裁解除の責任をとるアメリカの政治家など、どこにいると言うのか。

 それゆえ米国政府の方針は、従来の政策を維持しつつ同盟国をなだめるために微修正を施す、というものになる。イラク危機の最中の2月20日、国連安保理決議1153号に賛成したのも同盟国の懐柔のためである。決議1153号は「食料のための限定石油輸出」と呼ばれる決議986号の延長であり、半年当たり52億ドル相当の輸出をイラクに許可するものだ(7)。具体的な方法については討議が重ねられている。アメリカの要求は、期間を半年ではなく一年半とし、延長も可能とすることである。制裁解除が遠のくわけだ。アメリカはまた、イラクの石油収入の30%を UNSCOM の経費と湾岸戦争の賠償に引き続き充当することも求めている(8)

 アメリカの考えは、丸いものを四角に収めようとするようなものだ。湾岸戦争前と実質的に同量の石油輸出をイラクに許可しておきながら収入の使途は押さえておくなどということは、理屈に合わない話なのだ。「イラクに100億ドルや150億ドルもの輸出収入を持たせるわけにはいかない。2年もすれば1990年当時と同水準の大量破壊兵器を再建することになる、と我々の情報部は言っている」という官僚の言葉には取り付く島もない。

 ロシアにとっても、フランスにとっても、国際社会にとっても、決議1153号は経済制裁解除の代わりにはならない。イラクに対する外国の管理が無期限に続くとの見通しは、植民地主義の最悪の事例を思い起こさせる。諸国が望んでいるのは、核兵器・ミサイル・化学兵器・生物兵器の4つの廃棄を完了し、湾岸戦争の停戦を定めた安保理決議687号の第22条に従ってイラクの自由な石油輸出を許可することだ。安保理の態度の決定の基礎となる結論はバトラー委員長率いる UNSCOM が提出することになるのだが、いつかは査察作業が終わるのだろうか?

 ポスワリュク外務次官が驚いたことに「大統領関連施設の問題は急に浮上した。イラクが神経質になるのはわかる。国家元首が執務し、居住する場所の問題だからだ」。続いて話が UNSCOM に移るのも偶然ではない。「UNSCOM と査察団はバランスが悪い。重要なポストは英米人に占められている」。明言はしないまでもロシア側の考えは、アメリカの息のかかった専門家が問題を解決よりも紛糾の方向にもっていこうとしている、というのに近い。同調者はフランスや国連本部にも多い。現状の修正を求めるロシアは三つの具体案を示した。第一に、UNSCOM にロシア人専門家60人を加えること。第二に、上空監視についてアメリカの U-2偵察機を「支援する」ロシアの偵察機を派遣すること(フランスも自国機の派遣を提案した)。第三に、UNSCOM にアメリカ人の副委員長と並んでロシア人の第二副委員長を設けること。第三点に対するアメリカの反応は「とんでもない(no way)!」の嵐だった。

 ロシアやフランスでは、まだイラクが義務のすべてを履行したわけではないとの見解はあるものの、UNSCOM はすでに相当な成果を挙げたとの了解がある。核廃棄とミサイル廃棄は実質的に完了しており、他の2分野についても早急に作業を完了した上で「長期管理体制」に移行することは可能だろう(9)。現状からすれば、あと数ヵ月で UNSCOM の調査結果はまとめられるのだ。こういった見方を米国務省高官は否定する。「核分野については、うまく行けば1年後に、安保理決議の規定に従って現行の管理体制から長期管理体制に移行できるだろう。他の分野については、まだまだ問題だらけだ」

 結局のところ、イラクに対する経済制裁の解除の是非は政治問題となるだろう。UNSCOM や査察団の専門家が、作業を引き延ばすための口実と注文には事欠かないのは明らかだ。その一方、深刻きわまりない大量破壊兵器の拡散問題が生じているのは、何もイラクに限ったことではない。イスラエルからイランにいたるまで、中東の各国が大量破壊兵器を手に入れている。インドの核実験とパキスタンの報復衝動[訳註:その後にパキスタンも核実験を行ったのは周知の通り]は、地域一帯の軍事化に拍車をかけるだろう。何らかの地域協定が作られない限りは、フセイン体制が転覆されたとしても、イラクが大量破壊兵器の保有を長期的に断念することはあるまい。

 ロシアは楽観論に傾いている。あと1年で対イラク制裁は解除されるだろう、UNSCOM 委員長自身も明言したことだ、と。しかしながら、制裁が継続されて再び危機が勃発したら、一体どうなるのか。答えは誰も知らないが、「ゲームのルール」だけは定まっている。ロシアとアメリカは再びライバルとなったが、敵同士ではないということだ。

(1) インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙1998年2月15、16日号など。イラク危機についてはル・モンド・ディプロマティーク1998年3月号の特集「試されるアメリカの覇権」を参照。
(2) "Russia and America Aren't Foes but Have to Be Rivals", International Herald Tribune, April 2 1998.
(3) 「アラブの石油とガス」(パリ)1998年5月1日号。他方、イラクはロシアに対し、非常に有利な条件でクルマ油田の開発権を与えた。両国の協定の発効は制裁解除後となる。
(4) 1998年5月15日の声明。
(5) ル・モンド紙1998年2月25日号。
(6) オルブライト国務長官は1997年3月26日のジョージタウンでの演説で、新政権ができれば対話を始めると語ったが、条件として国連決議の遵守、人権と少数民族の権利の尊重、テロ活動の放棄、軍事的野心の抑制、外国勢力(特にイラン)に臣従しないことを挙げた。
(7) 1995年に採択され、1996年から実施された決議986号は、半年当たり20億ドル相当の石油輸出をイラクに許可した。代金は国連が管理する口座に振り込まれ、食料と医薬品の購入に使われる。代金の30%は UNSCOM の経費とクウェートへの賠償に充当される。なお、イラクには半年当たり52億ドル相当の石油輸出能力は当面はない。現地に派遣された国連専門家によると、石油関連設備の補修部品3億ドル相当をすぐに輸入したとしても、半年当たり40億ドル相当にも回復しない。
(8) フランスは決議1153号による上乗せ分の代金の使途を全面的にイラクの自由とすることを提案していたが、安保理の現アラブ代表のバーレーンと、30%は引き続き賠償に充当することを求めるエジプトの反対に遭った。しかしながら両国は、経済制裁の犠牲者となっているイラク民衆の状況について、ことあるごとに非難を繰り返してきた国である。
(9) 継続的管理体制に移行すれば、現にある大量破壊兵器の確実な解体ではなく再建の予防が課題となる。管理レベルを下げたり査察の回数を減らしたりするわけではない。安保理決議687号から715号への移行に当たる。


(1998年6月号)

All rights reserved, 1998, Le Monde diplomatique + Saito Kagumi

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