1948年のパレスチナ人追放:イスラエル建国譚のブラックホール

ナクバに悩まされるイスラエル


トマ・ヴェスコヴィ(Thomas Vescovi)

現代史研究家

訳:生野雄一


 本年5月にはイスラエル建国70周年を祝う数々の式典が始まったが、パレスチナ人にとっては、1948年に故郷を追われた悲しみを新たにする機会だ。追放されたパレスチナ人とその子孫たちは故郷に帰る権利を今でも主張し続けて、イスラエルとの紛争の火種になっている。イスラエルの歴代政権はこの問題に絶えず付きまとわれて、目の前が晴れることがない。[日本語版編集部]

(仏語版2018年5月号より)

Mohammed Al-Hawajri. — De la série « Cactus Borders », 2010
eltiqa.com

 「帰還への大行進」。2009年以降、毎年3月30日から5月15日にかけて[ヨルダン川西岸地区およびガザ地区において]行われるデモをパレスチナの政治組織はこう呼ぶ。イスラエルにとって、5月14日は1948年にダヴィド・ベン=グリオン[首相就任1948年~54年、1955年~63年]がイスラエルの独立を宣言した日だ。パレスチナはといえば、その翌日にナクバ(Nakba、アラビア語で「大惨事」という意味)を記念する。当時、80万5000人のパレスチナ人が故郷を追われ、その子孫たちは1948年12月11日の国連総会決議194号が実施されるのを待ち望んでいる。パレスチナ人が故郷に帰還するか、帰還を望まない場合は財産を補償すべきだとするこの決議文が、パレスチナ人の「帰還権」の根拠だ。ところが、まさにこの5月15日に米国のドナルド・トランプ政権はエルサレムに米国大使館を移転しようとしている[予定通り5月14日に移転は実施された]。

 イスラエル・アラブ間の最初の戦争[第一次中東戦争1948年~49年]の終わりには、何十万人ものパレスチナ人がこの地域の至る所に分散していた。歴史家は、勝者イスラエルの解釈が幅を利かせるようになるのを案じて、この出来事を記録した。ワリドゥ・ハリディ[1925年~エルサレム生まれのパレスチナ史家]やサミ・ハダウィ[1904年~2004年エルサレム生まれのパレスチナ史家]の著作には明確に書かれている。パレスチナ人は、身を守るために自ら逃げたにせよ、強制されたにせよ、自分の土地を追われたのだと(1)。しかし、1948年の出来事についてこうした解釈がアラブ世界の外に広がったのは1987年からで、イスラエル人の「新しい歴史家」、なかでもベニー・モリス[1948年~]、トム・セゲフ[1945年~]、イラン・パッペ[1954年~]やアヴィ・シュライム[1945年~]の最初の著作が刊行されてからのことだった(2)。これらの歴史家たちは、自国の記録文書に基づいて、イスラエルの正史の柱のひとつひとつを覆していった。

 これらの著作が世に出たタイミングも無視できなかった。最初の作品が出たときは第一次インティファーダ[イスラエルの占領に対するパレスチナ民衆の蜂起。1987年~93年]が勃発したときで、右派がイスラエルの政権に就いて10年近く経ち、占領地での任務を拒否する良心的兵役拒否者が続出する運動が始まり、一方、イスラエル軍の人たちも自国の軍事行動自体に疑問を抱いた時期だった。平和主義者たちのはしりの時期で、自分たちの社会、国家、および自分たちと社会・国家へのかかわり方について疑問を抱く時期を迎えていた。1992年にイツハク・ラビンが首相に就任し[1974年~77年、1992年~95年]、パレスチナ解放機構(PLO)との交渉が開始され、1993年9月にオスロ合意が調印されたのは、こうした背景のもとでのことだ。この時期は、冷戦が終焉し、1991年の湾岸戦争において反イラクでまとまった多くのアラブ諸国が、イスラエルとのあらゆる交渉を拒否してきたある種の汎アラブ主義に終わりを告げた時期だ。

 1990年代の前半に、「新しい歴史家たち」の作品がイスラエル社会の一部に真剣な関心を惹き起こす。これらの著作において提起された主張は全員に支持されたわけではないが、少なくとも会議やセミナー、メディアでの討論会で議論の対象にはなった。イスラエル・パレスチナ間の歴史を記述するプロジェクトが生まれ、同様に、学校での歴史授業を見直そうとする委員会も生まれた。しかし、議論は識者の間のものにとどまった。1995年には過激派のユダヤ人にラビンが暗殺され、次いで1996年にベンヤミン・ネタニヤフが政権に就き、イスラエルの領土で自爆テロが始まると、緒に就いたばかりのこのプロセスを困難なものにしたがそれが止むことはなかった。

 しかし、2000年9月末に第二次インティファーダが勃発して、歴史の叙述に関するイスラエル・パレスチナ間の意見交換と対話の最後の機会が閉じられてしまう。この両国の関係の主たる原動力だった平和主義運動は、2000年7月のキャンプ・デービッドでの首脳会談の失敗を受けて崩壊した。この首脳会談では、労働党のエフード・バラク首相[1999年~2001年]が自分自身は妥協するつもりがないことを巧みに隠し(彼はあとになって、このパレスチナの指導者ヤセル・アラファトには何も提案をしなかったと認めた)、首脳会談の失敗を専らアラファトのせいにした。シオニスト左派の活動家たちは、この運動の先頭に立つことはなかったが、イスラエル社会の広範な部分を結集させることができた。バラク氏の宣言とともに、第一次インティファーダのときよりもはるかに多くの犠牲者を出し、より組織化された第二次のパレスチナ人の蜂起の勃発により、平和主義者の大多数はあらゆる活動を止め、組織活動は停滞した。

 そうなると、ユダヤ人社会にはもはや和平を結ぶ「相手」が居なくなる。イスラエル人は第二次インティファーダをパレスチナ人による予告なしの攻撃と受けとめた。その攻撃は、イスラム原理主義の傾向をもつ新たな政治勢力ハマスの活動であることは明らかで、それは世界情勢に不安が高まっていることを映すものだった。2001年には、右派のトップであるアリエル・シャロン[2001年~06年首相]が別の提案をして選挙に勝利した。それは、パレスチナとの共存が不可能である以上、分離こそが平和につながるという主張だ。この一方的な論理に従って、パレスチナ人とイスラエル人入植者を隔てる壁をヨルダン川西岸地区に建設した。そしてガザ地区からは兵を撤退させた。

Mohammed Al-Hawajri. — De la série « Cactus Borders », 2010
eltiqa.com

 ナクバの記憶がまたもや古めかしい謳い文句によって奥深く閉じ込められてしまった。すなわち、パレスチナ人はユダヤ人と一緒に暮らすことのないよう、彼らの土地を去っていったのだとされ、イスラエルには神がアブラハムに与えたとされるこの地を自分たちのものとする権利があるのだ、というものだ。シャロンは、首相に就任するや、1948年に関する異説を紹介したエヤル・ナヴェ教授の歴史教科書を学校から撤去させた。大学では、「新しい歴史家たち」の著作は激しく攻撃された。今日ではこの戦いは、極右のリーダーそして現教育大臣のナフタリ・ベネットに近い学生組織であるイム・ティルツの活動の中心を占めている。この組織の活動家たちは近年「ナクバは嘘だ」というキャンペーンを張った(3)。イスラエル人は自分たちをパレスチナの歴史から利益を得た側だと考えることを拒否しており、国もイスラエル人は解放思想や進歩主義思想を受け継いでいるのだと思い込ませようとしている。

 イスラエルは、歴史上最も多くの人命を奪った戦争の直後に建国され、この戦争の終結によって自由主義の理想がファシズムに勝利した。ユダヤ人はナチスの恐怖の犠牲となった当事者であり、彼らの避難国家を近東に建設することは、もともとはヨーロッパで起こったこの悲劇を償うものでなければならなかった。それ以来、イスラエルを守ることは政治的であると同時に文明の問題ともなった。ナクバの記憶はイスラエルが国家として掲げるイスラエルの全き無実を損なうものだ。国家建設を戦った戦士が被害者ではなく加害者であるとなると、イスラエル「国防」軍が自負している「武器の穢れなさ」が台無しになりかねない。

 イスラエル人とパレスチナ人を分離する考え方は、イスラエルのユダヤ人社会にパレスチナ人問題への深刻な関心の消失をもたらした。2015年の国民議会選挙では、パレスチナ人との和平合意の獲得が次期政権の優先課題だと考える人はわずか9%しかいなかった(4)。この問題は彼らの眼中にはなくなり、イスラエル人の多くが国家主義的な考えに同調していった。第二次インティファーダの暴力が絶頂に達した2001年には、35%のイスラエル人がアラブ人をイスラエルから追い出して、ヨルダン川西岸地区かヨルダンに「移す」ことに賛成だった(5)。2015年には58%がこの提案を支持し、ヨルダン川西岸地区を併合した場合にはユダヤ人に特権的地位を与えるアパルトヘイト政策を実施することを59%が支持した。

 しかしながら、和平を求める規模の大きな運動が瓦解していくなかで、より特定の問題を扱ういくつもの小さな組織が出現してきた。たとえば、2001年に創設されたゾクロットはイスラエル社会にナクバのことを教えるのを目的とした。 この組織は、パレスチナ難民のイスラエルへの帰還権に関する最初の会議を主導し、2013年以降は、「ナクバから帰還へ」と題した映画フェスティバルを毎年開催している。また同組織は、1948年に「打ち棄てられた」パレスチナ人地区を訪問することを提案している。テルアヴィヴ大学のカフェテリアになったイスラム教指導者の住まい、クファール・シャウルの精神医療センターとなったパレスチナ人の家々など、イスラエルの風景にはここがアラブの地だったことを思い出させるものがたくさんある。実践的な政策研究センター“脱植民地化”の創立者であるエレオノール・メルザやエイタン・ブロンスタインにしてみれば、ナクバはイスラエルではまだタブーのままだ。実際、「議論はたいていの場合、これを議論することが望ましいのか、さらには許されることなのか、という問題にとどまっている」。しかし、ナクバという言葉が政治指導者を不安にするに足るだけの反響を得ているので、状況は進んでいるのだという。

 2011年3月23日に、イスラエル議会のクネセトは、国の祝日を悲しみの日として記念する組織には国の補助金を支給しないようにする修正予算を可決した。もちろん、こうした団体には以前から補助金は支給されてはいなかったが、これらの組織を公然と非難し、この種のデモに参加するとイスラエル社会から締め出されるという意識を広めるのが狙いだ。さらに、この修正予算は、人口の5分の1に当たるイスラエル在住のアラブ人に対して、自らの歴史を称える権利を拒否した。そのうえ2009年からは、アラブ人の学校の教科で「ナクバ」ということばを公式には使えなくなった。

 社会学者のロニト・レンティンによると、イスラエルにはナクバについて3通りの考え方がある(6)。パレスチナを「土地なき民のための無人の土地」という空想的な見方を絶えず繰り返してばかりの人が少数いる。また、パレスチナ人が味わった悲劇を部分的には認めながら、ユダヤ人に何ら責任があるとは認めず、さらには、アラブ人とナチスの関係[訳注]という使い古された議論を繰り返す人たちがいる(7)。そして一部の人たちは、イスラエルがアラブ人をパレスチナから追放したことははっきりと認識するものの、謝罪するのは拒否し、あるいは、完全に追放しなかったことを悔やみさえする。悔い改めた「新しい歴史家」ベニー・モリスもその一人で、彼はついには次のように断言する。「パレスチナ人を定住の地から追い出すことなしには、ユダヤ人国家の建設はできなかったであろう(8)」と。

 [最大の右派政党]リクードにいたっては、イスラエルがアラブ人を追放したことを全面否定し、その結果、パレスチナ人のこの地に対する権利を一切認めない公式見解に満足している。左派シオニストはアラブ人の大虐殺と追放は認めているが、[右派の]修正シオニスト、[ユダヤ人過激派の]イルグンやレヒの民族主義的な民兵のせいにしている。

 イスラエルの占領に反対する一部の活動家たちにとって、1948年に起きたことの真実を知ったことは、イスラエルという国についてより広い意味の問題提起に繋がった。そのために、この時期[1948年]のことを問うのを多くのイスラエル人は躊躇している。学校時代から叩き込まれた建国譚の瓦解を受け入れると、彼らは社会から疎外され、さらには公然たる非難を浴びることになり、敵の言い分を受け容れていると非難される。こうして、ある人たちは、日々を平穏に暮らすために真実を彼ら自身の胸の奥底にしまい込むようになるのだ。

 フロイトの理論に従えば(9)、ナクバに関してイスラエルは、自分にとり憑いたものを抑え込もうとする心的外傷を負っている。一種の「不気味なもの」が、過去の自分の行為に抱く恥の感情の根源にあり、それが不安感情を生み出し、自分の過去を消し去りたいと思わせる。この厄介な過去は、フロイトによれば、想像で作りあげた世界と現実の境界がなくなるたびに再び現れてくる。ナクバの記憶は、空想の産物[イスラエルの建国譚]を打ち壊し現実[ナクバ]を見せつけようとする様々な要因を通じ、また、あらゆる機会をとらえて繰り返し公の場に出ようとするパレスチナ人を通じて、何度も浮上してくる。

 3月30日の「帰還への大行進」やそれに引き続いて行われた多くの行進は、その人数の多さを見るにつけ、イスラエルという国家にとっては悪夢だ。つまり、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、またはこの地域の他の国々に住む500万人のパレスチナ人、難民とその子孫たちが、故郷への帰還権あるいは故郷と住まいを追われたことに対する補償金を求めて付きまとい続けているという事実を思い出すのだ。パレスチナ人は、イスラエル人が責めを負うべき不正義の表れなのだ。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年5月号より)