政治に翻弄される被支援者たち 

人道支援、その実態 



フレデリック・トマ(Frédéric Thomas)

政治学者
三大陸センター(Cetri)研究員、リエージュ大学社会科学部講師

訳:中桐 誠 


 世界で人道支援に使われた額はここ20年で5倍に膨れあがったが、そのほとんどは先進国の組織が占めている。どのような建前であろうとも人道支援は政治の一形態に過ぎず、その思惑の影に現地の自主性や被害者の自立はしばしば蔑ろにされてきた。[日本語版編集部]

(仏語版2020年4月号より)


 ここ20年間、世界で人道支援に当てられた額は5倍になり、年額289億米ドル(263億ユーロに相当)に達した(1)。この支出規模の増大にともない、多くの組織が設立されてきた。有志によって立ち上げられた現地の団体から、国連の代理機関やプログラム、国際赤十字・赤新月運動、そして国際NGOにいたるさまざまな組織がそれである。しかしながら、相次ぐ危機の発生を主な要因として、利用可能な資金と需要のギャップは深まるばかりだ。武力紛争、それに気候変動や急速な都市化に起因する災害が、より多くの人をより長期にわたって巻き込むようになったのである。2018年には、こうした災害の被害者[訳注1]は2億600万人にのぼると推計された。

 また、このギャップは国際援助自体が機能不全に陥っている結果でもある。援助協調の欠如、現場への理解不足、現地関係者の敬遠などが国際援助の目的を達成する障害となっているのだ。これらの問題は、昔からよく知られてきたし特定されてきたにもかかわらず(2)、プロジェクトごとに絶えず繰り返されてきている。緊急に対応しなくてはいけないからだとか、人員がすぐに入れ替わるから、インスティテューショナルメモリー[組織に蓄積された記憶]が欠けているから、などといういつもの言い訳の影に隠れて、支援に関わる人々の関係の非対称性を筆頭とする構造的な要因が見えなくなっているのだ。

 実際のところ、2017年の世界における人道支援に関わる支出総額の3分の2は、たった12の国際NGO(セーブ・ザ・チルドレン、国際救済委員会、国境なき医師団、オックスファム、ワールド・ビジョンなど)と国連機関(3)が占めていた。これは、国及び地方レべルで活動する現地組織の22倍の額に相当する(4)。つまり、限られた国際的な組織のみが、北半球すなわち米国、欧州連合及び旧大陸のいくつかの国に集中するパイを手にしているのだ。これらの国は人道支援の主要な供出国であり、他の国々を大きく引き離している。しかしながら、ここ数年でトルコ、サウジアラビア、アラブ首長国連邦が新たに供出国上位20カ国に入る重要なドナーとなった。この動きは上記の国が地域・国際場裡で優位に立つために展開する戦略に起因するものであり、シリアやイエメンでの戦争に象徴される情勢がその背景にある。

 人道支援は、出資者や寄付者といった「上流」から生ずる。彼らに対しては報告義務があり、彼らが支援の優先項目や対象地域を決定するのだ(5)。支援の遂行自体も、緊急性の論理、英語の使用、「国境なき」職員たちの社会的属性の平準化や彼らの共有すべき文化規範への同調圧力の影響下にあり、この力学を助長する。その影で犠牲になるのは、現地で支援活動を行う人たちであり、その背後にいる被害者たちである。2010年のハイチ地震後に国連によって集められた24億米ドルの資金のうち、現地のNGOと政府に直接渡されたのはほんの一部だ。それぞれたった0.4%と1%である。このようにして彼らは、世界の中で、もともと限定された役割から遠隔指示で動く復興作業の単なる下請けの役割へと追いやられたのである。これは極端なケースだが、例外的なものではない。先進国は自分たちのプロジェクトの出資に際して自分たちのNGOを優先的に採用したがるのだ。現地の組織は、先進国の機関が要求する会計上及び手続上の能力水準に達していないとして、無視されないまでも過小評価されているのである(6)。実際のところ、現地の組織が受け取る直接支援は3%にも満たないのだ。

 この不均衡を考慮して、2016年5月23日から24日にかけてイスタンブールで開かれた世界初の人道支援サミットに参加した主要な出資者及び組織は、2020年までに人道支援資金の4分の1を国及び地方レべルの現地組織に割り当てることを約束した。そしてその資金は「可能なかぎり直接的に」支払われること(「ローカライゼーション」の原則)とされた。この決定には、2014年5月から2015年2月にかけて事前に行われた、中東及び北アフリカの5カ国における1,231名にのぼる国際援助の「受益者」を対象とした調査の結果が一部影響している(7)。彼らは、自身の意見がどれほど考慮されているかについて1から10の点数をつけることを求められたのだった。結果、回答の平均は3を下回った。7カ国にまたがる約5,000名を対象とした2018年の別の調査結果によると、イラクとレバノンにおける調査対象者のうち80%以上が「得られた援助によって自立が可能になるとは思わない」と回答し、対象者全体の半数以上が、自分の意見は「考慮されていない」若しくは「ほとんど考慮されていない」と回答した(8)

 上述の評価は、人道支援における被害者像の安易な決めつけを打ち砕くものだ。被害を受けた人たちは無力で受動的であると考えられているが、これは明らかな間違いである。実際は、外国の組織(やメディア)が到着するまで被害者自身が最初の24時間で最も多くの身の周りの人々を救う存在なのだ。2004年にはすでにマルク・ニスカラ国際赤十字事務総長が「『無力な被害者』と『完全無欠な人道支援者』の神話を一掃し、災害の影響を受けた人々とその人々自身の持てる力を人道支援業務の中心に据える(9)」ことを呼びかけていた。15年経ってもこの神話がしぶとく残っているのは、人道支援業界がそれを自身のイメージの中心に据えているからであり、また業界にとって都合がいいからである。

 被害者は打ちひしがれており、途上国政府は無能で、腐敗している、若しくは全体主義的(又はそのいずれもが当てはまる)といった混乱状態のイメージは、事実、外国から行動を起こすべき必要性を正当化している。政治に対する失望と、自分は善いことをしているという確信によって自身の正統性を信じて疑わず、そこに客観的な分析の入り込む余地はない。被害者たちは、実際には声をあげる能力があるにもかかわらず、自国の政府や、自分たちがすべてを決めるのだとする人道支援関係者、そして国際関係の多角化によってしばしば沈黙を強いられている。人道支援の歴史は、悪意なしに絶えず過ちを犯しつつも、その意図の純粋さと、とりわけその独立性を保たせる必要があるという理由のもと常に名誉を挽回してきた歴史であると表向きには語られる。こうした物の語り方は、支援活動の中で働く他の力関係を覆い隠しているのだ。

 この種の事例で一番の好例は、1994年のツチ族大虐殺の際のルワンダへの緊急人道支援に対する評価である。当事例では、ルワンダに降り立ったばかりの外国の支援者や記者たちが、現場の様子を見せることは有効な支援につながることだと履き違えて、先進国の視聴者にとって非常に分かりやすい「助ける側」からの出来事の見方を一緒になって作り上げたことが際立った。しかし、このことによって、難民の大量流出の裏で軍事的、外交的、政治的思惑が働いていたことや、国際的な関係主体が事態の進展を予測できておらず協調もできていなかったことが見えなくなってしまった(10)。問題は別の所にあり、政治的解決が必要であったにもかかわらず、人道支援をしていることは、西洋諸国が道徳心に欠け行動しないことの隠れ蓑に使われたのである。結局のところ、犠牲者の大部分は人道支援が不十分なせいで亡くなったのではなく、虐殺によって亡くなったということだ。

 それから25年が経っても同じ語り方は続いており、政治的選択の結果であるところの不公正で不平等な状況を、自然な要因かそうでなければ不幸な運命のせいにしてまたもや覆い隠している。西洋の9カ国にまたがる約60の新聞紙や週刊誌によるニュースの取り上げ方について2006年1月に行われた調査は、メディアによる報道の程度と災害の規模には相関性がなく、先進国の経済的・戦略的関心事こそが取り上げ方を決めるのだと結論づけた(11)。たとえば、2004年にインド洋を襲った津波の観光業に対する影響は、メディアにおいて不釣り合いに大きく取り上げられている。逆に、ある災害がメディアで大きく扱われれば扱われるほど多くの支援組織の関心を惹き、それら組織は自らがより目立とうと争い、結果として支援の協調に向けた努力を脅かすのである。ここにおいて、現地に赴くことは自己の存在を示すこと(つまり信頼できること)、予算を確保すること(つまり実現可能であること)、支援の必要性をより確かなものにすること(つまり正統であること)を意味するのである。支援の妥当性は、人道支援が市場と化した中では、もはや重要ではないのだ。

 人道支援の関係者は助成金、メディア、政策決定者に非常に近しい位置にあるが、その事実を一般に知られていないが故になおのこと大きな力を持っている(12)。フィリピンのNGOであるEcosystems Work for Essential Benefits Inc.(Eco-web)事務局長であるレジーナ・サルヴァドール・アンテキサ氏は、イスタンブール・サミットで採択された支援のローカライゼーション原則は「不公正、不平等、力の非対称性といった問題と共に取り組まれない限り意味を為さないでしょう」と述べている(13)

 いかに迅速に行われようとも、災害への事後的対応よりも、インフラ建設、民間防衛[訳注2]、公共サービスあるいは災害予測に資金と時間を投じた方がより効果的であることが明らかとなっている。2015年、北米のNGOマーシー・コー(Mercy Corps)はサイクロン・パムに襲われた後のバヌアツで必要なものを調査するため小さなミッションを送った。その結果、同NGOは、現地政府及び機関が十分な物品を持っており混乱もきたしていないことを認め、果敢にも支援を行わないことにしたのである。同年のネパール地震の際、欧州諸国はこのような賢明さを持ち合わせていなかったために、何ら調整することなくカトマンズへ約15の緊急援助隊を急行させたのだ。これは現地の実情を度外視したものであり、彼らが現場に着いたときには、被災地により近い中国、インドそしてパキスタンのチームがすでに到着していた。結果、支援物資の管理・供給作業と関係者間の調整に負担がかかり、空港は飽和状態となった。そのためにフランス、ベルギー、ニュージーランドからの飛行機の到着が数日遅れ、これらの支援を無駄にしてしまったのだ。

 これらの恥ずべき失態は、2018年11月の地震の際にインドネシア政府が外国から来た支援者の展開をコントロールした理由を説明するだろう。より目を見張るべき取組として「受益者」の自立がある。2018年11月にバングラデシュのロヒンギャ難民キャンプ内の複数コミュニティによるストライキを指導したモヒブ・ウラー氏は以下のように言明した。「もしも我々が自らの問題を解決したいと願うならば、我々自身の手で解決しなくてはなりません。国際的な組織は手助けをしてくれるにすぎないのです」(14)

 さまざまな社会的関係を政治から切り離すことに努め、政府の無能ぶりを明らかにしながら効率性を向上させようとする、それと同時にどうやって政策決定者に上述の問題の解決を呼びかけることができるのだろうか。加えて、人道支援はしばしば政治的営みの隠れ蓑となっている。政府機関は自らの名で行動する代わりに、より一層説得的で正統にみえる人道支援というチャネルを用いるのである。その目的は、パレスチナがその象徴的な例であるように、自らの不作為を埋め合わることであったり、反対に能動的政策を勢いづけることであったりする。地政学者デヴィッド・ハーヴェイ氏の言葉を借りつつ、人道支援を通じた民営化の進行についても語ることができよう。人道支援の当事国において、社会サービスの「NGO化」がみられるのではなかろうか。国際援助はこのようにして、生命を救う最も有効な手段でありつづけている保健衛生の公的システムに取って代わろうとしているのだ。政治に対抗しようとするものは、人道支援と名乗ったとしても、実際にはそうではない。それはもはや新たな別の政治なのである。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年4月号より)