「祖国」に戻る喜びなき香港 - ネズミとウシの大きな違い

ベルナール・カセン特派員(Bernard Cassen)

訳・斎藤かぐみ

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 英国植民地、香港が1997年7月1日に中国へ返還されるまであと1年となった今日、住民の中には将来への不安がある。様々な調査によると、地元の官財界の要人を中心に中国政府が任命した移管準備委員会を、香港住民の大半は信頼していない。英国政庁が土壇場になって譲歩を見せたことで、政治の自由が失われることは確実と思われており、大陸を席捲する政財界癒着が香港特別行政区におよぶことも懸念されている。[訳出]

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 この2月にネズミ年の新年が始まり、翌年の1997年はウシ年となる。7月1日午前0時に中国への返還が行われる年としては、ネズミ年の方が香港住民には好ましかったに違いない。昔話では、小さなネズミはのっそりしたウシと一の座を争って、機転で勝ちとったことになっている。ネズミは ウシに、一緒に道を歩いて通りかかった人たちにどちらが大きいか決めてもらおうと言った。ウシは自信満々で話に乗った。だが、道にいるウシなど見慣れたものだから、誰も気に止めたりはしない。横を歩いているネズミの方が人目を引いた。誰かが「おい、あのでかいネズミを見ろよ」と叫び、そこで勝敗は決した(1)‥‥

 香港ネズミと大陸ウシの場合は、昔話のかけひきのようにはいかず、この大ウシには、どのみち第三者の意見を聞く気などさらさらないのだ。ベルリンの壁崩壊以降の歴史の流れに逆行する中国政府のごり押しは、まったく見上げたものだ。純粋資本主義の権化のような香港社会を、議会代表制民主主義というアヘンを味わいはじめてしまった600万の住民の同意のないまま共産主義体制の下に置こうとしているのだから。中国が香港に対して国際法上の権利を有していることには議論の余地がなく、全盛期のイギリスが力づくで中国領土の一部を奪いとった事実は弁明のしようがない。年末に公表が予定されている、帝国主義時代に中国が列強から受けた「恥辱」の地図、「国家的屈辱」の年代記(2)を、こうして現代の人民共和国政府が終わらせることになるのである。

布石を打つ中国

 返還期限まであと1年に迫ったが、返還がどのように行われるのかという問題はまったく解決されていない。中国政府のここ数ヶ月の姿勢は、1984年の中英共同宣言や1990年の香港特別行政区基本法での前向きな姿勢と矛盾している。ともあれ今年3月の軍事演習や台湾海峡でのミサイル発射は、中国政府が主権を主張する台湾における初の民主的大統領選挙(3)を妨げはしなかったし、南沙諸島における人民解放軍の動員は、東アジアの他国政府の懸念を招いたにせよ、大っぴらな対決に至ることはなかった(4)

 中国共産党・台湾行政府・香港行政府は「1つの国、2つのシステム」という言い回しを用いるが、これは経済分野にしか当てはまらないのではなかろうか。ここで言う「システム」は、 国小平にはおなじみの「社会主義市場経済」の別称たる「資本主義システム」 のことであり、複数政党制のことではあり得ない。

 中国における第二の「民主主義的例外」を許すまいという中国政府の拒絶姿勢が香港の弱点となる。香港と本土との間には網の目のような投資関係があり(5)、正式にはまだ英国植民地であるはずの香港に中国政府の公式・非公式の代表、共産党高官の血縁の「赤いプリンスたち」がひしめき(6)、香港がすでに中国の手中にあることをうかがわせる。

 だが、ごく最近の現象でまだ一般的なものではないとはいえ、政府当局に対する批判的で不遜な態度が外地香港にまで広まることを「こなす」、というか避けるにはどうすべきなのか? 1989年の天安門広場での抑圧に対する100万人規模の巨大なデモは、北京の指導者にとっての最初の頭痛の種となった。遠い北京の支配者の目には、消費フィーバー・競馬・ディスコ・カラオケバーなどが香港文化であったが、それ以外のことにも香港人は関心をもつかもしれないと思われた。北京出身の作家で広東語を話さず北京標準語のみを話すマー・ジアン氏(7)にとっても、香港文化とは同様のものであった。香港に居を構え、当地の芸術家に大きな影響力をもつ氏は、「香港には100年の歴史しかない。古くは漁師の島で、伝統も宗教も、人々を結びつけるようなものは何もなかった。ここは中国の南、人々は骨の髄まで即物的である。真の中国の魂は北にある‥‥」と、ちまたに満ちる即物主義を激しく非難している。

 共産主義指導者には都合の悪いことに、1992年にイギリス政府により任命され、1997年7月1日にユニオン・ジャックとともに一世紀半におよぶ帝国植民地の歴史を閉じようとしているのが、クリストフ・パッテン香港総督である。従来の香港総督は、慇懃無礼、上流階級に属し、勲章に飾られた人物、引退間近の外交官も多く、強大な隣国たる中国の意向を先取りすること(「とにかく波風を立てないことだ‥‥」)に専心する人物であり、この規格からパッテン氏が外れているなどとは、中国は夢にも思わなかった。パッテン元保守党幹事長は1992年のイギリス総選挙では敗れたが、数年間の香港滞在の成果をひっさげてウェストミンスターに凱旋しようとして、香港ゲームに正々堂々とは臨まなかった。そうしろとのメージャー首相の指示を受けていたのかどうかはわからないが。パッテン総督は着任するやいなや立法評議会の民主化に着手した。立法評議会は総督の下に置かれた諮問機関であり、1991年には18人が指名議員、2人が資格議員として選ばれていたが、パッテン総督は60人の議員を選挙にかけようとした。対立する候補者から選ぶ普通選挙というやり方になじまない中国インテリ層は、「女王に派遣された専制君主」の挑発姿勢を感じとった。

 こうして、ゲリラ戦の幕が開いた。昨年9月の立法評議会選挙では、1984年中英共同宣言・1990年香港特別行政区基本法の中国政府の解釈に反対する香港民主同盟が勝利をおさめたが、今年3月には、立法評議会は中国への返還の際には解散され、中国政府の任命する準備委員会に代わることが決定された。銭其国副首相の説明によれば、「欧米民主主義モデルのやみくもな猿真似は、香港の現状になじまないし、全階層の利益を考慮に入れたものでもない(8)」。

 この「階層」が何を指すのかは、準備委員会の「人物紹介パンフレット」を調べるとわかりやすい。準備委員会には33人もの財界人が含まれ、また15人の「宗教・労働者・市民・農民」代表には、立法評議会議員で「香港最大の地主」のラウ・ウォンファト氏が含まれている。準備委員会の機能を見れば、香港人を待ち受けるものがよくわかる。立法評議会の解散に反対した唯一の議員であるフレデリック・フン・キンキー氏は、総督に代わる行政長官の指名権をもつことになる暫定議会への参加資格の剥奪を通告された。

 中国の官僚は「億万長者でありつづけることしか考えていない億万長者」としか話をしていないから香港の事情をよくわかっていないという非難は、パッテン総督という傑出したイギリス保守主義者の口から出ただけに手厳しいものではあるが、根も葉もないというわけでもない。北京の指導者が香港の「ビジネスマン」と大っぴらに結託して返還の枠組みを作り、香港特別行政区の住民にこれまで以上に金もうけを追求させることで「民主主義に酔うこと」に対する解毒剤としようと考えていることは明らかである。

 この点で、最近の香港への人口流入に関する社会学的分析に根拠を求めることができるだろう。イェール大学のヘレン・F・シュウ教授の言うように、今回は以前とは様子が違う。「70年代までは香港の経済構造はまだそれほど国際化の動きに組みこまれておらず、移住増加の原因は香港の洗練された文化とコスモポリタンな職業意識にあった。皮肉なことに、この動きは中国文学の知識を少しばかり加えたイギリス式エリート教育に結びついていた。だが、ここ10年の新たな移住の増加は、毛沢東以後の窮乏化した農村における拝金主義の爆発と密接に結びついている。香港の豪華な宴会・賭博・売春・麻薬・カラオケバーなどが充実した『素晴らしき人生』のシンボルとなった。(中略)デルタの泥道では、企業家・実力者といった新たな人種を工場に運ぶ広東ナンバー・香港ナンバーのメルセデスが絶えない。(中略)珠江デルタ地域は最も繁栄した地域であるが、大学教育に最も不熱心な地域でもあろう(9)。」

 新階級が中国南部と香港との往復から得られるようになった突然の富に度を失い、目の前の状況からできるだけ稼いでやろうとしている様が見てとれる。これら新階級は、人民共和国政府の企業・行政局の運営のために本土から香港にやってきた数万人の中堅幹部とも、出身やライフ・スタイルの点で非常に近い関係にある。

教育の自由か、「愛国」教育か?

 政治的反対は、新階級からも、迎合によって保身をはかる要人からも起こらないだろう。行政委員会・立法評議会のメンバーを務め、香港大学現学長兼副理事であるダニエル・ツェ・チワイ氏にとっては、立法評議会メンバーの選出方法を変えることで「ゲームのルールを一方的に変えた」パッテン氏がらみのことでなければ何も心配は要らないようだ。

 ツェ氏は、香港の他の主要3大学学長とともに、昨年6月の北京訪問の際に江沢民国家主席兼書記長にじきじきに迎えられ、教育の自由の全面的な尊重を保証されて準備委員会参加を承諾した。氏の広い執務室のソファー後方の壁には、ツェ博士が江沢民主席と並んで写っている写真が目立つように飾ってある。写真は親しげな対話の雰囲気を伝えている‥‥

 挽歌の鐘は、主要な教員組合(6万2000人)である職業教師同盟(PTU)からも聞こえてくる。天安門事件以来、PTUは民主陣営に積極的にコミットし、合法的に選出された議会である立法評議会の解散には反対の立場をとっている。主要リーダーのセト・ワー氏、チュン・マンクォン氏は、このため準備委員会への答申をはっきりと拒否された。北京の日刊紙は2人への反対キャンペーンを行った。同じ頃、国務院香港・マカオ弁公室副主任は、香港の子供たちには中国人アイデンティティが欠けており、「愛国主義」を発起させるための手段が講じられるべきであると語った。

 このアイデンティティの問題が将来にとってぬきさしならぬ問題であることは明らかである。シュウ教授描くところの70年代以前に教育を受けたコスモポリタン的エリートの代表的人物が香港民主同盟の李柱銘主席であるが、中国政府は彼らを徐々にカヤの外に置こうとしている。弁護士である李氏の優美で洗練された事務所にはクラシックな家具が置かれ、濃紅の絨毯が敷かれ、パリのシテ島の裁判所やロンドンの法学院と遜色がない。北京の指導者にとって、李氏は目の上の最大のコブである。売国者よばわりすらされている。しかし李氏はイギリス人に対しても歯に衣を着せず、この期におよんで中国市場での若干のシェアとひきかえに民主的自由を売り渡したと非難する。

 香港民主同盟は昨年9月の立法評議会選挙で勝利をおさめ、李氏は「香港の人民の名の下に」戦う使命を自負している。戦いは至るところで行われている。この4月に李氏は、ホワイトハウスではなく議会にだが、意気揚々とワシントンに迎えられた。立法評議会のメンバーのうち13人が準備委員会に参加している(それゆえ最近では因果にも1年後の立法評議会自体の解散に賛成投票を行うはめになった)が、香港民主同盟の議員は誰一人、準備委員会への参加も意見も求められていない。

 中国とその同盟国は、大団円を妨げようとする連中をことごとく無視、つまり排除することに努めている。事実上の権力者が尊重される環境ではむずかしいことではない。民主派は、ぎりぎりになってから迎合するか勝ち目もなしに対決姿勢をとるかという2つの袋小路以外の解決が見出せないままに早々と支援を失うだろう、という読みもある。何が起ころうと、李氏は最後まで、いや事後も、戦いを続けるだろう。「私は香港に残ることに決めた。なぜなら民主主義を信じているからだ。」身の危険があるのではないだろうか? 「最悪の事態の準備はできているが、そうなるとは思っていない。」そして「中国人がもっとずるがしこかったなら、ほんの少しの譲歩で香港人を幸福にできることがわかるだろうに。希望は余りに小さい‥‥」とため息をつく。だが、力でおどすことに自信があり、はなから心はつかめないから物に訴えようとするような場合に、「ずるがしこく」なる必要などあるだろうか? ウシとネズミを比べると、今の形勢はあまりに香港に不利である。

(1) ジェラール・アンリ「ネズミ年 - 刈り入れの時」(パロール1996年2-3月号、香港アリアンス・フランセーズ)
(2) ル・モンド1996年6月23-24日号
(3) セリッグ・S・ハリソン「北京と台湾 - 強権発動の果てに」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年4月号)
(4) ヴィルジニー・レッソン「南シナ海紛争の幻影」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年3月号)
(5) 香港から本土への投資は800億ドルと推定され(40%が海外企業の香港子会社からの投資)、400万の中国人労働者の雇用と国内総生産(GDP)の20%に貢献していると思われる。逆に、本土の国営企業・持株会社から香港への投資は425億ドルと推定される。(ル・モンド1996年2月10日号とじこみ、Financial Times 1996年3月19日号、レ・ゼコー1996年6月17日号)
(6) フィリップ・ル・コール「香港はもう中国の中」(ル・モンド・ディプロマティーク1994年8月号)
(7) 代表作「シガツェの女乞食」「犬並みの暮らし」
(8) 香港、South China Morning Post 1996年3月25日号
(9) Helen F. Siu "Remade in Hongkong. Weaving into the Chinese Cultural Tapestry" (British Association for Chinese Studies 講演, Oxford, 1993年9月19日)


(1996年7月号)

All rights reserved, 1996, Le Monde diplomatique + Saito Kagumi

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