ロシアに続く小菜園の伝統

ダーチャの歴史


クリストフ・トロンタン(Christophe Trontin)

ジャーナリスト 

訳:一ノ倉さやか


 社会主義建設の歴史を受け継ぎながら、ペレストロイカ後の混乱を生き抜くことになるダーチャ(小屋付き菜園)。それはロシアでも数少ない成功例のひとつであったが、昨今、急速にダーチャ離れが進んでいる。SNSや外国旅行に魅了された現代人が再びダーチャに戻って来るためには、夏の小屋は新たな価値をまとわなければならないだろう。[日本語版編集部]

(仏語版2019年8月号より)


 モスクワ・シェレメチエヴォ国際空港に近づくにつれ、飛行機はプーティルコヴォの小さな村の上空を通る。旅客機の丸窓から外を眺める乗客たちは、鬱蒼とした森林地帯がまばらになり、サブーロヴォ公園の高層マンション、高級住宅地、畑、掘っ立て小屋が点在する共同農園が次々と流れていくのを見る。高度が下がるにつれて、こうした郊外の農地の多くが放置されているということが明らかになる。荒れ果てた庭、屋根を覆う木々、打ち捨てられた作業場。これらの種々雑多な小屋付き菜園は、都市部から離れた空き地や耕作地の周辺で600平方メートルに規格化された区画に散らばり、外観は多様であるが、それらこそロシア人が「ダーチャ」と呼ぶものだ。

 まさに、そのダーチャが危機的状況にある。インコム不動産調査部のドミトリ・タガノフ部長によれば、モスクワ地域の小規模私有地の35%が放置された状態にある。公共オピニオンセンターが2013年に発表した調査では、セカンドハウスを所有していると申告する38%のロシア人のうち、およそ3分の2のみが週末や祝祭日、夏休みに保養地として定期的に利用している。何故こうしたダーチャ離れが起きているのか? ひとつには、ダーチャは新たなレジャーとの競争に直面しているという理由がある。SNSやテレビドラマ、オンラインゲームが庶民層に気晴らしを提供し、一方中流層にはトルコやタイ、あるいは紅海沿岸やヨーロッパ文化遺産等の各種パッケージツアーなどの新たな選択肢がある。おまけに、資本主義的な労働のリズムや細切れのバカンスはダーチャの醍醐味の一つである畑仕事と相容れない。まして今日では、一年中、スーパーの棚に果実や野菜が溢れているのだから。

 2008年以降、ロシア人の平均所得は停滞している。気が遠くなる程嵩む必要経費(家賃、電気代、公共サービス)とは別に、家計は絶えず増え続ける消費の誘惑に割り振られている。不動産税、交通費、水道や電気の整備、供給のせいで、かつてほとんどお金のかからなかった田舎の家が贅沢な持ち物になっている。最も小さなバカンス用の別荘の維持でさえ1年に最低3000ルーブル(約420ユーロ)掛かる。これは一般家庭にとっては非常に高額で、ロシア人の言うように「年中青いトマトの国」では賄いきれない。その上、修繕や手入れの費用も掛かってくる。これら全ての要因が、近年多くの家主をダーチャの売却に駆り立てた。「ダーチャはまるで取っ手のない鞄のようだ」と言われる。「これを棄てるのは胸が締め付けられる思いだが、もうそれを持ち運ぶ力がないのだ」

 不動産代理店には売却の申し出がひっきりなしに来る。「供給が需要をはるかに上回って、需要は特定の区画でゼロに近づいています」とベスト不動産のイリーナ・ドブロコオヴァ氏は説明する。高級コテージ部門ではこの10年程で取引件数が60%減少し、一方、もっとも安価な物件クラスは価格が25%下落した。シアン不動産はさらに不安を煽る。「モスクワ近郊の3万3000件の売り物件のうち、15%は重大な欠陥があり、80%が荒廃した状態、もしくは高く見積もられ過ぎていて、たった5%しか買手が見つかる見込みが立ちません」

 ロシアにどれくらいダーチャがあるか正確なことは分らない。見積もりには倍ほどの開きがある。ロシア菜園協会のトップであるルドミラ・ブリアコヴァ氏によれば、国は約1600万の専有菜園があると認識しているようだ(1)。ロシア科学アカデミー経済研究所の研究員イヴァン・スタリコフ教授によれば、最も古いダーチャと1990年代に無許可で建てられた田舎の家屋を数に入れると、その数は3200万~3500万の間になるという。また別の専門家は、土地台帳に登録されていない建築が1500万近く存在し、その大部分が放棄されたか、未完成のものと推測している。

 2019年1月1日に施行された法律は、この静かな無秩序状態にわずかな秩序を与えることを意図している。土地台帳に記載されると、放置されていた区画を差し押さえ市場に再び売り出すことができるようになるという(土地の拡張を希望する隣接地の所有者に優先権が与えられる)。銀行口座の開設と検証可能な収支表の提出を義務づけることで、隣人との非公式の取決めや現金の授受を終わらせることも課題になった。

 公布されるや、この法律は多方面から非難を浴びた。非難の矛先はまず、ダーチャという日常語が、法律では個人の「菜園」(もしくは「畑」)と書き換えられ抹消されることに向けられた。ダーチャは、ヨーロッパ諸言語の、とりわけフランス語の辞書に載るほど意味と想いを託された本質的にロシア的な言葉である。語源的には、dat、つまり、「don」、「cadeau」 (「贈与」「贈り物」)から派生している。その起源は18世紀、皇帝ピョートル1世が、国家の有為の従者に、主要都市の周辺や新たに獲得した所有地を与えた時までさかのぼる。帝国領土の管理におけるこうした能力主義的な方法は、子息間の均分相続の伝統と結び付き、ロシアの貴族階級に独自の様相を与えることになったとされている。その点はアナトール・ルロワ=ボリュー(1842-1912)が詳細に記述している。

 都市生活者の保養地としてのダーチャブームは、1860年代に都市化が進んだ時期の直後に出現する。農奴制の廃止は地主の衰退を鮮明にし、彼らは所有地の譲渡あるいは分割を強いられた。20世紀初頭にはダーチャでの生活が、ロシアの作家、戯曲家の創造の源となる。マクシム・ゴーリキーは繰り返し映画化されることになる戯曲『夏の滞在客』(1904)を書き上げ、アントン・チェーホフの物語の半分はダーチャが舞台であり、『白痴』(1869)でフョードル・ドストエフスキーが生み出したキャラクター、ムイシュキン公爵の苦悩の舞台にもなった。

 10月革命(ロシア革命)は旧体制、カトリック教会、私有地、農奴制の遺物といったものを打倒したが、例外的にダーチャは生き残った。1920年代半ば以降、帝政ロシアの伝統が復活し、高級官僚や党お気に入りの芸術家、研究者やアカデミー会員たちは、「公用」のダーチャを与えられた。それらはしばしば、外国に逃亡した所有者から徴用したものであった。主要な劇場や作家組合、様々な研究機関によりその所属員の休息を目的として、菜園の協同組合が組織された。ダーチャは確かに、国に尽くした人たちへの謝意を示すのに役立ったが、また同時に彼らを管理し、さらには罰するためにも使われた。というのも、ダーチャを剥奪されることが、国から好ましく思われていないことの最初の兆候を示すものだったからだ。スターリンの時代、元帥、原子力プログラムの研究者、大実業家のような「国の救済者」に与えられる特権は、イデオロギー上の問題にはならかった。それが私的な所有物ではなく、公邸であっただけになおさらだった。

 ジョセフ・スターリンが1953年に亡くなると、ダーチャの貴族的な性格は政府関係者たちにとって疎ましいものになった。彼らは、社会主義的な平等という理想に反したこの慣行に終止符を打とうと考えた。産業化に邁進するソ連では、農村からの人口流入は前例にないものとなった。地方から産業の中心地への人の流れで都市の人口は爆発し住宅難が極めて深刻となった。一人当たり6平方メートルという公定規準は有名無実のものになった。その上無理に新しい土地の農地化を進めたことは果物、野菜、肉、ミルクの欠乏が続くという惨憺たる結果をもたらした。ダーチャという概念は忘れられようとしていたが、この複雑に入り組んだ危機状況に対し多様な解決策をもたらした。大企業は、社員に家庭菜園や夏の休暇用に土地区画を与えるためその許可を要求した。政府は25平方メートルのベランダ付き夏用メゾネットのいくつかの標準プランを提案した。もっとも殆ど私的な所有物件であるダーチャが一年を通して使用されかねないことから、労働者階級の生活習慣に「所有者意識」が生まれないように暖炉の設置は禁止された。一方で家庭菜園は、食糧難をしのぎ、同時に毎夏、健康的な活動に費やす機会を提供するという目的で奨励された。一戸当たりの標準面積が600平方メートルと定められた。2階建て、次いで天井の物置、そして屋根裏部屋などと許可が広がって行った。社会主義の原理を尊重しつつ試行錯誤を繰り返し、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ダーチャを大衆化する。

 ソヴィエト時代の社会進歩や近代化は、いずれもがこのダーチャブームを後押しした。1950年代と60年代において、鉄道、次いでバス路線と交通網拡大により都市生活者は都市周辺地帯にアクセスしやすくなる。1967年に法令で定められた週5日勤務は、従業員がダーチャにより多くの時間を割くことを可能にした。最後に、1970年代以降、車が徐々に普及し資材の搬送が容易になり、したがって、ダーチャの整備もしやすくなった。

 統計機関の職員であるミハイル・ラリオーノフ氏はこのように語る。「ソ連の祝日自体もダーチャのリズムに順応しているように見えます。4月22日(レーニンの誕生日)にはもう霜の時期は終わっていて、我々はダーチャを訪れ、ちょっとした片づけをし、掃除や換気、それに庭仕事の道具の準備をします。5月1日のメーデーを含む連休は土地の犂起こしや畑の畝溝の時期に当たります。5月9日の連休(ナチズムに対する勝利)はジャガイモやラディッシュ、トマト、キュウリやサラダ菜を植えるのに最適な季節です。恐ろしく短い夏の季節が近づくと、夏の何週間かの間は、週末のたびに果物や野菜が早く育つため、収穫が追い付かないのです。そして、11月7日(10月革命)の連休には公式に季節が終わりを告げます。ダーチャでとれた保存食を都市に持ち帰るのです」

 生活上の必要性は、結局イデオロギーに勝る。レオニード・ブレジネフ政権(1964年~1982年)時代に、偉大な社会実験の時代は幕を閉じた。社会主義体制は国民に提示するプロジェクトを最早持たなかった。そして、ロシア人たちが今日でもなお、しばしばノスタルジーを伴って呼ぶところの「停滞の時代」に入る。私有地は理論上禁止されたままであったが、同志が、時間のある時に額に汗して建てた小さな家は、もはや集団のものではなかった。ダーチャは、形式上国有でありながらその用益権は相続によって受け継がれ、労働者たちが主(あるじ)となり、それぞれが好きなように果物や野菜の世話をし、その周辺で果実やキノコを収穫し、急速な都市化によって失われた森との関係性を修復する。

 それはダーチャの黄金時代だった、と数多くのロシア人が未だに懐かしんでいる。社会主義の時代が衰退し、個人の庭が集団プロジェクトにとって代わる。小さな我が家を整備するためにプロレタリアートが取り組む創意工夫には限りがない。政府お仕着せの画一的な小屋なんてまっぴらだ! ある人は木材や煉瓦を手に入れ、ある人はどうやったのかは分からないが、移動住宅に改修した地下鉄車両を自分の敷地まで運ばせさえした。「将官用」ダーチャが現役の招集兵の手であちこちに建設され、公務員同士で取引された。あらゆる闇取引と悪知恵がものをいう時代だった。腐敗と闇市場が最も巧妙な形をとり、ウォッカの瓶は通貨代わりに使われ、不動産やサービスの物々交換も行われていた。ある者は、建築の知識を利用して4階まである家を建てたし、ある者は貯蔵室を設け、野菜の集約栽培に乗り出し、さらには伝書鳩を飼育する者もいた。また、執筆活動にいそしむか、アルコール漬けになる者があり、もちろんその両方になるケースもあった。

 歴史家ステファン・ロヴェル氏が述べているように、この仕組みは、家庭用のダーチャを建て、手を加えることに没頭した2世代のロシア人に、自分でやり遂げる精神を植え付けるのに大きな役割を果たした(2)。これは、無償での普通教育および宇宙開発と並んで、ソビエト社会主義の歴史的な成功事例のひとつになっている。

 ダーチャは、社会主義建設の歴史を受け継ぎながらペレストロイカ後数年におよぶ混乱を生き抜くことになる、数少ない成功例のひとつでもある。すべての物質的、道徳的価値観がソ連邦解体のもとで消える運命にあると思われた中で、ダーチャはまたもや避難場所としての役割を果たす。そこでは、原始的なかたちの闇経済が発達し人々はそれに順応した。食料生産の経済が再び隆盛になった。日曜大工が煉瓦職人や屋根ふき職人になり、おばあさんは野菜を栽培し駅の近くで無許可でその瓶詰を売る。そして「新しいロシア人」が、この小世界の住人を、次々に建てられる豪華な邸宅の改修や管理のために雇うのだ。

 それ以来、ダーチャをテーマにした様々なテレビ番組が人気を博した。ダーチャニキシリーズ(「夏の滞在客」2017)は、国内の様々な地域の夏のダーチャで隣人となった典型的な都会の家族を描いている。世代間の衝突、様々な社会階級の共存関係、生活様式と余暇についての意見の対立、今日のロシア社会に関するお決まりのテーマが、ドキュメンタリーを模した、たわいもない番組として演出されている。

贅沢な住まいかあばら家か 

 同様に人気のあるリアリティ番組で、2008年以降毎週放送されているテレビ番組の「ダーチャ便り」は家の持ち主にセカンドハウスの改修を提案する。司会者は「暗い」、「ひどい間取り」、「時代遅れのスタイル」等、その家の現状についてあらゆる欠陥を指摘することから始める。そこにインテリアデザイナーが登場し、いくつもの天窓、瞑想用の空間、むき出しの梁などを使って、その古めかしい家をポストモダン風折衷様式の傑作に変えてしまう。最終的に家族はダーチャに戻り、新しい住空間にうっとりする。

 ソビエト社会主義のありとあらゆる浮き沈みを生き抜いてきたダーチャは、今度はロシア資本主義の苦難を乗り越えるのに役立つのだろうか。「それは、住民の経済的不安の程度を示すものなのだ。モスクワの周辺では大部分の区画が芝生や花壇で覆い尽くされているが、ウラジミール州などその近郊地域では、土地の半分にはジャガイモや野菜、多年性植物が植えられているのが確認される」と、人類学者でダーチャでの食料事情に関する研究の著者ミハイル・アレクセヴスキは指摘する。

 サウナや屋内プール付のラグジュアリーな住居、さもなければ実のなる木が影を落とす木造のあばら家か、ダーチャというひとつの言葉が、この多様な現実を表現し続けている。都市近郊にセカンドハウスを持つことは社会的に成功した富裕層の必須条件であり続ける。そしてその他の人々にとっては休暇小屋が最後の拠りどころとなって、ダーチャのこれまでの長い激動の歴史に新たな1ページを加えていく。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年8月号より)