資源獲得と難民問題でますます悪化する両国関係

ギリシャ・トルコの国境で高まる緊張


エリザ・ペリギュー(Élisa Perrigueur)

ジャーナリスト


訳:大津乃子


 欧州理事会(EU首脳会議)は2020年12月、東地中海の資源開発をめぐり強硬な対応を続けるトルコに対して、追加制裁を科すことで合意した。トルコのエルドアン大統領が推し進める領土拡張政策は、同国と長年にわたり対立関係にあるギリシャに過去の紛争を思い起こさせるもので、両国の関係は周辺の国々も巻き込んで緊迫の度合いを増している。カステロリゾ島、レスボス島、西トラキア地方での取材を通して、ギリシャ・トルコ国境の現状を伝えるルポルタージュ。[日本語版編集部]

(仏語版2021年1月号より)

Élisa Perrigueur. — « Arrivées », Lesbos, octobre 2020

 ギリシャ最東端の小さな島であるカステロリゾ島は、トルコから目と鼻の先に位置している。深い湾内にある、島で唯一の村では、時間はゆっくりと流れている。昨年の9月末、透き通った海で亀を捕まえようとしている子どもたちのそばで、年老いた漁師たちがカードゲームに興じていた。コンスタンティノス・パプスティス氏は、アイスコーヒーを飲みながら穏やかな様子で、せいぜい2㎞先の広大なトルコの沿岸と、唯一見えるカシュの町に見入っていた。旅行代理店を経営するこの物腰の柔らかい男性は、「私たちの島は穏やかな観光地です。私は夏の間中、観光客にそう繰り返し話しました」と言った。彼の周りでは人口500人のこの村の議員が数人、くだけた調子でこう繰り返していた。「カステロリゾ島に危険など1つもないさ!」

 地中海のこの小さな港では巨大に見える立派なフェリーが到着すると、周囲の景色が賑やかになった。24時間前にアテネを出港したそのフェリーは、どうにか接岸して乗客を降ろした。その中には、戦闘服を着てブッシュハットを被った50人ほどの兵士がいた。彼らは機敏に湾を横切り、その周りにそびえる人が住んでいない崖に向かった。この光景を見慣れているパプスティス氏は「ただの兵士の交代ですよ。毎月あるんです」と説明してくれた。

 1947年2月に調印されたパリ条約[ヨーロッパ講和条約]の第14条によりイタリアがドデカネス諸島をギリシャに割譲したことから、カステロリゾ島を含む島々は非武装地域と見なされている。しかし実際には1974年にトルコがキプロス北部を占領して以来、ギリシャ軍はそこでトルコの海岸を監視していると、複数の歴史家が主張している(1)。そして1996年のイミア島をめぐるギリシャとトルコの対立の後、この地域の防衛は強化された。カステロリゾ島の役場は、島の高台に配備されている兵士の人数を明かしてはくれなかった。そして村人たちは、このコロナ禍でまばらにしかいない観光客を不安にさせないために、のどかな様子を見せていた。しかし、自分たちの小さな楽園に忍び寄る影に気づいていないわけではない。

地中海におけるギリシャの前線基地

 カステロリゾ島は、地図を書き替えて自身が考える海の境界案を押し付けようとするトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領による脅威の最前線に位置している。1970年代以降、ともに北大西洋条約機構(NATO)の加盟国であるギリシャとトルコは、ドデカネス諸島をめぐって目に見えない対立を続けている。トルコは同国沿岸の島々や岩礁に対するギリシャの主権に対して異議を唱えている。トルコはアメリカと同様に、海洋法に関する国際連合条約(通称はモンテゴ・ベイ条約。1994年に発効)を締結していない数少ない国の1つで、これらの島々の周辺の大陸棚を自国領だとするギリシャの主張を認めていない。そのため、とりわけトルコによるキプロスの占領以降、近接地域に大規模な軍隊が存在すること、すなわち小アジア西岸のイズミールにトルコの海軍と空軍の基地があることを理由に、ギリシャは自国軍の配備を正当防衛だと主張している(2)。

 カステロリゾ島はトルコに非常に近く、もっとも近いギリシャ領の島であるロドス島から120km、ギリシャ本土からは520km以上離れている。モンテゴ・ベイ条約を名目にして、ギリシャはエーゲ海の主要部分を排他的経済水域(EEZ)(地図を参照)(3)と主張できる可能性があり、そのうえ、この遠く離れた9㎢の小さな島のおかげで、東地中海においてさらに数百㎢もの水域を主張している。しかしながらギリシャとトルコの間に二国間協定がないため、トルコはこのEEZを明確には認めてはおらず、特に東地中海で開発できる可能性がある複数のガス田が発見されて以来、この地域への自由なアクセス権を要求している。ここ数カ月、トルコは何度もこの区域に「オルチ・レイス」と名付けられた弾性波探査船を派遣している。それは「赤ひげ」と呼ばれた、レスボス島で生まれアルジェの軍司令官になった16世紀のオスマン帝国の海賊の名前である。

Élisa Perrigueur. — « Arrivées », Lesbos, octobre 2020

 こうした海での活動は、「青い祖国(マヴィ・ヴァタン)」のイデオロギーに呼応したものである。元海軍司令官のセム・グルデニズが着想したこの教義は、黒海、エーゲ海、そして地中海において領有権の論争が起きている地域でのトルコの主権を認めさせようとするもので、ナショナリストとイスラーム原理主義者の支持を得ている。ここ数カ月、エルドアン大統領は好戦的な演説を繰り返し行った。1071年のマラズギルトの戦いの戦勝記念日である8月26日には、セルジューク朝[訳注1]がビザンツ帝国軍を壊走させたトルコ東部で、いかなる「過ち」もギリシャを「破滅」に導くだろうと警告した。一方で、その数週間後の10月21日にキプロスの首都のニコシアで行われたキプロス、エジプト、ギリシャの首脳会談では、保守派であるギリシャのキリアコス・ミツォタキス首相が、トルコの「侵略的な行動を伴う帝国主義の幻想」を非難した。

 昨年8月、緊張の高まりを感じたギリシャはキプロス、イタリア、そしてフランスの支援を頼って、合同の軍事演習を行った。さらにエジプトとは、東地中海でのEEZを画定する合意文書に署名した。シリア、リビア、コーカサス地方をめぐり、以前からエルドアン大統領と表立って対立していたフランスのエマニュエル・マクロン大統領は、ギリシャを支持する立場を鮮明にした。与党である新民主主義党の党員でカステロリゾ島の副市長であるストラトス・アミグダロス氏は、「マクロン大統領は大切な友人であり、我々の島にぜひ来てほしい」と語った。2020年9月中旬、ギリシャはフランスのダッソー社のラファール戦闘機18機を購入すると表明した。

 カステロリゾ島で観光ガイドをしているコンスタンティノス・ラフティス氏は、「エルドアンはスレイマン1世[訳注2]を気取っているのです。しかし彼は国内での信用を失い、トルコリラは暴落しました。そのため対外的に強硬な態度をとり、国民的な夢を持ち出して自分のイメージを立て直そうとしているのです……」と不満を述べる。4世紀(1430年のテッサロニキの陥落から1830年の独立まで)にわたりオスマン帝国に支配されていたギリシャでは、オスマン帝国の皇帝と現在のトルコ大統領が頻繁に比較される。ギリシャのレジスタンス運動は、現代ギリシャのアイデンティティを作り上げたが、自国より4倍豊かで、6倍の面積があり8倍の人口がある厄介な隣国に対する根深い不信感が残っている。この猜疑心は党派を超えたもので、ナショナリズムはギリシャのすべての政党に行き渡っている。現在、ギリシャはトルコの「青い祖国」主義を過去の帝国主義に呼応した、新オスマン主義[訳注3]的な領土拡張を目指す政策と見なしている。

Cécile Marin

 カステロリゾ島の港の入口では、オスマン帝国時代の名残を留める数少ない建物の1つで、現在は美術館になっているモスクがカクテルバーに陰を作っている。それは、今は使われていないとはいえ、26ものギリシャ正教の教会があるこの島で唯一のモスクだ。ギリシャの憲法は正教を「主要な宗教」としており、2000年までは政府が発行する身分証明書に信仰する宗教が記載されていた。国民の95%以上がギリシャ正教徒と自認しており、社会党政権の要求によってこの記述が消去された時は、強い影響力を持つ正教会の激しい怒りを買った。ラフティス氏は急に苛立って「オスマン帝国に支配されていた時代もずっと、我々はギリシャ人であり続けました。我々の先祖はカステロリゾ島を守り、島のアイデンティティを保ってきました。我々も島が変わらないように戦うのです」と言った。

 60代のラフティス氏は、彼が住んでいる島はギリシャの他の市町村よりも長い間、抵抗運動をしなければならなかったと強調した。オスマン帝国の支配が終わった後も、地理的に東方の国々への入口に位置するカステロリゾ島は諸外国の垂涎の的になり、フランス(1915~1921)、イタリア(1921~1944)、イギリス(1944~1945)に占領あるいは併合された……。ドデカネス諸島のすべての島々と同じように、この小島が完全にギリシャ領として落ち着いたのは1948年になってからだ。それ以来、島では誇りを持ってギリシャの国旗を掲げている。湾内では、人口8,000人のトルコのカシュの町に面したバルコニーの上で複数の青と白の国旗がはためいている。両国の緊張が高まると、旗の数は増えるのだ。 

 他にも3つの大きな国旗が兵士たちによって崖に描かれていた。こぶしを握り締めながら、ラフティス氏は「全島民の神経を逆なでした」出来事を話した。2020年9月末、所有者不明のドローンが飛んできて、トルコの軍楽を流した後にこれらの旗にトルコの国旗を思わせる鮮やかな赤いペンキをかけたのだ。この島で生まれた同氏は、散歩道を歩く何人かの見知らぬ顔の人たちを用心深く伺いながら、「許しがたい攻撃で、処罰されるべきです」と罵った。彼はトルコからスパイが送り込まれたと疑っている。

 カシュの町を見渡せる無人の岩の上で小さなレストランを営んでいる愛想のいいツシコス・マギアフィス氏は、「緊張状態は40年前から続いていますが、いつも解決されてきました。トルコとギリシャに対話をさせるべきです。争いは話し合いで解決すべきです。あの町の住民は我々の兄弟で、一緒に育ったのです」と冷静に言った。30代の彼の妻は、海水浴場があるカシュ出身のトルコ人だ。若い時から彼はカステロリゾ島の居酒屋には行かず、カシュのバザールや島にはいない歯医者や専門医に行っていた。新型コロナウイルスのために2020年3月に国境が完全に閉鎖される前は、島にはたくさんのトルコ人観光客が訪れていた。

「外交の武器」としてのレスボス島の難民

 カステロリゾ島から450km北西にあるレスボス島の沖でギリシャが見張っているのは、トルコが派遣したガス田の探査船ではなく、約10kmしか離れていないトルコの海岸から来る脆いゴムボートだ。グアドループ[訳注4]程度の大きさで人口が8万5,000人の山がちなこの島には、両国の間に横たわるもう1つの軋轢である難民問題がある。

 10年ほど前からレスボス島は、数十万人の難民にとって欧州連合(EU)域内に入るための主要な入口の1つになっている。アフガニスタン人、シリア人、イラク人、さらにはコンゴ人たちはトルコを経由してきているが、そのトルコも約400万人の難民を受け入れている。対岸にあるトルコの海岸には、観光客もほとんどいない無人の浜辺が広がっていて人目につかず船を出せるため、密航船のブローカーたちに好んで使われている。しかし合法的にシェンゲン協定を結んでいる他の国に行きたい難民たちは、ギリシャでの難民申請の手続きに時間を要するためにレスボス島で足止めされる。昨年9月8日には、主要な難民キャンプのモリアで原因不明の火災が発生した。収容されている1万3,000人の難民に死者は出ていない。

 北エーゲ地方の知事であるコンスタンティノス・ムッゾリス氏は、難民たちが来るのはトルコの戦略的な計算の結果だと考えている。同氏は「エルドアンは難民を外交の武器として使っています。彼は交渉をしたい時に難民を送ってくるのです。彼の姿勢は非常に攻撃的で、これまでのトルコのどの指導者とも違います」と非難する。ムッゾリス氏は難民に対して「ギリシャへの渡航を断念させたい」と明確に望んでいることで知られている、この地域の保守派の大物政治家だ。

 同氏は2020年3月の緊迫した出来事を引き合いに出す。シリア北部のクルド人に対する攻撃をEUから非難されたことに腹を立て、エルドアン大統領は、2016年3月にEUと難民流入を管理する合意をしていたにもかかわらず、ヨーロッパを目指す難民に対して国境を開放すると表明したのだ。そのため数千の人々がギリシャに入国しようと押し寄せ、ギリシャ北東部のトルコとの陸の国境地域では、ギリシャ軍が警備を強化することになった。同じ頃、レスボス島には数日間にわたって難民が詰め込まれた船が10艘程度やって来て、地元の過激主義者たちを激怒させた。「あれ以来、我々はトルコ当局とは一切の対話をしていません」と、ムッゾリス氏は言った。

Élisa Perrigueur. — « La frontière gréco-turque », septembre 2020

 それ以来ギリシャは、同国も締結している国際的な合意に反して、難民申請をする人々に対してトルコとの国境の一部を閉鎖してまでも、強硬路線をとっている。そして10月の中旬、政府は陸の国境沿いに新たに27kmにわたってフェンスを建設すると発表した。2020年初め、政府はレスボス島の沖合に2.7kmの海上フェンスを設置したいと表明していた。それは人権擁護の非政府組織(NGO)から違法だと強く非難された。「バカげた」計画だと、島の薬剤師で急進左派連合の元議員であるジェオジョス・パリス氏は考えている。地元の複数のマスコミはこのフェンス設置計画の棚上げを伝えている。政府はこの件について何も発表していない。

 「難民たちは、ギリシャとトルコの対話断絶の被害者です。難民を無理に追い払ったのはギリシャの沿岸警備隊です」と、レスボス島南部のミティリーニの騒々しい港の近くで、地元のウゾ[アニスの香りを持つ無色透明のリキュール]とメゼ[つまみ]を前にしながらパリス氏は嘆いた。9月のある記者会見の際、海運大臣は2020年に数万人の難民が入国するのを「食い止め」たと得意げに話した。その1カ月後、移民政策大臣は難民を強制的に追い返したことは一切ないとして、軌道修正を試みた。レスボス島では、これらの難民の姿は辛い記憶を思い起こさせると分析したパリス氏は、「小アジアからの難民の追放の記憶です」と言った。ギリシャでは「小アジアの大災害」とも呼ばれるこの出来事が、現在のギリシャ・トルコ関係の根底にあるのだ。

 オスマン帝国の衰退期の終わり、第1次世界大戦と希土戦争(1919~1922)の最中に、小アジアのギリシャ人は迫害を受けて殺害された。それは多くの歴史家から大量虐殺だったと認識されている(4)。1923年、両国はローザンヌ条約を締結した。同条約は現在のトルコの国境線をほぼ確定し、1920年のセーヴル条約で決められたギリシャによるイズミール(スミルナ)地方の占領に終止符を打った(5)。この条約はまた「国民の同質性」の名のもとに、宗教を判断基準にした突然の住民交換を強制した。そのためギリシャに住んでいた50万人以上のイスラーム教徒が小アジアに向かった。1920年の人口調査によるとレスボス島の住民の6.5%が該当した(6)。それと並行して、120万人以上のギリシャ正教徒を故郷から引き離し、ギリシャに送還した。合計で3万人以上がレスボス島にたどり着いた。当時、彼らは軽蔑的に「トルコ人の種」と呼ばれた。

 「彼らはギリシャ正教徒で、ギリシャ語を話しました。しかし、島民からは強い反感を買いました。大都市イズミールを追放された女性たちは『娼婦』というあだ名をつけられました。両者の関係性が落ち着くには、2つの世代が経るのを待たなければなりませんでした」と、自身も小アジアからの難民の子孫であるパリス氏は話した。「私の祖母は8歳の時にここに来ました。島に同化するために、祖母はトルコ人を嫌うことを学ばなければなりませんでした。『あちら側』と友達になってはいけなかったのです。80歳になるまで、祖母が再びトルコの地を踏むことはありませんでした」

 猛暑の中、スクーターにまたがりパリス氏はミティリーニの幹線道路沿いに建っているいくつかの遺跡の前で止まった。使われなくなった複数の古いモスクだ。その中のあるモスクには大きな穴があいた建物しか残っておらず、お腹をすかせた子猫たちがうろうろしている。もう1つのモスクは改装されて花屋になっている。元議員は残念そうにこう話した。「当局はこうしたオスマン王朝時代のものを放ったらかしにしているんです。国はこうした歴史的な建造物を再建して、トルコからもっと観光客が来るようにお金を使うべきです。そうした投資の方が、ラファール戦闘機を買うよりも、この地域をもっと安定させるはずです」

西トラキア地方で揺さぶられるイスラーム教徒

 ギリシャの北東地域、トルコやブルガリアとの国境周辺には、オスマン朝時代の名残がある。西トラキア地方では綿花やヒマワリ、タバコ畑の中にある村々に、まだ使われているモスクがそびえている。ギリシャ国内のイスラーム教少数派の人々は、ロドピ山脈(最高峰はブルガリア領内にある)から遠くない場所に暮らしている。当局は、ロマやポマク(オスマン帝国の支配下でイスラーム教に改宗したブルガリア語を話すスラブ系の人々)、そして多くはトルコにルーツを持つ住民であるこれら少数派は、全部で10万人から15万人程度と見積もっている。

 「我々はギリシャ市民ですが、トルコ人でもあります。現在のトルコができる前からそうだったのです。我々はトルコ語を話し、宗教も同じです」と、生物学者で元急進左派連合の議員であるムスタファ・ムスタファ氏は言った。同氏は端的に、これもまたオスマン帝国がこの地域を支配していた時代に形成された非常に複雑なアイデンティティを説明したのだ。そしてそのアイデンティティも、現代のギリシャとトルコの抗争に巻き込まれている。

 現在のギリシャの国境線は20世紀に、オスマン帝国の時代から西トラキア地方に住んでいるイスラーム教少数派の人々の周りに引かれた。イスタンブールでのコンスタンティノープル総主教庁と、トルコ国内におけるギリシャ正教徒のコミュニティの保持と引き換えに、彼らはローザンヌ条約による強制的な住民交換を免除されたのだ。主にトルコ語を話す彼らは、ギリシャ語とギリシャ正教を基礎としている国民国家で生きてきた。

 少数派の人々には自分たちの宗教を信仰し、初等教育でトルコ語を使用する権利がある。この地域にはバイリンガル教育を行う少数派の人々の学校が100校程度ある。「我々、キリスト教徒とイスラーム教徒は対立することなく共存しています。しかし異教徒との結婚はまだ認められていません」と、コモティニ(トルコ語ではギュミュルジネ)の町にある自身の研究室でムスタファ氏は話してくれた。およそ5万5,000人の住民が、現在は暗渠となっている曲がりくねった川の周りに建設されたキリスト教徒地区とイスラーム教徒地区に暮らしている。ムスタファ氏は西トラキア地方を離れたことがほとんどない。「我々少数派は、コスモポリタンではありません。この地域に愛着を持った村人なのです。我々は、自分たちの子孫がここで平和に暮らせることを望んでいるだけなのです」と同氏は説明した。この地域の多くのイスラーム教徒同様、彼はトルコでは高等教育を受けただけで故郷に戻ってきた。まるで先祖の土地に惹きつけられたかのように。

Élisa Perrigueur. — « L’attaque du drapeau grec », novembre 2020

 コモティニから100km離れたトルコは、ローザンヌ条約によるとこれらイスラーム教徒の「後見人国家」であり続ける。しかし「母国」と呼ぶ人もいるトルコの影響は、必ずしもギリシャが望むものではない。過激なナショナリストは、少数派イスラーム教徒が隣国のトルコと親密になりすぎて、独立の意思を示すことを恐れている。彼らの社会的地位は対立の核心事項だ。トルコは「トルコ系少数派」を認めるように働きかけているが、ギリシャは信教に紐づけて国民を認識することを一切拒否している。

 論争は2つの分野で起きている。教育と宗教だ。1990年代の終わり、ギリシャは特にアファーマティブアクションの政策を採用し、大学入学を容易にして少数派をギリシャの公教育に取り込もうとした。しかし親トルコのイスラーム教徒たちは、少数派のためのバイリンガル教育を行う学校をさらに創設するように訴えた。宗教の面では、各々がムフティー[イスラーム法の解釈や適用に関して意見を述べる資格を認められた法学の権威者]を指名しているが、互いに承認し合うことはない。この地域のムフティーが3名、ギリシャにより公式に指名される。一方で非公式にもう2名が、キリスト教国家によるイスラーム教聖職者の指名を拒否しているトルコから支援を受けている西トラキア地方のイスラーム教徒により指名される。

 「我々はいつも外交上の争いの影響を受けています。我々は彼らのチェスの駒なのです」と、ムスタファ氏はうんざりした調子で不満を言う。60代の同氏は、主にイスタンブールのギリシャ人に対して起きた襲撃事件でおよそ15人が殺害された1955年の後の状況を、さらに1974年のトルコによる北キプロス占領後の日々を思い出す。「当時、我々少数派はギリシャ国家から権利を侵害されました。運転免許の試験を受けることも、土地を購入することもできなくなったのです」と、同氏は話す。同じ頃、国境の向こう側では、トルコのギリシャ人たちは恐怖に駆られて徐々に故郷を離れていった。今日、イスタンブールに残っているギリシャ人はわずか数千人である。

 こうした対立は未だに西トラキア地方に重くのしかかっている。「状況は1990年代に改善されました。しかし過去にギリシャでひどい扱いを受けたイスラーム教少数派の中には、トルコに近づいている者もおり、ギリシャ国民の心の中の不信感を大きくしています。ギリシャ正教徒の多くが、彼らを隣国からのスパイと見なしているのです」と、コモティニにあるトラキア・デモクリトス大学の准教授でこの地域の少数派の専門家であるゲオギオス・マヴロマティス氏は指摘する。

「この地域にはトルコのスパイが数千人いる」

 相反する2つのナショナリスト的な言説の影響で、この町には疑念が漂っている。「ギリシャの極右の人々は我々をイェニチェリ(オスマン帝国の兵士)と見なしています。エルドアン大統領は、我々をソイダス(トルコ語で『親戚』の意味)と呼ぶのです」と、ペルヴィン・アユアラ氏は賑やかなカフェに座って大きな声で事細かに語った。西トラキア地方の文化教育基金の代表である同氏は、2017年末にエルドアン大統領がこの地域を訪問したことも思い出す。同大統領はトルコ系のこのコミュニティに対して、ギリシャが「差別」していると告発していた。

 匿名希望のあるギリシャ正教徒の女性はこうつぶやいた。「ギリシャ当局はトルコに負けています。この地域での存在感がより大きいトルコには、さらに力があります。トルコはこの地域に数千人のスパイを放ち、そして毎年、コモティニのトルコ領事館に数百万ユーロの予算を与えているのです」。領事館をよく知っているペルヴィン・アユアラ氏はこう話す。「領事館は外交的な任務しかしていません。エディルネ(コモティニから200km程度離れた、ギリシャとの国境に面したトルコの町)にあるギリシャの領事館と同じです」。トルコ領事館の外観は、コモティニの家々の傷んだファサードとは対照的だ。緑色の高いフェンスに囲まれた建物は、監視カメラと黒服の警備員に守られている。

 「ギリシャの我々に対する待遇はいいですよ。ギリシャは我々のコミュニティの発展に気を配っていて、信仰の自由も認められています」と、静かなオフィスでセリム・イザ氏はギリシャを褒めちぎる。ギリシャからイスラーム教徒の財産管理委員会の委員長に任命された同氏は、自慢そうに美しいシャンデリアとコモティニの20あるモスクの1つが改装された明るい部屋を見せた。「しかしギリシャとトルコの関係が悪化し、領事館が影響力を拡大すればするほど、領事館はより強くトルコ系少数派の認知を求めるのです」と、町に祈祷の時間を告げる呼びかけが響く中、用心深い目つきで同氏は付け足した。

 2020年12月10日から11日に行われた欧州理事会の後にEUは、東地中海での探査活動を理由にトルコに対して第1段階の制裁を科すと発表した。個別的な措置としては、探査活動に関係する責任者を対象とするものになるだろう。ギリシャは武器の輸出禁止など、より強力な措置を求めたが、今のところは退けられた。「あれはカギとなる提案でした。我々はトルコのさらなる武装化を懸念しています。海軍力の面では、たとえばトルコはドイツから6隻の214型潜水艦を手に入れようとしています。エルドアン氏はこの程度の制裁で喜んでいます。実際には取るに足りないものだからです」と、1986年から89年にかけて在イスタンブール領事だったギリシャの外交官ゲオギロス・カクリキス氏は説明する。エルドアン大統領は「良識ある」国々が「前向きな取り組み」をしたと満足げに虚勢を張ってみせた。EUは、トルコが「違法で攻撃的な」活動をやめなければ、2021年3月に追加措置をとる可能性があると表明している。


  • (1) Cf. Gilles Bertrand, Le Conflit helléno-turc, Maisonneuve et Larose - Institut français d’études anatoliennes, Paris-Istanbul, 2004; Georges Prévélakis, Géopolitique de la Grèce, Complexe, Bruxelles, 2005.
  • (2) 国連憲章第7章第51条「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」
  • (3) 国家が主権的権利を行使できる海域。
  • (4) Cf. Colin Martin Tatz, With Intent to Destroy : Reflecting on Genocide, Verso, Londres - New York, 2003; Kostas Faltaits, The Genocide of the Greeks in Turkey : Survivor Testimonies from the Nicomedia (Izmit) Massacres of 1920-1921, Cosmos Publishing - Attica Editions, Athènes, 2016; Olivier Delorme, «Aux origines de la Grande Catastrophe», Desmos/Le Lien, n° 21, Athènes, 2005.
  • (5) 1920年8月10日に締結されたセーヴル条約の第65条~83条。「スミルナの町と第66条に記載されている領土は、トルコが主権を保持するが、ギリシャ政府の行政権下に入る」(第69条、70条)
  • (6) Émile Kolodny et Régis Darques, «Turcs, Grecs et réfugiés dans l’île de Lesbos au XXe siècle», Méditerranée, n° 103, Paris, 2004.
  • [訳注1] セルジューク・トルコ族が建てたイスラーム王朝 (1037~1157) 。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)
  • [訳注2] オスマン帝国第10代皇帝(在位1520~66)。在位中に13回の対外遠征を行って領土を拡大し、オスマン帝国を最盛期に導いた。(ジャパンナレッジより)
  • [訳注3] かつてオスマン帝国が支配するか影響力を及ぼした中近東などに、現代のトルコ共和国の政治的・外交的関与を広げようという政治的イデオロギー。(Weblio辞書より)
  • [訳注4] カリブ海南部にあるフランスの海外県。面積は1,628㎢。


(仏語版2021年1月号より)