忘れ去られた中国人労働者たち


ジョルダン・プイユ(Jordan Pouille)

ジャーナリスト

訳:村松恭平


 1917年2月17日、マルタ島の近くでフランスの大型客船「アトス」がドイツの潜水艦によって魚雷攻撃を受けた。亡くなった754人のうちの大多数は中国人だった。第一次世界大戦中にフランスや英国に渡った多くの中国人農民たちは低賃金で雇われ、塹壕を掘ったり、兵士の死体を埋葬したり、あるいは“戦争の清掃人”として瓦礫や地雷の撤去に携わった。そんな彼らの人生に光を当てよう。[日本語版編集部]

(仏語版2017年4月号より)

ノワイエル=シュル=メール村にある中国人墓地
©Jordan Pouille

 「中国人労働者が大衆酒場に入ることは禁じられています」—— 1917年3月31日に遡るフランスの軍事法令に関する画像をマ・リーが映写したとき、驚きのざわめきが観客たちの間を駆けめぐった。サン=ヴァレリー=シュル=ソンム市の会場は満席だった。その数分前、ブーローニュ=シュル=メール[フランス北部の都市]にあるリトラル=コート・ドパール大学の教授である彼女は、ある公務員とノール県議の間で交わされた文通でのやり取りを紹介していた。公共の牧場で複数の中国人が自分たちのための野菜を栽培しているのを目撃し、彼らは憤慨していた。

 2016年10月のその晩、マ・リーは考古学・歴史学協会に招かれ、講演を行っていた。広東省出身の彼女は2003年にこの地に赴いて以来、第一次世界大戦中に400人の通訳とともにフランスで兵役に就いた14万人の中国人農民の知られざる人生について、休むことなく調査を行なっている。同時期にロシア帝国は民間のリクルーターを介し、20万人の中国人をシベリアの森やモスクワの工場、ドネツクの炭鉱、あるいはペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)とムルマンスク港を結ぶ鉄道の工事現場へと送っていた。ロシア帝政の崩壊後、彼らのうち約4万人が赤軍の戦闘部隊に加入した。

 1916年8月24日にフランスの地に上陸した人々は、工場での人手不足を補い、連合軍の後方基地で働かなければならなかった。植民地部隊からすでに引退していた元将校のジョルジュ・トリュプティルは、こうした労働者たちを見つけるために北京に派遣された。彼は、民間会社のホイミン公司 —— 中国政府が当時表明していた“紛争における中立性”を見かけ上維持しようと、役人たちが創設した —— で交渉相手を見つけた。トリュプティルの後にはすぐに英国人たちが続いた。彼らは中国東部の山東省の田舎に住んでいた英国国教会の牧師たちを当てにした。「彼らは一人を紹介する毎に17シリングを受け取っていました」とマ・リーは断言する。英国の植民地帝国はそうしたやり方に慣れていた。1903年から1910年までの間、彼らは6万4,000人の中国人労働者を南アフリカの金鉱山に送っていたからだ。

 中国人労働者の子孫である45の家族からマ・リーが集めた証言は、軍部のアーカイブ資料にはない情報を補完している。「こうした中国人のうち88%は文盲の農民たちでした。彼らもまた戦争によって心理的外傷を受けました。フランスでの自らの経験についてあまり口にせず、数少ない移民だけがメモを残しました。彼らの証言は貴重です」とマ・リーは言う。「彼らの大多数が山東省の出身で、年齢は16〜40歳だったことは分かっています」

 4万人の中国人がフランス人の指揮下に置かれた。5年という労働期間、有能な労働者については一日につき5フランという給料で労働総同盟(CGT)と契約が結ばれた。彼らは工場 —— たとえば[ブルゴーニュ地方の]ル・クルーゾの大砲工場 —— を稼働させたり、マルセイユ港、ル・アーヴル港、ダンケルク港で船から積荷を降ろしたり、東部戦線に位置するマルヌで兵士たちの塹壕を掘ったりしていた。英国の指揮下では10万人の中国人が3年間の契約で働いた。マ・リーがこのように説明する。「英国人たちは最もけちでした。危険が多い仕事であっても、一日につき1.5フラン以上の給料は絶対に出しませんでした」。すなわち、当時のフランス人労働者の給料の10分の1だ。

 コモンウェルス(英連邦)の軍に奉仕していた中国人たちは、後方陣地の道路や鉄道を整備するだけでなく、ソンム県やアルトワ県[フランス北部]で塹壕を掘ったり、兵士の死体を収集して埋葬していた。ランス、そして1917年4月にカナダ人が占拠したヴィミーリッジ周辺では、彼らは農民たちが土地を取り戻せるよう地雷を除去したり、住民たちの帰還を促すために、爆撃された村の瓦礫を撤去していた。いわば“戦争の清掃人”だ。「爆発していない砲弾を扱うのはとても危険でした。しかし、そうした仕事に対して追加報酬は支払われませんでした。当時、これらの砲弾は穴の中に集められ、その上にはくず鉄や土が適当にかぶせられました。それが彼らのやり方でした」とマ・リーは説明する。アラスの市民安全課の地雷撤去班員フレデリック・ウィルメッツが、その実践方法を私たちに見せてくれた。オー=ド=フランス地域圏全域で、彼は他の15名の警察官とともに、第一次世界大戦時に砲弾が埋められた場所をフルタイムで掘り起こしている。「特にジャガイモを収穫している最中、あるいは、工事現場のパワーショベルを使って地面を少し深めに掘った時に[見つかることがあります]。時折、中身が空で、アジア風の絵が刻まれた砲弾も見つかります……。兵士たちが生み出したアートです」

 中華民国 —— 1917年8月まで、紛争においては公式には中立の姿勢を維持していた —— がそうした労働力の譲渡を承諾したのは、親切心からではない。1839年〜1860年の間に二度のアヘン戦争が生じ、英国軍・フランス軍によって円明園[北京の北西郊にあった清朝の離宮]が略奪された後、列強はこの国の経済を圧迫した。鉄道の経営と多くの工場を支配し、税制を管理統括し、1842年に大英帝国に公式に移譲された香港はもちろんのこと、天津、広東、青島、上海といった飛び地からも大国は利益を獲得した。

 義和団事件(1899〜1901年)は外国の占領地をとりわけ攻撃対象としたが、その後、「中国は39年間で6,700万ポンドの賠償金支払いを宣告されました」とマ・リーは詳しく語る。「中国はフランスに大量の労働力を送ることで、この期限について再交渉し、産業発展のために関税を引き上げる権利を手に入れ、講和会議に参加する約束を取り付ける見込みがありました」。講和会議は1919年にヴェルサイユで開催されたが、中国は山東半島を取り戻すことができなかった。この地方はドイツ帝国の手から...... 大日本帝国の手へと渡ったのだ。中国人にとって耐え難かったこの譲渡の結果、愛国主義者たちによる5月4日の蜂起[五・四運動]が生じることとなった。それから2年後の1921年に、その運動の一部の主導者によって中国共産党が創設された。

 フランスではスペイン風邪やコレラ、何回かの死刑執行、そして多くの事故によって2万人の中国人労働者が死亡した。サン=ヴァレリー=シュル=ソンムから8キロメートル離れた場所にあるノワイエル=シュル=メール村では、849基の白い墓碑が立っているヨーロッパ最大の中国人墓地を訪れることができる。この墓地は1921年に落成式が行われた。今日緑に覆われているその場所には、英国の指揮下に置かれた中国人たちの巨大な難民キャンプがかつて広がっていた。契約がいったん終わると、生存者たちは母国へと帰還していった。

 マ・リーは山東省に滞在していた時に、こうした労働者のうち数十人がフランス人の恋人を中国に連れて戻ったことを発見した。「彼らはフランス人女性と関係を持っていました。彼女たちのうち何人かは、1カ月分の給料と引き換えに様々なサービスを提供していました。他の女性たちは、優しくて勇気があるとみなした中国人男性との安定的な関係を求めました。戦後に動員解除されたフランス人兵士たちは、アルコールに溺れたことを指摘しなければなりません」。彼女たちが中国に渡り、恋人がすでに結婚していたことを知った時の驚きはどれほど大きかったことだろう......。「彼女たちは、自分が文字通りの“愛人”であることに気付きました。そして、その多くがフランス大使館に苦情を訴えに行きました」

 1,800人弱の中国人労働者がフランスの地に留まることを選択した。その全員がフランス軍と契約を結んでいた。フランス軍は英国人たちとは違い、彼らに定住の可能性を与えていたのだ。その中にチャン・チャン・ソンという男性がいた。彼の12人の子供のうち一人がマラコフ(オー=ド=セーヌ県)に住んでいる。「私はニエーヴル県[フランス中部]のラ・マシーヌで育ちました。私の父はその町で炭鉱夫として雇われました。そこでは私たちはみな炭鉱夫で、出自に関する質問は互いにしませんでした。あらゆる国籍が共存していました」と74歳のジェラール・チャン氏が語る。彼はリタイア年齢に達し、初めて自分の中国人としてのアイデンティティに関心を持った。「私はヴァンセンヌにある国防史編纂部の資料館で妻と何日も過ごしました。私たちは、1917年に当時20歳だった私の父を南京からマルセイユへと運んだ船を発見しました。この3カ月の船旅の後、フランス軍は兵士の塹壕を掘らせるために父をマルヌ県のシュイップに送りました」。それから3年後、チャン・チャン・ソンは[フランスの地に]留まることを選んだ。鉱夫となり、若いルイーズと出会った。「父は母とともに、フランスの多子家族に贈られる金メダルを獲得しました」とチャン氏は詳しく語る。第二次世界大戦中にフランス義勇遊撃隊(FTP)に加わった父親のレジスタンス運動家としての過去を、彼は今も誇りに感じている。

チャン家の家族写真
©Jordan Pouille

ジェラール・チャン氏
©Jordan Pouille

 エクス=アン=プロヴァンスに近いヴェンタブラン村で、87歳のクリスティアンヌ・ガラス氏もまた英雄的な父親の思い出を持ち続けている。「彼の名前はトン・シュアン・ペンで、6歳の時に孤児となりました。香港で外国語を学んでいた頃に、彼は通訳としてフランスにやって来ました。フランスに旅立つことを決心させたのは、冒険を約束する一枚の美しいポスターでした。しかし、彼は戦争を予想していませんでした」。トン・シュアン・ペンはフランス語をたどたどしくも話し、5種類もの中国語の方言をマスターしていたため、労働者と将校の間の仲介の役に立った。暴動に備え、拳銃一丁も与えられた。彼は運転免許を取得し、1921年に軍隊をやめ、有力者たちの運転手となった。「その頃、私の父はパリに住む女性医師の赤ん坊の面倒をみていたルクセンブルク人の乳母に恋をしました」。二人は南フランスに身を落ち着け、トン・シュアン・ペンはサロン=ド=プロヴァンスにあるグラン・ホテルの料理人となった。「彼はアジア人がいると知らされると、その人を家に誘っていました。故郷から離れた彼の“兄弟たち”に、私たちは時々昼食を出していました。1950年代の終わりには、ペンは定期的にサント=リヴラード=シュル=ロにあったインドシナ帰還者のキャンプに赴き、貧窮者たちの行政手続きと手紙の翻訳を手伝っていました」

クリスティアンヌ・ガラス氏(右)
©Jordan Pouille

 ガラス氏は教育に熱心だった父親のことをこう話す。「父はチケット料金をめぐって粘り強く交渉した後、古典オペラを観に私たちを連れて行ってくれていました。また、いろんな楽器を演奏するよう私たちにしつこく勧めました」。彼女の母親は43歳で急死し、トン・シュアン・ペンは53歳で男やもめとなった。「父は私の兄弟たちの結婚費用を負担し、私たちそれぞれが貯金できるよう、ぼろぼろになった家をいくつも改修してくれました」。ガラス氏は夫とともに評判のよい写真現像所を経営した。彼女の3人の娘のうち長女のアニエスは、エクス=マルセイユ大学の教員=研究者となった。彼女は今、アジアとの“革新的教育実践”という枠組みでの欧州共同プロジェクトに参加している。「中国にほんの少しでも敬意の気持ちを」、と彼女は言う。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年4月号より)