世界が目をみはるマリの村 - 模範的な成功例

パトリック・クープシュー特派員(Patrick Coupechoux)
ジャーナリスト

訳・斎藤かぐみ

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 西アフリカのマリ共和国の中心部にある小さなサナンコロバ村が、世界中の社会学者・経済学者の注目の的となっている。「北」の諸国でアフリカ開発の希望が失われつつある中、世界はサナンコロバ村の成功に目をみはる。マリとケベックの人々は、保護者然とした通常の援助モデルとは違って、「持てる者」が単なる金の貸し手ではなく、「持たざる者」が援助されているだけではない、新しい協力の形を作りだした。この模範的な成功例を真似する所も現れている。[訳出]

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 目を疑うような光景だ。灌漑され、耕され、穀物と果実に満ちた畑。養蜂のための巣箱。陽光のもと、サナンコロバ村は、きれいで清潔で安楽な様子である。人々の身なりはきちんとしていて、はちきれんばかりに健康である。長老だけが悲惨と絶望の時代を覚えている。何が起こったのだろう? この素晴らしい成功はどう説明できるのだろう?

 すべては1984年に始まった。カナダのケベック州にある人口1500人のセント・エリザベス村の人々と、人口4000人のマリのサナンコロバ村の人々が、両国間の青年交流の機会に出会った。15人のマリの人々が、ケベック州のモントリオールから300キロ北に行った村に3ヶ月間のホームステイに迎えられた。すぐ後に同人数のケベックの人々が、首都バマコから30キロ南にあるサナンコロバ村に迎えられた。人々は2つの村のきずなを深めることに決め、ケベックの姉妹村委員会は、決まった畑を村人みながボランティアで耕して利益をサナンコロバ村の援助にあてることに決めた。

村の団結

 発案はマリの方でも喜んで迎えられた。ここ数年、サナンコロバ村は干魃に苦しみ、若者はコートジボワールやフランスに出て行ってしまった。「女たちは夜は水さがしで、何キロも離れた村まで行くこともあった(1)」と、交流の推進者の1人であったムッサ・コナテ氏は回想する。サナンコロバ村の方でも姉妹村委員会をつくり、長老と各部族に1つ、全部で15ある家長会、つまり伝統的な実力者たちに相談した。

 賢者たちはすぐに納得して「年齢グループ」に呼びかけた。これも伝統的な組織で、同じ年に生まれた男を集め、大きな行事の時には村人を動かす役目をもつものである。今回は1949年生まれの男たちの役目となった。「年齢グループ」自身も、部族・女性グループ・宗教(イスラム)グループなど、他の伝統的な組織に呼びかけた。

 委員会の最初の事務局が、こうして女性5人を含む25人の初顔合わせの人々でつくられた。教師のコナテ氏以外はみな農民で、事務局長は49年グループのズマラ・トラオレ氏になった。何もかも官僚が牛耳っている国でのちょっとした革命だった。

 それぞれの姉妹村委員会を、ケベックの人々は「明日への手」と名づけ、マリの人々は「ベンカディ」と名づけた。バンバラ族のサナンコロバ村の住民のバンバラ語で「よい理解」という意味である(2)。この命名からも、まだはっきりとした形にはなっていなくても、部族も長老も、若者も女も、「貴族」も「カースト民」も、呪術者も鍛冶屋も靴屋も、地元民(村の出身者しか家長にはなれない)も「よそ者」も、村全体を団結させようという意気込みが感じられる。

 村の開発は全員の参加によってのみ成功すると思われた(コナテ氏は堅く信じていた)から、ベンカディもセント・エリザベス村と同様の趣旨の共同農地をつくろうとした。イスラム改宗前に神々がまつられていた「聖なる森」の300ヘクタールが長老たちから譲られた。アワが植えられて、利益はベンカディのものとなることになった。

 1987年にはセント・エリザベス村との関係がはっきりと形になり、コナテ氏がクロード・ジル氏に会いに行った。ジル氏はケベックの姉妹村委員で、教師から農家に転身した人物だった。コナテ氏は、公開集会に参加してサナンコロバ村の暮らしぶりを説明し、30頭の牛、15本のマルチ耕作器(1本で畑を掘り返し、雑草を取り、作物の根に土をかけることのできる鋤)を買ってほしいと頼んだ。依頼状は全部族によって作成されていた。

 サナンコロバ村の農民は、アワとモロコシと少しばかりのトウモロコシを栽培していたが、昔ながらの「ダバ」という小さな鋤を使っていて、耕すのに何日もかかっていた。「女の手も借りなくてはならなかった。それでも、耕し終わった時には、最初の端の方ではもう雑草が生えてたんだ!」と62歳の白いあごひげの農民、ベンカディ委員長のママドゥ・トラオレ氏は言う。ダバでは土の表面をひっかくだけで中に水分を保つことはできず、サナンコロバ村の夢は牛を使った耕作だったのである。

「実力者クラブ」に足を踏み入れた女たち

 コナテ氏とジル氏は金の貸し手を一緒に探した。コナテ氏の説明によると「すぐに問題にぶつかった。コンタクトをとった組織は自分たちに管理もまかせろという条件を出してきたけれど、そんなことは問題外だった」。だがマリに帰る時には、セント・エリザベス村がサインした協定書を持って帰ることができた。中身は、2万5000CFAフラン(3)の銀行振込と、資金探しを続けることの約束だった。広場に集まったベンカディと長老会と村の総会の前で、コナテ氏はカナダ行きの報告を行った。翌年の1988年にケベックの人々は資金を見つけた。ある非政府組織(NGO)が自己管理の原則を認め、最初の15組の牛と鋤が購入された。

 牛と鋤の配分は慣習に従って行われた。「もうベンカディの話ではなくて部族の話になってしまい、結局は長老たちが得をしただけ」と言う者もいたが、ベンカディは受取人に2つの条件を付けた。第一に、共同農地の世話をこまめに進んで行うこと。第二の条件は、取り入れごとに10年間にわたって1万5000CFAフランずつを償却するというもので、受取人の農民は歯がみした。この金が次の牛と鋤を買うための資金となる予定だった。

 「いつもながらの」無償援助に慣れ、ベンカディを信用しない長老たちはこれには反対だった。「長老に逆らおうとするなんて初めてのことだった」とコナテ氏は認める。話し合いの後に妥協点が見つかった。受取人の支払額は最初の年が2500CFAフラン、次の10年間は1万5000CFAフランずつとなった。だが、支払がとどこおりなく行われるためには1990-91年の取り入れまで待たなければならなかった。

 1990年にはケベックの人々は30頭の牛と10本の鋤を買うだけの資金を集めた。ベンカディも10本の鋤と10頭のロバを買い、翌年には最も恵まれていなかった部族に農具を与えて信用を確立した。フランスのボルドー地方のサン・タンドレ・ド・キュブザック村とも姉妹村関係を結び、さらに120頭の牛、60本の鋤、30台の荷車、30頭のロバを手に入れた。

 村の生活はよくなった。59歳の農民、バカリ・トラオレ氏の話では、昔は「1ヘクタール耕すのに20日必要だったが、今では3日で足りる」。家族は飢えていて「指をしゃぶることもあった」が、金のためにトウモロコシやピーナッツを売っていた。今では「メニューを増やしてデザートもつけるための」(4)稲作用の農具を夢見るまでになった。

 村の女たちの方でも、林に果実を集めに行って頭の上に重いカゴをのせて持ち帰り、畑仕事を手伝い、食事の支度をして1時間歩いて男たちに届け、子供の世話をする、といった生活の改善を求めていた。特に大変なのは粉挽きだった。「1日の30%は粉挽きをしてるのよ!」と計算したのは頭を赤いスカーフでおおった62歳のビントゥ・クリバリー夫人、人々の尊敬を集めるベンカディ婦人委員会長である。クリバリー夫人は、粉挽きの重労働を軽くするために風車を3台設置することを提案した。見積もりがなされ、ベンカディに資金調達が求められた。

 カナダ市町村連盟がマリの女たちへの援助を承認した。計画を説明し、風車建設に必要なレンガと人手の部族ごとの割りふりを求めるために、「長老クラブ」に史上初めて女が足を踏み入れることになった。これで、クリバリー夫人によれば「人々が大工仕事に気を散らされることもなく」、45日で風車ができるはずだった。

 風車サービスは熱狂的に迎えられた。ベンカディが決めたアワ挽きの料金は20CFAフラン、トマトの缶詰1個の値段だった。風車の運営は婦人委員会が有志で行った。最初の年の利益は100万CFAフランにのぼった。だが翌年には30万CFAフランに落ちこみ、風車の手入れも悪くなり、よからぬ噂が流れた。ある朝には「52年グループ」の「若衆たち」が風車を襲撃した。「どうしてあんなことをしたかって? 私たちが女だからよ!」とクリバリー夫人は怒り狂った。ベンカディが人々を集めて和解案をさぐり、むこう4ヶ月の間に「52年グループ」が風車サービスの立て直しをはかることになった。

 4ヶ月後にも借金はゼロにはならず、運営有志に非難の矛先が向けられ、風車の半民営化が行われた。管理・維持、燃料の購入、会計は、諸部族から選ばれた管理人にまかされ、ベンカディには固定の賃料が払われることになった。婦人委員会は使用料を決め、監督役となった。当初のごたごたの後、女たちは逆襲した。

 「手からはタコが減り」、風車からは利益があがったため、裁縫、染色、石鹸・美容クリームの製造などの活動が始められ、製品は首都バマコでも売られた。また村の衛生化のために、各部族を地区の清掃責任者に任命した。さらにベンカディに100万CFAフランを貸し付け、食糧確保と最貧者援助のための「穀物銀行」をつくらせた。管理人のドリッサ・トラオレ氏によれば、「倉がからっぽで次の取り入れには間がある9月頃には特に」役立っているとのことである(5)

援助される側の自主性

 ベンカディの活動は、全部族が代表を送る運営委員会によって行われ、自己資金でまかなわれている。牛と荷車の償却を管理する牛耕委員会、婦人委員会、穀物銀行委員会、評価がうなぎ上りの野菜栽培委員会、結婚式やダンスの夕べの音楽を担当する青年委員会、外国の友人を迎えるために特別に設けられた「友情の家」委員会などがあり、それぞれが定期的に会計報告を行い、支出には事務局の承認を受けることになっている。

 ここ10年というもの、ケベックの人々は、うまく利益を出している限り資金探しを助けるだけで口ははさまないようにしている。「人々に責任をもたせようとするやり方で、通常の開発援助とは一線を画している」とコナテ氏はうけ合う。こういったダイナミズムが存在するのは、村の伝統的組織に沿ったアプローチを行ったからである。今日では長老ばかりでなく女も若者も口を出すようになったとはいえ、長老なしでは何も進まないことには変わりはない。コナテ氏は続けて言う。「NGOは欧米モデルを押しつけようとするが、ここではまったく違う。事務局には大勢の人がいるべきだし、そうしないと権力の濫用を疑われるようになる。」こういったことが前代未聞の民主主義、「開発の原動力」(6)を形づくった。

 村全体のために連帯基金が設けられた。3つの教室が建てられ、新しい井戸が掘られ、医療センターが再建され、文字教育が行われるようになり、村の安全を守る民兵までいるようになった。

 サナンコロバ村のやり方を真似する所も出てきた。例のセント・エリザベス村のジル氏が書記長を務める「カナダ海外大学サービス(SUCO)」(7)のおかげで、近隣の4つの村がサナンコロバ村にならってベンカディを発足させた。ただし同じ失敗を繰り返さないように気はつけた。事務局には長老も招かれ、諸部族の任命する監査組織も置かれ、バンバラ語で「ユルク・ユルク」と呼ばれる賄賂、「裏工作」に対抗しようとしている。監査組織はベンガディの会計を常に管理し、メンバーは村の総会と長老の前で誓いを立てる。

 同じ道に進もうとしている村は20前後あり、「よい理解」の連邦となるスーパーベンガディが生まれるのも間もなくだろう。そういった村の一つ、ドゥバン村の「集会の木」の下で、一人の若者がほほえんで言った。「誰が僕たちを止められるって?」

(1) マリを含む北西アフリカ地域は、1972-73年、1987-88年など、飢饉をともなう大干魃に定期的に見まわれている。
(2) バンバラ族はマリで支配的なマンディング族の主要グループである。公用語はフランス語だが、口語の中心はバンバラ語である。
(3) 100CFAフランは約22円に相当する。
(4) 世銀の1995年の調査では、マリは160ヶ国中156位の「最貧国」である。
(5) ヴェロニク・ドナ「北西アフリカ地域の穀物自給のための厳しい戦い」(ル・モンド・ディプロマティーク1995年9月号)
(6) 90年代初頭に大学・高校生を中心にマリで急激に起こった民主化の動きとも、サナンコロバ村の試みは呼応している。カトリーヌ・コクリ・ヴィドロヴィッチ「マリ独裁政治の断末魔」(ル・モンド・ディプロマティーク1991年4月号)、カルメン・バデール「マリ農民の組織化」(ル・モンド・ディプロマティーク1992年9月号)、 ミシェル・ガリ「新たな民主主義、新たな熱望」(ル・モンド・ディプロマティーク1994年8月号)
(7) Service universitaire canadien outre-mer, モントリオール, 電話: +1-514-982-66-22


(1996年8月号)

* 本文中、註番号(3)の挿入もれを訂正(2002年7月26日)
* 筆者名のカタカナ表記「クープシュウ」を「クープシュー」に訂正(2003年7月27日)

* 本文中、註番号(3)の挿入もれを訂正(2002年7月26日)

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