ビジネススクールの“実践的”教育 

商業系グランゼコールにおける知の幼稚化


モーリス・ミデナ(Maurice Midena)

ジャーナリスト、ビジネススクール出身者

訳:村松恭平


 フランスの未来の経営者を養成する商業系グランゼコール。バカロレアを取得した学生たちは入学試験に受かるための準備クラスで2〜3年にわたって猛勉強するが、いざ入学すると、その講義の「空虚さ」に幻滅する者も少なくない。彼らはこうして徐々に知識欲をなくしている。[日本語版編集部]

(仏語版2018年12月号より)

Irina Nakhova. — « Top Management », 2013
Nailya Alexander Gallery, New York 



 25歳のエティエンヌ・バダルー氏は、フランスの有名なビジネススクール、グルノーブル・ビジネススクール(GEM)を2016年に卒業してすぐ、同期たちとプジョーの古いライトバン“J5”に乗ってバルカン半島一周の旅に出た。10カ月の旅が終わってフランスに戻ると、この若者は揺るぎない決心をした ——「私はもう二度とスーツを着て働くことはないだろうと考えました」。2017年の夏以降、彼はバーテンダーとして経験を重ねている。企業での研修中に過ごしたオフィスよりも、バーのカウンターのほうが彼には向いている。

 着る服に関する問題以上の実存的不安感をこの若者は示している。「私たちは何度もこう言われました —— “グランゼコールの準備課程は王道である”と。ですが、どの方向へ向かうための王道なのでしょうか? 卒業後には一個の商品を売ることで稼げるわずかなお金を数える人生を送るのに、経済や哲学の理論を学ぶことは一体何の役に立つのでしょうか? 無意味です」

 グルノーブル・ビジネススクールに入学する前、バダルー氏は商業系グランゼコール受験のための準備クラス —— 10年前から毎年およそ2万人の生徒を安定して集めている、かの有名な“HEC準備課程”—— に通っていた。学生たちはこの準備クラスで哲学や経済、数学の概念を巧みに操り、近東の地政学的問題について深く考え、快楽や空間の存在論的原因について論じている。要するに、学究的な知識が幅を利かせる場所だ。

 学生たちは2年間猛烈に勉強した後、国家試験を受ける。成績順と志望に応じて彼らは、bac+2[バカロレア(大学入学資格試験)取得後の2年次修了]レベル以上の学生を募集する26校の商業系グランゼコールのうち1校への入学が許可される。これらの名高いグランゼコールは経済界の未来の幹部を育成し、その他の数十の学校とは区別される。後者も「ビジネススクール」や「マネジメントスクール」という名前(商業系グランゼコールも採用した呼び方)を掲げているが、同レベルの就職先を提供してもいなければ、国にも認定されていない。商業系グランゼコールは多額の予算を持ち、その50%以上は高額な授業料(2018年の入学金の平均額は年間1万2,080ユーロ)によって賄われる。見習い税[職業訓練にかかる費用のために企業が負担している税金]、商工会議所(CCI)からの補助金、そしてますます多くの民間資本がそこに加わる。

 バダルー氏のように金融・コンサルタント・マーケティング業界への既定のキャリアを諦めた商業系グランゼコール卒業生は滅多にいない。それらの業界の年収は、卒業したばかりでも税引前でおよそ3万5,000ユーロだ。しかし、彼が語った失望は例外的なものではない。その不安感はとりわけ入学初年度に、授業の知的要求の乏しさに直面して現れる。学生たちはマーケティングや組織経営に関する最初の授業でしばしば落胆する。ナントにあるオデンシア・ビジネススクールの卒業生、カトリーヌ・ガルティエ氏は「理論づけられた当たり前のこと」を思い出す。このやり方は、常識に属することを概念に仕立て上げようとするマネジメント書の傾向を表していると彼女は考える。この種の知の幼稚化は、教授陣の話し方の中にも現れているように見える。「外部から招かれた講師たちは、私たちが強く感じている空虚さに気付いてさえいません。多くの講義で、意味のないことを学んでいる印象です」

 「授業が役に立つかは分かりません」とアルバン・メテイエ氏は漏らした。彼女は2014年にコミュニケーション分野の上級技術者免状(BTS)を取得した後、スケマ・ビジネススクールに入学し、ソフィア・アンティポリス(アルプ=マリティーム県)のキャンパスで学んだ。「授業の内容ではなく、学校のためにお金を支払っているのです」

 学生生活が進むにつれてこの不安感の大部分は無くなる傾向にあるとしても、それは、社会学者で経済学者のイヴ=マリー・アブラハム氏が高等商業学校(HEC)に関する調査の後に「学校内での脱学校化(1)」と呼んだものを予感させている。この「学校機能の無力化」はHECにおける教育の必要条件のように思われると彼は指摘する —— HECの生徒たちは「優れた学生であることをやめない限り」優れた経営者になることはない。スケマ・ビジネススクールのグランゼコール・プログラム長のソフィー・ゲ氏は、アブラハム氏のこの主張を裏付けている ——「準備課程と商業系グランゼコールの間には大きな隔たりがあります。目的が非常に異なっているのです。私たちの教育は、たとえ基本的な思考力を必要としているとしても、行動のほうを重視しています」

 こうした未来の経営者たちのキャリア計画に対し、学校での良い成績はわずかにしか影響を及ぼさない。同期生グループ内の生徒の順位づけは、2つの事柄を決定づける —— 彼らが海外の大学で過ごすことになる学期の留学先と、専門(あるいは「専攻」)の選択だ。アブラハム氏によれば、専門は免状の「おまけ」でしかない。ゲ氏は「学校での成功は成績ではありません」と明言する。「私たちは様々な能力を認めることについてよく口にします。学校の取り組み、一人一人に合ったカリキュラム、ネットワークのすべてが重要です」

 学業の目標がない学校生活の中で、学生たちの勉強意欲の喪失は(ほとんど)避けられない。セルジー=ポントワーズ[パリ北西郊]にあるエセック・ビジネススクール(Essec)で2016年に学位を取得した26歳のカンタン・ピエロ氏は、「Macbookの森」が広がっていた教室や講堂を思い出す。「Macbookの後ろ側では誰もノートを取っていないでしょうね」。小テストの合格には徹底的な勉強は必要ないだけに、真面目に授業を受けていると言った学生はごく少数だった。「1年生の時のマクロ・ミクロ経済の授業で、私は他の様々な見方を学ぶためにパリ政治学院の本を借りていました」とブルン・ランジュ氏は語る。彼女もエセックの卒業生だ。「ですが、小テストをパスできませんでした! 翌年、私は過去問だけを勉強して、その講義がどんなものかすぐに分かりました。簡単にパスできるものだったのです」

 入学するとすぐに、皆がうわさ話ばかりに熱中するような「学校生活」が幅を利かせる。「オーディオビジュアル」系の学生団体が定期的に学生たちを大教室に集め、夜のパーティーのシーンを流している。そこには恥じらいやプライベートへの配慮はまったくなく、酩酊状態の学生やゆったりとキスする学生の様子が映し出される。アルコールの飲み過ぎや度々非難される新入生いじめの卑劣な話とは別に、学生団体によるこのショーは、2年ないし3年におよぶ準備クラスの間、社会生活を中断していた学生たちの感情を刺激する —— 入学を祝う週末イベント、スポーツトーナメント、夜の「飲み放題」パーティー、ワインのテイスティング、スキー、ヨットクルージングなどだ。「初年度において仲間と深い経験を共有することは重要です」とグルノーブル・ビジネススクール副理事のジャン=フランソワ・フィオリナ氏は強調する。「それによって学校への愛着が生まれます。学校を卒業した後も、彼らはこの愛着を何年も持ち続けます」

 「学校生活」は社会関係の構築を可能にするが、それは特に濃密な学生団体ネットワークによるところが大きい。そしてこのネットワークには、学生たちの階層化を促すという特徴もある。1999年に社会学者のジル・ラズエシュ氏は「学生団体および団体内のポストすべてが同じ価値を持つわけではない」と指摘していた(2)。メンバーの価値を高める学生団体がある一方、メンバーのランクをある意味で下げる団体もある。学生団体の名声は、その公益性の高さとは反比例している。ESCPヨーロッパ・ビジネススクール(最も古いフランスのビジネススクール)では、毎年スキー旅行を企画しているSkloubが大人気だ。逆に、人道支援活動を行う団体はほとんど注目されない。

 ラズエシュ氏は、学生団体界における男女の分断についても強調していた。責任のあるポストの過半数を男性が得ていた。学生団体ネットワークAnimafacの調査によれば、2013年においてビジネススクールの学生団体の代表の59%を男性が占めていた。こうした分断には社会的な側面もある —— 最も多くの経済資本、社会資本、文化資本を持つ学生が学生団体界をリードするのだ。このことは、「学校外の活動空間で顕著に見られる学生団体内のヒエラルキーは、会社幹部の世界を構築する分断と対立の大原則となって再生産される」といった結果をもたらしているようだとラズエシュ氏に言わせしめた。

 イデオロギーの初期化やネオリベ信仰と比べてあまり知られていないが、学生団体の経験は「マネジメントの真面目さ」への転換における重要な要素だ。なぜなら、この「組織の中の組織」のおかげで学生たちは、企業で働いてから経験することになる様々な状況に対する準備ができるからだ。学生団体の経験によって、彼らは技術的能力も人間関係の中で役立つノウハウも磨くことができる。たとえば、会計係を担当していれば、経理の仕事のみならず交渉技術 —— 特に、会社の複数の部署に予算を配分するような場合 —— にも慣れることができる。

 勉学への関心から「マネジメントの真面目さ」への転換は、企業における多くの研修によって助長されているが、ビジネススクール固有の両義性を露呈させている。彼らはグランゼコールのグループ内でみずからの地位を確保するために、卒業生が企業の即戦力になるよう育てる実践的教育を提供することと、特に準備クラスから学生を集めるグランゼコールとしての正当性を獲得することの必要性の間で板挟みになっている。また、この正当性は経営学の研究によっても追求されており、この学問は20年前から大きく進展している。

 こうした傾向は、フランスと海外のビジネススクールの間で激化する競争の論理に対応したものだ。ヨーロッパの財団が発行するEquis(European Quality Improvement System)とアメリカの専門組織が発行するAACBS(Association to Advance Collegiate Schools of Business)は教育の卓越性を証明する重要かつ厳格な認定証であるが、学術研究を重視している。これらのビジネススクールで高給で働いている教員兼研究者たちに報酬を支払うためには(若い博士でも少なくとも税引前年収で5万ユーロを得ている)、企業から資金を調達するか、あるいは......学生から徴収しなければならない。グランゼコールが提供した数字によると、学費はこの3年間で14%増加している。「学術研究に重点を置くことは、より多くの資金を必要とする主な要因となりました。最近の研究への投資により、優先順位の中で研究が確実に強化されています」とマリアンヌ・ブランシャール氏は説明する(3)。その一方で、研究が教育の質に貢献することは重要ではないようだ。「多くの研究活動を行なっている教員は、その研究結果を共有することも、学生を教育することもさほど求められていません。学生の大部分は“実践的な”教育を求めているとみなされているからです」とブランシャール氏は続ける。

 アカデミックと実践の間のこうした緊張は、歴史を通じて対立へと変化した。パリで(後にパリ高等商業学校[ESCP]となる)商業教育施設の創設が提案された1806年には、フランスの商業理事会(le conseil général du commerce)が「科学としての商業は不要であり、実践的な知識しか必要としない大多数の卸売商にとっては無駄なものだ」と断言していた(4)。1988年には、マネジメント学の大家ヘンリー・ミンツバーグが「我々の組織は非常に重要であるため、そうした遊びに加わることはできない」と主張していた(5)—— アカデミズム、すなわち熟考・研究・無償の知識が“遊び”であると暗示されている。一方、アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンは、1918年にこう書いていた ——「この種の学校[ビジネススクール]は教授陣と設備を備えてはいるが、我々の大学システムにおける神学部とほとんど変わらない立場にある。そのすべてが、我々の大学の明確な存在理由である知的な取り組みとは無関係だ(6)

 ビジネススクールは学生個人の開花を促進するためにあらゆることを実行すると主張しているが、彼らの1番の目標を見落としてはならない。それは、民間企業で即戦力となる管理職を養成することだ。「私たちが語るのはもはや勉強についてではなく、学生の経験のほうです」とフィオリナ氏はグルノーブル・ビジネススクールで明言する。「学校の壁の外で行われうるあらゆる経験によって、私たちが輩出する“完成品”は一連の能力を備えるのです」。グランゼコール会議(Conférence des grandes écoles)によれば、2017年には[商業系グランゼコールの]学生の60%が、学校を卒業する前にすでに職を見つけていた。すなわち、その生産チェーンはうまく回っているということだ。




(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年12月号より)