ソ連解体から5年を経て - CISの夢と現実

ニーナ・バシュカトフ(Nina Bachkatov)
ブリュッセル "The European Press Agency" 共同編集長

訳・斎藤かぐみ

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 1991年12月に政治的なビジョンも議論もないままに創設された独立国家共同体(CIS)が、5周年を迎えた。大したものである。CISという機構は、よく言えば政治的な技巧、悪く言えばソ連解体後も新生共和国群をロシアの勢力圏にとどめておくための婉曲な手法、というように考えられてきたのだから。CISがなかなか日の目を見ないのは、旧ソの遺産が足かせとなっているからである。

 15のソヴィエト共和国の連合は、1924年から1936年にかけてゆっくりと形成された。地方・地域レベルで文化の多様性が奨励されはしたが、愛国心の対象は「共産主義故国」であるとされた。民族よりも社会階級とイデオロギーが人間を区別すると考えられていた。経済システムの基礎は分業に置かれたが、これは独立心をくじくためのスターリンのマキャベリ的計画によるものと言われている。

 網の目のようにはりめぐらされた警察機構を手中に収めていたスターリンは、さほど精妙な工夫をこらさなくても帝国を支配できた。実際にも30年代の経済発展は、当時の絶対的中央集権、拡大志向による巨大コンビナートの強要、そして住民の(自発的ないし強制的な)移動のたまものであった。当時の民族混淆の中身はと言えば、強制収容所からの出所後も現地にとどまった人々、第二次世界大戦の引揚者、そして地理的な移動を唯一の自由と考えた人々全般であった(1)

 ソ連は通常の植民地帝国と変わらなかったのだろうか? 通常の植民地帝国であったと言うためには、イギリス・フランス・スペイン・ポルトガルのように、帝政ロシアが本国と海外領土とを明確に区別していた必要がある。通常は植民地の住民は「異国の」存在であり、その文化や政治は本国に統合されることなく、本国は植民地の天然資源を収奪する存在であった。

 帝政ロシアの場合もソ連の場合も、連続した領土が政治的・経済的な統一体を形成し、インフラストラクチャーは共有され、明確な「本国」の概念はなかった。多様な民族が帝国の文化・政治の一部をなし、経済もインフラストラクチャーも統合されていた。建国の祖を含む革命指導者の多く(トロツキー、スターリン、オルジョニキーゼ、ジェルジンスキー、彼らを支援した秘密警察チェカのラトヴィア人)はロシア人ではなかった。

 この機構が崩壊したのも、「抑圧された民族」の一撃のせいではなかった。1991年のソ連崩壊による真空状態は、アイデンティティの大問題を招いた。ロシア人は民族集団という自覚をもったことはなかったし、他の民族は自分たちの違いを表わすためにしか民族というものを考えたことがなかったのである。

バラバラの目的

 CISはソ連に代わるものとして1991年12月に創設されたが、その出発はさえないものだった。12月8日にスラヴの3共和国(ロシア、ウクライナ、白ロシア)により創設され、12月21日のアルマトイ首脳会議で8共和国が加わり、1994年3月にはグルジア議会が加盟を批准した。西欧への統合を望むバルト3国はCIS加盟を拒否している。定期的な会合を規定するような協定に全加盟国の調印が集まることはめったになく、調印された協定もほとんど実効はないままである。

 と言うのも、加盟国の態度がバラバラだからである。ベラルーシにとってはロシアからの分離が何よりも困難であるのに対して、ウクライナとトルクメニスタンにとってのCISは、ロシアからの分離を何とか穏便に進めるための便法である。カザフスタンなどの諸国は、新たな形式の自発的統合にちょうどよい制度と見ている。そしてロシアにはCISの将来についての明確な考えがない(2)。とは言うものの、組織の体裁は整いつつある。1991年に設けられた作業部会は、1992年には執行事務局に変わった。1992年5月のタシュケント首脳会議の結果、集団安全保障条約が調印された。1993年1月に設けられた経済協力委員会は実質的な政治機構となり、委員会に大使を置く各国の間の調整役をつとめている。

 当初の議論に支配的であった分野が2つある。経済関係と集団安全保障問題である。念頭に置くべきは、2500万人のロシア人を含む6000万人の人々が民族的な境界の外で暮らしているという事実である(3)。彼らの大半はロシア語を用いる。モルドヴァで暮らすウズベク人やグルジアで暮らすアルメニア人にとって、現地語よりも帝国共通語たるロシア語を話す方が話が早い。旧ソ諸国中に広がっている帰化推進運動(現地住民の雇用優先、現地語の公用語化)の犠牲になりやすいのが、これらロシア人を中心とした越境者たちである。

 こうした議論がロシアで白熱したため、ソ連後の過渡期の調整役を果たそうと考えていたCISは、民族主義的な動きに歯止めをかけようとする一方でクレムリンへの不信を強めた。ロシアの民族主義者内部では、孤立主義者が「大ロシア」主義者を抑えるようになっていた。彼らによれば、ソ連とはロシア民族にとって人間的にも経済的にも破滅だったのであり、その崩壊によってロシアはようやく手持ちの資源を自国の発展のために割くことができるようになったのである。欧米主義者にとっては、CISによる統合は、中核が必然的に民主ロシアとなるからには有益なものである。彼らによれば、改革ロシアは望ましいパートナーとなるに違いないから、経済分野も含めたCISの利点を加盟国に納得させればよいだけのことである(4)

 新生諸国にとっての最大の課題は、独立の確保である。国家主権を強化する目的で、各国政府は続々と二国間協定を締結した。しかしながら1992年から1994年の間にロシアと周辺諸国に起こった政治と経済の変化によって、CISの雰囲気は一変した。1992年3月、ロシア外務省にCIS担当局が置かれた。ウクライナを含めた諸国はモスクワとの調整の必要に迫られるようになったが、ロシアには他の加盟国のために犠牲を忍ぼうとするような姿勢は見るべくもなかった。ロシア政府は - アルメニアとカザフスタンの後押しで - 軍事的統合は進めても、経済問題を推進しようとはしなかった。

 各国は、ソ連消滅の際に自国領土にあった設備、訓練センター、軍事・産業施設(軍産複合体)を引き継いだ。これらのインフラストラクチャーにはまったく独立性がなく、各国の防衛は諸国の協同にかかっている。核兵器の管理も必要となってくる。

 ロシアの態度と諸国の態度は、ここでも違っている。ロシア以外の国々は、国軍と国境警備隊を独立のあかしと考えている。共通の脅威がないだけに、軍事同盟なるものも見通し不明だ。コーカサス一帯の脅威(5)は、中央アジアで感じられている脅威や旧ソの西進とは別物である。ウクライナは予想通り集団防衛への参加を拒否し、ロシアとの関係も緊張しているが、このためCIS加盟国間の集団安全保障という考え方の土台そのものも崩れてきている。

 ロシアの不安はと言えば、広大すぎて防衛できない国境線にある。路頭に迷って続々と帰郷を始める軍人の社会復帰にも限度がある。だがロシアが推進しようとしている新規集団機構の創設計画は、経済問題と同様に予算という現実にぶつかっている。1993年11月に採択されたロシアの新しい軍事ドクトリンは、旧ソの地域紛争をCIS全体の安全保障にとっての重大な危険ととらえている。ゆえにクレムリンは、周辺地帯にロシアの「平和維持」部隊を置くことを正当とする。クレムリンの目論見に最も反対しているのが、ウクライナ、アゼルバイジャン、ウズベキスタン、トルクメニスタンである。

再統合の誘惑

 1994年11月、アルメニア、グルジア、タジキスタン、キルギスタンに対して、ロシアは意見を押し通した。他の国々もいやいやながらも結局は軍事同盟や合同平和維持活動に引きずりこまれ、1994年4月には中央アジアとベラルーシの国境地帯(1995年8月にはグルジアとアルメニアに拡大)にロシアが指揮する合同防衛軍が設置された。CISの軍事協力の基盤は今でもタシュケント条約であるが、その目的の達成にはほど遠い。資金のほとんどはロシアに依存、その他の加盟国の司令部への参加は形式的なものにすぎず、各国軍に関する情報も諸国政府には共有されていない。このような状況に変化を与えたのがNATOの拡大問題である。

 「平和のための協力協定」へのロシアの参加と防衛憲章の発想は、ロシアが欧州の安全保障体制の完全な一員となることを望む者に希望を与えたが、逆の立場の者も刺激した。西欧から距離を置いて現行の軍事力を重視しようという主張、端的に言えばNATOブロックの拡大にはCIS諸国の結束をもって対抗しようという立場である。

 外国との経済的な接触によって、他にも予想外のショックがもたらされている。独立確保のために続々と二国間協定に調印した諸国は、市場経済に目を開くことになった。石油というファクターが均衡を狂わせ、アゼルバイジャンの油田がアルメニア支援よりも重要視されるようになった。ロシアの影響力を抑えようとしていた旧ソ諸国は、ロシア人以外の「本当の」外国人はもっとすさまじいものであり、国家の独立は経済には無関係であることに気がついた。多国籍企業の方は、民族感情を刺激するのは承知の上で、その脱国境的論理を押しつけてくるのである(6)

 CIS諸国には多大な対ロシア債務があるが、当該国企業の持分への引き換えで済まされるのが現実である。ロシアにはキャッシュの方が好ましくても、60億ドルの債務を回収する見込みは他にない。ロシアの直接経済援助政策(1991年末に中断)を最初に批判したのは欧米のアドバイザーだったが、世界市場価格を下回るエネルギーの廉売や、ルーブル圏内での有利な貸付政策などの形で、1992-93年にも間接経済援助は続けられた。諸国に対する商用貸付は、1992年にはロシアの対CIS輸出の70%に達し、ロシアの原料供給者へのメーカーからの支払のための諸国の中央銀行による貸付と合わせると、翌年にはロシア国内総生産(GDP)の9%から10%を占めるようになった(7)。ガスと石油の供給は、1993年以降は支払に遅れがあっても続行されている。中断するという脅しがある度に、「経済的脅迫」であるとの非難が欧米などから起こっている。昨年末のCIS加盟国・バルト諸国のエネルギー関連債務は額面で約50億ドルにのぼったが、各国で凍結されている資金額や作業成果、軍事援助、カザフスタンのバイコヌル宇宙ステーションのような共同施設の維持費なども加算されなければならない(8)

 こういった弱点はあるが、CISの結束強化の見込みは現実的なものとなっている。経済的な補完関係は貿易国際化の流れにかなっている。だが、経済学者が信条とする強固な基盤の上の統合、というものが進んでいない。ロシアも含めたCIS加盟国は、短期的には「押しつけられた」パートナーにとどまっている(9)

 政治家は一般市民の声を考慮すべきであるが、彼らが求めているのは一定の形式での再統合である。何百万人もの旧ソ市民にとっての自由とは、ひと握りの「ニューリッチ」のようにコート・ダジュールにショッピングに行くことではない。ちょっと親戚に会いに出かけることさえ今では面倒で、場合によっては厄介なことになってしまっている。知識人や芸術家の交流は、新しい世界では拡大されたが旧い世界では閉じられていた。求められているのは自由であって、旧いソ連ではない。

 歴史的に共通のものを引き継いでいることで諸国の接近が促される。常に平和と調和の内にとは言えないにせよ、ロシア人、ウクライナ人、グルジア人等々には何世代にもわたって共に生きてきた習わしがある。外国のアドバイザーの手にかかった改革や民営化によるショックは一緒である。ロシアの喧嘩ごしも、行動よりは言葉の上であったように時とともに見えてくる。タジク危機の解決がウズベキスタンに求められたように、近隣諸国のイニシアティブを考慮したり要請したりという姿勢も見えはじめている(10)

 欧米は少しずつ、ロシアにとって代わろうとするのは容易でもなければ得策でもないことに気づきはじめた。ロシアが旧ソ諸国に戦略的な関心をもっているということ、西欧への統合なら何でも進歩と賞賛する一方でCISへの傾斜はロシアの新帝国主義と受けとめるのは道理に合わないということ、が認められるようになっている(11)。むしろ、国民に受けいれられて世界にも開かれた統合機構を旧ソ地域に建設することこそ、地域の安全保障につながり、地域諸国の安定化を約束するものと考えられるのである。

(1) ニーナ・バシュカトフおよびアンドリュー・ウィルソン「ゴルバチョフの子供たち」(カルマン・レヴィ社、パリ、1988年、pp.97-98)
(2) Margot Light, "Foreign Policy Thinking" (International Factors in Russian Foreign Policy, Clarendon Press, Oxford, pp.57 ff.)
(3) Transition 1996年11月1日号, Prague
(4) F.Shelov-Kovedyaev, "Strategy and tactics of Russian Foreign Policy" (John Lough, "RFE/RL Research Report" 1993年5月14日号, Pragueに引用)
(5) ヴィッケン・シュテリアン「コーカサスの戦争千一夜」(ル・モンド・ディプロマティーク1994年8月号)
(6) ロンドンのトランス・ワールド・メタル社はロシアとウクライナにまたがる一大金属産業グループをつくろうとしている。(Financial Times 1996年9月11日号)
(7) Anders Bornefalk, "The rouble zone: a case of irrationality" (Ukrainian Economics Review, Vol.1 No.1-2, 1995年)
(8) Transition 1996年8月23日号, Prague
(9) Serge Satyrin, "Problems and prospects of economic integration within the CIS" (Review of Economies in Transition, Unit for Eastern European Economies, Bank of Finland)
(10) "Inside Russia and the FSU" (Monthly Intelligence Bulletin of the European Press Agency, Bruxelles, Vol.4 No.8, 1996年8月)
(11) Hannes Adomeit, "Russia as a great power in world affairs, images and reality" (International Affairs, New York, 1995年1月号)


(1996年12月号)

All rights reserved, 1996-1997, Le Monde diplomatique + Saito Kagumi

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