バウハウス、形態の精神


リオネル・リシャール(Lionel Richard)

作家・歴史家・大学名誉教授


訳:嶋谷園加


 統一されたデザイン住宅やモダンなプロダクト、古いものを打ち壊した革命的な活動により、その名が知られるバウハウスであるが、この学校が現在の美術教育の始まりとなり、その基礎を重視する教育法が受け継がれていることは、それほど知られていない。新進気鋭の芸術家を教師に迎え、造形作家を育成する学校として始まったが、激動の時代の中で、政治勢力との緊張関係が続き、最後はナチスによる弾圧によって閉校された。その存続は、14年間という短さであったが、その活動の痕跡は今なお、数多く認められる。[日本語版編集部]

(仏語版2019年2月号より)


photo credit: Frederic Kellner  Bauhaus


 1919年1月のドイツではヴィルヘルム2世の退位のあと、革命派の騒乱または反革命派の反撃が至るところで見られた。議員たちが将来について討議するには、ベルリンでは困難だった。ベルリンより静かな雰囲気で、ゲーテの威光のオーラに包まれたチューリンゲン州のこの小さな町ワイマールは、秋までに国民議会を招聘することになっていた。1919年2月6日、劇場に集まった議員たちは、来たる新たなドイツ共和国を決定づけることになる憲法の条項について討議を始めた。町じゅうで兵士が歩哨に立った。

 ベルリン出身の35歳の建築家ヴァルター・グロピウスもまたワイマールにいた。彼は戦争の間、西部戦線で戦い3度負傷した後、1918年11月の終わりに市民生活に戻る。そして地方政府から、応用芸術の学校を再興するという長年のプロジェクトの承認を取り付けていた。この学校はベルギー人のアール・ヌーヴォーの信奉者、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデによって建てられ運営されていたが、1916年から軍の病院として使われていた。

 道の反対側にある高等美術学校の教師たちには、もはや校長がいなかった。彼らは2つの学校を、統合することを提案した。応用芸術の学校と高等美術学校の合体からバウハウス、すなわちグロピウスによって考え出された「建築の家」が誕生した。それは「バウヒュッテ」という中世の、教会を建設するときの職人たちの宿泊所を指す用語を連想させるものだった。1919年3月20日の新しい学校の公開日に初めて使われたこの新造語によって、グロピウスは彼が始めようとしていることの革新性を暗示しようとしたのだ。

 この建築家はすでにドイツで、前衛芸術の精神を持っているとの評判を得ていた。1910年から彼はドイツ工作連盟(ドイツの工芸作品のための組合)の活動的なメンバーだったが、この団体は工業製品の「品質向上」を目指す芸術家や職人そして工場経営者が「連携して活動」するために闘う組織だった。彼は1911年から1913年にかけてニーダーザクセン州アルフェルトの、靴型を製造するファグス社のために、ガラスとコンクリートを組み合わせた大胆でモダンな建物を作った。形態を考案することが自分の役目であると考えていた彼は、1914年には、社会が変わらなければそれはほとんど不可能だという確信に達していた。「社会のあり方が、我々の時代の倫理上、真の主要な論点になった」と彼は1911年に語っている。(1)「社会が共有すべき高尚な思想を構築すること」が必要なのだ。1919年に、彼はまさに起こっている革命的な闘いを通じ、こうした信念は今や実現不可能なことではないと考えた。ベルリンでは、芸術のための労働者協議会が設立された。彼はその議長を務めることを承諾した。「我々の仕事は、調和の時代への将来的な統一性の基礎を作るということにしかあり得ないのだ」と彼は書いている(2)

「馬鹿な俗物集団」の標的になる

 バウハウスの設立により、グロピウスは彼の考える理想郷を具現化するつもりだった。学校の授業計画は、職人と同じやり方で職業訓練を受けた造形家たちを養成するものだ。彼らは労働の共同体としてまとまり、集団的な高揚感の中で絵画や彫刻、建築のあらゆる能力や知識を集結させる偉大な事業を共同で行う。それは「建築物の中の統一性」という形で実現するのだ。画家リオネル・ファイニンガーの木版画により表されたこの授業計画書には、共同体の理想を示した協働事業の象徴である大聖堂が描かれている。

 この授業計画に沿って教育の諸原則は統一性をもち、グロピウスにより確立された。学校は[両校の特徴が]混成されたものだった。学生たちはひとつの書類を提出するだけで登録ができた。彼らは、マイスター評議会に代表として参加する学生を自分たちの中から選んだ。そこでの教師たちはもはや教授ではなく、確たる芸術家であるファイニンガーのような「形態マイスター」と、工匠マイスターなのだ。この工匠マイスターたちは、様々な工房で材料と格闘することを学生たちに教えることになっていた。最初の年は準備課程で、各々にすべてのアカデミックな古臭い考えを洗い流すように仕向け、そして、自分にもっとも適した専攻を選ぶように促した。グロピウスは予備課程の担任を表現主義の画家、ヨハネス・イッテンに託した。

 1919年に、これほど革新的な学校がドイツであり得たのだろうか? 学校が何とか始められる最低限のところまでには、まだ色々なものが不足していた。経験を積み、かつモチベーションの高い職員、材料、資金、新しい工房……。問題は山積みだった。しかしグロピウスは耐え抜いた。バウハウスは、すでに1919年10月から約200名の学生を受け入れていたが、年末には、早くも「馬鹿な俗物集団」と「古臭い国粋主義者たち」の標的となった、と校長は嘆いた(3)

 ひと月後に、以前の高等美術学校の教授たちは授業計画に適応することができず、袂を分かつ。明確に異なる2つの学校への逆戻りだった。それに抗うため、グロピウスが最初に思いついた解決策は、学生が商品化可能な作品を創案するのを後押しすることだった。しかし彼は、この地方の経済状況を十分に考慮していなかった。グロピウスの案は不正競争だと受け取られ、地元の職人たちの非難の的となった。その出来事でバウハウスはさらに孤立し、社会生活からかけ離れたものとなった。

 結局、その授業計画に基づいて学校が機能し始めたのは1920年から1921年の冬学期からだった。共同体の生活を通して、学生たちの中で精神的な結束を高めるために、グロピウスはレクリエーション活動や催し物を行うよう奨励した。彼は、演出家で表現主義の雑誌『デア・シュトルム』(嵐)の共著者ローター・シュライヤーに、学生たちとともに芝居やショーを演じながら、その経験を生徒たちに伝えるためにバウハウスに加わってくれないかと頼んだ。

 しかし教育の方向性の違いは少しずつ明らかになって行く。イッテンとシュライヤーは、学生たちの自由な開花を尊重し、見守るにとどめるべきと考えていた。グロピウスとしては、反対に、技術の習得に集中すべきだと考えていた。彼が力説する、材料と職人としての実践に親しむことは、時代の精神と一致する新たな形態の考案のための前提条件なのだ。彼は社会と関わりを持つクリエーターの共同体を夢見ていたにもかかわらず、バウハウスは彼にとって、ある「夢想家の島(4)」でしかなくなってきているように思われた。工房では、まだ何も作品を生み出していないに等しかった。イッテンが学生らの仕事にブレーキをかけているというのが、彼の意見だった。

 その状況を改善するために、グロピウスは1920年にオスカー・シュレンマー、1921年の春に、パウル・クレー、1922年の6月にワシリー・カンディンスキーという名の通った人物たちを雇う。それにもかかわらず、1922年10月にイッテンとの対立は断絶の段階に達し、彼は問題の原因を取り除くことに決めた。チューリンゲン政府は、バウハウスに与えた補助金の妥当性を証明するために、展覧会を催してその成果物を一般市民に公開するように提案した。学校を破たんさせないためには無視できないことだった。したがって、イッテンは展覧会に協力するか、あるいはポストを放棄するか、どちらかを迫られたのだった。その出来事でイッテンは怒り、出て行くことになる。シュライヤーも彼に続いた。

 第3の幕が開いた。イッテンに代わる新たな人材がグロピウスによって採用された。構成主義者のハンガリー人、モホリ=ナジ・ラースローだ。1923年の春に、彼は予備課程と金属工房の指導を確実にこなした。やっと学校はその原動力を得た。モホリ=ナジは展覧会の準備作業に参加した。1923年8月15日、展覧会は開幕した。この展覧会は、バウハウスに生き残る価値があるということを証明した。

 一般の市民が、工房の作品を見学するために招待された。宣伝用のチラシやポスター、絵葉書がこの日のために印刷された。200ページ以上に及ぶ、重要な資料が出版された。モホリ=ナジは、その本にすばらしいタイポグラフィを施した。[訳注1

 丘の上に、織物工房を指導するマイスターで画家のゲオルグ・ムッヘの設計した実験住宅が作られた。その構造は2つの立方体が重なったというシンプルなものである。内装デザインは合理的かつ機能的に行われ、全ての設備が最新のものになった。講演の中でグロピウスは動き始めた転換期を標語にまとめた。「芸術と技術、新たな統一」[訳注2

 運営が明らかに順調に進んでいることのかいもなく、バウハウスは歴史の偶然に翻弄され続けた。1924年2月に右派が地方選挙で過半数を獲得し、学校への予算を制限した。1924年の終わりにグロピウスやマイスター評議会には、学校の存続する環境があまりにも不安定に思われるようになり、1925年の4月1日に閉鎖することをあっさりと甘受し、それを表明した。そんな宙に浮いた状態の時、デッサウ市長が表明した受け入れ提案が届いたのだった。1925年の4月に、バウハウスはベルリンから約100キロにある、産業が急成長している人口7万人のこの町へ移転する。市は一方で、庶民のための住宅地計画に取り組みたいと願っていた。


photo credit: Rashunda Tramble  Bauhaus, Dessau, Germany


 幾月か仮校舎で不安定な状態にあったが、1926年10月グロピウスの設計で素早く建設された新しい3つの建物で、バウハウスは再び開校した。ある翼棟すべてが学生の部屋に充てられた。建物はガラスと鋼鉄とセメントが結合されており、近代の建築物の手本となった。

 市が保証する補助金を受け、バウハウスはその時から「形態を構想する高等教育学校」となった。そして、工業製品のための試作品を作る機関になる。職人仕事に範を求めることはなくなった。ワイマールから来たマイスターたち、クレー、カンディンスキー、ムッヘ、モホリ=ナジとシュレンマーなども、教授の肩書を受け取った。何名かの元学生たち、ヨーゼフ・アルバースは予備課程を、ヘルベルト・バイヤーは印刷術と広告工房を、マルセル・ブロイヤーは木工工房と機能的な家具の考案を指導した。

 引き続いて、グロピウスは建築学課程を補完し、授業計画を完全なものにする。それを行うために、彼はスイス人の建築家ハンネス・マイヤーを選んだ。マイヤーはこれを受けたが、それにはひとつの条件があった。理論の授業には現場での実践を含まなければならない、一般的な高等技術学校と[バウハウス]との違いを示さなくてはならない、というものである。

 学校を社会の中に溶け込ませるために、さらに思い切った決断がなされた。材料の強度に関する授業と建築応用数学の授業もまた開設された。バウハウスは研究のための試験所であることを明確にするために新たな方向を目指して行った。企業向けの試作品の販売に伴い、商品販売契約を結んで行った。

 そして突然、皆を驚かせたのはグロピウスが辞職を宣言したことだ。彼は財政的な問題解決のために自分の時間を費やすことに苛立ち、自分のキャリアをないがしろにし過ぎてきたと判断したのだ。1928年10月に、彼はその指揮をマイヤーに任せた。バイヤーとブロイヤー、モホリ=ナジも続いて去っていった。

学校を救うためのゲッペルスとのむなしい交渉

 それはバウハウスにとって第5番目の局面だった。マイヤーは、建造物を作るためには人間に関するあらゆる現象を考慮しなければならないと考えた。近代建築は平らな屋根や直線的なファサードに集約されるのではない。それは人間のありようとの直接的な関係にある建築形態の中にあるのだ(5)。この構想の下、大きな新風が巻き起こった! バウハウスは写真の講義、心理学、社会学、映画に関する研究会、体操の授業などの先端技術を受け入れた。マイヤーの寛容さはさらに共産主義者の学生たちの活動にも向けられていた。1930年8月、彼がバカンスの真っ最中、デッサウ市からの解雇通知を受け取るまでのことだ。

 彼に対し策略を講じた者たちは、有名な建築家、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエにマイヤーの後任に就くことを提案した。ミース・ファン・デル・ローエは申し出を受け入れ、秩序を回復させる。厄介者の追放だ。素行に対する厳しい校則が学生らに課せられた。純粋な技術教育、もしくはそれに近いものに制限された。この特筆すべき取組みは、ああ何ということか、無駄だったことが明らかになる。1930年に国家社会主義ドイツ労働党がチューリンゲン州で勝ったのだ。同党の指導者たちの目には、バウハウスは消滅しなければならない「文化を崩壊させる」「ユダヤ・ボリシェビキ」の機関だった。でっち上げられた口実は、建物の屋根が雨漏りする、というものだ。デッサウ市もチューリンゲンの新政府も、その修繕費用を負担することが出来ない。1932年8月22日に学校への立ち入り禁止が発令された。

 万策尽きてミースは、使われなくなったベルリンの工場で、私立学校としてバウハウスの活動を継続しようと試みた。彼は、かつて産業界へ向けて売った試作品がもたらした金で資金調達しようとした。しかし1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーが権力を獲得した。学生のなかにいた何名かのナチの分子がヨーゼフ・ゲッペルスと交渉しようと冒険的行為をしたが、馬鹿げた変事として終わった。学内捜索の際、警察は共産主義のプロパガンダを発見したと言い張った。もはや弱体化したバウハウスは1933年4月11日に閉鎖した。1933年7月20日に、マイスター評議会は同校の解散を採決した。

 今日、バウハウス神話が独り歩きしている。世間の評価は、バウハウスが何よりもまずひとつの学校であったということ、そしてその発展は、その機能を決定づけた歴史的状況と分かち難いことを忘れるまでになっている。機能重視の環境づくりを推し進めた近代運動に過ぎない、いわゆるスタイルを称賛する人もいれば、一方で量産方式の住宅、規格化された建造物、超高層ビルの都市計画に対する責任をなすりつける人もいる。

 もっとも広がった間違いのひとつに、バウハウスは建築学の学校だというものがある。だが、その授業課程は開校後8年経ったところで、開かれたに過ぎないのだ。エリートたちとまでは言わないにしても、ほんの一握りの少数の人たちが、恩恵を受けただけだった。1929年の学生201名に対して、建築部の学生は30名、1930年は166名中40名のみだった。

 バウハウスが効果的な教育法の始まりであったことを忘れないでおこう――モスクワの国立高等芸術技術工房、ヴフテマスの1920年の授業計画は、バウハウスのものと、そもそも類似していた。バウハウスは、アカデミックな慣習を打ち破り国際的規模で、それまで支配してきた物質主義的な環境に変化をもたらすことに貢献した。バウハウスを取り巻く、時に抽象的になりがちな論争を脇目に、ブロイヤーの発案した椅子やヒン・ブレンデンディークによって考えられた折り畳み式テーブルやデスクランプ、マリアンネ・ブラントの考案したコーヒーセットが生産され続けている。デッサウで作り上げられたこのようなモダンなプロダクトは世界中の事業者により複製されている。


photo credit: Alessia Damone  Bauhaus


 こうしてグロピウスがバウハウスを世に出してから100年経つ。2015年にドイツの国会はバウハウスの100周年を祝うための資金援助を採決した。「バウハウスは、ドイツ文化史の中でもっとも成功を収めた、輸出品のひとつである」という完全なるご都合主義的論拠で定義したからだ。2019年にはバウハウスへささげられる3つの美術館が開館される。すでにいくつかの観光協会ではその探索ツアーを提案している。

 その教育法と創作物について触れることに加え、あらゆる成果が多くの苦難を強いられた14年間という短い存続期間の中で生まれたことを思い出さずして、この学校を称賛することはできない。というのは、バウハウスは政治的理由で禁じられるまで、3つの町を転々とし、3名の校長の相次ぐ交代を経験したからである。



  • (1) Walter Gropius, Architecture et société, Éditions du Linteau, Paris, 1995.
  • (2) Walter Gropius, dans Ja ! Stimmen des Arbeitsrates für Kunst in Berlin (collectif), Photographische Gesellschaft in Charlottenburg, Berlin, 1919, cité par Karl-Heinz Hüter, Das Bauhaus in Weimar, Akademie Verlag, Berlin-Est, 1976, document no 7.
  • (3) Cf. Karl-Heinz Hüter, Das Bauhaus in Weimar, op. cit., « Lettre à Max Osborn du 16 décembre 1919 », document no 15.
  • (4) Cf. Karl-Heinz Hüter, Das Bauhaus in Weimar, op. cit., document no 43. Également dans Hans M. Wingler, Das Bauhaus : Weimar, Dessau, Berlin, 1919-1933, Rasch & Co, Cologne, 1975.
  • (5) Das Werk, no 7, Zurich, 1926. Cité par Jacques Aron, Anthologie du Bauhaus,Didier Devillez éditeur, Bruxelles, 1995.この著作はバウハウスを理解するための基礎となる。

  • 訳注1]この本の大部分をモホリ=ナジが作成したが、彼は「バウハウス・タイポグラフィ」という、線や数字のサイズが大きく幾何学的な活字を考案した。

  • 訳注2]1923年にバウハウス展が開催されが、他の行事と併せてドイツ工作連盟の会議も行われた。その中で、グロピウスは「芸術と技術、新たな統一」という講演を行った。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年2月号より)