魚市場の通路で仲買人たちがダンスをしたりしています

魚を巡る愉しみ


エド・エメリー(Ed Emery)

英ロンドン大東洋アフリカ研究学院(SOAS)の

「動物を巡る学際研究イニシアティブ」コーディネーター


訳:大竹秀子


 ビリングスゲート魚市場は、ロンドンのシティ近くテムズ川の下手、17世紀からある魚市場。おいしい食材を求めて市場を訪れる魚好きのグルメは、世界各地から送りこまれてくる、魚介類をめぐるモラル、経済、社会、環境の課題に出くわすが、そこでは地元の伝統をいかしつつひとひねりした楽しい文化も生まれている。[日本語版編集部]


photo credit: eye dropper, Restaurant owners and members of the public


 人々が市場から出てくる。暖かく着込んで、車道沿いの柵の間際を歩いてくる。背景は、キャナリー・ウォーフ。誰もが何かを手にもっている。時には一家勢ぞろいの人たちもいるが、子供たちでさえ荷物を抱えている。ほとんど誰もが手にしているのが、大型の黒いプラスチックのごみ袋。彼らをここに引き寄せているのは、ビリングスゲート魚市場だ。

 魚はこれまでずっといつもシティに水揚げされてきた。最初は、クイーンハイズで、そこでは、いまでも昔の牡蠣の殻が潮の干満による沈泥地から出てくる。その後、河口に近いビリングスゲートにもっと大きい規模の、船のバースが作られた。1699年に魚市場が議会制定法によって初めて登録された。1850年には専用の建物がロワー・テムズ・ストリートに建設され魚市場の本拠地になった後、1875年に川沿いのアーケード付きの建物に移設され、世界最大の魚市場が誕生した。1970年代頃までにはラッシュアワー時に並外れた交通渋滞が起きるようになり、1982年に市場はポプラーに移転された。ポプラ―には、再開発されたドックランズのはずれにかつて栄えた産業が衰退し使われなくなったスペースがあり、幹線道路のA13を使って大型トラックが入ってこられる戦略的に優れた立地だった。魚の取引は、すでに変化を遂げつつあった。スーパーマーケットのおかげで魚屋が淘汰され、魚の物流は港から流通拠点までの冷凍輸送により拡大していた。昔からあるビリングスゲートの市場は文化センターとなり、その一方で新しい市場は、いまでは小規模の顧客、すなわち、レストラン、観光客、そして魚好きの人々を目当てに商売している。

 ひとつ屋根の下に「ミックのうなぎ屋台(Mick’s Eels on Wheels)」から「アフリカーナ(Afrikana)」や「アジアの鮮魚(Asian Fresh)」まで、40の売り場がある。巨大なアナゴ、大きなオヒョウ、陰険な顔つきのホウボウ、特大の鮭、哀れにも動かせないようハサミをしばられて死を待つ(規制する法を作るべきだ)ロブスター、ニシキベラ。ゲートに詰めた係員が魚を買いに入ってくる人の流れを整理している。子供はダメ。ショッピングカートは、はい、そこに置いてください。自分は決してここでは買わないと、その係員がひっそりと私に告げる。「ニシンの燻製にどんな値がついているか、見たことがありますか? ウェイトローズでずっと安く買えますよ」。

 仲買人たちは、魚市場当局から自分たちの小さな売り場を賃借しているが、その多国籍ぶりは、昔ながらのコックニー、インド系、アフリカ系、東欧系など、顧客とひけを取らない。ある魚市場仲買人をBBCがインタビューし、伝統となっている荒っぽい言葉遣いにご注意と脅していたけれど、出くわすのは愛想の良い冗談のやりとりだ。特製の革の帽子を被った魚運搬人たちはかつては魚の箱を頭に乗せて押し合いへし合い動きまわっていたが、いまでは車輪付きのカートがあり、魚はポリスチレン製の箱に入って到着する。魚市場は、この箱は責任をもってリサイクルされていると保証している。

 カフェで朝食を食べていた(このカフェはクルド人の経営。ホタテ貝がはいったおいしいベーコン・ロールが食べられる)清掃員が誇らしげに語ってくれたところによると、他の市場の作業員とは違い、ここの清掃員は産業清掃員に類別されているため、ロンドンの生活賃金以上の額を稼いでいる。その一方で魚運搬人たちは、[社員を該当職種の職種別労働組合員の中からのみ、採用する]クローズドショップ制度と、比較的良い給料と労働条件を可能にしていた、昔ながらの特権をはく奪されてしまった。(2010年にシティ当局[The City of London Corporation]は彼らのライセンスを取り上げた)

エジプトのレシピ

 私たちは、ビリングスゲートに何をしに行ったのか? これには、長いいきさつがある。私たちは、ミュージシャンと音楽学者と民族誌学者たちのグループで、ビリングスゲートに来たのは、魚市場で音楽を演奏するのが大好きだからだ。去年のクリスマスの直前には、魚屋たちが市場の通路でダンスをし、私たちの帽子に5ポンド紙幣を投げいれてくれた。そして 私たちは——マルクス、フーコー、アルクァティの伝統を汲む階級構成の研究者なので——魚市場の民族誌とそこに来る顧客にとても興味がある。そしてまた、私たちは、魚にこだわる魚の民でもあるのだ(1)

 私たちは、アレキサンドリアでみつけたエジプトのレシピを下敷きにして魚を巡るお祭りを計画していて、いま、そのための買い出しにやって来た。バスの向かい側の座席にすわった長身の黒人男性が膨らんだ私のバッグをいぶかしげに見つめていた。「魚ですよ」と私が言うと、「ああ、魚、好きだよ」と、彼が言う。ビリングスゲートには、隔週、買い物に行くと言う。この人は、ロンドンのバーとレストランでガードマンをしているが、子供の頃は、ナイジェリアでクロス川の川辺に住んでいた。そこでは、ティラピアやイガイ、なまず(黒と白)、さざえ、さばが獲れた。誰もが皆、魚を食べて暮らしていたと言う。魚が大好きなのは、それが理由だろうか?「国の女たちが皆、川の中で出産するからかもしれないな」。私は、すっかり驚いた。「ってことは、あなたは、川の中で生まれたんですか?」「そうだよ。兄弟も姉妹も皆、そうさ。全部で7人なんだけど」

 ビリングスゲート魚市場は、グローバルな魚市場ネットワークの結節点であるばかりでなく、モラルや倫理、そして社会的ジレンマがからみ合う場でもある。私たちのお祭りも、そこは同じ。買い物のひとつひとつが問題だった。鮭。テナガエビ。牡蠣。白い鱈にするか、黒いシロイトダラにするか。養殖か野生か。生鮮か、冷凍か、冷蔵か(2)。「特大ウシエビ、1キログラム10ポンド」の貼り紙が出ている店があった。プラスチックのひしゃくを手に2人の男がウシエビを忙しくすくっている。取引は活気にあふれ、威勢のいい活動が繰り広げられているが、そこがなんともパラドックスではある。この、古から営まれてきた魚市場は、死の市場でもあるからだ。訪れる者の頭の中で、これまでに食べた、あるいは食べたかったあらゆる料理がかけ巡る。だが、見渡す限り買い物客の目に映るのは、海の生き物たちの生気を失った体だ。どの箱も、生命の気配が消えた目が蛍光灯の照明をうつろに見つめている。あらゆる市場がそうであるように、慣れ親しんできたおなじみの場。だが、それはまた、残酷な場でもある。

 私の目にはいったウシエビの箱のひとつには、中国人市場向けに一部中国語が混じったラベルが貼ってあった。出荷元は、ガラパゴス諸島の、「SONGA(the Sociedad Nacional de Galápagos)」だ。1982年にSONGAはエクアドル本島に、エビの繁殖、遺伝子選択、加工を目的とした巨大な養殖場を建設した。7000ヘクタールの給水設備が、高度に機械化され、テイラーシステム[訳注]による生産プロセスで統制され、熟練および非熟練労働者が働き、世界のエビ市場に向けて出荷している。この工場は、1日に110トンの海産食品を生産し、年間輸出量は1万6500トンに上り、世界市場に向けたエクアドルの主要輸出業者になっている。SONGA が制作した(3)環境保護主義を慎重に配慮したお行儀の良いビデオは、ビリングスゲート魚市場でおなじみの威勢の良い荒っぽさとは雲泥の差だ。ビデオは、品質管理、先端的な遺伝子工学、環境への責任を前面に出しているが、まず何よりも、「どのプロセスにも、化学薬品は一切、使用していません」ということを強調している。だが、エクアドルから遠く離れたビリングスゲート魚市場の通路のもうひとつの売り場の貼り紙には、同じように大きな文字で「野生のウシエビ」と書かれ、「野生」を謳い文句にしていた。舌の肥えたロンドン住民は、養殖の魚をばかにしているからだ。

「私たちは、川の民」

 私は、一年のうち一定期間をデヴォンのティン川沿いで暮らしており、よくボートで川を漕ぎ渡り、アーチ・ブルックで牡蠣を育てていた、いまは亡きフィリップ・ギボン船長を訪ね貝談義をかわしたものだ。今年の正月には、私たちのバンドSOAS (ロンドン大学東洋アフリカ研究学院)のミュージシャンたちは、ティンマスのデヴォン・アームズを陣取って、船乗りたちの労働歌を歌う土地の合唱団「バック・ビーチ・ボーイズ(Back Beach Boyz)」としのぎを削り、曲をやり取りする、わくわくするほど楽しいセッションを行った。バック・ビーチ・ボーイズは滑稽な歌を作曲していて、土地の牡蠣売買に関する人類学を研究するのに貴重な調査対象をなしている(4)

 ティンマス方式の牡蠣養殖は、進んで実験を取り入れている。牡蠣養殖家のバリー・セッションズと息子のマシューが長期的な経営に取り組んでおり、牡蠣とイガイ両方の養殖を行っている。タネとなる牡蠣の幼生を水の流れが浸透するプラスチックのメッシュの袋に入れて金属製の棚に吊して育てるのが従来のやり方だ。セッションズ一家は、牡蠣のタネを海岸地帯にばらまき牡蠣を制約なしに育てるという無作為の方法もとっていて、川で驚くほど大きい牡蠣が見られるのは、このためだ。だが、この牡蠣が抱える問題は、動物と人間の両方の餌食になってしまうことだ。そしてまた、どういうわけか、川下からイガイのタネが消えてしまった。そのため、セッションズ親子は、新しい方法を模索している。政府の許可を得てイガイの綱を海に張ろうと、海での養殖用に設計された新しいボートを購入した。「私たちは川の民なんです。海に出て行くには、ちょっと勉強しないと」とマシューは言う。一家はボートの購入を祝って映画を作った。制作したのはマシューの娘のジェスで、イガイの養殖の全過程を追っている(5)

 私たちの友人で、かつてはチリの労働組合のオーガナイザーだったが政治亡命してきたアルベルト・パレデスは、結局、故国に戻り、いまではカルブコ火山に近いプエルト・モントで牡蠣と特大イガイを養殖している。彼は貝類の受精に関する国際的な専門家だ。牡蠣を繁殖させるために、現地の川に浮かべた枠に取り付けたバケツから水がわき上がってくるシステムを考案した。彼の話では、持続可能性という点で、これにより栽培中の牡蠣の死亡率が劇的に減少するという。彼はこの方式に関するビデオを制作し(6)、国際的な講演活動を行っている。ティンの貝繁殖業者たちは、チリからの講義ビデオを熱心に見ていると話してくれた。

 フランスでは牡蠣養殖は国民的文化になっている。魚屋たちは多種多様な牡蠣を店頭に並べているし、フランスの金物屋では、貝の中身を取り出すために使う先端がとがった専用の道具が売られ、ウェイターたちは手首をひょいと動かすだけで牡蠣の殻を取ることができる。私たちの音楽グループがカレーに行ったとき、港のそばの売店で出会った魚売りの女の人が、暴風雨のために漁船が漁に出られなかったため、魚がないのだと一人の顧客に辛抱強く説明していた。

 貝を扱うミリアム・ポンという名の土地の女性は、自分のことを「海の農婦(la paysanne des mers)」だと称し、国民戦線がのさばるこの地で誇らかにこう宣言した。「私はフランスで生まれました。でも、祖母はもともとはインド人だったし、祖父はアラブ人でした」。この女性は遠浅の浜での貝採取(la pêche à pied)を仕事にしていて、ウィメルーの海岸線沿いにある天然のイガイ繁殖場で働き、自転車にイガイを乗せて帰ってくる。シーフードに教育的うんちくをもりこんで、地域のイガイ繁殖所を訪問客たちに見せてまわるのが仕事だ。いろいろな遠い場所からやって来る客は、海洋の生息環境、エコロジー、軟体動物固有の生活習慣、そしてその料理法を学ぶのだ(7)


(ル・モンド・ディプロマティーク 英語版2018年3月号より)