スコットランドの静かな革命

フィリップ・シュレジンガー(Philip Schlesinger)
スターリング大学教授、スコットランド

訳・清水眞理子

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 スコットランドは、グレートブリテンの「ふところ」から離れてヨーロッパの「自治国」としての地位を手に入れる、大きな一歩を踏み出している。スコットランド議会が最後に開かれてからほぼ3世紀後にあたる1997年9月11日、エジンバラに向けて政治を取り戻すことに、スコットランドは圧倒的多数で賛成した。スコットランド法は、スコットランド議会に大きな権限を分与するものであり、1998年夏前には下院で採択される見込みである。1999年には、スコットランド議会の選挙が行われることになっている。かりにスコットランドが連合王国の中にとどまるにしても、この政治的地位は欧州連合(EU)内での独立に向けてのステップとなりうるであろう。

 1997年5月1日、ブレア率いる「新労働党」の勝利で、スコットランドの自治問題は、再びイギリス政治の主要な課題とされた。ほぼ20年前の1979年、保守党の勝利によって地方分権化の最後の試みは一掃された。保守党は18年間のサッチャー、メージャー両政権下を通じて、分権案に激しく反対を続けた。

 これに対して新しい労働党は、憲法の改革を「近代主義的」綱領の要としていることが明らかになる。スコットランド議会とウェールズ議会の創設の他に、政府が提案しているのは、情報公開法の制定、欧州人権条約の国内法制化、上院の世襲貴族議席の廃止、ロンドン市長の選任方式の改革などである。憲法改革派が、このように「民主革命(1)」を望んでいるのに対し、「スコットランドに巨大な権限を与えることが、連合王国の分裂につながってしまうのではないか懸念する者もいる(2)」。

 ウェールズ議会は、スコットランド議会と異なり、いかなる立法権も持たない。ましてイングランド地方議会を創設することは、予定もされていない。したがって1999年に選出されるスコットランド議会は、ウェストミンスターの中央議会に対する最初で唯一の反対勢力になると同時に、510万人のスコットランド人の熱烈な民族意識の象徴になるであろう。

 1707年の協約(スコットランドの最後の議会の解散をもたらせた)以来、スコットランドは、独自の法制、教育制度、宗教を保ちつづけてきた。これによって、独自の文化と特別の民族意識を形成してきた。1886年以来、スコットランド省のおかげで、「国」としての領土、政治、行政の体裁も整ってきた。エジンバラにあるスコットランド省は、スコットランド大臣が代表となり、閣議を開き、中央の下院に対して責任を負う。スコットランド省に対する民主コントロールを拡大する必要性が、スコットランド議会の創設の動機となった(3)。スコットランドは民族としてのほとんどすべての特徴をもっており、特殊な政治制度は彼らの二重のアイデンティティをもたらす大きな要因となっている。すなわち、スコットランド人は、スコットランド民族であるが、グレートブリテンの市民である。今後は、スコットランド人としての特性が、グレートブリテン人としての特性に勝ることになる(4)

 1997年7月に、労働党政府は、「スコットランド議会」と題する白書を公表した。その中心的執筆者で「権限委譲」の専門家、スコットランド大臣のデュワー氏の労は報われた(5)。政府の提案は、すみやかに、9月11日の住民投票の実施につながり、スコットランド議会の創設と、議会への課税権の付与の是非が問われることとなった。

 保守党は、1997年5月の総選挙の際にスコットランドで有していた議席をすべて失っており、中道の現状維持派は、政府の提案に対する真の反対勢力となる力もなかった。エジンバラで行政を執行する一方でロンドンですべてを決定し続けることは、許し難いことになっていた。変革を求める連合勢力は攻勢に出た。1997年夏の住民投票に向けた活動は、「権限委譲」派の2大政党(労働党と自由民主党)とスコットランド独立をめざすスコットランド国民党(SNP)との連合を生み出した。住民投票に際しての暗黙の定義では、スコットランド人たる資格はスコットランドに住むことによって認められた。スコットランドに居住する者は、人種や出生地にかかわらず投票できたが、スコットランド以外に居住するスコットランド人には投票権はなかった。

現状維持への反対

 政治的自治を求める声が勝った。有権者の60.4%が投票し、うち74.3%がスコットランド議会の創設に賛成し、63.5%が一定の課税自治権に賛成した。1979年に行われた前回の住民投票とは逆の結果となった。

 スコットランド法案につながった「権限委譲」に関する白書の準備は、スコットランド憲法制定会議の長きにわたる努力の賜物であった。海外ではあまり知られていないが、1989年3月に初めて開かれた同会議は、スコットランド市民の主だった層を代表する組織であり、「権限委譲」に向けた共通のアプローチを検討する場となっている。会議が生まれた背景には、サッチャーの偏狭な中央集権主義によってかきたてられた深い恨みと、ロンドンの政治家はスコットランドを正しく代表していないという感情があげられる。メージャー政権は、中央集権主義の最も極端な部分を是正しようとしたが、こうした感情を変えることはできなかった。

 会議には、スコットランドで優勢な労働党と自由民主党、いくつかの小会派、労働組合、女性解放運動家、地方議員、教会の代表者が参加した。連合王国の枠組みの中でのスコットランドの自治の回復を目的としている。中央集権派の保守党と独立を目指すSNPのみが、会議への参加を拒否した(6)

 会議は、憲法の現状維持への反対姿勢を正当化するものとして、スコットランド人の意志を引き合いに出した。主権を国王やウエストミンスターの中央議会にではなく「スコットランド国民」におき、グレートブリテンとスコットランドのそれぞれの憲法思想を明確に区別したのである。会議はまた、主張を補強するために、EUの中に見られる地方分権の動きにも目を向けさせた。すなわち、スコットランド自治派は、ドイツのラント(州)やスペインの自治州を引き合いに出して、一般権限は下部機関(ここでは地方)にあって上部機関(ここでは国)の権限は補完的なものとする「補完性の原則」を、連合王国にも認めさせようとしている。市民社会の表れとして会議は、啓蒙時代のスコットランドの伝統と、東欧で民主主義の到来を加速した市民抵抗運動とに準拠しようとした。スコットランドのラジオやテレビ、特に、以前からずっと自治に賛成していたヘラルド紙(グラスゴー)やスコッツマン紙(エジンバラ)といった新聞は、会議を支持した。こうした支持は、新聞を中心とした地方メディアがスコットランド市民社会の要となっているが故に重要なものであった。

 会議は、8年以上の長きにわたって、非常に幅広い政治的コンセンサスを維持することに成功した。会議の個別作業や一般政策文書は、1997年7月の「スコットランド議会」白書の基礎になり、続いて12月のスコットランド法案の基礎にもなった(7)。同法案は歴史に残るものであり、かなりのインパクトが期待される。なぜならスコットランドにとって「権限委譲」は、中央議会に明白に留保されているもの(憲法、中央政府の財政、外交、防衛、社会保障、公民権)以外のすべての分野の立法権を意味するからである。したがってこれ以外の保健、教育、地方行政、経済開発、運輸、環境、農業、水産業、林業、スポーツ、文化、地域問題などの幅広い分野が、スコットランドの権限に属する。とりわけ議会は、中央政府で決定される基本税率とは異なる税率で(上下3%の限度内で)種々の所得税の課税権を有することになろう。

 スコットランド議会の最初の選挙は、1999年に行われることになっている。議席数は129議席、うち73議席は、現在の中央議会のスコットランド議席と同一の小選挙区のもとで1回の投票で選ばれ、のこり56議席は、各政党のリストによる比例代表制となる(8)

住民投票キャンペーン

 スコットランド法案が中央議会で採択されれば、イングランドとの境目より北側のスコットランドで、新しい政治文化がうまれることになろう。デュワー(スコットランド大臣)、マクリーシュ(スコットランド・「権限委譲」担当国務大臣)両氏のスローガンは、「近づきやすさ」であった。エジンバラの議会の運用方針は、中央議会のモデルの対極として定められるであろう。比例代表制が相当に導入され、主要政党は男女平等を推進するという決意をもっているように思われ、議会内委員会においては対決よりコンセンサスの重視が望まれている。

 オープンな議会への意志、中央議会の息が詰まりそうな形式主義とは決別しようというスコットランドの意志は、中央議会と新聞との密接すぎる関係から逃れようとすることにも表れている。スコットランドの責任者たちは、マスコミとの関係に、より大きな透明性を求めている。スコットランド省は、ケーブルテレビやデジタル技術のおかげで、議会の作業に対する一般市民からのアクセスが容易になる可能性に特に関心を抱いている。さらに、中央議会の伝統主義や息の詰まりそうな形式主義とは一線を画する方式を求めて、特別委員会(いかなる政党にも属さない憲法評議員からなる)において議会の行動規範を検討中である。

 1999年以降のスコットランド議会では、4つの主要政党が活動するであろう。労働党は、ほぼ間違いなく最大会派になり、自由民主党は、連立が必要な場合には、そのパートナーになるだろう。SNPは、野党第一党の役割を果たすであろう。保守党はと言えば、来年の選挙が政治的復活の最初のチャンスとなろう。各政党は、より「スコットランド的」、より「民衆寄り」の綱領を定めるべく、色々と思いをめぐらせ始めてている。民族が重要な問題である以上、政治戦術は中央議会のものとは相当異なってくるであろう。

 エジンバラが首都として認められたことによる、真の意味での政治「市場」の誕生は、新しい機会をつかもうと決心している多数の企業や団体を引き付け始めた。スコットランドのロビイスト団体ができつつあり、いくつかのシンクタンクが政治実務に影響を与え始めている。国営2大放送のBBCスコットランドとスコティッシュ・テレビは、議会の展開を報道する予定である。スコットランド・メディアの中心地であるグラスゴーの雑誌は、エジンバラで大々的な活動を準備している。ロンドンのマスコミについてみるとチャンネル4は、グラスゴーに新支局を置き対応している。電気通信業界の巨人であるブリティッシュ・テレコムは情報技術の役割を強調し、スコットランド議員に対して中央議会の審議状況への電子メールによるアクセスの手段を提供している。

 イギリスのイメージを一新したいと気持ちの強いブレア労働党にとって、スコットランドを例として的をしぼったマーケティングは役に立つものである(9)。「スコットランド・ザ・ブランド」という公的組織があり、推奨商品が純粋にスコットランド産であることを強調するキャンペーンをしている。1997年11月に設けられた公式の記章は、スコットランドという言葉とスコットランドの旗の青を強調し、さまざまな物品やサービス(食品、飲料、繊維、医療、金融、工学、大学など)に使われており、有名企業を含む150社に採用されている。かならずしも独立志向を意味するわけではないにせよ、一種の消費者ナショナリズムがうまれている。

 スコットランドの「権限委譲」は、中央集権政治に弔鐘を鳴らすものである。このため連合王国は、「釣り合いの悪い政府(10)」の難しさを味わうおそれがある。すでにロンドンとエジンバラでは、国内投資の監督や大学の授業料をめぐって対立している。中央政府の予算からスコットランドに戻すべき予算の配分も重要な対立点である。しかしながら、政治リーダーたちが「権限委譲」のイロハをすみやかに学ばなければ、スコットランドの新しい民主主義は、EUからの独立を要求する以外に道がなくなってしまうことであろう。

(1) Anthony Barnett, This Time: Our Constitutional Revolution, Vintage, London, 1997.
(2) Tom Nairn, Faces of Nationalism: Janus Revisited, Verso, London, 1997.
(3) Lindsay Paterson, The Autonomy of Modern Scotland, Edinburgh University Press, Edinburgh, 1994.
(4) David MacCrone, "Unmasking Britannia: the Rise and Fall of British National Identity", Nations and Nationalism, Routledge, London, December 1997.
(5) Scotland Parliament, Cm 3658, Edinburgh, The Stationery Office.
(6) Kenyon Wright, The People Say Yes: The Making of Scotland's Parliament, Argyll Publishing, Glendaruel, 1997.
(7) Scotland Bill, House of Commons, 18 December 1997. http://www.parliament.the-stationery-office.co.uk/pa/cm199798/cmbills/104/1997/104.htm.
(8) スコットランドの8選挙区から7人ずつの議員が欧州議会に選ばれる
(9) Mark Leonard, Britain TM: Renewing Our Idenrity, Demos, London, 1997.
(10) Mickael Keating, "What's Wrong with Asymetrical Government ?"(1997年2月に Newcastle-upon-Tyne で開かれた権限委譲に関する会議で ECPR (European Consortium For Political Research), Standing Group on Regionalism に提出された報告書)。


(1998年4月号)

* 小見出し「現状維持への反対」から三つ目の段落「上部機関(ここでは国)の権限は補助的なものとする『補助性の原則』」を「上部機関(ここでは国)の権限は補完的なものとする『補完性の原則』」に訂正(2003年11月26日)

All rights reserved, 1998, Le Monde diplomatique + Shimizu Mariko + Saito Kagumi

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