動物に市民権はあるか?

人間と動物の境界


エヴリン・ピエイエ(Evelyne Pieiller)

ジャーナリスト、本紙特派員


訳:生野雄一


 デカルト以来、人間は、理性、言語、思考能力があるという理由で他の動物に対して優越した地位を享受してきた。近年、そうした能力は程度の差こそあれ他の動物にも備わっているとして、より公平に、痛みや喜びを感じる能力を「人格」の基準にすべきだという議論が盛んだ。[日本語版編集部]

(仏語版2018年7月号より)

Karen Knorr. — « Cult of Bacchus » (Le culte de Bacchus), Villa Farnèse (Caprarola), de la série « Métamorphoses », 2015-2017
© Karen Knorr - Galerie Les Filles Du Calvaire, Paris

 ルネ・デカルトの著作がバカロレア取得をめざす人たちを除いて世間を騒がすことがなくなって久しいが、ここにきて彼は、動物擁護派の考察による猛攻撃を受けて、再び時の人となっている。というのも、彼の「動物機械論」が近年大いに非難されているのだ。動物機械論とは、宇宙物理学者のオレリアン・バローによると「人間以外の動物は心をもたない一種の自動機械である」というものだ(1)。実際には、デカルトは彼の弟子たちの何人かとは違ってずいぶん用心深く、何よりもまず動物と人間の違いは何かを問うている。彼によると、人間は動物と違ってとても自動機械などではあり得ない、なぜなら人間は「思考」を表現する言語を持ち、それは感覚器官が出す命令で自動的に動き出すようなものではないからだ。「ことばは身体のうちに隠され秘められた思考を表象するただ一つのものであり、唯一その確かな証しとなるものだ(2)」。思考はこうして人間の優越性を証明するものであり、彼によれば不死の魂に属する能力なのだ。もし動物が「思考」を持っているなら彼らにも不死の魂があるということになるが、「そのようには考えられない」(3)。デカルトによれば、それを方法的懐疑によって理解するには「牡蠣」や「海綿」を思い出すだけで十分だ。この人間と獣の間の断絶はキリスト教の伝統と強く共鳴している。人間は神に嘉された被造物なのだ。

 従って、デカルトによれば人間と動物の違いは思考能力にあり、言い換えれば、人間の本質的特徴である理性を持つかどうかによる。まさに、啓蒙思想もフランス革命もこの能力を褒めたたえることになり、これを批判的に行使することが人間解放のひとつの要因だと長い間考えられてきた。ところが、今日この考え方は、進歩主義者を自負する人たちを含む動物擁護派の多くの理論家たちから、人間中心主義、偽りの普遍主義(しばしば、キリスト教の影響を受けた西洋の所産とされる)、他者性[自己と異なること。異質性]の差別などと非難されている。彼らによると、人間の本質的な優越性を規定するこのデカルトの基準が、理性を欠いた、あまりにも自然、獣性、異質なものに近いとみなされるものすべて、すなわち、女性、奴隷、子ども、マイノリティ……そして動物を、人間と対等の扱いから排除することを可能にした。言い換えれば、人間の特性としての思考能力に特権を与えた結果、生物の間、とりわけ権利を持つものとそうでないものの間にヒエラルキーを作りあげ、あらゆる種類の支配、抑圧、暴力を正当化することを可能にしたということになる。従って、人間およびその自然界における位置のこうしたイメージは全くの虚構だが、それを打ち壊すことは、支配者・被支配者の2項式をこれ以上正当化させないために不可欠だということになる。そして動物がこの闘いの象徴であるとしても、それは我々の「劣位の仲間」が被る苦痛に対する闘いを意味するだけでなく、より根本的に価値体系を変えることになり、あらゆるものの平等が実現され、哲学者コリーヌ・ペリュションが明快に要約したように「人間のエリート意識……から生まれたヒューマニズムに起因する暴力(4)」に終止符が打たれることになるだろう。そうなると問題は重大だということがわかる。女性差別、人種差別そして種差別(種としての人間を他の種より優先すること)は、みな同じ闘いだ。この議論でおそらく最も影響力のある思想家、生命倫理学者ピーター・シンガーが同じことを言っている。「専ら種の観点から動物に対して向けられる差別は、偏見の一形態であり、反道徳的な擁護しがたい形態であって、人種に基づく差別が反道徳的で擁護しがたいのと同様である(5)

タコの知恵、ボノボの知能、イルカの潜在能力

 どうしたら差別をなくすことができるか、つまり、人間以外の生物と対等になる条件をどのようにしてみつけるか? まず、「彼ら」と「我々」の間には本質的な違いはなく、進化の連続性のなかにおける程度の差があるだけだと認識することだ。生物学、神経科学、動物行動学──しばしば大型のサルの行動に関する考察で知られる──に基づいて、断絶説に対してこの連続説は時として大胆にも、我々がチンパンジーと98%の遺伝形質を共有していることを持ち出してくる。そして、知能の形態は多様であり得ることを認めて、「人間にだけ広く認識されてきた特性のどれ一つとして人間に固有のものはないこと、つまり、いくつもの動物も彼らなりに、程度の差こそあれ、我々が良心、理性、道徳性、文化等々と呼ぶものを持っていることを、数十年前から動物行動学が立証してきた」と、法律家で哲学者のジャン=バティスト・ジャンジェーヌ・ヴィルメールはあらためて指摘する(6)。メディアが、タコの知恵、ボノボの知能、イルカの潜在能力を褒めているのを皆聞いたことがあるにちがいない。しかし、これもまだあの「人間中心主義」の、つまりは差別的な枠組のなかでのことで、知能すなわち「人間の特性」を対等性の基準にしている。このため、他者性を、超越するとまではいかないにしても受け容れるとともに対等性の根拠となるもっと決定的な別の基準が置かれつつある。それは、苦痛の感覚とそれが意味するところのものだ。ピーター・シンガーの説明によると、「ある生物が苦痛を感じているならば、その苦痛を考慮しないことは道徳的に正当化しがたい。苦しんでいる生物がどんな生き物であろうと、対等性原理によればその苦痛は──大まかな比較が可能な限りでのことだが──他の全ての生物の同様の苦痛と同じように考慮されなければならない。ある生物に苦痛を感じる能力がなく、あるいは喜びや幸福を感じることができないならば、何も考慮しなくてもよい。だから、「知覚能力」sensibilité(簡潔だがやや不正確なこのことばを用いて、苦痛を感じまたは喜びを感じる能力を表現するならば)だけが、他者の価値をどこまで考慮せねばならないかを示すもっともな判断基準を示すことができる。知能や合理性といった他の基準でこの判断を制約することは、たとえば肌の色を基準にするのと同じで、恣意的とのそしりを免れまい(7)」。この問題は「感覚力」sentienceという言葉に要約される。これは、英語から採った新造語で、[種差別反対を訴える目的で1991年に創刊された]『反種差別研究手帳(Cahiers antispécistes)』26号によると、「世界で最も重要なこと、おそらく唯一重要なことは、いくつかの生物は知覚、情動を持ち、従って、彼らのほとんど(全部?)が彼らなりの欲望、目的、意思を持っていることだ」。要するに、感覚力とは「感じ、運動し、主体的な精神生活をする能力」をいう。コリーヌ・ペルションが詳述するように「感覚力のある生物は、個性を持ち、過去の記憶があり、好き嫌いがあり、自己の生存だけでなく種にかかわることにも関心がある。この生物は一人称の生を生きている(8)

 従って動物は、民法典で言う「知覚能力がある生物」というだけではなく、人格を持っている。動物はそれ自体が主体的な存在なので、カナダの哲学者で多文化主義およびマイノリティの権利に関する重要な理論家であるウィル・キムリッカに次のような主張を許すことになる。「今や人権という特権を人間から取り上げるべきとき(9)」で、それらの権利を「人間以外の人格を持った動物」にも適用するのだ。また、彼らに人間のコミュニティと対等に共存できる権利を与えるべきときなのだ。もし「政治的なリベラリズムが、普遍的な人権と、政治的・文化的な帰属権──それはそれぞれの集団ごとに異なり、関係性を重視するもの、排他的なもの、特権的なものであったりする──の複雑な組み合わせを認めることを意味する」のであれば、動物にも彼らがコミュニティを形成する限りは政治的な権利を与える必要が出てくる。野生動物には主権が、飼育動物には一種の市民権が与えられるべきだし、それぞれ代理人が置かれることになる。ウィル・キムリッカおよびスー・ドナルドソンは飼育動物の市民権を考えるに際して重度障害者に関する研究にヒントを得たが、民主主義を軽蔑する人たちの決まり文句のように、人間はいつもバランスのとれた合理的な政治的選択をしてきたわけではない……と言っている。

 ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンの提案は人々を驚かせるに足るものだった。動物擁護派の全ての理論家が彼らの理論的帰結の全てを支持したわけではなかった。しかし、この2人の結論は出発点の前提からすれば当然の帰結だった。人間の思考能力があまりにも過大評価されているというだけでなく、人権の有無を判断する基準として思考能力を最も重視することは少なくとも一種の差別だとして、より本質的に公平な尺度として「感覚力」を選ぶとなると、それはものごとの考え方の位相を根本的にずらすことになる。人間は、その「優位な」特性を失い、単なる知覚能力を備えた存在となって、「自然な姿に戻る」。そうなると人権の担い手はもはや理性を行使する能力のある市民ではないし、平等という点に関して言えば、「理論的なフィクションだ」と、コリーヌ・ペリュションはコメントしている。なぜなら、「我々は自らの肉体的制約、脆さ、生物として生まれてきた環境を忘れて、我々を他人や人間以外の生物に関連付けているものに眼をつむり、我々の自由こそが我々の主体性を決定づけていると信じてきた」というのだ。こうした考え方は、「新たな人類学」の表明であり(10)、本質主義[訳注](かの「人間の特性」)とされてきたものを打ち砕き、その代わりに差異主義[人間は性、人種、民族などによって本質的な差異があるとする考え方]を持ち込み、生きとし生けるものを尊重するという意味で、ヒューマニズムに終わりを告げる。「人間の特性? その傲慢さのことだ、多分」と霊長類学者のフランス・ドゥ・ヴァールは言い切る(11)

動物系のなかで唯一反復と変化を調和させることができる頭脳

 しかしながら、こうした展開にはいくつもの点で議論の余地があると思われる。確かに人間も動物ではあるが、「他の動物と同じ」ではない。あの有名な、チンパンジーとの遺伝形質の2%の違い(ネズミとは20%の違い)は決定的だ。なぜならゲノムの突然変異は発生遺伝子の調節因子に影響を与え、発生遺伝子自身も他の遺伝子の発現を制御するからだ。遺伝子は単に量が問題になるだけの未分化の塊というにとどまらない。さらに、そしてこれが決定的なのだが、脳はゲノムから構造および機能面で先天的な形質を受け取るが、その形質は種によって規定される部分と開発可能性のある部分とを同時に持っている。これらの可能性は、後天的形質を形成することになる未成熟期の環境との出会いでテストされる。専門家のアンドレ・ブルギニヨンとシリル・クペルニクによると「人間の特性は人間にしかない脳の領域、すなわち象徴化と抽象化の領域を発達させる潜在能力にある。(……)人間の脳は優れて豊かで、動物系の脳のなかで唯一、反復と変化を調和させることができる。遺伝的な命令と後天的な(遺伝子プログラムに属さない)命令の繰り返しによって人間はその安定と生存を確保する。逆に、いくつもの認知の図式を自由に操る人間の能力は、その知識と力の発達の基礎ですらある。人間の脳は、自らの進歩の最も強力な要因なのだ(12)

 人間の先天的な部分を強調しようが、あるいは動物の後天的部分を強調しようが、それに伴っていくつかの違いに遭遇する。もっともそれは、内省する能力(自分自身を意識する意識)、知識を蓄積していく力、抽象能力、単なる信号や意思疎通に止まらず思想を表現したり弄んだり広めたりする言語能力等といったものでしかないかもしれない。「感覚力」を普遍的な基準としてより重視することでこうした違いを過小評価したり否定したりするのは単なるごまかしというだけではすまない。なぜなら、結局のところ、それは倫理の名のもとに行われる選択であり、その普遍主義的な「倫理」も人間の能力から生まれたものだからだ。それはまた、理論の帰結として、ときとして衝撃的な結論を導く。ピーター・シンガーは『研究(La Recherche)』(2000年10月)において次のように断言する。「私は新生児を殺すことは人を殺すこととは決して同じではないと考える」と。このフレームワークにおいては人格とは、当たり前のように備わった自意識であり、未来と過去の感覚であり、人間関係の形成と意思疎通の能力ということであり、こうした能力を欠く人間は人格を持たない、ということになる。従って、「チンパンジーを殺すことは、先天的障害のために人格を持たない人間を殺すことよりも悪いことだ(13)」となる。これと似たトーンで、常々他者性への愛着に駆られている「ディープエコロジー」の大御所アルネ・ネスは、対談集『ワイルドプロジェクト、2009年』のなかで、平然とこう明言する。「人間以外の生物の生き方を発展させるには」何といっても人間の数を、明確に「相当量減らす」必要があると。

 動物解放の手段として主張され、他の反差別の闘いとも軌を一にする「人間以外の生物の人格」という考え方は、(人間による人間に対する不当な扱いはほとんど関心の対象ではなく、精々で標語程度にしか言及されないことは念頭におくにしても)おそらくは動物に対する適用に止まらないだろう。すでに、樹木の知能という考え方が人々を惹きつけ始めている。ペーター・ヴォールレーベンの『La Vie secrete des arbres』(Les Arènes, 2017)[邦訳『樹木たちの知られざる生活』早川書房]は大変な好評を博し、クリストファー・ストーンはその著書『Les arbres doivent-ils pouvoir plaider?』(Le Passager clandestin,2017)[邦訳『樹木の当事者適格』現代思想]において、自然が人間のために存在するという考え方に異議を唱えながら、森林、海洋、河川に法的権利を与えるべきだと説く。こうした自然物は法人として扱われるべきであり、法的な行為能力がない人格の場合に倣って後見人によって代理されるべきだとしている。2017年には、ガンジス川はインドのウッターラカンド州によって法人格とそれに伴う諸権利を持つ生きた存在として認められた。人工知能という「新たな他者性」に関してことはまだそこまで行っていないが、考察は始まっている。パリのグランパレで(2018年7月9日まで)『アーティストとロボット』と題する展覧会が開かれたときに、すでにテレラマ誌は「ここでは一体誰がアーティストなのか?」と問題を投げかけている(14)。そして、欧州議会では、AIの学習機能と自律機能に着目して法人格を付与することを検討している(15)。 AIが感覚力を持つ日がこないとは言い切れない……。



  • (1) Aurélien Barrau et Louis Schweitzer, L’animal est-il un homme comme les autres?, Dunod,Paris,2018.
  • (2) René Descartes, «Lettre à Morus», dans Œuvres et lettres, Gallimard, coll.
  • (3) René Descartes, «Lettre au marquis de Newcastle», op.cit.
  • (4) Corine Pelluchon, Manifeste animaliste. Politiser la cause animale, Alma éditeur, Paris,2016.
  • (5) Peter Singer, La Libération animale, Grasset, Paris,1993.
  • (6) Jean-Baptiste Jeangène Vilmer, L’Éthique animale, Presses universitaires de France, coll.«Quesais-je? », Paris,2011.
  • (7) Peter Singer, L’Égalité animale expliquée aux humain-es, Tahin Party, Lyon, 2000.
  • (8) Corine Pelluchon, op. cit.
  • (9) Sue Donaldson et Will Kymlicka, Zoopolis. Une théorie politique des droits des animaux, Almaéditeur,2016.
  • (10) Corine Pelluchon, op. cit.
  • (11) «Frans de Waal:“Il est temps d’arrêter de courir après le propre de l’homme”», Le Monde, 10 octobre 2016.
  • (12) André Bourguignon et Cyrille Koupernik, «Le cerveau humain», dans Encyclopædia universalis, consulté en ligne en juin 2018.
  • (13) Peter Singer, Questions d’éthique pratique, Bayard, Paris,1998.
  • (14) 12 avril 2018.
  • (15) Résolution du Parlement européen du 16 février 2017 contenant des recommandations à la Commission concernant des règles de droit civil sur la robotique.

  • [訳注] 本質主義:実存existenceに対し本質の優位を前提としてきた古典的形而上学の姿勢


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年7月号より)