ルイーズたちの反乱 

パリ・コミューンの女たち 


エロワ・ヴァラ(Éloi Valat)

画家、イラストレーター。
L’Enterrement de Jules Vallès, Bleu autour, Saint-Pourçain-sur-Sioule, 2010. ほか、
パリ・コミューンに関する著書多数。

訳:川端聡子


 洗濯女から女性記者まで、敵対者から「ぺトロルーズ(石油放火女)」と呼ばれ恐れられた女たちは、パリ・コミューンの戦いでめざましい働きを見せた。これは武器を手に取り、より公平で幸福な世界をつくるための戦いだ。選挙権はなくとも、彼女たちは集会で演説し、公平な賃金や託児所の設置を要求し、自由婚が認知されるよう努めた。中心となったルイーズ・ミシェルの手記をたどりつつ、いまなお生きているその思想と理想に触れる。[日本語版編集部]

(仏語版2019年7月号より)

The Berlin Wall (Louise Michel), Bryce Edwards

 1871年3月26日、パリの有権者たち22万9,167人が投票におもむいた。「自由の街、パリ」のコミューン会議の選挙のためだ。多数を占める革命派が勝利した。社会主義者、ブランキ派、急進派と穏健派の共和主義者が新しい議会を構成した。メンバーのほとんどは肉体労働者で、ほかに勤め人、職工、ジャーナリスト、自由業者もいたが、ほとんどは若い男性で、女たちには投票権がなかった。「社会主義共和国」の立法化に関われる女性市民はいなかったのだ。だがそれでも女たちは積極的に活動し、戦いに身を投じた。ジュール・ヴァレスはその様子を次のように記している。「いちじるしい現象! 婦女子が参加するときこそ、女房が亭主をかりたてるときこそ、女房が鍋の上にゆれている黒い旗を引き抜いて舗石と舗石のあいだにうち立てるときこそ、反抗に立ち上がった町の上に太陽がのぼるときなのだ(1)

 その10日ほど前。1871年3月17日から18日にかけての夜、フランス共和国行政長官のアドルフ・ティエールは、ビュット=ショーモン、バティニョール、モンマルトルにある砲廠(ほうしょう)から国民衛兵の大砲を撤去するよう命じた。用心深い政府のやり方で……。だが、これらの大砲はお金を出し合ったパリ市民のものだった。国民衛兵は大砲の引き渡しを拒否した。午前5時30分、正規軍がパリの街中に散開した。軍の電報が飛び交った。「10時20分。12区では群集が熱狂している。国民衛兵らがロケット通りをふたつのバリケードで封鎖。ほかの者はバスティーユへと向かっている……。10時30分。モンマルトルからの非常に悪い報せ。軍隊は行動を拒否した。モンマルトルの丘、大砲、捕虜は、丘を降りようとしない叛徒に奪還された(2)」。警鐘を聞いて、ベルヴィルから地獄門(現在のダンフェール・ロシュロー広場)にかけて労働者地区の人々が集まった。モンマルトルでは女と子供たちが第88歩兵部隊の将校たちに激しく抵抗していた。女たちは馬のたづなをつかみ、馬具を切り離した。そしてこう叫んだ、「あなたがたは民衆を撃ったりはしない!」「歩兵部隊万歳!」と。

 第88歩兵部隊は民衆と友好関係を結んだ。ルイーズ・ミシェルは外套の下に騎兵銃を隠し、飛び出した。「私たちは頂きに戦闘隊形をとった軍隊のいることを知りながら、突撃歩調でのぼっていった。私たちは自由のために死ぬのだと覚悟していた。私たちはまるで大地から立ちあらわれたようだった。私たちが死ねば、パリが立ちあがったろう。ある時期には、群衆が人間の海の前衛となることもある。丘は白い光につつまれていた。解放のすばらしい夜明けだ。(中略)丘の上で私たちを待っていたのは死ではなかった(中略)だが私たちを待ち受けていたのは、人民の勝利の驚きだった」。クロード・マルタン・ルコント将軍とジャック・レオナール・トマ(通称クレマン・トマ)将軍は反乱兵士たちに捕らえられ、ロジエ街で銃殺された。ルイーズ・ミシェルは目にした光景を次のように記している。「革命が起こったのだ。ルコントは三たび発砲を命令したときに捕らえられて、ロジエ街[現在のシュヴァリエ・ド・ラ・バール通り]につれてゆかれた。そこへ私服でモンマルトルのバリケードを視察にきていて見破られたクレマン・トマもつれてこられた。戦時法に従えば彼らは殺されるはずであった。(中略)三月十八日夜、ルコントやクレマン・トマと一緒に捕えられた将校たちが、ジャクラールとフェレによって放免された(3)

 当時、叛徒側で戦ったガストン・ダ・コスタは、回想録で善人と悪人を分別しようと試みた。「正規軍が退却するときまで中心となっていたのは女たちだった。ロジエ街で殺害が行われたとき、彼女たちの大半は家に帰っていた」と記した彼は、パリ・コミューン支持者でありながらも、敵方が頻繁に用いた醜悪なイメージについてもあえて筆を進める。「そのうち、シャトー・ルージュの捕虜[ルコント将軍とその部下の士官たち]にモンマルトルの丘までつきそったきわめて雑多な群衆のなかで、女房や母親たちに続いたのは、ホテル、カフェ、淫売宿から出てきた(中略)公娼と私娼の恐るべき一団だった(中略)。歩兵たちと腕を組む彼女たちにポン引きの一団がつきそう。彼女たちは突如として革命の潮に現れた塵あくたのようで、あらゆるバーのカウンターでそうした女たちが酔いしれ、この正規軍の敗北に卑猥な歓声をあげていた。(中略)そこに貧困によって堕落した何人かの乞食女が加わり、ウードン街の角でほんの少し前に殺された士官の馬のまだ温かい肉を切り裂いていた。こうした女たちすべてが酔いと憎悪に満ちた愚行をまき散らしながらモンマルトルに散らばり、ゴルゴダの丘へと向かう不幸なルコント将軍とその士官たちに忌まわしくつきそった(4)

 それから10日後の3月28日、パリ市庁舎前の広場で「人民の名において」コミューン宣言が行われた。それは壮大な祭典だった。この一大事件をたたえる大砲がとどろき、警鐘は止んだ。ヴィクトリーヌ・ブロシェはその様子を次のように記した。「今度こそ、ついに私たちはコミューンを勝ち取ったのだ!(中略)あれほどの挫折と貧窮、そして親しい人たちの死の後に安堵がおとずれ、誰もかれも喜びでいっぱいだった。(中略)小休止をとる隊の先頭では、さまざまな服装の酒保の女たちが機関銃に身体をもたせかけていた。(中略)コミューンの委員のひとりが人民に選ばれた議員の名前を読み上げると、いっせいに『コミューン万歳!』の歓声があがった(5)

 パリ・コミューンの市議会に女性の議席はなかった。女たちはデモを行い、区委員会と監視委員会を組織し、演説や宣言書を作成した。彼女たちは、イシーやヴァンヴの要塞を防衛する連盟兵の大隊で働く野戦救護看護婦や酒保の女たちであり、その後まもなくやってくる「血の一週間」の戦場で戦うことになる。

 4月11日、ある「女性市民グループ」の訴えがパリ・コミューンの『官報』に掲載された。「パリは封鎖されている。パリは砲撃されている……(中略)。外国人が再度フランスに侵攻してきたのだろうか?(中略)そうではない、この敵、人民と自由を殺しているのは、フランス人なのだ!(中略)彼らは人民がこう叫んで立ち上がるのを目にしたのだ。『権利なき義務はないし、義務なき権利はない!(中略)我々は労働を望んでいる、だがそれは労働の成果を守るためだ……。搾取者も、支配者もうんざりだ!……労働とみなの安定した暮らし、人民自身による人民の政府、コミューン、働いて自由に生きるか戦って死ぬかだ!』」

 4月12日付の日刊紙 Le Cri du peuple[人民の叫び]に以下のような文面が掲載された。「コミューンは、戦闘行動、負傷者看護所、野戦厨房、この3つの活動分野を即刻、女性たちに開放すべきだ。彼女たちは心に燃える崇高な情熱が発揮できることを喜び、大挙して志願するだろう

 4月14日付『官報』で、パリ防衛と負傷者看護のための婦人同盟が以下のように主張した。「人民の大義のため、革命のために戦うことは、皆の義務であり、権利である。(中略)コミューンはあらゆる特権と不平等の廃絶を宣言する大原則の象徴であり、だからこそ男女の差別も、支配階級が特権を享受するために敵対関係を必要とすることから生み出され維持されている差別もなく、全人民の正当な要求を尊重する責任を負っている

 教会内で開かれるクラブの集会は、時には女性だけで行われることもあった。そこで人々は自由に発言した。革命の防衛、女性の教育、賃金の平等、社会福祉関係法、自由婚、男たちの小心さ、労働者の搾取を終わらせることなど、そこではありとあらゆることがスピーチや議論のテーマとなった。5月3日、バティニョールのサン・ミシェル教会が満員になった社会革命クラブの集会は次のような言葉で始まった。「コミューンのために戦いに行った夫たちは、革命思想の確かな芽を家に託していったのだということを私たちは感じ取っていました」。『門出の歌』と『ラ・マルセイエーズ』を歌って集会は終わり、次回の議題は「教会による女性と革命による女性」に決まった(6)

 ポール・ド・フォントゥリューは、ヴェルサイユ軍によって流された血にどっぷり浸された辛辣な筆致で自分が見聞きしたこととしてこう書いた。「エロワ会——雄弁家の女たちのうち発言を許された(中略)女性市民ヴァランタン、この娼婦は5月22日に彼女のポン引きだった男の頭を銃でぶち抜いた。男がバリケードに行くのを拒否したからだった。また、5つの罪状で有罪判決を受けていた女性市民モレルが、『最後に、私はすべての修道女をセーヌ河に投げ込むよう訴えます。病院には負傷した連盟兵たちに毒を盛る修道女たちがいるのです』と発言。ヴォージラール[パリ第15区の行政区]のサン・ランベール教会の愛国婦人会——ヴォージラールの会議の議長を務めるのはReidenhrethという名前のオーストリア女で、(中略)このブルーストッキング[上流階級の教養ある女性の蔑称]の女は、ウィーンで風紀紊乱罪で訴えられ、そのことを勲章でもあるかのように自慢している。(中略)トリニテ教会の解放クラブ——(中略)女性のみ。決められていた議題は『社会改革のためにとるべき方法』。ある30歳くらいの女性が『まず取り除くべき社会の害悪、それは労働者たちを搾取し、彼らの苦労によって私腹を肥やす経営者たちの害悪だ。労働者を生産する機械としかみなさない経営者など、もううんざりだ! 労働者同士が互いに協力し合い、彼らの労働を共同管理し、そうすれば幸せになるだろう。もうひとつの現代社会の害悪は、金持ちたちだ。彼らは酒を飲んで道楽に勤しむばかりで少しも働かない。司祭や修道女たちと同じく金持ちを一掃しなければならない。経営者も金持ちも司祭もいなくなる、それ以外に私たちが幸せになる道はない!』と発言。聖スルピス会——(中略)ガブリエルという名の、公娼の娘の発言。『司祭たちを銃殺すべき。彼らこそ私たちが自由に生きることを妨げている。女性は告解に行くようなことをしてはならない、私には自分が何を言うべきかわかっている。だから私は、すべての神父たちを捕まえ、顔をぶち抜くよう、女性たちに求めます。奴らがいなくなれば私たちは幸せになれます』。(中略)こうした女たちのなかでいちばん激しやすく戦闘的なルイーズ・ミシェル。17日の集会で彼女は『大いなる日がやってきた!』と叫び、さらにこう続けた。『プロレタリアートの解放か、あるいは隷属か、その決定的な日がやってきた。だが、男性市民よ、勇気を出すのだ。女性市民よ、元気を出すのだ。パリは私たちのものになる。ええ、約束します、パリは私たちのものになる、さもなくばパリはもはや存在しなくなるだろう! 人民にとってこれは生きるか死ぬかの問題なのだ!』(7)

 1871年5月21日、ヴェルサイユ軍はパリに侵攻し、「血の一週間」が始まった。ヴィクトリーヌ・ブロシェはそれを「7日間続いた悲劇の夜」と表現している。「27日土曜日。激しい砲撃が浴びせられ、パニック状態になり、群衆が叫びながら押し寄せた。『ベルヴィルは一部占領された、役所は放棄され、通りは死人と負傷者だらけだ、四方八方から銃撃を受けている。連盟兵と志願兵は獅子のように勇敢に戦っている』。私たちは最後の戦いのためコミューンの旗を掲げて集まった。全部隊の敗残兵たちがいた。(中略)28日正午、連盟兵の大砲の最後の一発がパリの上空を飛んでいった。倍量の火薬を詰め込んだ砲弾が、瀕死のコミューンの最期のひと息となった。夢は終わり、人間狩りが、逮捕が、殺戮が始まったのだ(8)

 ルイーズはこう結んでいる。「自分は第六一大隊の分遣隊と一緒にモンマルトルの墓地にむかい、防禦につく。(中略)夜になった。私たちは一にぎりの人数になっていた。十分の覚悟ができていた。砲弾が一定の間隔をおいて飛んできた。大時計の時を刻む音のようであった。死の時計である。澄みきった夜だった。花の匂がただよってきた。墓の大理石が生きているかのようだった。(中略)赤旗を先頭に女たちが通っていった。彼女たちはブランシュ広場に自分たちのバリケードを築いていた。そこには、エリザベート・ドミトリエフ、ルメル夫人、マルヴィナ・プーラン、ブランシュ・ルフェーヴル、エクスコフォンなどがいた。アンドレ・レオ[ジャーナリストのヴィクトワール・レオディーヌ・ブレアの筆名]はバチニョルのバリケードにいた。一万以上の女性が五月の日々を、個々に、あるいは集団で、自由のために戦ったのである。(中略)石油放火女(ペトロルーズ)にかんする気ちがいじみた伝説がひろめられた。石油放火女などは存在しなかったのだ。——女たちは雌獅子のように戦った。しかし、『火を放て! あの怪物どもに火をかけろ!』と叫んでいたのは私くらいのものだった。石油放火女だと言いふらされたのは、女性の戦闘員などではなく、占領された地域で、子供の食物をさがしにいくように見せかけて何か道具(たとえばミルクの罐)をもっていれば安全だと考えた気の毒な母親たちだった。ところが彼女たちは石油を運ぶ放火犯とみなされ、銃殺された!(中略)ヴェルサイユ軍は血染めの巨大な赤い屍衣をパリ中にひろげた。その一角だけがいまだに屍の上にひろげられていなかった。霰弾砲が兵営にもちこまれる。彼らは猟でもやるように人を殺した。これは人間の屠殺場である。死にきれなくて壁のふちにもたれたり、のたうちまわっている人たちは、ゆっくりとなぶり殺しにされた。(中略)コミューンが陥ちると同時に、殺戮にひきよせられ正規軍のあとについてきたあの屍肉を食う返り咲きの魔女たちが、墓場の蝿よりさらに早くあらわれた。彼女たちもおそらく遠い昔であれば、血に怒り血に酔ったたんなる気ちがい女にすぎなかったのであろう。彼女たちは優雅に着飾り、屍肉のあいだをうろついた。彼女たちは死者を眺めては楽しみ、死者の血だらけの目を日傘の端でつついた。この女たちの幾人かは、石油放火女(ペトロルーズ)とまちがえられて、他の人びとと一緒に銃殺され、山をなす死骸の上に積み重ねられた(9)


  • (1) Jules Vallès, L’Insurgé (1886), dans Œuvres, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », Paris, 1990. 日本語訳はジュール・ヴァレース著/谷長茂訳『パリ・コミューン』(中央公論社刊「世界の文学」25)より引用。

  • (2) Dépêches des généraux Joseph Vinoy et Louis Ernest Valentin à Adolphe Thiers, dans Marc-André Fabre, Vie et mort de la Commune, Hachette, Paris, 1939. 

  • (3) Louise Michel,La Commune, Stock, Paris, 1898. 日本語訳はルイーズ・ミッシェル著/天羽均、西川長夫訳『パリ・コミューン 一女性革命家の手記』(人文書院刊、上下巻)より引用。

  • (4) Gaston Da Costa, La Commune vécue, Ancienne Maison Quantin, Paris, 1903.

  • (5) Victorine B. (Brocher), Souvenirs d’une morte vivante, Librairie Lapie, Lausanne, 1909. 

  • (6) Journal officiel de la République française sous la Commune, « Partie non officielle », 5 mai 1871.

  • (7) Paul de Fontoulieu, Les églises de Paris sous la Commune, E. Dentu, Paris, 1873. 

  • (8) Victorine B. (Brocher), Souvenirs d’une morte vivante, op. cit.

  • (9) (3)に同じ。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年7月号より)