サパティスタの大転回 - 武力闘争から社会認知へと

モーリス・ナジュマン(Maurice Najman)
ジャーナリスト、パリ在住

訳・斎藤かぐみ

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 ラテン・アメリカのゲリラは活動状態なのか休眠状態なのか? 昨年12月18日のトゥパク・アマル革命運動(MRTA)のコマンド部隊によるリマの日本大使館公邸突入事件は、コロンビアにおける暴力行動の再燃と符合しており、経済自由放任主義が猛威をふるう中で、衰退したと思われていた闘争方式が再発していることを如実に示している。同じ頃グアテマラでは(エル・サルバドルの前例のように)、30年間にわたり10万人近くの死者を出した内戦の終結協定が、政府とゲリラの間で調印された。1994年1月に出現したメキシコのサパティスタ人民解放軍(EZLN)は、こういった地域情勢の中で特異な位置を占める。他の武装行動と一線を画するサパティスタの試みは、本当の意味での大衆運動を新たに盛りあげるための独自の道をメキシコ市民社会に示そうとすることなのである。[訳出]

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 「自主闘争」の代わりに「制度左翼」や「ブルジョア左翼」との国際的連携を求めるEZLNは、農民革命を志したサパタ主義の本筋を踏みはずそうとしているのだろうか? EZLN代表団の初の外国訪問となった最近のパリ訪問の際には、単なる活動家の連帯ネットワークを超えた政治的関係をつくっていくことが強調されていた。

 こういった「外交攻勢」について、エロリアーガ、ベナビデス両氏(1)がマルコス副司令官と「先住民革命地下委員会」(2)から受けていた政治的任務は明確だった。メキシコ軍の包囲をゆるめさせ、孤立状態を打破し、チアパスの山林でゲットー化してしまった運動に「一息つかせる」ためには、世界の「有力な政治勢力や組合勢力」との直接の政治対話に手をつける必要があった。

 今世紀はじめに起こったサパタ主義は、長い歴史の中で3度めの変革期に入ったのだった。

 「1994年1月12日、我々はメキシコ社会のメッセージに耳を傾けた上で戦略を選んだ。武装部隊を新たな政治勢力に変貌させ、実際に平和的移行、民主制に道を開くことを目指すことにした」とマルコス副司令官の特使はよどみなく説明した。

 その後の民主国民会議(3)を起点とした国民解放運動結成の試み(4)は失敗に終わり、政府とのサン・アンドレス和平交渉も凍結(昨年9月)されたことで、政治的に手詰まりとなり、市民社会の支持も相対的に(とはいえ現実として)低下してきた。壁にぶつかったサパタ主義は、自己の価値観と原則に忠実でありながら政治の実践の上では現実的であって、新たな方向転換を実行した。

 マルコスの表現を用いれば「新サパタ主義」から「ポスト・サパタ主義」への移行期、ということになるのだろうか? 単なる戦術上の動きなのか、それとも運動自体を変貌させるような「転回」が始まったのか? 市民社会との対話。権力を拒否しつつ市民の「場」を、彼らが「コントロールする」コミュニティだけのためではなく万人のために獲得するための闘争。インディオをはじめとする社会から取り残された人々の要求実現のための政府との交渉。こうしてサパタ主義は、革命左翼の「前衛的」実践にはっきりと背を向けた。「軍隊であることをやめることを目的とした軍隊」たるEZLNは、斬新な言葉で政治を語り、過激派・改革派を含めた左翼の教条主義・セクト主義とは隔絶した実践を通じて、政界・組合・民間団体から広汎な関心と支持を獲得してのけた。理想もなく夢に飢えた若者や、活動にうんざりした元活動家については言うまでもない。

参加型の民主社会をめざして

 チアパスのインディオの司令官たちが挑んでいるのは、歴史の流れ(決着がついたと言われている)を変えるための闘争、21世紀の急進性(ないしは革命)の創造という、これまでも可能であったことを立証することにほかならない。

 サパティスタのアプローチは、倫理や政治美学でもある。「戦線」以前に価値観があり、声明の代わりに「包括をめざす」対話がある。委任者たる民衆に忠誠を誓い(サパティスタの村の「民主コミュニティ」の不可侵の原則である、例の「服従しつつ指導する」という原則)、国家にも似た垂直的な政党組織、「政治社会」、見かけは「代表制の」民主制などへのフェティシズムに代えて、水平的な市民社会、「参加型の」民主制に価値を置く。

 まさにコペルニクス的転回である! 社会学者のツレーヌは「人間性のために新経済自由主義に反対する大陸間会議」(5)に参加して感服し、この「認識論的断絶」の基礎をなす二大原則に着目した。一つめは、「社会性」ならびに社会を担う人々を中心に置く「新社会運動」である。二つめは、社会の中で単体・個人・コミュニティ・普遍性を関係づけたり、人々の権利と普遍的権利を考えたりする方法の独創性である。

 ツレーヌは、大胆にもマルコスをキング牧師やマンデラ大統領と比べる。彼らの闘争も権力のためではなく、社会から取り残された人々の政治的・社会的権利を防衛・獲得するためのものだった。そのために必須だったのが、コミュニティの自主組織を重視し、非暴力運動を通じて市民に「場」を開き、国民の自覚を高め、被統治者と統治者との関係を変容させることだった。EZLNの士官や兵士が携帯している(があまり使われない)武器とは、インディオ社会の声を聞かせるための手段を尽くしたあげくの最後の手段だったのである。

 数日間の激しい戦闘を経た1994年1月12日に、サパティスタの司令部に驚くべき情報が達した。政府が停戦を宣言し、恩赦と対話開始を提案しているというのである。「存在するとも思っていなかった新勢力が出現していた。『対話』を求めているのは政府ではなく、我々がともに闘うように呼びかけていた当の民衆であることがわかった」とマルコスは述べる。この市民社会との出会いから、新サパタ主義が生まれた。

 経済的・社会的難局の中から民間団体、委員会、自主社会運動、都市や農村部の非政府組織(NGO)の層が生成しているという発見は、蜂起軍にとっては目からウロコが落ちるようなものだった。こういった世界観の変革によって、彼らが当時も金科玉条としていたマルクス・レーニン主義の「階級論的」レトリックのかげに隠そうとしていた特異性が徹底的に追求されることになった。あいまいな用語でかろうじて表現されていた先住民というテーマが、今や中心的なものとなった。ためらいがなかったわけではない。「同志が求めていたのは、この闘争が国民的なものであることを打ちだすことだった。民族色を強調しすぎれば、インディオ以外の者は他人事のように感じるだろう」といった議論も、最初のラカンドン密林宣言(6)の起草の際に出ていた。

 「こういった特殊な関心が私の草稿に大きな位置を占めるようになると、『これでは我々の運動がチアパスのインディオだけのものと思われて孤立してしまう』と言う者もいた」とマルコスは語る。闘争に民族色を与えることは、絶えざる闘争と抵抗の過去を喚起するものではあるが、残虐な内紛と敗北の過去も喚起する、という意見もあった。消極的な意見が相次いだ。「先住民革命地下委員会」が先住民全国会議(7)を全面的に支持することを決定した時にいちばんの疑念を表明したのは、ロス・アルトスの最も伝統あるコミュニティ、つまり「EZLNの中でも最もインディオの多い地域」だった。パラドックスを愛するマルコスは、このパラドックスも楽しんだには違いない。

 「こんな風に人類全体、万人を包む普遍的価値観に訴える我々のやり方が生まれた。特異性に根ざすほど、万人に開かれていくのだ」とマルコスは強調する。先住民がメキシコ人全体にもたらす何か独特なものがあるとすれば、それは組織・闘争・思考の方法である。「1994年中で最も我々のためになり、我々の闘争の意義をよく解説してくれたのは、マルコスの声明や談話や手紙ではなく、コミュニティを訪れたジャーナリストによる報道だ」とマルコスは述べる。ゲリラの覆面の背後に隠れていたものに人々の目が開かれる。自治組織をつくるコミュニティ、自分たちのものとは違った世界、特異な政治・社会組織、こうやって抵抗のうちに生きのびてきた世界である。社会の周辺グループを超えて激しい衝撃が波及した。

 1988年の大統領選でのカルデナス左派統一候補の奪われた勝利は、10年を経た今でも記念碑的事件として語られることになる市民の抵抗運動を招いた。右派ではカトリック系の国民行動党が近代的保守派集団として再生し、中・上流階級の不満を代弁するようになった。サリナス前大統領一家の腐敗、現在はアメリカに収監されている大統領の弟の麻薬取引への関与、内紛の清算のために政治家の暗殺も辞さない政体のマフィア化、サリナス前大統領の逃亡(現在はアイルランドに亡命)などによって、政府は麻痺状態という雰囲気になっていた。サパティスタはこれを利用したのである。

足元をかためる

 広がる同情、「メッセージ」の大きな反響、元は無縁だった市民社会によるサパタ主義「を囲む」・「とともにする」・「を出発点とした」運動は、EZLNとチアパスのインディオのコミュニティの抵抗運動にとって、支援となったばかりでなく変革を迫ることにもなった。「もはや先住民は仲良くするだけの相手ではなく、闘争の仲間にすることもできた」とマルコスは分析する。そうは言っても「すぐには方向転換の措置はとられなかった。我々の物の考え方は、依然としてEZLNサパタ主義、武装サパタ主義にどっぷりつかっていた。まったく新しいものを知らず知らずのうちに築いてきたことが、よくわかっていなかった。『市民サパタ主義』という、政治的にも社会的にも将来計画の上でも、形式も内容も定義されていないものが、自律的に有機的に、国際的にも息づきはじめていた。武装サパタ主義と市民サパタ主義とを同等な関係にもっていくためには、我々の言動を変えていくことが必要になった」。

 マルコスの言葉によれば「もはやEZLNのものとは違った、少なくともEZLNのものに限られない、社会の他の様々な側面・伝統・闘争形式を含んだサパタ主義が語られるようになった」のは、EZLNが民主国民会議を招集した時点からである。サパタ主義は、「相互に作用する3つの要素」から成る複合運動となる。再びマルコス副司令官の言葉を借りると、第一にEZLNがある。戦闘力であると同時に「母体」となるコミュニティであり、外部との連絡はEZLNを通じてのみ行われる。「権威主義、血気にはやる戦闘要員、階級的な軍隊根性などといった、軍隊なるものに共通の、まったく民主的でない特徴を備えたままのサパタ主義である」。

 第二に市民サパタ主義がある。都市に発生し、当初は巨大な連帯委員会といったものだったのが、組織的な政治勢力に変わろうとしているものである。第三に社会サパタ主義がくる。市民サパタ主義に比べ、漠然としたバラバラのものだが広範囲にわたるものであり、組織をつくろうとしたり従来の政治組織や社会集団に属したりしない人々も含み、自主的な社会・文化闘争によって表わされるものである。「さらに『国際サパタ主義』も出現した。去年の夏の『星間』会議は、その広がりとともに混乱をも示すものだった」とマルコスはつけ加えた。

 こうして「ポスト・サパタ主義」とされるものが生まれた。コミュニティとの、「国民解放サパティスタ戦線」を通じて組織されつつある市民サパタ主義との、社会サパタ主義や国際サパタ主義との関係を、EZLNは再定義する必要に迫られたのである。マルコスのまとめるところでは「自分自身との」関係ということになる。EZLNの活動もこれを目標として考えられるようになった。民主国民会議、EZLNの自主政治勢力への転身に120万人が賛成した住民投票(8)、メキシコの様々な活動勢力・知識人・NGO・自主組織との会談などである。「これまで発言の場をもたなかった人々に発言の場を開く」ために政府と交渉することまで考えられるようになった。「先住民の権利と文化」を問題とした交渉であれ、「正義と民主主義」を中心とした交渉であれ、サパティスタとは限らない「アドバイザー」10人あまりに囲まれたサパティスタ代表団が表明するのは、毎回あらかじめ大規模なフォーラムで検討された要求・提案である。

 政府与党の制度的革命党(PRI)は国民の信用を失い、危機に揺さぶられ、様々な - ひいては相いれない - 立場を主張する派閥に分裂していたが、状況への対応を迫られていた。最も反動的な派閥は、武装勢力増大を理由に、銃撃を進めて挑発に出た。これに対して主流派の「近代化」勢力は、政権の将来がかかっているという認識に立って、動揺する政体のイメージを刷新するための行動に出た。すなわち二大野党(革命民主党および国民行動党)の合意を得て、限定的改革とはいえ、サパティスタ提案の「国家改革」の検討を封じるという一大長所をもった「選挙改革」のための協定を締結したのである。

 「政府の行ったことは、決定に加わる者の範囲を少しばかり広げただけのこと。EZLNや自主組織に向けられたメッセージは明らかだ。この国で政治を行いたければ我々とともに、我々が決めた枠組みの中で、我々のルールを受けいれなければならない、と言いたいのだ」。つまり政府の選挙改革は、マルコスにとっては「権力のための権力改革」であり、社会は相変わらず政治から除外されている。

 だが政府の戦術は功を奏した。経済危機も手伝って、市民社会は疲れ果てていた。大規模で目立つような軍の展開もないままに軍事コントロールが拡大された。和平交渉は長引いていった。チアパスのインディオのコミュニティの支援基金には格差がつけられ、コミュニティ間の分裂がはかられた。 「星間会議」(メキシコ人やラテン・アメリカの人々の参加は少なかった)が終わると、EZLNの道はせばまっていった。急速な成長を期待された「国民解放サパティスタ戦線」の発展も、下方修正せざるを得なかった。「戦線」の世話人の告白によれば、400あまりの「対話委員会」が設けられたが、シンパの若者の大々的な組織化には至らず、1994年1月の蜂起で「目覚めた」活動家を集めただけだった。「戦線」の戦略も将来計画も構想があいまいなままで、小規模活動のメリットであるはずの方向性や組織のまとまりにも欠けていた。

 おさまりの悪さ、詩情に満ちた将来計画、政治的な話術(9)といった、ずっと運動の特色と魅力をなしていたものが、今や障害に変わりはじめていた。「多様な世界に対して寛容でオープンな立場を保つのはいいが、そろそろ具体的な政策案を考える時だ。この意味で覆面ゲリラ活動には限界がある」とELZNスポークスマンは解説している。

 状況はまさに次のようなものである。「メキシコ国家の領土の一部に我々が権力を有している、という状況が持続することには無理がある。こうした状況が一般化するか、さもなくば我々がつぶされるかだ。だが一般化のきざしは見えない。戦闘を行わないまま武装勢力としてとどまることはできない。かといって、開かれた政治活動には合法性が必要であり、非合法の政治勢力にとどまることもできない」。両極の間はますます開こうとしている。EZLNはどちらかの道を選び、その帰結をきっちり引き受けなくてはならない。選ばないことは危険をである。「はっきりしなさすぎたせいで、もう誰も共鳴してくれない」。

腹のくくり時

 何らかの「定義」を求める声が高まれば、すぐにEZLN内部の矛盾が現われ、ついには分裂をもたらしかねない。今のところ少なくともはっきりとした声は上がっていないが、そういった声がないわけではない。今まではマルコスの戦術の才がバランスを保ってきた。袋小路におちいっても行うべきことやチャレンジすべきことを必ず見つけ、組織をひきしめると同時に政府や社会の度肝をぬき、当面の戦略的優位をキープしてくることができた。だが、ひらめきが毎日のように出てくるわけもない‥‥

 マルコス副司令官自身が考えるように、「各グループがたとえば民族単位で軍事的にも政治的にも勝手に動きだして、チョル軍だのツォツィル軍だのトホラバル軍だのツェルタル軍だのが生まれるためには」政府がマルコスを暗殺させれば(エミリアノ・サパタ自身1919年に暗殺された)すむことだ。「バルカン化」の傾向は、様々なインディオ民族の間の何世紀にもわたる対立の伝統の中に見られる。全民族を集めた「先住民革命地下委員会」が、初めてこれを乗り越えていたのだ。 だが「選ぶ」ことは容易ではない。「以前の我々のような軍事勢力、人民革命軍のようなものに戻ることは無理だし、望みもしない。だが革命民主党のような伝統的政治勢力と化すのも願い下げだ。我々の『定義』を、政治勢力というか旧来の軍政勢力の定義、うのみにしろと迫るような明々白々の教義としようとは思わない」とマルコスは言う。

 時間は迫っている。後退する市民社会と癒着した政治社会の間にはさまれたサパタ主義は、変革を急がなければならない。「息を楽にする」ためには、なじみもなければリーダーに知識もない、政治という分野での行動が必要となる。インディオのコミュニティの政治的・法的・文化的自治に関する協定がサン・アンドレス和平交渉の第一段階で調印されていたが、これを法制化するための憲法改正法案が早期に議会を通過しなければ、いくつかの先住民コミュニティを皮切りとして多くの支持者が平和的手段に背を向けて人民革命軍の「はえぬき」に合流する危険のあることも意識されている。連中は孤立している(操作されていると言う者もいる)ため、辺境地帯に根城をもつのである。

 昨年10月はじめの「先住民全国会議」の作業の途中で感じられた可能性がある。現在のメキシコの住民の中で最も意識が高く、よく組織され、闘争心に富んでいるのは、インディオ民族であることが会議で示された。会議の代表となっていた57民族の代表者300人からなる組織こそ、他の勢力を結集させる唯一の核となりうる。この展望は、全国的構想の下に全勢力を平等な資格で結集させようとするEZLNの努力とは逆を行くものである。

 そこで、エロリアーガ氏の言うところの「尊厳ある公正な和平のための全国対話」の提案が出てくる。「現実の国情を正しく把握した上で国民全体のための代替案を策定すべく、幅広いコンセンサスをつくりだす」ことが「対話」の目的である。「和平のための会議」という形で近々「対話」が実現される予定だが、サパティスタが呼びかけているのは「敵も含めた」万人に対してだということを世話人は強調する。「政治や民主制や権力についての我々の信念に従えば、敵も、抹殺の対象でない限りは、国民的問題の解決の当事者と考えられる」のである。

 PRIは難局にあり、サパティスタ蜂起の残響も遠くに聞こえている。政治家や学者の周辺には「中道左派」が集まっている。現状は悪化しつつあり、暴力的デモ、軍事衝突、抑圧が始まるおそれがある。状況がこうなってくると、「対話」の大胆な展望も信憑性を帯びてくる。「これか内戦か、いずれかだ!」というのが、フランスを訪れたEZLN代表の予想である。

(1) 両氏は、1995年2月にメキシコ政府がチアパスへの軍事攻撃を行った際に逮捕され、後に釈放された。(モーリス・ルモワーヌ「チアパスで戦時状態のメキシコ」 ル・モンド・ディプロマティーク1995年3月号)
(2) 1993年末頃に設置され、EZLNの実質的な政治指導部になっている。先住民のみで構成され(チアパス州の主要な民族は7つ)、各コミュニティを直接に代表する。マルコス副司令官は、政治的役割が目立つとはいえ、広報官および軍事行動指揮官としての権限しかもたない。
(3) アグアスカリエンテスと改名されたグアダルーペ・テペヤクで1994年8月に開かれ、政治組織・組合・民間団体の代表者5000人以上と100人あまりの個人が参加した。
(4) 民主国民会議の際にELZNを代表してマルコスが結成を提案した。
(5) 昨年8月4日にチアパスで開かれ、40あまりの国から3000あまりの代表が集まった。(ル・モンド・ディプロマティーク1996年8月号)
(6) 「ヤー・バスタ!」と題された1994年1月1日付の文書
(7) 昨年10月8-12日に開かれた。
(8) 1995年8月27日にサパティスタによって組織された。
(9) 1994年10月から昨年1月までの間に公表された「先住民革命地下委員会」とマルコス副司令官の全声明は、「ヤー・バスタ! サパティスタのインターナショナルに向けて」(ダゴルノ社、パリ、1996年)に収録されている。


(1997年1月号)

All rights reserved, 1997, Le Monde diplomatique + Saito Kagumi

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