次の「この世の終わり」までに…… 


ルノー・ランベール(Renaud Lambert)

本紙副編集長

ピエール・ランベール(Pierre Rimbert)

本紙記者

訳:村上好古


 コロナウイルスによる感染症の流行で我々の社会システムが揺らいでいる。その影響がこれほどまで大きくなったことには、我々の側に何らかの理由があるのではないか。グローバル化とともにひたすら自由主義経済を推進して来たことの意味を、改めて考えてみる必要がある。我々は、これを機に、これまでの社会・経済理念と訣別し方向転換を図ることができるのだろうか。[日本語版編集部]

(仏語版2020年4月号より)


Dhruvi Acharya. – « Battle »(戦闘), 2018

© Dhruvi Acharya - www.dhruvi.com

 手品の秘訣は、観客が目の前にあるものに気がつかないよう、彼らの注意を逸らせることにある。COVID-19の流行に関しては、2つの山のあるグラフがその技の見せどころであり、全世界にテレビ放映されている。横軸は時間、縦軸は重症者の数になっており、曲線のひとつは、ピークがとがっている。これは対策を何も講じなかった時の影響の大きさを示しており、病院の最大収容能力を示す水平に引かれた直線を突きぬけている。もうひとつの曲線は、外出禁止措置がとられ感染が抑制された場合の状況を示しているが、カメの甲羅のような形の小さなこぶを作った後、運命の分かれ目となる水平線の下に沈み込んでいる。

 ワシントン、次いでソウル、ローマ、ダブリン、パリと各地で用いられているこのグラフは、医療サービスが飽和状態になるのを回避するため、感染拡大のペースを薄く均(なら)すことが急務であると指し示している。ジャーナリストは2つの曲線のカーブに注目させる一方、ある重要なことに触れずにいる。グラフの真ん中にあって、あまり興味を呼ぶことのない重症者受入れ可能ベッド数を示す直線のことだ。この「危機状況の臨界点」となる数字はあたかも所与のように提示されているが、政治的な選択の結果なのだ。

 「曲線を均す」必要があるのは、数十年にわたって、緊縮政策のために医療サービス分野で収容能力が削減され、その水準が引き下げられたからだ。1980年にフランスでは、すべての病院を合わせて病床が住民1,000人につき11床用意されていたが、今は6床しかなく、マクロン政権の保健大臣は、この貴重な資源の割り当てを「ベッドマネージャー」(ベッドの管理プログラム)に委ねると2019年9月に提案している。

 アメリカでは1970年に住民1,000人につき病床が7.9床あったものが、2016年には2.8床に減少している(1)。世界保健機構(WHO)によれば、イタリアは1980年に、住民10万人に対し922床を「急性期医療用」[重症者をはじめ早急な入院加療を要する傷病者等のためのもの]に供していたが、30年後には275床になった。合言葉はどこでも、「コスト削減」だった。病院は自動車生産工場と同じように「ジャストインタイム」で機能すべきとされた。その結果たるや、去る2020年3月6日、「イタリア麻酔、鎮痛、蘇生、集中治療協会」(Siaarti)は同国の緊急医療の現場を、「医療崩壊」になぞらえ、「医療資源が不足」しているために「集中治療の対象者に年齢制限を設けることが必要になるかもしれない」と警告したのだった(2)。フランスでは、グラン・テスト地域圏[訳注1]で、今や「戦時医療」という言葉が普通に使われている。

 コロナウイルス危機はこのように、病気が危険であることと同時に、医療システムの質の意図的な低下に起因している。「責任ある信条のエコーチェンバー」[訳注2]である大手メディアは、いつもながら、これらの政策的な選択に批判の目を向けることなく、「誰を救い誰を見放すかどうやって判断するのか」といういかにも深遠な哲学論に読者や視聴者を引き込んでいる。しかしながら今回は、倫理的なジレンマを持ち出してその後ろに政治的な問題を隠しておくことは難しいだろう。それはCOVID-19の流行で、誰もが思っていたよりもはるかに異常な経済構造が目に見えてきたからだ。割り当てられた発着枠を維持するため航空会社は飛行機を空のまま運航したし、一方である研究者は、コロナウイルスの基礎研究が、自由主義を奉ずる官僚機構のせいでどれほど阻害されてきたかを語った(3)。スタンフォード大学で生態系について教えるマーシャル・バークは、この異常さを理解するには尋常の考えは役に立たない、と言わんばかりに、次のパラドクスを指摘した。「COVID-19のおかげで中国の大気汚染が緩和されましたが、それによって、この感染症で命を失った人のおそらく20倍の数の命が救われたのです。COVID-19の大流行が有益だと言っているのではありません。私たちの経済システムがどれほど健康を害しているか考えた方がよいということです。コロナウイルスがあってもなくても同じです」(4)

 この「ばかばかしさ巡り」[訳注3]の最たるものは、生産工程の海外移転のせいで薬品が不足するリスクでも、イタリア政府が医療対策の第一歩を講じた時同国の評価にペナルティを課した金融市場の執拗さでもない。それは病院の扉の向こう側にある。2000年代半ばに導入された「治療実績に応じた報酬制度」(T2A)では、必要性を勘案した計画に基づくのでなく、商店から送り付けられる請求書と同じように、実施された医療行為の数に応じて施設への資金配分が行われる。アメリカに倣って導入され医療を商品のように扱うこの原則が今回の危機においてもなお適用されたなら、より重症の患者を受け入れる施設を瞬く間に困窮させることになるかもしれない[訳注4]。なぜなら、COVID -19の重大症状に対処するには一番に人工呼吸器の装着が必要であるが、施療に多くの時間を必要とする一方で、感染症のせいで先送りされている諸検査に比べ、料金体系の中で報酬が少ないからだ。

 このウイルスは、平時では考えられないような厳しい外出禁止措置を引き起したが、そのおかげで、社会的な隔たりの間にある壁がしばし打ち破られたように見えた。卒然として、ウォールストリートの銀行家と中国の労働者が同じ恐怖に慄いたはずだ。しかしすぐに、やはり金がものを言うようになった。一方で、庭付きの邸宅にこもって、足のつま先をプールの水につけながらテレワークをしている人がいる。他方、介護士、清掃作業員、スーパーのレジ係、運送業の配達員など、日常の細々したことに携わる普段は目立たない人が、裕福な人たちの避けたリスクを背負うようになったがために初めて社会の表面に出てくる。テレワークする人でも、子供たちの騒ぐ声が響く狭いマンションに閉じ込もっている人がいるし、閉じこもる家があれば、と思っているホームレスだっている。

集団的で組織的そして広範な取組みがなければ、出口はない 

 14~18世紀における「ペスト禍の時代の集団行動の類型学」の中で、保守派の歴史家ジャン・ドリュモーは次の不変の定理を見出している。「感染の危険が起こると、人々はまず、それを見ないようにする」(5)。ドイツの文筆家ハインリッヒ・ハイネの記録では、1832年にパリでコレラ流行が公表されると「パリ市民たちは、明るい日差しの気持ちの良い日であっただけに一層快活に大通りをはしゃぎまわった」(6)。そして金持ちは田舎へ逃げ出し、ついで政府は街を封鎖した。すると突如――ドリュモーは語る――、「家族のきずなが崩れる。不安は、病気のせいだけではなく、日常の環境をつくり上げていた諸要素が破壊されることによっても生まれるのであり、すべてが変わる」。武漢、ローマ、マドリッド、パリなど封鎖された街の住人は、そのことをかつてない規模で感じている。

 中世やルネサンス期の大ペスト禍はしばしば最後の審判の兆候のように解釈された。つまり、終局が迫るこの世界に解き放たれた復讐の神の怒りの徴(しるし)なのだ。その時人々は、恩寵を求めて天の方を向いたかと思うと、今度は犯人を探しに近隣に目を向けた。その結果ユダヤ人と女性が標的になったが、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの『ペストにかかった動物たち』の中で[正当な理由なく]罪を着せられるロバがこれを寓意している。21世紀のヨーロッパで今、世俗化された社会にCOVID-19の流行が襲い掛かっているが、2008年の金融危機以来この社会は、環境、政治、金融、人口動態、移民といった各種の面で、程度の差こそあれ、[神でもない我々には]「制御不能」という感覚に陥っている。

 炎に包まれたノートルダム大聖堂のイメージと、来たるべき世界の瓦解に関する議論とが入り混じる「この世の終わり」という空気の中で、人々の関心は公権力の問題へと向かう。国家は、医療システムを破壊するという意思を曲げることなく問題深刻化の原因となっている、かと言って流行性感染症への対応を命令したり統制したりできる唯一の権威なのだ。しかしどこまで踏み込んで行くものなのか。2月中は、中国の湖北省住民5,600万人の数週間におよぶ隔離、工場の強制的な操業停止、カメラと拡声器を備えたドローンによる市民への警告といったことに対し、ヨーロッパでは、中国共産党の強権を揶揄したり慎重な姿勢をとる論評がわき起こった。エクスプレス誌の3月5日号は「感染症の流行がどれくらい続くのかに関して中国の経験からは、何も学ぶことができない」と論じた。「思い切った封鎖を行ったことで中国では流行が弱まったが、こんなことは、我々の民主主義のもとではおそらくまねができないだろう」。ああ何ということか、「我々の」価値観の優越性に頓着しないウイルスに立ち向かうには、中央集権的な決定を第一にし、経済の自由主義は二の次にするという決意が要るのだ。

 WHO事務局長のテドロス・アダノム・ゲブレイェソス氏は、「感染症の流行は阻むことができる。ただ、集団的で組織的かつ広範な方法、すなわち総力体制で臨むことによってのみ可能である」と明確に語った(7)。「集団的」、「組織的」と言い、また国家と言い、「市場」とは逆のものだ。数日のうちに、社会という言葉の理解の枠組みが逆転してしまった。「全てが変わった」のだ。主権、国境、制限、さらには国の支出といった、半世紀におよぶ論議のなかで公然と「右翼ポピュリズム」や北朝鮮と結び付けられてきた概念が、これまで財貨のフローと緊縮財政への信奉で支配されていた世界に、解決の手段として躍り出た。

 言論界で時代の先頭に立つ論説家は、パニックに駆り立てられて突然、自分がひたすら何を無視してきたか分った。ダニエル・コーエンといった保護貿易主義の批判者が数年来相次いで登場しているフランス・アンテールの番組で、司会のニコラ・ドゥモランは次のように問いかけた。「今回の危機の本質は、グローバル化の核心となっている部分、つまり私たちが中国、自由貿易、飛行機に依存していることについて考え直すよう求めていることにある、と言ってはいけないのだろうか」(3月9日)

「専門家が問題なのは、自分が何を無視しているのか全く気付いていないことにある」 

 致死性の感染症の流行が勃発して初めて、何十年かにわたって医療従事者が明確に告げていた当たり前のことが権威筋の耳に届いたようだ。そうであるからには、商業理念が大きく変容したに違いない。「確かに、空きベッドを常備する役割を担う公的な病院などの医療体制を準備しておく必要があります」と、アンドレ・グリマルディ、アンヌ・ジェルべ・アセンクノップ、オリヴィエ・ミルロンという3人の医者が、[ル・モンド紙での紙上討論で]総括した。「新型コロナウイルスには当たり前のことを思い出させてくれるという有用な面があります。私たちは、消防士の給料を、単に火事の現場に駆け付ける役割だけのために払っているのではありません。彼らが消防署に居て、出動に備えてくれていることを求めているのであって、出動を待つ間、消防自動車を磨いているだけでも構わないのです」(8)

 資本主義が1929年の大恐慌から第二次世界大戦の終結まで生き続け、再生したのは、予期されないまま突然起こること(火事、病気、自然災害、金融危機など)に備えるという人々の要請を、たいていの場合渋々ではあっても、自らの構造に組み込んできたからであった。予測できないことを計画に織り込むには、市場の論理――そこでは需給のバランスで価格が決められ、起こりそうもないことは無視され、社会生活を顧慮しない構造方程式で将来がモデル化される――と訣別することが必要になる。元証券マンで統計学者のナシム・ニコラス・タレブは、市場関係者の間で最高にもてはやされていたこの標準的な経済制度の盲目振りに強い関心を抱き、おりしも2008年の金融危機の数カ月前に出版された本の中で、経済予想の専門家が短期的なことしか見ていないことを指摘した。「専門家が問題なのは、自分が何を無視しているのか全く気付いていないことにある」(9)。世界では予期しない出来事――「ブラック・スワン」と名付けられた――の増大が目立つのに、予測できない事象を無視することは、彼によれば、馬鹿げていることになる。2020年の3月末、窓際で、封鎖された街が静まりかえっているのを聞いた者は誰でも、国家自体が、蘇生用ベッドだけでなく医療政策の立案手段をも手放すのに熱心なことについて、深く考えただろう。これらは今や、多国籍の保険会社や再保険会社に独占されているのだ(10)

 COVID-19 の大流行を契機に、こうした流れを変えることができるのだろうか。不確実性や偶然性を改めて国の事業の中に取り込み、費用対効果の計算より以上のものに配意し、環境社会実現に向けた計画を策定すること、これらのことは清掃、医療、インターネットなど、現代社会を生きるのに不可欠なサービスの大部分を国営化することを意味するかもしれない。通常時にはまず起こることのない大転換だ。歴史家の目からは、体制の変化や[進むべき方向の]軌道修正、集団生活や平等についての考え方の変化といったものは、通常の政治的思考の域を越えると示唆されている。オーストリア人でスタンフォード大学教授のウォルター・シャイデルは、「いつの時代にも、最大級の平等化は、最も深刻なショックの結果として生まれた。すなわち不平等を均すに至った激変は四つに類型化される。大規模動員がかかった戦争、革命、国家の崩壊、それに死に至らしめる疫病だ」と書いている(11)。我々は果たしてそんな状態にあるのだろうか。

 一方で経済システムは歴史上、自らの非合理性が生み出し、その発生頻度がますます高まっているショックを吸収する並みはずれた能力を発揮してきた。その結果、非常に激しい動揺があると、それは一般的に現状の護持を担う者を利することになり、彼らはショックを奇貨として市場支配力を拡大する。ナオミ・クラインが2008年の大リセッションの直前に解明した資本主義のこの破壊的性格は、天然資源の枯渇や、危機の影響緩和に役立つ社会保護の仕組みの弱体化に頓着しない。楽観的な様子で、このカナダ人文筆家はこんな風に指摘した。「ショックがあると常に成長の後退が引き起こされるという訳ではない。危機に陥ると、これに対応して我々の経済は成長する、それも速く」

 フランスのエマニュエル・マクロン大統領は2020年3月12日に自らの意欲を次のように語ったが、そこで伝えたかったのはこの種の認識なのだ。「世界が数十年にわたり取り組んできた我々の成長モデルは、その欠陥を白日の下にさらした。そのモデルを、そして我々の民主主義の弱点を問い直すのだ。この感染症の流行が今、明らかにしていること、それは、収入、経歴、職業に関係のない無償の医療、そしてまた我々の福祉国家の仕組みが、コストや負担ではなく貴重な財産であり、運命の試練が襲って来た時の不可欠な切り札であるということだ。それはまた、市場原理の外に置かなければならない財やサービスがあるということでもある。我々の食糧、我々の保護、我々の基本的な生活環境を整える能力を他者に委ねるということは、気違い沙汰だ。我々はそれらを統制する力を取り戻さなければならない」。3日後、大統領は年金と失業手当の改革を延期し、これまで無理だとみなされていたいくつかの方策の実行を宣言した。解雇を制限し、予算制約をすべて取り払ったのだ。一新されたこの政策には、環境そのものが追い風になるだろう。貯蓄と管理職の年金を株式市場に向かわせるという大統領が執心している考えは、株価の崩落により、とっぴな一瞬の思い付きに見えるようになった。しかし一方で、労働法の適用の中断、国民の自由の制限、また、企業に対する融資窓口の開放や医療システムの基礎となっている社会保険料の免除、といったことは、従前の政策と全面的に訣別したわけではないことを示している。こうした多額の公的資金の民間部門への移転は、2008年の国による銀行救済のことを思い起こさせる。その付けは緊縮財政となって、労働者や公共サービスにのしかかったのだった。ベッドが減った? 確かに。銀行を救済しなければならなかったからだ。

 だからこそ、マクロン大統領に現れたこのひらめきは、リーマン・ブラザーズが倒産して間もない2008年9月某日、ニコラ・サルコジに訪れたあのひらめきを思い出させる。あっけにとられる支持者を前に、共和国の大統領は厳かに宣言したのだった。「経済のあらゆる部分に自らの論理を押し付け、それをゆがめることになった金融資本主義の終焉とともに、グローバル化とかいう思想は、終わった。(……)市場は常に合理的であるという思想は、気違い沙汰である」(12)。この言質は、危機が去るや、彼がいつもの狂気の道に戻ることの支障にはならなかった。


  • (1) Source : Organisation de coopération et de développement économiques (OCDE).

  • (2) « Raccomandazioni di etica clinica per l’ammissione a trattamenti intensivi e per la loro sospensione », Siaarti, Rome, 6 mars 2020. 

  • (3) Bruno Canard, « J’ai pensé que nous avions momentanément perdu la partie », déclaration du 5 mars 2020..

  • (4) Twitter, 9 mars 2020.

  • (5) Jean Delumeau, La Peur en Occident, XIVe-XVIIIe siècle, Fayard, Paris, 1978.(邦訳『恐怖心の歴史』、永見文雄・西澤文昭訳、新評論、1997年) 

  • (6) Heinrich Heine, De la France, Gallimard, coll. « Tel », Paris, 1994 (1re éd. :1833).(邦訳『ハイネ散文作品集第1巻 イギリス・フランス事情』、木庭宏責任編集・訳、松籟社、1989年)

  • (7) The New York Times, 9 mars 2020. 

  • (8) Le Monde, 11 mars 2020.

  • (9) Nassim Nicholas Taleb, The Black Swan. The Impact of the Highly Improbable, Random House, New York, 2007.(邦訳『ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質』、望月衛訳、ダイヤモンド社、2009年)

  • (10) Razmig Keucheyan, La nature est un champ de bataille. Essai d’écologie politique, La Découverte, Paris, 2014.

  • (11) Walter Scheidel, The Great Leveler. Violence and the History of Inequality from the Stone Age to the 21st Century, Princeton University Press, 2017.(邦訳『暴力と不平等の人類史: 戦争・革命・崩壊・疫病』、鬼澤忍、塩原通緒訳、東洋経済新報社、2019年)

  • (12) Le discours de Nicolas Sarkozy cité a été prononcé à Toulon, le 25 septembre 2008.


  • [訳注1]フランス北東部の地域圏。この地域では、アルザス地方のミュルーズ市で大規模なクラスター感染が2月に発生し、フランスで最も深刻な感染拡大地域のひとつとされる。マクロン大統領も野営病院などでの医療関係者激励のため3月25日同市を訪問した(在日フランス大使館HP)。

  • [訳注2]エコーチェンバーはもともと、音響効果を確かめる残響室のこと。情報や思想、信条などが、SNSやメディアを通じて反復し拡散されることで影響力を強めることをエコーチェンバー現象と言い、近年特にSNSについて、この現象により無定見な情報拡散が見られると指摘されることが多い。メデイアについてはこうした機能が20世紀後半から指摘されている。

  • [訳注3]『ばかばかしさ巡り』(Voyage en Absurdie)は、1946年にベルギーで出版され、ド・ゴールや当時の悪弊を風刺した本の書名。著者は、バンジャマン・ギトノー。

  • [訳注4]政府は従来から2019年中にもT2Aを含む医療制度改革を行うことを約束しており、検討が行われている。マクロン大統領もコロナウイルス対策の一環として改革の意向を示唆していると言われる(Les Echos, Le virus qui acheva la T2A à l’hôpital, 2020年3月16日)。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年4月号より)