「生徒は少人数グループに分けなければならない」


ナタリー・カンタン(Nathalie Quintane)

作家・教師。著書Un hamster à l’école, éditions La Fabrique, Paris, le 14 janvier.


訳:嶋谷園加


 フランスでは、書き取り練習を始めとする画一的な集団での学習方法が主流である一方で、少人数での自律学習、リモート学習など、推奨される方法も時代の波の中で変化している。他方、中央からの教育現場に対する見えにくい監視体制は続いている。そのような中で、今の時代における教師の存在意義とは何だろうか。本記事は、著書Un hamster à l’école からの2つのテキストの抜粋である。[日本語版編集部]

(仏語版2021年1月号より)

Demetrio Cosola. – « Il dettato » (La Dictée), 1891
GAM - Galleria Civica D’arte Moderna e Contemporanea, Torino courtesy Archivio Fotografico Fondazione Torino Musei

 個人的なことだが、私はこれまでディクテ[書き取り練習]をやめたことがない。それは本当に心地よい時間だからだ。子供たちは、いっせいに一つのことだけをするために非常に集中しており、単語を聴き損なわないよう、顔を上げることもできない。みんな同じ姿勢で綺麗に並んでおり、ハエの羽音すら聞こえるほど静かだ。要するにとても穏やかな光景だ。そして、彼らは何か重要なことをしているのだと感じる。いずれにせよ、彼らはあたかもそう感じているかのように振る舞うのだ。ただつつがなく過ごすために全てをディクテにしたいが、そうはうまくいかない。ディクテ用ではないテキストを書き取らせようとしても、教室は混乱する。混乱、ざわめき、あるいは何らかの騒音、ディクテ以外の指示をすれば、そんなことになる。落ち込みたくないなら、なるべく早くそのことを頭に叩き込むべきだ。一人で、また何人かとでも、共に研ぎ澄まされ集中するひと時は他にもあるが、君がディクテで得る静けさの質に匹敵するものは何もない。それを手にするのは恐怖を抱かせる教師だけだ。私は、そんな教師たちはもういないと世間は考えていると思っていたが、少ないながらも学校ごとにまだいるのだ。君がディクテで得られる2つ目のご褒美は採点だ。ディクテの採点以上に穏やかなものはない。集中することを全く要求されないのだから。採点はラジオを聞いたりテレビを見たりしながらでも十分にできる。機械的にできることだから。生徒はいつも同じ単語で同じ間違いをするから、全答案を全速力で終わらせて、どんなに時間をかけても30分で30答案の束を片づける。ディクテの修正ほど素早く済ませられるものはない。君は点数を付け、成績表を渡し、親たちは納得して、誰も文句を付けようもない。彼らがアルトーやゾラの作品の文章や、教師の仕草やユーモアが理解できず、教師をうんざりさせることもあり得たが、教師がディクテをやらせ過ぎているからと言って、誰かをうんざりさせることはなかった。いずれにせよ、私はそんな話は聞いたためしがない。

 20点満点のディクテは、40点減点されかねない唯一の練習問題だ。私の知る限りそれを意外に思う人は誰もいなかった。40点の減点の人は恐らくディスレクシア[失読症]だ。2010年、まだディスレクシアの子供たちはディクテを最初から最後まで嫌々やらされるという地獄を経験していた。そういう子供たちは、大部分の人たちから頭が悪いのだと思われていた。ある時、私は気が付いた。当時仲の良い友人たちは綴りが全くできず、私はあるディスレクシアの人と一緒に暮らすことになった。彼は学校生活の間ずっと頭が悪いと見なされていたが、ついには高等教育を受けるに至った。それは綴りのできない例の友人たちも全く同じだった。とは言っても、綴りができなくても思考の展開力に優れ、世の中の分析に長けている人がいる一方で、綴りが完璧でもお人好し、あるいは頭が空っぽな人もいる。私たちは綴り間違いをしない間抜けがいることをよく知っているではないか? 出会い系アプリでは綴りの良し悪しで選別が行われるようだが、綴りの間違いをしない人たちは綴りの間違いをしない人たちに惹かれる、というように自ら社会的選択をする。そして、貧乏人は2行すら書くことができず、概して自分の意見を表現できないのだ、とほのめかす。それは言ってみれば、物事の見方の帰結であり、社会とはこのように機能し、人がこうだと信じている通りのものなのだ。言わばそれは、公立や私立の学校、宗教系あるいは非宗教系の学校、義務教育の学校のおよそ100年の到達点である。綴りとその約束事の尊重はどちらも同じようなものだから。チンチンという言葉の性別について判断しようがなくても、直接目的補語が[助動詞]avoirの前に置かれた時に、動詞の過去分詞と直接目的補語の性数が一致する法則は、確かに理解が容易ではないために、それを習得しているということは、言うなれば知性の証明なのだとみんな了解している(何しろこれは理解するのが難しい)。近頃私は、同僚たちが文書の中で犯す間違いを次第に見逃すようになってきたことに驚いている(情報社会の到来後、メッセージのやり取りが止まない)。子供たちもまたそのことに気付いている。「あれ見ましたか? ○○先生だってたくさん間違えていましたよ!」。私はなだめる。「ラマルティーヌも同じようにたくさんの間違いをしたけれど、彼は議員になりましたよ」。いずれにしても、私は頭の中で公務員は綴り間違いをしないものと思っていた。選抜試験は魔法のような効きめがあるようだけど、あなた方はその試験を通過して、もう綴りの間違いをしないというわけではない。綴りは、公務員が徹底的に監視されるのと同じで(服務規律と呼ばれるものによって)公務において徹底的に監視されるからだ。

 ところが、そのどちらでもないのだ。公務員は正しい綴りができなくてはいけないと述べている法文はどこにもない。確かに1832年の政令についての言い伝えはある。しかしこの有名な政令は頭の中にしか存在しない。国民教育における服務規律も似たり寄ったりだ。どのような法文もない。軍隊においては確かに服務規律があるが、公教育にはない。つい最近、それを理由に大臣は法文の囲み枠に、教師には今後「模範となる」義務があると明示した(それは教師たちが彼の教育改革について少々不服だったからだ。大臣は教師たちが嫌がることがおきらいだ)。以上のように、国民教育における服務規律も、頭の中にしかなかった。法権利の中に存在しない法律をさらに厳しく強制するようにでっちあげるやり方には困惑させられる。例えば(いずれにせよ国民教育においては)、法律がさらに自由あるいは平等へ向かうかもしれない、などという幻想を抱き始めることは決してない。内輪で取るに足らない法権利をねつ造し、鞭の役をさせるのだ。それは、王よりも王政主義的で、国家よりも支配的で、制度よりも管理的で、警察よりも抑圧的だ。

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 一方で、生徒たちは少人数グループに分けねばならない。つまり4人ごとに教師なしでも完全に自立して自主的に作業できるようにさせるべきであり、自律性を学ばせるべきだ。少なくとも彼らの視界からは、私たち教師はほぼ消えなくてはならない。私たちは彼らに、いくつかの文章を補い寄せ集め思い付きの発想で引っ掻き回すように、すっかり準備されているA4用紙を配り、それから大急ぎでパソコンの陰に隠れて彼らがグループワークを終えるまでそこを動かない。(私たちが「管理人」と呼ぶ)生徒がこちらへ質問をしに来たら、まぁそれは例外ではあるが、課題を既に理解したと思われる別のグループへ送り出すのだ。すなわち、その生徒に説明するのは彼らなのだ。そうはいっても、私たちは終了時刻の前に各グループを見て回り、スマートに色分けしてマークをつける。うまくできれば緑、いまいちなら黄色、全く駄目なら赤、でも4人グループならまるっきり駄目ということではない。4人のうちの一人はシステムを理解し、緑のマークをゲットする生徒が大抵いるのだ。

 なぜこのような教育の絶対自由主義の考え方に対して賛同できないことがあろうか? 確かにそこには管理人がいる(この「管理人」は、コルベールが言うところの「フランス商店」への賛辞かのようにこう呼ばれた。彼はフランスを父親的な商店として管理したかった)。だが、管理人の存在は最小限の譲歩であり[絶対自由主義の教育には変わりない]。したがって生徒は教師でもあるのだ。これは確かに最良の学習方法だ。だか、気を付けなくてはいけない。監督官が、あなたが彼らを少人数制に振り分けないで、机は相変わらず単に黒板の方を向いて並んでいることに気づいたら、要するに、結局あなたは安っぽいアナーキストでしかないということだ。そうしてあなたは追い出される、あるいはあなたが自分で出ていくまで嫌がらせをされるのだろう(合言葉は「気力を失わせる」)。仮に、ある権威的システムが、あなたに権威的になるなと命じたとしたら? それは言うほど簡単ではない。なぜなら、権威は素知らぬ顔で当たり前のように、ハエの羽音が聞こえるほど静かで、赤・緑・黄色のマークについてささやき合う声が響く教室を支配していなくてはいけない。あなたはパソコンの後ろに隠れているのだが、A4の用紙を配ったので、大急ぎでパソコンの方へ、ちょこまか戻る。あなたは24人あるいは31人のために、頑張ってね、さようなら、と声を掛けていた。それなのに、今あなたがたはENT(仮想学習環境)[訳注]上で互いに語り合い、意見を述べ合っている。

 それを可能にする条件とはどんなものだろうか? その条件というのは24人あるいは31人が完全に権威を取り込むことで、彼らはみんな同時に自分自身の従業員であり、上司にもなる。彼ら従業員が怠惰ならば直ちに上司からやり直しをさせられ、常に注意深い上司は従業員の怠惰を見逃さず、従業員みんなが自分を甘やかしているというように、証拠もないのに仕事をさぼっているだろうと疑う。従業員は肩越しに上司の視線を感じ、あるいはその耳には上司からの指摘が聞こえ、モニタリングされながら、あなたが話している時、あなたは同時に同僚に、場合によっては仲間に話しかけていることを認識している。いわばあなたの頭の中に他の誰かがいるのだ。私はこれを書きながらそのことに気付いた(ふいに頭をよぎった)。私はこの具現化した監視装置を実体験し始めている。もちろん(あなたは表向きには24人あるいは31人に話しかけ、もちろん監督官にも、あなたの心の奥底で、実を言うとあなたは、誰ともなく話しかけているように見せかけながら監督官に話している)。このように緑マークの公務員から組み込まれた装置には、監督官が物理的に存在するにせよしないにせよ、彼はそこにいるのだ。いつも私の頭の片隅にいる。私が規則を守り、自律して自己評価を行い、静かで、忙しく動き回り、休息をとらず、勤勉で、お互いを監視し合う少人数グループにいることを確認するために。


  • [訳注] 公立学校、大学、団体などで使用されている教育用ポータルサイト。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2021年1月号より)