ある政治的常套句の起源 

極左と極右はつながっている……。


コンスタンタン・ブリソー(Constantin Brissaud)

ストラスブール大学政治学博士課程

訳:村上好古


 「極左と極右はつながっている」という政治を語るときの言い方は、各局面においてその意味合いに差はあるものの、古来、またフランス革命以降絶えず繰り返されている。現代の政治では「ポピュリズム」がこうした極端論として取り沙汰されるが、問題の本質をとらえた見方なのだろうか。[日本語版編集部]

(仏語版2019年4月号より)

Charles Philipon (auteur) et Victor-Hippolyte Delaporte (lithographe). — « Armes du peuple. Armes du juste milieu » gallica.bnf.fr - Bibliothèque nationale de France

 現代の政治を論ずるとき重用されるちょっとしたやり方に、相反するふたつの個人あるいはグループについて両者の共通点を指摘し、どちらの側にも立つことなく、どちらも同じ調子で非難するというものがある。たとえば、「不服従のフランス」も国民連合(RN、旧国民戦線)もどちらも欧州統合に関する諸条約を批判しているではないか。これは、極左と極右がつながっていることの証拠だ。また、両者はともに「黄色いベスト運動」を支持しているではないか。これも実質的に両者が結びついているしるしだ、といった具合だ。共和党(LR)のトゥールーズ市長ジャン=リュック・ムダンクは、2018年12月8日に市中で行われたデモのあと、次のようにツイッターに投稿した。「私たちは極左・極右双方が、共和国を動揺させようとしてバリケードの上で手をつないだのを見た。私はこの共謀とそこで企まれる暴力を強く非難する。彼らは混乱の種をまいたし、一部の路上ではなおそれを続けている。似た者同士が集まっているのだ」、と。水と火を同一視し、政敵を追い落とすために使われるこの戦略の歴史は長い。

 「極左、極右」は世の中でいい評価を受けたことがない。アリストテレスが「中庸」、すなわち「両極端のつり合い」の効用を称えた古代にさかのぼるまでもなく、この言葉は、行き過ぎと判断される性格や行動を批判するのに長く使われて来た。14世紀には、哲学者ニコル・オレスムが同様に「徳は中庸にあり、数々の悪徳は極端にある」と考察を行った。3世紀後、彼自身「中庸」の唱道者であるブレーズ・パスカルは、「才気も極端に過ぎれば、狂気の咎めを受ける。極端に欠けていても同様だ。中庸以外によいものはない」[訳注]と書いている。そして1782年に今度は作家のルイ・セバスチャン・メルシエが、そのTableau de Paris[パリの光景]という著作の中で「両極端は互いに相接している」、なぜなら「偉大な人物も不良もその品行の点では似ているからだ」と断言した(1)

 フランス革命を機に、このテーマは道徳の領域を離れ政治の領域へと入り込んだ。1789年8月、設立されたばかりの国民議会は、王の拒否権について態度を明らかにする必要があった。王は国民議会が定めた法律を差し止めることができるか? 議場の左側に陣取る共和派はそれに反対し、右側の立憲君主派はこれに肯定的だった。この新たな[左右の]区分に、間もなく別の区分が加わった。1791年以来、「左派の極端」、「右派の極端」という言い方がされるようになったが、ふたつの極端が合流し得ると示唆することを特に意図したものだった。タレーラン、ラファイエット、アベ・シェイエスといった立憲君主派は、自分たちが中庸、つまり理性を具現しているのだとすぐに主張した。たとえば歴史家のウベ・べックスは、「『極端』という呼称は反革命的な批判者が使う決まり文句となった」(2)と書いている。

 ラ・センティネルLa Sentinelle 紙の編集長で、À Maximilien Robespierre et à ses royalistes[マクシミリアン・ロベスピエールとその王党派の仲間たちへ]と題する攻撃文書を著したジャン=バティスト・ルーヴェは、「狂信的ジャコバン派」と絶対王政支持者を統合する密議があることを指摘してやまなかった。「民主派のバブーフは偽装した王党派にほかならない」と1796年5月12日に毒舌をふるい、その3日後、バブーフは「頭のおかしい貴族で(……)、外国の王子の手先だ。それによく覚えておくがいい、マラーもエベールも、私が睨むところではこの種の輩は皆同じだ」と彼は繰り返した。ルーヴェの長広舌の陰謀説は当時の新聞から賞賛された。彼の同僚たち——その大部分は彼らの改革の情熱をナポレオンに仕えることに振り向けることになるのだが——は彼の勇気、才気、洞察力をほめたたえた(3)。立憲君主派として名高いスタール夫人は、短期間ではあるが革命を支持した後、中庸を称え1796年にこう書いている。「我がフランスの革命途上よく言われていたのは、貴族とジャコバン派は同じ言葉づかいをし、その意見はともに高圧的で、状況の如何によって同じように不寛容な指導体制をとるということだった。この指摘は、単純に同じ原理が働いた結果だと考えなければならない。情熱というものは、人々を互いに相似通ったものにする。気質は様々であっても、高熱を発すると同じ症状になるのと似ている。そしていろんな情熱の中でも、この現象が最も画一的に表れるのが、党派の気風なのだ」(4)

1913年の「過激な反戦論者」批判

 ブリュメール18日のクーデタ(1799年11月9日)のあと、ナポレオン・ボナパルトとその支持者は、政治的な対立という概念そのものを消し去ろうとした。新体制は唯一理性的な道であるとして自らを主張し、この言い方は、これに先立つ10年「中間派」であった多くの者を引き付けた。自由主義的で保守的なブルジョワジーの尊敬すべき代表者である弁護士のアントワーヌ・ブレ・ド・ラ・ムルトは、新しい統領に最初に喝采を送った者の一人だった。1799年12月、フランスからの亡命貴族の新聞であるル・スペクタテール・デュ・ノールLe Spectateur du Nord 紙の中で、彼は革命に対し秩序を擁護している。つまり「労働、産業、才能、社会道徳、それにほとんどすべての所有権」を「扇動者や悪党」から擁護し、「共和国はこの両極端の間にある。すなわち、王党派にもデマゴギー派にも属さない大多数の市民の中にあるのだ」と書いている。こうした意見のおかげで、彼は帝政の下で多くの勲章を受け、法務大臣に叙されることになった。

 革命に続く20年間で、その後2世紀以上にわたって「両極の収斂」というテーマを構成する数々の要素がつくり上げられた。このテーマは、社会を変革するすべての目論みへの信頼を失わせるという目的を持っていた。つまり、いずれの方向であっても「極端主義者」は、扇動的で非現実的な提案を行うことで政治共同体を弱体化させ、国を危険な方向へと導くという。したがって、唯一理性的な道、すなわち中庸へと導くよう、民衆を啓蒙すべきということになる。

 こうして、革命以降の政体の大多数はナポレオンに倣い、中道で、穏健であると自称した。ブルジョワジーの左派と右派の妥協を期待して1831年1月ルイ・フィリップは、自分の政権の位置を、「我々は、民衆権力の過激さからも王権の乱用からも等しく距離を置いた中道に位置するよう努める」と、今なお有名な表現で説明した。いくつものパンフレット——Le Juste-Milieu dévoilé[明らかになった中道](1832)、Le Juste-Milieu en toutes choses et surtout en politique[すべてのもの、特に政治における中道](1832)、Le Triomphe du juste-milieu, ou la Révolution de Juillet et ses véritables conséquences[中道の勝利、すなわち7月革命とその真の結果](1833)(5)など——が出され、王の宣伝者によって何度も繰り返されたこの主題は、漫画家の痛烈な風刺の的になった。シャルル・フィリポンのリトグラフ[冒頭図参照]は「民衆の武器」(鎌、ランタン、箒、など)と「中道の武器」(秘密警察の帳簿、浣腸器[2個](6)など)を対比して描いている。同様に、Le Juste Milieu ou le c... entre deux selles[中道、すなわち二股をかける<ふたつの椅子の間にいる>ヤツ]という版画[下図参照]の中では、民衆の椅子と玉座の間で、男がしりもちをついている。

ANONYME. — « Le Juste Milieu ou le c... entre deux selles »
gallica.bnf.fr - Bibliothèque nationale de France

 1848年2月と6月の革命後、ルイ=ナポレオン・ボナパルト[ナポレオン3世]もまた自らを和睦主義者だと称し、歴史家のエリック・アンソーによれば、「極端な勢力を取り込み、反対勢力を突き崩すことを目指す中道主義(7)」を推し進めた。彼は1841年以来ずっと、「どの国でも、民衆の欲求と不満は思想、主義をかたちづくり、そして政党を作る。個々人が集まったこれらの団体は(……)互いに衝突し、相互に破壊しあう。その過程で『国民の真実』というものが、全てのこうした部分的な真実からつくり上げられ、全員同意の下で、政治的な情熱以上のものに高揚するに至るのだ。こうした原理を補強するうえでも、権力の座には、ひとえに自身の利益を考える代表者が就くことが必要なのだ」と、書いていた。よい支配者というものはこうした混乱と対立の上に立ち、羊飼いが自分の群れを導くように「真実の道」を描いて行く人物のことなのだ。

 1870年の第二帝政の崩壊で政治の重心は移動したが、議論の根底はほとんど変わらなかった。その前まで極端勢力とされていた穏健共和派は、これ以来、自分たちが新たな「理性のサークル」だと主張し、可能なことの限界がこのサークルを基準にして測られると言う。1901年に結成された急進社会党は、ライバルである社会主義者、ついで共産主義者に対抗して、たえずこの宣伝文句を使うことになる。第一次世界大戦が勃発する前、この政党の主要機関紙であるル・ラディカルLe Radical 紙は、好戦主義と平和主義のいずれの側にもつかなかった。実際1913年8月25日のある記事は、「過度に反戦的」なところが問題だという人々を非難し、次いで「正直な人々」、すなわち「情熱的に国を愛するが、節度のある」愛国者に、このことを訴えている。急進派で当時外務大臣であったステファン・ピションはもちろんこうした一派であり、「バルカン問題に対し常に慎重で中道的な」アプローチをとっていることが、この新聞で高く評価された。このアプローチは衝突回避に失敗したが、急進主義者にとって何ら問題ではなく、極端主義者が結集することを糾弾する姿勢を改めなかった。1918年7月10日版では、「ドイツ帝国主義とボルシェビキ社会帝国主義の極端論者」を痛烈に非難し、これらが「互いに接触している」というにとどまらず「合体寸前である」(……)とまで言っている。

 このドイツとソヴィエト・ロシアの接近論は、少し違ったかたちではあるが、「全体主義」に対する非難として長く続くことになる。つまりこの言葉は、共産主義もファシズムもナチズムもひとまとめにする雑嚢(ざつのう)のようなものとして、ただひとつ合理的な政治・経済モデルである自由民主主義と市場経済を守るため、逆説的に使われることになる。この概念は1920年代にイタリアで統領(Duce[ムッソリーニを指す])に反対する勢力の著述の中に現れたが、実際上、第二次世界大戦後、ハンナ・アーレントの著作がその輪郭をはっきりさせようと試みた時にその意義が確立された。1951年の著作『全体主義の起源』Les Origines du Totalitarisme[邦訳はみすず書房1972-1975年ほか]には、「全体主義の動きは、大衆が何らかの理由で自分に政治的な組織への欲求があることに気づいたところではどこでも、その可能性がある」と書かれている。カール・フリードリッヒや、後のジェイムズ・カーターアメリカ大統領の国家安全保障担当補佐官ズビグネフ・ブレジンスキーに倣い、他の研究者たちは、「全体主義体制」を特定する基準を定義しつつ、このテーマを客観化しようとした。その定義は、大衆の単一政党であり、カリスマ的な人物と、恐怖の日常化、経済の集中化、通信手段の支配権の掌握、等々によって統治されるといったものだった。

 ヨシフ・スターリンとアドルフ・ヒトラーを近づけるこの系譜は、東部戦線で何百万人ものナチ兵士が赤軍によって壊滅させられたといったことをはじめとして両者を分かつ一切のものを無視してはいるが、冷戦期の西側陣営で大きな成功を収めた。フランスではこの後を継ぐとりわけ有能な者が何人も現れた。哲学者レイモン・アロンは1957年以来ソルボンヌの講座でアーレントの著作をとりまとめた。そして「全体主義」という概念は、彼が1978年に創設した雑誌であるコマンテールCommentaire 誌の特別テーマのひとつとなった。このテーマは、1978年から2018年の間に発行された同誌162冊のうち少なくとも381の記事でとり扱われている。1982年に歴史学者フランソワ・フュレが、知識人、ジャーナリスト、政治指導者、実業家など「知的世界の右から左まで」を結集して創設したサン・シモン財団la Fondation Saint=Simonもまた、こうした講座の助成を意図したものであった。 この財団は「極端」を糾弾し、「知性と政治の出会いが与え得る最も素晴らしいもの」である「理性的な政府」を称えた(8)。ピエール・ロザンヴァロンだとかジャック・ジュリアール、ピエール・ノラといった影響力のある人物に支援され、たちまち財団の下に多くの参加者が集まった。その記録は、アロンの手による選集に含まれ出版社カルマン=レヴィから出版されているし、ル・モンド紙でもたびたび公表されている。同紙の監査役会会長(1994年~2008年)であったアラン・マンク氏はこの財団の財務担当に他ならない。

「良識的な選択の幅」を越えるもの

 こうした支援に力づけられて、「両極は収斂する」という理論は大学でその認知度を高めている。2015年から2016年にかけ、パリ政治学院ではたとえば、「極端論で政治を考える」という講座が設けられていた。その目的は? 「極端論から共通の側面を引き出す」ため「左右の極論について理解をより深めること」だという。「収斂する諸点」と題された講座の第2部では、「世界の陰謀と、反目するヴィジョン」をテーマにしたセッションに時間がかけられ、ジャン=マリー・ル・ペンと「労働者の闘争」[フランスの極左政党]の著述が比較される。別のセッションでは、極端主義に共通するとみられる「反ユーロ主義と反グローバリゼーション」が検討される。この種の教育は、政治学者パスカル・ペリノーが好んで言うところの——大学では異議を唱えられているが——「左翼ル・ペン主義」の延長線上に位置する。この説によれば、基本的に経済的、文化的な素養に欠けると想定される、かつて共産主義に票を投じた有権者は、自然に国民戦線の議論の単純さに引きつけられ、したがって彼ら国民戦線の飛躍を生み出すのだという。

 20年来、両極はつながっているという説は、あらゆる種類の味付けを施されながら、フランスの政治論議でひとつの常套句として重要な地位を占めてきた。ル・ペン氏は2002年の大統領選挙で2回目の投票に這い上がったが、それは極左の何人もの「泡沫候補」のせいだった。彼らは、実質的な同盟関係に立ったとも言い得る極右勢力と同じ役割を果たし、理性派のリオネル・ジョスパンの敗北を後押ししたのだ。リベラシオン紙のジャン・キャトルメ記者は、「極左や極右を支持する票は、ヨーロッパや世界の複雑さをもまた受け入れないということを示しているのではないか」と、当時、欧州委員会貿易担当委員だったパスカル・ラミー氏に質問したが(2002年5月3日)、ラミー氏は、「ではフランス人は自分たち自身の制度の複雑さが分っているのでしょうか」と言い返した。自分の同胞たる国民の知性に信頼を置いていないのだ。

 そして次は、2005年の欧州憲法条約(TCE)に関する国民投票だった。ル・モンド紙の社説は、「ノン」が勝利したのは、「極右、極左、それに棄権へと分散された」票がつくり上げた「拒絶の巨大な前線」の勝利以外の何者でもないと論じた。当時社会党の全国書記であったマルティーヌ・オブリー氏は、TCEを拒否することは自らが「ポピュリズム」を奉じていると示すことになるだけでなく、「かつてのイタリアを、皆が知っているとおりの国にした要因」を育む危険を冒すことになる、と考えた(9)。両極の収斂を非難するのに使われる現代の「ポピュリズム」というレッテルは、今日、良識的と判断される政治的選択の幅を越えるすべてのものに貼られている。「不服従のフランス」、国民連合(RN)、また「黄色いベスト」運動、Brexit、ドナルド・トランプ氏とバーニー・サンダース氏、イタリアの連立政権、などなど……(10)

 長期にわたり「左翼ル・ペン主義者」を叱責し続けた後、ペリノーは今や、EUを批判する者を皆「国家主義的ポピュリズム」と非難している。メディアでもてはやされる分析では、右派と左派の間の対立は、新たな分類、すなわちEUの支持者と反対者、あるいは「自由主義者」と「非自由主義者」、また、「開かれた社会」の擁護者と「閉じられた社会」をよしとする者、といった分類に場を譲ろうとしているらしい。現フランス首相エドゥアール・フィリップの師であったアラン・ジュペ氏は、4年前すでに、いずれ共和国大統領のものとなるべき、国内そして欧州レベルでも通用する構想を口にしていた。「右でも左でも世の中のことが全く分からない極論主義者に構わず、理性的な人間が一緒になって統治するため、いつかオムレツの両端を切り捨てる心づもりをしておかなければならない(11)

 ただし、次のことに留意する必要がある。つまり、ほんのちょっと比較してみるだけで、「自由主義者」であるアンゲラ・メルケルそれにエマニュエル・マクロンと、「非自由主義者」であるマッテオ・サルヴィーニそれにヴィクトル・オルバーンの間に多くの共通点を見出せるかもしれないという点だ。ともに私有財産制と中産階級を称え、税と社会福祉負担を減らし、労働の権利を「緩和」し、生活保護の受給者を抑制し、スト権をより制限することを夢見ている。もっとも、こうした共通点を強調する発想は、メディアや公の議論ではほとんど一般的でないし、シアンスポ[パリ政治学院の通称]の教育課程の対象にもなっていない。



  • (1) これらの引用、またフランス革命以前のこの語の用法に関する系譜の典拠の詳細については、次のものを参照。Uwe Backes, «Extrême, extrémité, extrémisme. Une esquisse de l’histoire de ces mots dans la langue politique française», Mots, no 55, Paris, juin 1998.

  • (2) Uwe Backes, Les Extrêmes politiques. Un historique du terme et du concept de l’Antiquité à nos jours, Cerf, coll. « Politique », Paris, 2011.

  • (3) Cf. Laura Mason, « Après la conjuration : le Directoire, la presse, et l’affaire des Égaux », Annales historiques de la Révolution française, no 354, Paris, octobre-décembre 2008.

  • (4) Germaine de Staël, De l’influence des passions sur le bonheur des individus et des nations, 1796.

  • (5) Cf. Xavier Landrin, « “Gauche”, “droite”, “juste-milieu” : la formalisation politique de l’entre-deux sous la monarchie de Juillet » (PDF), communication au colloque « Gauche-droite : usages et enjeux d’un clivage canonique », université Paris X - Nanterre, 17 juin 2008.

  • (6) 浣腸に使われる金属製の大きな注射器状のもの。

  • (7) Éric Anceau, Napoléon III, Tallandier, coll. « Texto », Paris, 2012.

  • (8) « Droite, gauche, centre. L’exception française : fin ou recommencement ? Entretien avec Jacques Julliard », Le Débat, no 52, Paris, 1988.

  • (9) RTL, 20 mars 2005. Cité dans PLPL, no 24, Paris, avril 2005. 

  • (10) Lire « Tous populistes », Manière de voir, no 164, en kiosques. 

  • (11) Le Point, Paris, 1er janvier 2015. 


  • [訳注] パスカル『パンセ』(塩川徹也訳、岩波文庫、2015年)より


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年4月号より)