科学ジャーナリズムの「お約束」

シュラン・エルクマン(Suren Erkman)
科学ジャーナリスト

訳・斎藤かぐみ

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 温室効果によるリスクに大衆が目を開いたのは、1988年のことだった。なぜ1988年だったのか? 温室効果についての重要な科学的発見でもあったのか? 急激な温度上昇が起こったのか? いや、夏にアメリカを襲った大干魃がマスコミに大々的に報じられ、その原因が単純に温室効果に結びつけられただけのことだった(1)

 気候変化に関する政府間専門家グループの報告書の中に、人間のせいで気候が変化している可能性があると明白に記されている、という事実が昨年9月のニューヨーク・タイムズ紙によって「暴露」され、インターネットで発見されたという「秘密」文書も引用された(2)。実はこの文書は同グループの事務局で従来より入手可能なものだったのだが、同紙のスクープは多くのマスコミに取りあげられた。その一方、今年公表された3巻からなる完全版の報告書に対してはマスコミの注意はほとんど向けられず、簡単に「料理」されただけで終わってしまった。

 上の2つの例によって、科学技術の報道という問題が提起される(3)。技術がますます政治的な選択を左右するようになっている社会では、専門ジャーナリストには二重の役割がある。研究の進展をわかりやすく説明する(これは科学者の役割でもある)とともに、距離を置いて公正に、その経済的・政治的・社会的意義を解説する役割である。科学の動向を社会に知らしめ、解釈をほどこし、広汎な議論の対象とするのである。様々な観点を平等な立場で対比することが理想的である。

 だがマスコミは、知識に基いた大衆の意見形成に役立つどころか、かえって混乱させていることが多い。ジャーナリストの科学的知識に問題があるわけではなく、原因の一部は、広告やらセンセーショナリズムの誘惑やらといった、社会や経済の上での昔からの「お約束」にある。さらに強力なのが、文化や制度の上の「お約束」である。はっきりとは見えにくいが、少数のメディアに研究の発表チャンネルが牛耳られているところに原因がある。

大手マスコミの自主性のなさ

 世界的規模で大衆に知らされるべきテーマを決めるのは、科学雑誌サイエンス(ワシントン)、ネイチャー(ロンドン) - 医学分野ではニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(ボストン)、ザ・ランセット(ロンドン)が加わる - である。新聞社には次号の詳細な概要が届けられ、いくつかの記事が後押しされる。だが一般誌の大半は、通信社やアメリカの一部マスコミ(ザ・ニューヨーク・タイムズ、ザ・ワシントン・ポスト、タイムズ、ニューズウィーク)の記事に基き、時には不完全・不正確な形でサイエンス誌やネイチャー誌の内容を伝えるにとどまっている。世界的な情報の流れが階層構造になっているという事実が、ここに生々しく反映されている。

 「お約束」はそれだけではない。科学的テーマは、よく「理性」を目指す人間精神の進歩の物語、「真実」を探求する学者の英雄物語のように語られる。逆に科学や技術が悪玉とされることもある。ジャーナリストに求められるのは、技術の進歩(逆にその弊害)の大義を主張することである。マスコミに対して研究所や大学が当然のように期待しているのは、研究予算の増額を原則として支援すること、大プロジェクトに熱狂すること、目先のことしか考えない政治家、頭の堅い軍人、感情的になりすぎる大衆から高潔なる研究機関を守ることである‥‥

 多くの科学プロジェクトは強気で楽観的な調子で提案されるが、政治的・財政的に重大な結果をもたらす。50年代に構想された加速器連結型原子炉の一種「ルビアトロン」が、最近カルト・ルビア(1984年のノーベル物理学賞を受賞したイタリア人研究者)の手で欧州合同原子核研究機関(CERN)で日の目を見るようになったのも、マスコミの力によるところが大きい。多くのプロジェクトの予算獲得も、大体が一般誌による情緒的な盛り上げのおかげである。一般誌は資料に基いた議論をしない。プロジェクトへの激しい反対が専門誌に発表されても目もくれず、大衆には何も知らせないままなのである。

 研究者はというと、自分たちに批判や不信が向けられると、概してマスコミや大衆の理解のなさ、専門家からの発信のまずさのせいにする。彼らが繰り返すのは、「大衆が本当に理解していたら」「研究者が正しくメッセージを伝えていたら」というセリフであり、まるで進歩は無条件で受けいれられるべきであると言わんばかりである。こういった態度が原子力やバイオテクノロジーの責任者の根本にあるために、何か言われるとすぐ、感情的だの非合理的だのと言い返すわけである。

 こういった心構えの格好の例は、1958年に公表された世界保健機関(WHO)のいわくつきの報告書「原子力の平和的利用のもたらす精神衛生の問題」であろう(4)。原子力への反対は無理解、子供じみた非合理的な悩み、ひいては精神障害によるものであると、専門家が断言している。この記述にマスコミは特段の注意を払い、「教育的矯正」の必要性が語られた。

 どんな方法で、どんなスタイルで、どう形容して科学情報を伝えるかという問題は、それゆえ産業社会における民主主義なる問題の痛い所を突いている。科学情報の大衆化のためには、研究機関の権力闘争を批判したり、科学をニーズに合わせることを迫ったりするだけでは不充分である。マスコミが科学にもっとスペースを割くように求めたり、ジャーナリストの力不足を嘆いたりすることも同様である。ジャーナリストに実際に知識が不足していることが研究所で嘆かれることは多いが、あまり歯切れはよろしくない。研究所にとっては、ジャーナリストが馬鹿正直な熱意をもってくれる方が、本当に力量をもって批判的に距離を置いたりするよりも、科学者特別視の風潮を維持することにつながるから都合がよいのである。理系の学部を出たジャーナリストは、角を立てない態度がしみついていることが多く、つい制度上の「お約束」を守りがちである。

ノーベル賞受賞者と専門家

 マスコミが公益に資するためには、科学技術の発展の意義を紹介する際に、その適切な位置づけを行うことが何よりも必要となろう。まずは様々な発言の場を、研究機関と大衆との複雑な相互関係の中に分類整理して位置づけなければなるまい。様々な役者が「どこから語っているのか」をはっきりさせれば、多くの論争も解決するだろう。たとえばノーベル賞受賞者の発言が専門外の分野のことなら、それだけでありがたがられるということはあるまい。ハルーン・タジエフ氏のようなマスコミの寵児と、オゾン層や気候の正真正銘の専門家を同じ土俵に並べてみるわけにはいかない。科学者の発言といわゆる専門家の発言との区別が必要である(5)

 適切な位置づけとは、科学技術の限界を決定すべきは、限界を絶えず侵犯していく科学技術自体ではない、ということをその場その場で繰り返し確認することでもある。この意味では、政治家・民間団体・法律家・哲学者には等しく責任がある(6)。政治家や大衆を、科学の発展に取り残された無力なものと見なして揶揄することは急いでやめなければならない(7)。ある「産業ドグマ」の大家が言うように、「科学のものでもなく科学が欲してもいない規範的役割の科学への押しつけを避ける(8)」ことにマスコミが役立つためにも。

(1) Newsweek 1988年7月11日号特集記事 "The Green House Effect. Danger: More Hot Summers Ahead"
(2) International Herald Tribune 1995年9月19日号1面のWilliam K. Stevensの記事
(3) ダニエル・ブニュー「科学に試されるマスコミ」(ル・モンド・ディプロマティーク1995年9月号)
(4) WHO技術レポートシリーズ第151号、ジュネーヴ、1958年
(5) フィリップ・ロクプロ「監視下の気候 - 専門家の見解の限界と条件」(エコノミカ社、パリ、1993年)および「緊急事態を避けるために」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年5月号)
(6) パトリシア・ヴァンドラマンおよびジェラール・ヴァランデュック共著「学者のこだま - 科学的コミュニケーションと大衆」(EVOソシエテ社、ブリュッセル、1996年)
(7) マルティーヌ・バレールに捧げられる10月4-5日開催のシンポジウム「科学と権力と民主主義」の議題の一つでもある。
(8) ピエール・ルジャンドル「はかりしれない伝達対象 - 西欧における系統学的原則についての研究」(フェイヤール社、パリ、1985年)および「真実の帝国 - 産業ドグマ空間入門」(フェイヤール社、パリ、1983年)


(1996年10月号)

All rights reserved, 1996-1997, Le Monde diplomatique + Saito Kagumi

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