目には目を、または画像の暴落

ポール・ヴィリリオ(Paul Virilio)
哲学者・都市設計家

訳・斎藤かぐみ

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 テレビジョンという昔ながらの望遠画像と肩を並べるように現われたのは、それこそグローバルな望遠監視装置といったもの、おなじみのマスメディアの役割を一新するものである。これが何ものなのか、急いで見究めなくてはならないだろう。この急激なマルチメディアの氾濫(1)については、インフレ気味のチャンネルや多様化する放送サービスなどを論ずるよりも、時間のグローバリゼーションという観点で考えるべきだろう。全世界のリアルタイム、地域ごとに異っていたことが過去のものとなった現在時間を。

 堰を切ったように溢れるバラバラの望遠画像。と言えば、インターネット上で着々と増殖しているライブ・カメラが筆頭に上がる。CNNすら時代遅れになる。新たな放送の時空連続体となるのは、あちこちで発展する「大衆」向けの連続ニュース・チャンネルではなく、オンラインに置かれたビデオカメラである。各地で増えつづけ、誰もが自分のコンピューターの画面から覗きみることができる。こういったマイクロカメラは、性能もじきに業務用機材に追いつくだろうから、従来のテレビの視角を超えていくのだ。

 そう、感覚が麻痺したまま我々の行きつく先は、画像のまさに暴落である。兆候はニュース速報の増大や総合テレビ局の不振に現われている(2)。目には目を、と映像競争に凌ぎが削られる。だが、この競争も世界一大市場時代の御他聞にもれず世界規模となって、映像ニュースというテレビの制度を根底から揺さぶっているのだ。

 ガストン・バシュラールが言うように「あらゆる画像は拡大する運命にある」のならば、インターネットというグローバルな視角の究極の拡大によって、従来の総合テレビ局に映される遠方の像は面目を失う。かのグローバリゼーションの本質をなす世界時間の実現ゆえにである。貿易や文化や政治のグローバリゼーションと言っても、革新の要諦は世界時間にこそある。政治の地理的要素は、国民国家の凋落や自治・分権の要求の高まりにつれ、大して重要なものではなくなっている。

 世界で現在(望遠現在)の瞬間に起こっていることを見せること、ここに市場、「視線の市場」が成立する。この家庭用望遠監視装置ともいうべき隠微な視線は、「大衆」向けテレビ放送による演出という半世紀来のおなじみの方式を、はるかに‐という表現がうってつけだ!‐凌駕するものである。

 常時の実況が可能となった前代未聞の事態により、発信と「番組」受信の一過性にまで疑問符が付けられるようになった。定刻ニュースの受信という、20年前にCNNが始めて周知の成功を収めた方式の見直しが迫られている。

 監視カメラとその管理組織だけが、いつでも何処でもライブという状況を先取りしていたのだが、望遠技術の成果と言っても、一定の公営施設や市街地や道路の「周辺の管理」に限られたものでしかなかった。最初に衛星を利用した軍事スパイ活動を除いては、すべてが常に見られるようになるなどと、誰も考えていなかったのが実情である。

 グローバルな相互監視の普及‐あるいは覗き趣味の世界的大衆化‐とは、我々の最もプライベートな行動をさらけだしつつ、映像の偶発事故に身をさらすことを意味する。事故が重要かを判断するのは広告マーケティングの専門家の側である。さらに上を行くのが、犯罪活動の調査を恒常的に行っている軍部や戦略情報調査当局である。政治警察ないし密告の組織化。

 その意味でマルチメディアとは、既存のメディア形式の崩壊であり、敗北である。まだ誰も「敗北」の大きさを見抜いてはいないようだ。と言うのも、それぞれの(国営または民営の)「テレビ局」は延命策として、こぞってコンピューター画面への潜入を試みているからだ。

 画面には画面を。家庭用コンピューター端末とテレビ・モニターが、世界の知覚市場の支配を争う。偶像ならぬ映像の市場、そのコントロールが新たな倫理と美意識の時代を開くことになるのだ。

 テレビ受信機の手軽なコンピュータへの転用、逆にポータブル・コンピューターのデジタル・ビデオ・モニターへの転用により、家庭用パーソナル機器は活動写真館となって、世界の知覚の、世界各地の出来事の瞬時の知覚の、コントロール端末に変ずる。それは代わりに(代わりの画像として)、調査専門機関に限られない万人による視覚コントロールを自分にも受けいれることでもある。メディアを通じた測定、警察や軍による監視である。

 パパラッチの犠牲になった何人かのスターも、ダイアナ事件直後に同様のコメントをしている。「堪えられないのは隠し撮りではなく、いつもコントロールされていることだ」。CD-ROMやインターネットを基礎づけているとも言える百科全書的知識(テキストであれ数値であれ)の披瀝が、動画の力の前でもちこたえられるなどと信じる根拠があるだろうか? ウェブであれ何処であれ、「長ったらしい話より画像の方がよい」のであり、ネットへの熱が冷めれば、画像の世が、まったく違った画像の世が、幕を開けることになるだろう。究極の遠近法が実現される。リアルタイムの遠近法である。イタリア・ルネッサンス時代における現実空間の遠近法の発明と点にいたるまで同じ意味で、歴史的にも政治的にも重大な事件である。

 だいたい、無数の「情報プア」が、ネットへのアクセスの複雑な手続を学んでネット・サーファーという「情報リッチ」に成り変わるなどと大真面目に考えられているのだろうか? 無論そんなことはない。彼らが情報世界の経済にアクセスするためには、常のように画像に頼るしかないのである。

 中世におけるゴシック、そのステンドグラスやフレスコ画や彫刻やタピスリーや写本装飾に当てはまっていたことは‥‥グローバルな大視角の時代における電子映像のゴシックにも当てはまることだろう。

万華鏡効果

 今やインターネットのライブ・カメラは飛躍的に増加しているから、宣伝なども行われない。「事故」は自分が見せるものではなく、知らないうちに巻きこまれるものとなりがちである! さらしものに自らなるのでもなく、ならされるものだ! かくして電子画像の大暴落が、明らかであるがゆえに隠れた形で進行中である。さらしものは世界的競争の必然の結果、大量のライブ・カメラは旧式テレビの死角をなくすためのバックミラーなのだ。市場がリアルタイムでのみ世界市場となった瞬間、経済の政治地理的な現実空間が刻々と衰退するようになった瞬間から、さらしものは世界貿易に不可欠のものとなり、視覚・視聴覚の情報源の間で競争が始まった。

 こうして危機を迎えたテレビ局は、ウェブへの潜入に汲々とするようになった。正真正銘の視覚の暴落が起こる危険が大である。個人の自発的利用が不特定多数向けのテレビに代わったとはいえ、テレビ画面が目に入れば、画像取引市場の「小口顧客」は手を引いてしまうかもしれないのだ!

 従来のテレビなら不特定多数の視聴者の気を引こうとするところだが、インターネットというグローバルな視角の中では、テレビの受動的な望遠視聴者は突如として知覚領域の望遠行為者となり、管理組織の「虫眼鏡」なる新趣向をかいま見せられる。万華鏡に幻惑された彼らは、巨大テレビ産業の手から逃れていってしまうだろう。それゆえ旧式の「スポット」広告は、テレビの画面からネットの端末へと移らざるを得なくなる。かつてのチラシが町の壁から、日刊紙の折りこみやラジオ広告、次いでテレビの速報やスポットへと移っていったように。

 こうして消失点による既存の「現実空間の遠近法」はかなぐり捨てられ、デジタル画像の点という点、ピクセルというピクセルが瞬時に消失する「リアルタイムの遠近法」が世界的に採用される。だが、その時空は、場所や物や人のアナログの似姿であることを止め、端的に示されたデジタルの姿そのものとなるのだ。

 実況は、ライブ・カバリッジは、解説者をさしおいて相手と語り手を指し示すという点で、電話や望遠監視装置にそっくりである。かつてのテレビ電話の大失敗の中に次世代インターネット版が秘められていたかのようではないか!

 ペンタゴンが核戦争による電磁波の効果に耐えうるようにと敷設した「ネットのネット」は、つまりは完成された望遠テレビ電話にほかならない。データも見せてくれるがデジタル信号(電子音声と電子視角)も運ぶものだ。リアルタイムのバーチャルな画像は、旧式の望遠鏡やテレビを通じた遠方の像という原理を揺るがしかねない(3)

自然な忠誠

 たとえば、何千ひいては何百万もの実況用マイクロカメラが、世界のあちこちに設置されたとしよう。各地でそんな風になれば、何かとんでもない事件が遠くの国で起こった時、テレビの速報や夜のニュースを待つのにうんざりしたネットワーカーは、その場所のウェブ・カメラのサイトに行って、今そこで何が起こっているのかを観ようとするだろう。

 記者は記者で、現場のレポーターに頼らずとも事件を語るようになるだろう‥‥ ニュースを知るために新聞が刷り上がるのを待つこともなくなり、ラジオやテレビを点けて、世界地図上の関連地域のウェブ・サイトを見に行くようになるだろう。まるでスーパーの監視カメラの画像を監視員が呼び出すように。あるいはパリの天文学者、観測所に行くのをやめた望遠天文学徒が、チリの観測所の天空を自宅からコンピューターの力を借りて「望遠観測」するように‥‥

 家庭用望遠監視装置の巨大な視角とは、つまりはこういったものだ。昔も今も軍部と警察という業界の縄張りであったものが、次第に万人の視線と化す。メリットもあるとはいえ、いつでも何処でも、という類から来るリスクもある。「完全に情報化された金融市場の世界で50万台の画面によって、アジアの暴落は各地で実況として起こった」と昨秋に述べたフランスのトレーダーがいる。

 だが、世界中に散らばった50万いや500万台のライブ・カメラを、何千万のネットワーカーが瞬時に自分の画面で見るようになれば、画像史上初の視覚の暴落に立ち会うこととなろう。そして「望遠画像」を自認するテレビに代わって望遠監視装置が普及した世界で、あの金融市場のバーチャルな「バブル」に代わって、集合想像界にバーチャルな「バブル」が現われるだろう。すでに50年代にアルバート・アインシュタイン自らが予言した例の情報処理爆弾の爆発の危険とともに。

 グローバル化された各種の金融市場で拡大する非合理が、かくして集合想像界のグローバリゼーションにもお出ましとなるだろう。ロドニー・キング事件やシンプソン訴訟やダイアナ事件の張本人であった旧式テレビの増幅効果が、世界望遠監視装置が相互作用することによって限りなく高められるからだ。

 「個人の主体化が同一方向で進むと、世界景気は不安定となる」と、国立学術センターのアナリストのアンドレ・オルレアンは最近のアジアの暴落に関して書いた。「個人の行動が合理的であれば、全体は非合理的になる(4)」。来たるべき世界広告の躍進のゆえんである。

 太古の昔から支配的であった各地ごとの時間を世界時間(実況)が圧倒するようになった時が、インタラクティブ広告の発展の時であり、さらに恐るべき比較広告の世にもなろう。欧州委員会が許可しつつあるものだが、商売がたきを極刑に付すことで、取引はまさに内戦、ゲリラになる。

 このようにグローバリゼーションが極限まで体制化された状況では、広告スペースとは、映画の途中やテレビのスポットというスペースではなく、あらゆる放送通信が飛び交う現実の時空にほかならないのだ。

 「放送通信は視覚対象を取引する市場になる。画像のみが商品となるからだ」とベルナール・ノエルは書いた。「この市場は経済全体を含むのだが、完全に機能するためには、画像の自由な流通に対する障害の撤廃を必要とする」(5)。先に述べたような映像の規制緩和にほかならない。「放送通信商品はもはや心理的な商品でしかなく、来たるべき社会は、うべなるかなと肯くばかりのものとなるだろう」。「全体主義体制がイデオロギーによって作りだせなかったものを、放送通信社会が画像取引を通じて実現することになるだろう。自然な忠誠というものを」。ベルナール・ノエルは結論する。そして覗き見の視角がもたらす外観の中が、共通の現実よりもずっと気楽に感じられるようになるのだろう。

 似姿こそを然るべき世界の究極の姿とする狙いは、つまりは外観を代用現実(バーチャル・リアリティ)として置くことである。画像は主体に遭遇し、間には何も介在せず、すべての意味は視覚にあるということになる。インターフェイスという場が、世界という空間の遠くで起きる物事の表面に(リアルタイムで)なるからである。「遭遇が放送通信の座を奪う(6)」。

 そうして、外観の取引の規制緩和がやがて行きつく先は、視線の一瞬の物事、その一瞬に見せられた風景や場所や人々、その一瞬に得られたポスト産業加工物の非現実化である。

失明のおそれ

 リアルタイムの「事故の事故」。ダニエル・アレヴィは50年前に歴史の加速に警鐘を鳴らしたが、いつのまにか現実が加速している! バーチャルなインフレは、商品経済、金融「バブル」のみならず、我々の世界との関係の意味にも関わっている。それゆえシステムのリスクというものも、(アジアにおけるような)企業や銀行の連鎖的倒産に限られはしない。さらに恐るべき失明のおそれ、人類の集団失明のおそれ、事実が敗北し、我々が現実との関係を見失うという、これまでにない事態が起こり得るのだ。

 現象の倒産、視覚の暴落。そこから利益を出すのは、情報操作(経済的なものであれ政治的なものであれ)のみに違いない。アナログはデジタルに栄光の座を明け渡し、データの圧縮は我々の現実との関係を加速、つまり玉突衝突させる。感じられる外観がますます貧困になるのと引き換えに、である。

 かくして情報(視覚・聴覚・触角・嗅覚情報)のデジタル化の進展は、直接感覚の衰退と対をなし、近くのもののアナログの似顔よりも、遠く、はるか遠くのもののデジタルのまやかしが幅を利かせるようになっている‥‥

(本稿は、ヴァランスで開かれたシンポジウム「バラバラになったテレビ」における、1997年12月7日の発表の再録である。)

(1) 「くまなき世界」(ル・モンド・ディプロマティーク1997年8月号)。
(2) BBCのニュース番組「ニュース24」の開始など。
(3) 応用光学の成果による、コンピューター利用の望遠天文学の実現。
(4) ル・モンド、1997年11月5日号。
(5) ベルナール・ノエル「心理的去勢」(POL出版社、パリ、1997年)。
(6) 同上。


(1998年3月号)

All rights reserved, 1998, Le Monde diplomatique + Saito Kagumi

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