続・完「ピエール・ラビのシステム」


ジャン=バティスト・マレ(Jean-Baptiste Malet)

ジャーナリスト


訳:生野雄一


 ジャン=バティスト・マレの調査記事「ピエール・ラビのシステム」は2018年8月に発表されると、数多くの反響を呼んだ。執筆者は、ラビ氏とその支持者から寄せられた批判に対して、調査などで得た事実を挙げながら反論しつつ、彼が発見したラビ像を描き出していく。[日本語版編集部]

(仏語版2018年11月号より)


 「あの御仁が我が家を訪れた。私に質問することもできたはずだが、さにあらず。1つの質問もしなかった。彼は立ち去って行き、謎解きをした。彼はあちこちでいささかの情報を集め、いつまでも調べてばかりいる」。9月23日、[ラジオ放送局の]フランス・キュルチュールに1時間登場して、ピエール・ラビは次のように舞台装置をしつらえる。すなわち、ル・モンド・ディプロマティークの記事に書かれた事柄を事実に即して反論するというよりは、ラビ氏のイメージを傷つけたとされる「哀れな男」の人となりを分析する。「精神分析的にみれば、あの男は自らの評価を高めようとしていて、たぶん、著名な人物の批判をすることがその目的のためにより都合がよかったのではないかと言ってもいいかもしれない」。これが、ラビ氏が地方メディア(9月27日のL’Indépendant 、9月30日のL’Alsace )や10月7日のカナル・プリュスでの対談で繰り返し述べた、彼の防衛線なのだろう。このことが、ラビ氏の精神分析分野における非凡な巧みさを公にさらけ出すとともに、この論戦のおかげで、私はあの調査記事が生まれた状況に立ち戻って、メディアやソーシャル・ネットワークに伝播した誤った情報を正す機会を得た。

 ラビ氏は、私が彼に質問をしなかったとか、私が「羊小屋に入る狼のように」彼の家に入ったと言って事実を歪める。私は彼のアシスタントのカロリーヌ・ブレと2018年2月に連絡をとった。同様に、ラビ氏の親友でピエール・ラビ寄附基金の管理責任者であるモーリス・フロイントともコンタクトした。1カ月半後の2018年3月31日に、[フランス南部の]アルデッシュのラビ氏の農場にモーリス・フロイントに伴われて赴き、面談が実現した。私はフロイントの友だちのふりはしなかった。というのも、私は彼に1度しか会ったことがなかったからだ。この面談の際には、フロイント氏にもラビ氏にも私がジャーナリストでル・モンド・ディプロマティークに記事を書いていることは完全に認識されていた。私は手帳を携えてラビ氏の家にお邪魔して、そう3時間近く続いた面談の間ずっとメモを取っていた。面談は録音されていて、とても順調に運び、その間私は数多くの質問をした。私の求めに応じて、ラビ氏は私がベランダにある書架を開けることを許してくれて、さらに、彼を特集した雑誌 Kaizenの特別号や、彼の自伝 Du Sahara aux Cévennes 、それに2002年の大統領選挙での彼のパンフレットまで、私にくれた。面談の終わりには彼は私にこう打ち明けた。「あのね、時折、私はね、ピエール・ラビの役割に本当にうんざりするんですよ」

 私は、この調査を通じて、多くの事実、ディテール、彼のものとされている功績に誇張があることを発見した。その責任の一端は、当の本人が若い時から「オアシスで生まれた砂漠の子」という自分の神話を創り上げるべく自らを語り続けてきたことにある。私は、彼の一等最初の作品で、26歳のときの1964年に発表され、しかも、早くも!「自伝」と題する作品を発見した。この作品の中でラビは、当時の自らの「十字架への愛」を「とてつもなく魂を高揚させる」として賞賛している。同様に、私はイナテーク[INA(Institut national de l’audiovisuel、フランス視聴覚研究所)所蔵のアーカイヴ]において、1980年代の彼のメディアデビュー以降にテレビやラジオで放送された全場面を視聴した。そこで明らかになったことは、謙虚さはこの人物の最も重要な資質ではないということだ。しかも、彼の友人のシリル・ディオンは私との面談で「ラビは謙虚な人のふりをしている」と認めた。

 ラビ氏が織りなし彼の友人が繰り返し語るロマンティックな物語に対して、私はこれまで誰も反駁していない、いくつかの事実を明らかにした。彼の「土への回帰」はフランス領アルジェリアの中産階級の教育を受けた一徹な若きカトリック教徒のもので、彼は1960年代の工業化社会の激しさにも階級闘争を支持する当時の組合主義者の話にも我慢できない若者だった。当時、彼はアルデッシュ県で、年上の保守的なカトリック教徒でヴィシーの農村主義に非常に影響を受けた人たちと一緒にいた。そのなかで、あのピエール・リシャール医師とその友人のアンリ・スルランがいて、二人とも「青年団」──ヴィシーの対独協力主義政権が「国民革命」を推進するために設立した軍隊式の組織──にいた人たちだった。ピエール・ラビが彼の一等最初の作品を1964年に発表したのは、スルランの雑誌 L’Armagna de la veillée だった。

 ル・モンド・ディプロマティークの編集部に宛てた反論のなかでラビ氏はこう書いている。「ピエール・リシャール医師が、彼が若い時にヴィシー政権下の教練のための“青年団”の指導員だったことと『土への回帰』を擁護していたというだけの理由で、『アルデッシュのヴィシー派』とまで貶められているのはショッキングなことだ。彼をこう形容するのは彼がレジスタンス活動家だったことをうやむやにする点で適切ではない」。この最後のくだりにはリシャール医師の娘であるシルヴィ・リシャールが異を唱えている。我々の考えに同調して彼女は、父はレジスタンスの活動家ではなかったときっぱりという。あの田舎医師はいかなるレジスタンス組織にも属したことがない。家族のさまざまな証言によれば、占領下で彼は、「両方の陣地で」敵味方の区別なく病人や負傷者の治療に当たっていたという。レジスタンスの主だった記録文書には彼のレジスタンス活動に関するいかなる痕跡もない。というのも、こうした活動は戦争直後の公式記録手続きの対象ではなかったからだ。家族によると、「リシャール医師が栄誉を求めなかったからだ」と言う。したがって、リシャール医師のこれらの活動は確かめようがない。実際、リシャール家はリシャール医師の手紙や「青年団」での日誌をはじめとする個人的な文書を調査研究者に開陳することをきっぱりと拒否している。理由はこうだ。リシャール医師を家族は「伝道者」と呼んでいたが、キリスト教を絶対的に信仰した人だったので、彼が書き残したものは「あまりに内面的で」調査研究者にはみせられないということらしい。リシャール家と親しい歴史家でこれらの文書へのアクセスを認められているただ一人の人はカリーヌ=ラリサ・バセで、リシャール医師の伝記に関する解説や同医師の「青年団」での何枚かの写真の公表は彼女のおかげだ。

 ピエール・ラビの発言に基いてジャーナリストたちがきまって主張するのとは違って、ラビはアルデッシュに来たとき、農業を主な活動にしてはいなかった。彼自身が自伝 Du Sahara aux Cévennes で言及しているように、彼は彫刻家だった。アルデッシュの当時の雑誌を読んでも、ピエール・ラビは農家とか畜産家ではなく、「彫刻家」の肩書を使っていたことが確認できる。リシャ―ル家でもピエール・ラビの彫刻をいくつか保有していて、この昔の事実を認めている。

 私の記事が発表されると、ラビ氏は、シャルル・モーラス[フランスにおける反近代主義の代表とされる右派の論者]を信奉する知識人であるギュスターブ・ティボンをあまり知らないし彼から影響を受けたこともないと主張した。この点についてギュスターブ・ティボンの秘書は反論する。彼女によると、ラビ氏は弟子が師を訪れるようにティボンを訪れたという。ラビ氏はティボンとの最初の出会いについてこう語った。「早くも1962年に、私はサン=マルセル=ダルデッシュにほとんど震えながら巡礼した」と。彼の主張とは逆に、当時彼らの関係は続いた。ティボンはその著書 L’Illusion féconde(1995)において「ラビの来訪」として次のように書いている。「彼は私を、死を賭して先頭を行く未開地部族の長だと言う」。アルデッシュでは、1960年から1990年代に、ラビとティボンはお互いの家で何度も会い、連絡を取り合っている。ティボン家の人から得た証言によると、ピエール・ラビは彼の著書の一つにギュスターブ・ティボンに序文を書いてくれと頼みさえしたらしいが、ティボンはこれを断ったらしい。ナチスドイツの占領時にシモーヌ・ヴェイユを援助したことに関しては、1989年のテレビでジャック・シャンセルとの対談のなかでティボンはこう断言している。「ユダヤ人がどうのというのは私の知ったことではないが、シモーヌ・ヴェイユは泊めましたよ」。このとき、シャンセルはこの発言は反ユダヤ主義的だと指摘した。

 1960年代初めにラビがティボンと頻繁に会っていたころ、ティボンは[王党派組織の機関紙]アクション・フランセーズ紙でシャルル・モーラスを称賛しフランス領アルジェリアのために活動していたことは、指摘しておこう。占領下でティボン自身がモーラスに褒めたたえられてから約20年後のことだ。また、ティボンは「青年団」で「権力と首長」と題する講義を担当していた。この講義はそれ以来繰り返されており、その思想的内容はヴィシーの精神と合致するものだ。戦後、彼はカトリックの極右組織である、ジャン・ウーセ が創始したシテ・カトリックの活動に参加した。1990年代、ラビが相変わらずティボンを訪れていたころ、ティボンは自分の思想を引き続き忠実に守り、「国民戦線」の前欧州議会議員で、このナショナリスト政党の伝統主義カトリックのリーダーだったときのベルナール・アントニーと近しかった。

 ラビ氏が私の記事を風刺したのとは反対に、私は彼がアルデッシュの仲間の全ての思想を取り入れたとは書いていない。私は、彼の保守的な農村主義の思想的系譜の概略を描くにとどめたが、その思想によると、彼が私との面談のときに認めたように、今日でもなお、啓蒙思想が残したものは「現代の蒙昧主義」だということらしい。

 2人の同業者、マリー=モニク・ロバンとファブリス・ニコリーノがそれぞれのインターネットサイトに彼らの友人ラビを擁護するコラムを載せた。彼らはどちらも私の記事に書かれた事実を争うのではなく、その解釈を問題にしている。ロバンがルドルフ・シュタイナーの発案した疑似農業科学であるバイオダイナミック農法における「“牛やヤギの糞”の有効性」を擁護するのも自由だし、ニコリーノが私の記事との関連をよく理解しないまま、「フランスには文化的スターリン主義がはびこっていると私は断言する」と書くのも自由だ。だが、多くのプロのジャーナリストが、ラビ氏が検証もしないで根拠薄弱な申し立てをするのを許しているのは、責務を果たしていないと私には思われる。また、彼を「詩人」と形容することも同様で、ピエール・ラビは一度も詩の作品を発表したことはない。あるいは2002年の大統領選挙でのパンフレットで彼が名乗っている、農業問題の「プロ」という妙な肩書も同様だ。ラビ氏は、彼の物語 L’Offrande au crépuscule で農業大臣賞を受賞しはしたが、この著書は文学作品であり科学的な著作ではない。ラビは、特にこの著書の終わりに「メソッドを公開」しようとしていくつかの仕組みについて言及しているが、このアルデッシュの農民に特徴的なように、農業の知識と文学を一緒くたにしてばら撒いている。読者の皆さんには、この著書の最後に挿入されているお粗末なデッサンをみて頂き、ラビ氏の農学分野の知識を良く判断して頂きたい。

 会談のなかで、私はラビ氏とフロイント氏の両人に財政面の質問をしたが、彼らの答えははっきりしないものだった。次に私は、ラビ氏と近しいベルナール・シュヴィリア氏に特に次の文面によって正確な情報を求めた。「ピエール・ラビは簡素な生活と物質的な財産に関する無欲の価値を称揚しています。私の調査においてピエール・ラビの財産と報酬について触れたいので、この手紙を差し上げています。あなた方の価値観に則って、私の質問に対して明瞭にお答え下さいますようお願いします」。それに対して、シュヴィリア氏は 厳密に事実関係だけに限定した私の質問を「尋問調で作法をわきまえないトーン」だと非難しながらも、財政面に関する基礎的な情報を開陳してくれた。度々の催促の末に彼は財政情報を与えてくれたが、たいていの場合「薄められた」情報で、たとえば、ピエール・ラビの著作権料報酬は平均されたもので、特に近年の収入が多かったという印象を弱めるものだった。

 世上言われたり書かれたりしていることとは反対に、私は一度もラビ氏の報酬を非難したことはない。ル・モンド・ディプロマティークのあの記事のなかで私はこうした財政面に関して言及もしていない。ただ、私は、私の調査記事について語るよう求められてフランスの公共ラジオ局(France Inter)のジャック・モナンの放送番組“Secrets d’info”に出演した。そこでは、私はこれまで一般には知られていなかったいくつかの情報を含む事実を開陳し、ピエール・ラビは物質的なものに無欲であることの価値を説いていること、さらには、彼の思想を推進している組織に彼は自分の収入を拠出していないこと、彼の個人的アシスタントの報酬を彼の基金から支払うようなことはしていないことを述べるにとどめた。これに対して、ベルナール・シュヴィリアは La Croix のインターネットサイトにコラムを設け、私が「激しい当てこすりや文脈を無視した数字を発表した」(2018年9月27日)と非難した。

 ベルナール・シュヴィリアは 私が(検証済みの情報を引用しながら)ラビの収入に言及したこととラビがその収入を彼の慈善団体に投入していないと強調したことを憤った。私がこの財政に関する情報の「文脈」をないがしろにしたことを非難している。しかしながら、唯一大事な問いは、これらの数字は正しいのかということだ。正しい。ラビ氏はしっかり稼いでいる。それ自体はご同慶の至りというしかない。しかし彼は、パート社員、つつましい年金生活者、賃金生活者、学生そして失業者、ならびに毎月5~10ユーロを拠出している約4,000人の「ハチドリたち」に向かって簡素な生活を説く一方で、ラビ氏自身はと言えば自分の収入をこれらの組織に拠出していない。私の調査記事が発表される前には、彼はテレビチャンネルのフランス2(France2)のカメラの前で憶することなく、筵(むしろ)を敷いて地面に寝ることもいとわない霊感豊かな禁欲主義者を演じていた。どうやら、私は痛いところを突いたようだ。

 ルネ・デュモンが「化学肥料しか認めず、化学肥料は農業発展の鍵だと言っていた」というくだりは歴史の事実を書き換えるに等しい。ラビ氏のアプローチを非難した1986年のあのデュモンはもはや1950年代の科学者デュモンではない。当時彼は活発に、資本主義、生産性第一主義、浪費、世界の工業化に反対し、そして第三世界の味方になって闘っていた。その9年前、ル・モンド・ディプロマティークは彼の著書 Seule une écologie socialiste…(Robert Laffont, 1977)の書評を載せた。「社会主義的エコロジーは樹木、河川や小鳥たちの心配をする牧歌的なものをはるかに超えている。大事なことは、『私たちの文明をすっかり評価し直すことだ』。世の中の資源を、本当の意味で再配分し節約することほど真に革命的なことが他にあるだろうか?」と同書は語る(1977年7月)。デュモンは農業における化学工業の介在余地を減らすことが必要だと考えていたが、資本主義の構造を批判することなしにはいかなる農業改革もできないと思っていた。デュモンは、社会問題とエコロジーの問題を切り離しては考えなかった。

 彼は Un monde intolérable. Le libéralisme en question(Seuil, 1988)という著書のなかでこう説明している。「フランスでは、こうして生産された果物、野菜、蜂蜜、卵、鶏がバイオ市場で少し高い値段で流通している。というのも、総じてバイオ農場は、私たちが浪費的だと呼びたがる『現代』農業と比肩できるような生産コストを達成できないからだ。先進諸国の裕福な消費者は、当然にクオリティが勝っていると思っているので、文句を言わずにこの価格プレミアムを受け容れている。私たちは、ヴォクリューズ県のアプト[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の都市]やピレネー山脈のアスペ渓谷周辺で、とても貧しい辺境の自然環境のなかでつましく暮らしている『バイオ』農民を知っている。確かに、彼らはなんとか暮らしてはきたが、つましい暮らしだ。(……)一部のバイオ農業の純粋主義者は『緑の革命』がアジアで何百万人も多くの住民を養っているか!を理解せずに、躊躇なく化学肥料などに反対する。最善の解決策は中国のやり方で、そこでは化学肥料(その消費は急速に増えているが)と組み合わせて、可能な限りあらゆる有機肥料を常に使っている」

 1904年生まれのデュモンは、19世紀と20世紀に世界中で何千万人もの死者を出した飢餓に対して根気よく闘ってきた。最も多くの死者を出した飢餓だけをいくつか挙げても、アイルランドでは1845年から、中国では1928年から、インドのベンガル地方では1943年から、ビアフラでは1967年から、エチオピアでは1984年から飢餓に見舞われた。デュモンは「浪費」農業を厳しく非難していたが、1986年には化学肥料が「農業発展の鍵」だとは考えていなかった。全く反対で、彼は化学肥料を批判しそれを乗り越えたいとは望んだが、しかし、労働者を犠牲にしたり飢餓を招いたりしないでこれを実現したかった。

 農学者であるデュモンは1986年にブルキナファソでラビに会ったとき、オートボルタ[ブルキナファソの旧国名]の飢餓の話を常に念頭においていた。化学肥料は批判しなければならないと考えてはいても、教条主義的ではなかった。彼が最優先したのは第三世界の食糧主権であり、とりわけブルキナファソのそれだった。デュモンはピエール・ラビがゴロムゴロムで行っている「農業教育」を知ったとき、ラビがブルキナファソの農民にシュタイナーのバイオダイナミック農法の太陰暦のように秘教的なやり方を教えていることに気付いただけでなく、彼が農学的知識を全く持ち合わせていないことを発見した。「熱意はあったにせよ、ラビは経済学や農学的な知識に欠け、とりわけ、堆肥の最も適切な使い方を知らなかった」とデュモンは Un monde intolérable に書いている。彼によれば、「堆肥の生産コストはゼロだった。ラビは、こうした事業に欠くことのできない必要な作業、そして輸送問題さえも過小評価していた。おまけに、ラビがアフリカ人たちに対して問題のある態度をとっていたので、ポワン・ミュールーズの本部とかブルキナファソの当局に対して私たちが感じたことを伝えざるを得なかった。エコロジーは科学的な専門分野であり、現地の環境条件に適合していないような方法をアドバイスしてエコロジーの信用を失わせ、その価値や厳密さを損なうようなことはしてもらいたくない。温暖な環境での経験は熱帯気候のもとでは、ほとんど役に立たない」

 「あの人物はとても威圧的だった」とラビ氏は、1974年の大統領選挙でのエコロジスト候補で、選挙運動中フェミニストおよび反権威主義運動を支持したルネ・デュモンについて語る。しかし、デュモンのかつての弟子たちの多くが思い出すのは、この教師は他の同僚教員と違って、「昔流の」頭の硬い、権威主義的な先生ではなかったことだ。彼の教育法では、合理的で科学的な根拠のある論証によるものでさえあれば、まさに学生たちが彼自身の教え方に疑問を呈することができるように意を用いていた。

 結論を言えば、「ピエール・ラビのシステム」に関するこの調査記事は、ラビ個人を批判するものではなく、個々人の自覚に訴えるだけで経済システムのあり方を問うことをしない、一種の非政治的、精神主義的、個人主義的なエコロジーに対する批判だ。ラビ氏は、文化的事業のつもりで失われた楽園の幻影を持ち出して、それを大衆向けの商品に仕立てあげたのだ。




(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年11月号より)