「ピエール・ラビのシステム」に反論する


ピエール・ラビ(Pierre Rabhi)


訳:生野雄一


 ル・モンド・ディプロマティーク8月号のジャン=バティスト・マレの記事「ピエール・ラビのシステム」[日本語版ホームページでは11月号に掲載]について、ラビ氏から次のような詳細な説明が寄せられている。[日本語版編集部]

(仏語版2018年11月号より)


「システム」と「マーケティング」について

 あたかも私が「マーケティング」によって儲ける「システム」を作ったかのように思わせることは奇妙なやり方だ。この2つの概念は私にはまったく縁がない。[「システム」と「マーケティング」の用語はマレ氏の記事「ピエール・ラビのシステム」の原文ではメインタイトルとサブタイトルだけに用いられている。]私は、私が考案したいかなる団体や組織において何らの役割も担っていないし、それらの団体と組織の間には何の繋がりもない。それぞれが財政的に独立していること自体が、システムもマーケティングも存在しないことを証明している。これらは、職業訓練または変革の場ではあっても、一度たりとも「自給可能な」モデル農場であろうとしたことはない。

 私が行うアグロエコロジーやさまざまな活動を根拠のないお粗末な当てこすりや思惑で中傷しようとするこうした試みに私は傷ついているし、この記事の目的が何なのか自問している。

 全体に私の取り組みは自己満足のためのものではない。それは、証言であり抗議に類するものだ。というのも、私は主として人々に、金儲け主義の社会が私たちを閉じ込めている従属、さらには隷属に抗い、つまらない飾りや進歩の幻想を捨てて社会の変革のためにそれぞれが自分の役割を果たすよう呼びかけているからだ。

私の師と目されている右翼の人々について

 私の人生は人との出会いだけで形成されているが、人はそれらのいくつかに、計り知れない意味があると思っている。そうして、私が1960年代に染まったという反動的な思想に影響されていると言いたがる。ピエール・リシャール医師に関して、彼が、若い時にヴィシー政権下の教練のための“青年団”の指導員だったことと「土への回帰」を擁護していたというだけの理由で「アルデッシュのヴィシー派」にまで貶められているのはショッキングなことだ。彼をこう形容するのは彼がレジスタンス活動家だったことをうやむやにする点で適切ではない。セヴェンヌ国立公園の創設者であり、民族学に熱心な疲れを知らない田舎医師の彼は、どんな天候でもシトロエンの2CVに乗って、命を危険に晒すほど走り回っていた。私がアルデッシュ県に住み始めたころ、彼は私を家に泊めてくれ、私が農業を始めるのを手伝ってくれ、結婚式の立会人になってくれたが、一度たりとも私になにがしかの思想を伝えようとしたことはなかった。ただただ、生態系や農村の景観や人々対する情熱だけが私たちを結びつけていた。

 根っからの田舎のカトリック教徒作家で、シモーヌ・ヴェイユを啓発したギュスターブ・ティボンとの出会いも同様だ。マレ氏が描くティボン像は歪められている。ティボンと私の交流は基本的に精神的なことに関するものだった。私たちは年齢が35歳離れており、私は彼の絶大な教養と言語能力あるいは記憶力に印象づけられていた。

 私たちが経済的に困窮していたとき彼が私たちを支援してくれたことを思い出すが、でも私が彼の弟子であるとか彼が私にとってモデルだったということはない。当時、私たちがカトリック信仰に共通して愛着を持っていたことを除けば、関心とか教養を同じくすることはなかった。私たちはレベルが違っていたし、私は彼を先輩として尊敬をしていた。私たちは時おり会うだけで──全部で4、5回──、交流はすぐに途絶えた。私は自らに確信がない年齢だったし、自己形成のためにあちこちに首を突っ込んでみる年齢だったが、しかし彼には私の指導者の一人になろうという気持ちはなかったし、私が彼を引き合いに出したことは一度もなかった。

私の能力とルネ・デュモンについて

 この記事の執筆者が笑いものにしたブルキナファソの経験に立ち戻らなければならない。奇妙なことに、マレ氏がモーリス・フロイントとともに我が家にやってきたときには、彼はこの件に関して何も質問しなかったし、そもそも、彼の話には不正確なところが数多くある。

 1984年には私はすでにブルキナファソで仕事をして4年経っていた。「開発のための農民の国際関係センター」(Centre de relations internationales entre agriculteurs pour le développement)のジョセフ・ロシェから私の経験を広めるためにブルキナファソに招かれていたのだ。ある日、モーリス・フロイントがフィリップ・ドミニアクとともに我が家へやってきた。私はフロイント氏を知らなかったが、彼の名前は聞いたことがあり、(彼が創設したチャーター航空機会社)ポワン・ミュールーズを使っていた。彼から宿泊用キャンプ場の問題の説明を受けて、私は彼のところで一肌脱ぐことを引き受けた。私は、飢餓が蔓延していたゴロムゴロムで農民や研修生のためにアグロエコロジーの職業訓練に取り組んだが、しかし、言われているようなバイオダイナミック農法あるいは太陰暦を持ち出したことはなかった。私は、水肥や厩肥を使った堆肥の作りかたを喜んで説明し、アグロエコロジーの技術を好んで利用した。農民を化学肥料から解放することが喫緊の課題だった。私の著書 L’Offrande au crépuscule(1988)のなかで、私たちは仕組みとそれを証拠立てる分析、私たちがサヘルでどのようにやったかを説明している。この本はフランスで農業大臣賞を受け、私は国際的なシンポジウムに出席を求められた。

 ルネ・デュモンに私の仕事の「評価」を委託したのはモーリス・フロイントではなくトーマス・サンカラだ。デュモンが[彼が目にしたものに]「驚いた」とは私には思われない。というのも、最初、私たちは一致協力して[評価に]臨んだからだ。不幸なことに、彼は化学肥料だけしか信じていなかった。彼は、化学肥料が農業発展の鍵であるとして、彼の著書 L’Utopie ou la mort ! (1973)にそう書いている。彼はとても権威主義的な人だった。私は堆肥が奇跡的解決策だとは少しも言っていない( L’Offrande..., 2001年版、194ページ参照)にもかかわらず、デュモンは私の信用を失わせようと企て、私はサンカラに呼ばれた。面談の終わりには、サンカラは私に有利なように裁断した。デュモンが私に繰り返し辛辣になる背景がここにある。サンカラの友人のギィ・デルブレルが証言しているように、サンカラは肥料業界からの経済的独立を選択したのだ。彼は私を地方開発担当の国務大臣に任命しようとさえしたが、暗殺されてしまった。

 言われていることとは違って、私はブルキナを「慌てて出て行く」必要はいささかもなかった。というのも、私がアルデッシュにいるときに彼が暗殺されたことをラジオで知ったからだ。アグロエコロジーがサヘルの環境に適合して生産性が高い証拠に、今日でもブルキナで展開され続けていて、そこでは何千人もの人が職業訓練を受けている。デュモンと全く同様に資格も経験もある農学者のマルク・デュフュミエは、バイオ農法のおかげで明日にはすべての人々が食糧にありつけるようになるだろうと言っている。

企業経営者と政治家について

 私は、企業経営者にも政治家にも取り入ろうなどとは一切していない。私が多国籍企業の経営者たちと多くの時間を過ごしているとの説があるが、それは作り話だ。この数年で、ほんの一握りの人々といくつかの面談を持ったが、それも先方からの求めによるもので、何ら大した成果もなかった。私にとっては人をもてなすことはこのうえなく大事なことであり、だから、マレ氏をもてなしたように彼らともお会いしたのだ。

 マレ氏は私が大統領選挙中にエマニュエル・マクロンと会見したと指摘している。共通の友人によって、PRは一切しないという条件のもとで昼食がセットされた。というのも、私がマクロンに同調していると思われても困るからだ。約束は文字通りに守られた。モーリス・フロイントとベルナール・シュヴィリアが私に同伴したので、我々が話したことは以下のことだと証言してくれる。つまり、内分泌攪乱物質のこと、グリホサート[除草剤]のこと、小学校におけるエコロジー教育のこと、サヘルのこと、マリで誘拐されたソフィー・ペトロニンの惨事だ。

●フランス語版編集部によるコメント
 上記のピエール・ラビ氏の反論は、わけても、我々の調査記事がアグロエコロジーを問題視しているのではないかと示唆している。事実は逆で、ル・モンド・ディプロマティークは以前から環境問題、特にバイオ農法について関心を持っており、数多くの記事がそのことを証明している。ラビ氏の思想的な影響は重要であり、それゆえ、非政治的なエコロジーの本質をなす要素を明らかにし、その原動力を理解しようと努める価値があった。つい最近アルベール・ロンドル賞(書籍部門)を受賞したジャン=バティスト・マレが、我々のホームページでピエール・リシャール医師のレジスタンスの過去に関するラビ氏の主張に対して、詳細に反論する。ラビ氏とギュスターブ・ティボンの関係の本質や、より広く、我々が発刊した調査記事に関して述べる。




(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年11月号より)