忘れられた東ティモール闘争 - 今でも続く軍事占領

ジャン・ピエール・カトリー(Jean-Pierre Catry)
「東ティモール和平は可能」協会リーダー

訳・斎藤かぐみ

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 1996年度のノーベル平和賞の受賞者は、10月11日に東ティモールのカルロス・ベロ司教とティモール闘争の代弁者ジョゼ・ラモス・ホルタ氏に決定した。この決定は、20年以上におよぶ東ティモール紛争を忘却から呼びさました。ノーベル賞委員会の発表で特筆されていたのは、インドネシア軍の占領によって人口の3分の1が命を失ったという事実である。[訳出]

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 1955年のバンドン会議(1)の時に植民地の独立を高らかにうたっていたインドネシアは、それから20年後、宗主国ポルトガルからの独立を目指していた弱小な東ティモール(1974年の人口はインドネシアの1億6000万に対して68万)を侵略した。だがインドネシア軍は、意外にも強い抵抗に合うことになった。

 推定で人口の5分の4が山岳地帯に逃れ、東ティモール独立革命戦線(フレテリン)が地下闘争を組織した。ティモール人の居住地域は爆撃され、耕作地は片っぱしからつぶされたため、住民は移動から移動へと追いたてられ、飢えて疲れた難民と化していった。1977年になると、追いつめられた人々が帰順を始める一方で、地下闘争を続けるティモール人を捕えるべく、インドネシア軍の大包囲作戦が行われた(2)。虐殺は多数にのぼった。

 1981年のインドネシア宗教指導者会議の際、ティモールの宗教関係者は「過去6年にわたり、20万人以上もの犠牲者を出した東ティモールの悲劇」を糾弾した。20万という数字は人口の3分の1近くに当たる(3)

抗議には抑圧を

 繰り返される虐殺を前に、1989年にはカルロス・ベロ司教は国連事務総長に対して「我々は人間としても民族としても死に絶えつつあります(4)」と支援を訴えかけ、ティモールの将来をティモール人が決めるための住民投票を組織することを求めた。1991年11月、数日前にインドネシア軍に殺された若者の墓のあるサンタ・クルス墓地へのデモ行進が静かに行われていたが、インドネシア軍の介入によって、死者271人、負傷者382人、行方不明者250人の惨事となった‥‥(5)。それからも抑圧は絶えず、1992年にはティモール抵抗運動のリーダーのシャナナ・グスマオ氏が逮捕された(6)

 東ティモールの悲劇の根源は、あらゆる民族に認められ、インドネシア政府自身も尊重すると約束したはずの権利が尊重されていないことにある。インドネシア国連大使は「ティモールの東半分の主権は主張しないことを(中略)はっきりと宣言する」と、1961年にも1962年にも明言してはいなかったか。マリク外相によるラモス・ホルタ氏宛ての1974年の書簡でも、「独立はあらゆる民族の権利であり、東ティモールも例外ではない」ことが確認されていた(7)

 この権利は、国際社会にとって議論の余地のないものである。国連安全保障理事会は1975年12月に、「何人にも譲ることのできない東ティモール民族の自治と独立の権利を認める」決議を満場一致で可決し、「インドネシア政府は即時撤退すること」を求めた(8)。侵略への同意をひそかに与えていたアメリカ(9) - ヴェトナム戦争末期でインドネシアは同盟国 - も、決議には賛成投票を行うほかなかった。国連総会は先に圧倒的多数(72ヵ国)でインドネシア政府に対して「ポルトガル領ティモールの領土侵犯を停止するよう」求めており、これに反対したのは10ヵ国にすぎなかった(10)。国連は現在でも公式にはティモールを「ポルトガル統治下の自治領」と見なしている(11)

 しかしながら、東南アジアの大国インドネシアとの良好な経済関係の発展を最大の関心事としていた主要国は、またたく間にティモール人とその権利のことを忘れていった。最初の国連決議から半年後に安全保障理事会が同様の決議を行ったところ、アメリカと日本は棄権に回った。

 1982年までの国連総会の決議はすべて、東ティモールの「何人にも譲ることのできない自治権」に触れ、当地の「人々の苦しみに対する深い懸念」を表明している。これら決議に関して、アメリカと日本は一貫して反対、ヨーロッパの大国は棄権、オーストラリアにいたっては東ティモールのインドネシア統合を法的に認めるまでになっている。インドネシアの有力な同盟諸国は、彼らのパートナーシップを妨害したり共同案件の進行を邪魔したりするような具体的措置が何もとられることがないようにと、目を光らせている。

 国連総会によって採択された決議には効果が見られず、ティモール支援グループは崩壊してしまった。1982年には国連憲章をティモールに適用することを支持する国が過半数割れとなるおそれが出てきたため、総会は事務総長に問題を委任した。事務総長の任務は、直接当事者(インドネシア、ポルトガル、ティモール)を会談の席に着かせることだった。事務総長による仲介も総会決議より効果的なものとは言えなかった。同盟国の支持に力を得たインドネシアは、ティモールが会談の席に着くことを認めようとはしなかった。会談はひき続き1991年まで行われたが意味のある成果は得られず、インドネシア政府が問題の根本に触れることを拒否したために脇道的な問題しかあつかわれなかった。

 規模としては過去の事件と大差のなかった1991年のサンタ・クルスの虐殺事件で何が特別だったかと言えば、報道関係者などの外国人の目の前で起こり、彼らの一人が事件の一部を撮影したことである。虐殺の映像は視聴者の怒りを呼び、腰を上げざるを得なくなった外国政府もあった。

 サンタ・クルスの虐殺を、インドネシア政府は軽率にも「嘆かわしい事件」と表現し、死者は19人のみとした。だが国連人権委員会はインドネシア政府に対して、他の情報筋との被害者数の違いを明らかにするように求めた。インドネシア政府は死者・行方不明者数についての情報提供を形式的には約束したが、約束を守りはしなかった。

 国連決議を尊重し、事務総長に協力することをインドネシア政府に求めるためには、アパルトヘイト時代の南アフリカ(またイラク・イラン・リビア・キューバ)に対して行ったように、大国は経済制裁という手段に訴えることもできた。だが経済制裁は自粛されたどころか、インドネシアに対する日本および欧州連合(EU)の経済援助は1993年には16億8000万ドル(OECDによる)に増額され、ドイツのコール首相はジャカルタを訪問して、10億ドル近くにのぼる経済協定に調印した(12)

 先進国について、対インドネシア貿易を問題にすることは困難であることはラモス・ホルタ氏も承知しているが、少なくとも武器の輸出はやめてくれと訴えている。こういった趣旨の欧州議会の決議も一度ならず行われ、EU各国政府にインドネシアへの「軍備」輸出の停止を求めている(13)。しかしながら武器輸出は減少どころか増大しているのである。スウェーデンでさえ、数年間は中断していたものの最近は再開している。

 東ティモール問題について、ノーベル賞委員会が国際社会の喚起を促したのも道理である。この警鐘に、耳は傾けられたのだろうか? アメリカ国務省報道官は「ノーベル賞受賞によって東ティモール問題が解決に向かう希望」を表明しつつも、「有効な自決行為がなかったことは認めるが、ティモールはインドネシアに統合されていると認めている」と付け加えた(14)。アメリカの二枚舌を煎じつめたような言い回しである。

いずれは住民投票を

 グスマオ氏の和平プランが、ラモス・ホルタ氏によって3年前に国連に紹介されている。段階式解決を旨とし、インドネシアが面目を失わずにティモールの泥沼から出られるようにと配慮されている。インドネシアの撤退は6年から12年をかけて行われ、ティモールの地位に関する住民投票といった政治的にデリケートな選択は、最終段階で行われることになる。第1段階では、インドネシアは駐留軍を減らし、行政機構を少しずつティモール人の手に移していく。国連事務総長代理が協定の履行を監視し、人道援助機関が住民の生活を援助する。

 第2段階では、ティモールは国内自治領の地位を獲得し、ティモールの政党が合法化され、地方議会と知事の選挙が行われる。ティモールの最終的な政治的地位についての住民投票の実施は、第3段階になってからである。

 インドネシアにとって、東ティモールは死活問題ではない。東ティモールは政治的・文化的に異質な集団であり、インドネシア経済にとっても取るに足らない。問題が非常に困難なものとなっているのは、現インドネシア政府の上層部が東ティモールの軍事的併合に個人的に関与していたため、いまさら後に引くと厄介だからである。とはいえ、スハルト大統領の治世は終わりに近づき、後継者争いも始まっている。ノーベル賞選考委員会による平和賞決定という好材料は、ちょうどインドネシア情勢が変化しつつある時期に投げこまれたのである。

(1) 1955年4月18-24日にジャワ島でアフリカ・アジア29ヵ国を集めて開かれたバンドン会議は、第三世界諸国の自立を印象づけ、反植民地闘争にはずみを与えた。
(2) ラモス・ホルタ氏によると、1000人程度のゲリラに対してインドネシア軍が動員した兵士は3万人、うち5000人は特殊部隊要員であった(International Herald Tribune 1996年10月12-13日号)。従来は別の筋により5万人とされていた。
(3) ティモール聖職者の共同書簡(1981年7月)。
(4) デクエヤル前事務総長に宛てた1989年2月6日付の書簡。
(5) 犠牲者名のリストは次の小冊子に公表されている。「サンタ・クルス後の東ティモール」(A Paz e possvel em Timor-Leste, Lisbon, 1993年)。
(6) ジャン・ピエール・カトリー「東ティモールは国際法の適用外なのか?」(ル・モンド・ディプロマティーク1993年1月号)。
(7) マリク外相の1974年6月17日付の書簡。
(8) 1975年12月22日付決議384号。
(9) オーストラリアで公表された同国のウールコット在インドネシア大使の電報、および1990年に "The Nation"(New York)に公表されたキッシンジャー長官の1975年12月18日付国務省ミーティング議事録。
(10) 1975年12月12日付決議3485号。
(11) 「東ティモールの20年の占領、20年の抵抗」(Timor Informations 第71-72号特別付録, 1996年9月)。
(12) Publico 1996年10月29日号, Lisbon。
(13) 1988年9月に賛成164、反対12、棄権15をもって採択された決議。
(14) Publico 1996年10月12日号, Lisbon。


(1996年12月号)

* 筆者名のカタカナ表記「ピエル」を「ピエール」に訂正(2003年7月27日)

All rights reserved, 1996, Le Monde diplomatique + Saito Kagumi

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