世界の果てか、自宅の庭先か 



フィリップ・ブルドー(Philippe Bourdeau)

グルノーブルアルプス大学付属都市計画及びアルプス山脈地理学研究所教授

訳:福井睦美 


 Covid-19による公衆衛生危機は、肥大し続けていた観光産業の「娯楽活動の商品化」というビジネスモデルを窮地に陥れた。感染拡大を阻止するために人々の移動が制限されるという、この産業の根幹を揺るがす事態は、観光の地域的、文化的な限界を顕在化させた。コロナ後の観光産業はどこへ向かうのか。余暇の過ごし方自体が変わる可能性もあるのだろうか?[日本語版編集部]

(仏語版2020年7月号より)


 新型コロナウイルスの感染拡大を抑制するための対策は、「グローバリゼーションの一般的な認識(1)」をかき乱し、人の自由な移動を麻痺させた。そしてそれを基盤にしていた観光産業は、経済的、社会的ショックの代名詞のようになった。観光産業は感染症拡大の原因を作ったのか、それとも感染症拡大から結果を被ったのか? 旅行というものはコロナウイルスの拡散に少なからぬ役割を果たし、そのため海水浴場やスキーリゾートが脅かされている。それは、旅行が地球温暖化にもたらした影響とまるで同じことだ。

 世の中全体の動きが止まったことは、突如として「他所との関係」に疑問符を投げかけた。結局いつでも遠いものよりも近いものの方が重要になるという、プロクセミックス(近接学)の「鉄則」が再浮上したのだ(2)。外出禁止措置が解除された後、クラブメッドの社長が期待しているような「今この時を最大限に楽しもう」というリバウンドの風潮がみられるだろうか? あるいはそれとは逆に、日常生活の距離感を基準にして測り直した「他所との関係」を徐々に学び直すことになるのだろうか?

 「マダガスカル島? いや、ジュラ山脈だ!」、「遠くに行かずにいい気分を味わおう」……。2007年の金融危機後に練り上げられたスローガンがまた持ち出されている。「ここ、よそ」という二項対立を越えて、それらのスローガンは近場の魅力や良さを称賛する。「他性」[自分ではない人、物、場所]というますますストレスの原因と受け止められるものを避け、地元に視線を移すことで安心するこのやり方は、近場の魅力の再発見として、またいつまでも癒しをもたらし続けるものとして受け入れられるだろうか? それとも危機状況下の観光、つまり異国情緒も味わえない、物足りない代替策なのだろうか? 自転車は、人との距離を保つのに適し、二酸化炭素を排出しない移動手段として、また、目的地が全ての滞在型旅行ではなく、そこに辿り着く行程そのものに価値のある周遊型旅行の手段として、言われているような熱狂的人気を博すだろうか。反対に公共交通機関の過密によるリスク回避策として、自家用車が長期的な防御カプセルの役を担うかもしれない。あるいは移動手段と宿泊場所を兼ねる現代版キャラバン[旅芸人、ジブシーなどが家代わりに使う大型馬車]としてのキャンピングカーで、家族や友人と用心深く殻に閉じこもるようなやり方が流行るかもしれない。

 いくつかの例外的観光地を除き、これまでは人の流れやそれにともなう迷惑を規制するはっきりとした方策はあり得なかった。なぜなら成長という絶対的価値のために集客数記録を達成するのが至上命令だったからだ。それが、通行、入場、催し物や公演の観客数制限など、数を管理することが規則となった(一時的にだろうか?)。だからといって、小さな観光地、少人数のグループ、小規模の宿泊施設、少人数の催し物がもっと人気を集め、空間的にも時間的にも小規模化と分散の効果が高まるようになるだろうか? その点では、「広い空間」(外洋、山、森林など)が、これまでの一極集中型の観光スポットから遠くかけ離れた、必要とされる人と人との距離を提供することのできる避難場所的な旅行先となるかもしれない。ただし、衛生上の配慮から宿泊施設の収容数が削減されることになれば、別荘オーナーは優遇されるものの、一般にはさらに利用しにくいものになるだろう。

自粛、諦め、「世界を自由に手の届かないものにする」ことに貢献する

 積極的な方策で自粛や諦めを促するような成り行きももちろん想像できる。飛行機の利用を控える、旅行の回数を減らす、近場で済ます、速度を落とす、時間をかける、地球上の夢の旅行先を何としても全部踏破する企てを諦めるなどだ。ドイツの哲学者ハルトムット・ローザが示唆するように(3)、このような方策は、観光業界が仕掛ける「経験」を積み重ねる旅行の可能性とは逆に、身近なものに改めて驚嘆する可能性をもたらしつつ、「世界を自由に手の届かないものにする」ことに貢献するかもしれない。逆に、多少でも強制力を行使して社会を管理しようとすれば、「ラストチャンスの旅行」を助長する可能性もある。氷河、氷山、グレート・バリア・リーフのサンゴ礁など、世界中の滅びゆく美しさを大急ぎで「楽しんでおく」ようなことだ。

 これらの方策は、山スキー、夜中の野外活動、都市探検など、ちょっとしたことから法に触れかねないことまで、開発者や管理者が想定した枠から外れる反逆的な娯楽方法(4)を引き起こすだろうか? また、近場、日常、質素さ、じっとしていることやゆっくり動くことの中に再びユートピアを見出だす、観光の慣例を破ったり裏をかきながらの実験的な旅行スタイル(5)もあり得るだろうか?

 新型コロナウイルスが出現するまで、観光産業は、化石燃料への依存を減らすという目標と常に矛盾しながらも、経済危機と環境危機によく持ちこたえて拡大してきた。観光は、場所を移すことができないので他で代用できない産業の一つであるという大前提が幅を利かせていたのだ。しかし今回の公衆衛生危機はこの共通見解が、ある平凡な条件、つまり大勢の人を輸送する能力のことを見落としているという事実を明らかにした。そしてこの脆弱性が発覚したことで、観光政策の二つの見落とされていた課題がはっきりした。一つは、どちらかというと時代遅れにみられていた地元や近隣地域の顧客を優先することだ。業界はこれらを積極的に宣伝文句に入れ直すことになる。もう一つは、観光産業が単一産業となり脆弱性の一因となっていた多くの地域で、その依存度を下げることだ。観光産業は「観光のモノカルチャー化」と不確実な収入源への依存に終止符を打つことを目標にしており、それは「地元回帰」と「地域経済の多角化」という二重の課題を見事に描き出している。

 コロナ危機が与えたこれら2つの教訓は、感染症収束後に観光産業が急ピッチで復興しようとする勢いに持ちこたえるだろうか? 下院野党の社会党系グループが提案する「早く広く復興させる」という公約(6)は、またもや公的財源の配分修正の問題を提起する。結局、国と地方自治体は観光産業の伝統的な担い手を救済することが求められている以上、新しい観光産業のあり方への移行という課題に真正面から取り組む戦略的なビジョンが必要となるだろう。現状、この業界を支援する取り組みのうち唯一の画期的なものはデジタル化の領域で、世界観光機関(UNWTO)の取り組み(7)がその一例だ。それらは多くのアプリケーションを利用してサービスへのアクセス、手続きの最適化など、顧客と事業者をより効率的に繋ごうとしている。これまで長い間「パッケージの提供」が支配的だった観光産業の通説が、テクノロジーによる「ソリューショニズム」、つまり「ここをクリックしてすべてを保存」流の「デジタル万能主義」(8)を基に再編成されている。だがこの「じっとしたまま解決しようとする態度の急速な拡大」(9)は根本的な問題を少しも解決しない。それはまた、新たな社会技術への依存と脆弱性を予言している。もし次なるウイルスがコンピューターウイルスだったらどうなるだろうか? ありとあらゆるところに広がったデジタル世界の存在は、逆に人間関係、社会のイノベーション、共生環境を基盤にしたニッチ的観光を強化するだろうことはもちろん想像できる。しかし、それよりもっと確実なのは観光業者の集中と統合が進むことだ。これはもうだいぶ前からAirbnbやBookingのプラットフォーム・ビジネスでわかっていたことで、その先には独立事業者や小規模企業の不安定化と従属化というシナリオが待っている。

和やかさかどんちゃん騒ぎか? 「デジタルデトックス」かWiFi三昧か?

 観光産業は数十年の間に、地域に根ざした手作り事業からグローバル産業に、創意工夫からテクノロジーへと移行したことで、日常から自由になったり、新たなものに適応したりするという能力の大部分を失ってしまったようだ。休暇旅行にでかけられるかどうか、それ自体の不平等が広がるのを背景に、旅行は日常のストレス発散の役割を持って消費と癒しの聖域になった。この意味で観光産業は、幸福の産業というモデルで脱政治化と個人主義化を押し進める強力な仕掛けだ(10)。コロナ禍により文化的、環境的、経済的な対立が頂点に達し、観光産業は他の産業同様、「環境保護」と「消費主義」という2つの規範のジレンマに直面している。瞑想モードか、ハイパーアクティブモードか。自然にどっぷりつかるか、遊園地に行くか。家庭的な手作り装置か、高級で大掛かりな設備か。伝統的な祭りか、奔放なクラブライフか。和やかな集まりか大勢でのどんちゃん騒ぎか。「デジタル・デトックス」(パソコンやスマートフォンなどから一定期間離れること)かWiFi三昧か。誰にでも手の届く観光旅行か、グレードアップした特別な旅か? これらの対比は特別なものではない。現代社会に特有な複数の相対する命題の根本に横たわる文化的世界を体現している。スピードアップかスローダウンか? ハイテクかローテクか? 既製品かオーダーメイドか? 成長か脱成長か? ずっとインターネットに接続し続けるか、それとも切断か?

 地域レベルでみると、観光産業はえてして地代や不動産収入などの固定的な収入に裏付けられた強い保守的な傾向を生み出しており、それらの収入を得ている人々は多角化や変革にはあまり好意的ではない。この消極性を前にして、娯楽の追求よりも自己達成感を求めることで商業的快楽主義への抵抗を示すのはむしろ旅行者や一部の事業者の側だ。観光業界が独自に構築していた枠組みや規範は、危機によってライフスタイルが見直されることで破られ、訪れることから住むことに焦点が移ることもあるほどに覆えされてしまった。現れ方に程度の差はあるものの、観光に「背を向ける」ような行動がそっと進行しているのがわかる。手仕事や文化活動、庭仕事、慈善活動、ボランティアや団体活動、地元交流、瞑想、「生きていることに喜びを感じる」ことなどだ。観光をより持続可能で責任や道徳を重んじる連帯的なものにしようという30年間の努力は、それを越え、そこから脱却する歩みに道を譲った。従って、観光産業の別の形態という以上に、観光産業に取って代わるものが問題になっているのだ。確立された観光の枠組みから逸脱しようとするすべての試みを封じ込めようという業界の継続的な努力ですら、この動きを妨げることができない。

 外出禁止令が引き起こした観光産業の衰退は、報じられている経済危機により決定的なものになるだろうか? 観光地からマスツーリズムを締め出し、特権階級がその利用を独り占めすることで、彼らだけがより良い観光体験をするようになるのではないだろうか? もう一つの可能性は、この危機を機に有産階級が観光地を逃避場所として落ち着いてしまうことだ。そういった地域では、不確実な時代に安全な投資先を提供するための不動産開発業に観光産業はもう必要なくなる。もし地域にとって、年間を通じての居住者を増やすほうが観光客をより遠くから誘致するモデルよりも経済的、環境的に望ましいとわかれば、観光地の方向転換の可能性がでてくる。大勢が集まる場所から遠ざかろうとする「遠心的」行動の企画開発力と、まだ「観光」とみなされているものの政策転換の必要性とが交わるところで、地域レベルも含め、議論が必要不可欠のようだ(11)



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年7月号より)