ザイル・パーティーの最後に立つ人


フィリップ・デカン(Phlippe Descamps)

ル・モンド・ディプロマティーク編集長


訳:樫山はるか


 2017年10月、エマニュエル・マクロン大統領が就任後初の大きなテレビインタビューで「私はザイル・パーティーを信じています。才能があるために成功している男女がいます。彼らを祝福してほしいのです[……]。ザイル・パーティーの先頭に立つ人々に小石を投げ始めたら、パーティー全体が転落してしまいます」と述べた。この発言にはどんな意味があるのだろうか。[日本語版編集部]

(仏語版2018年1月号より)

photo credit: Éole To the Top


 両手足が切断された彼は世界中を周り、ネパール国王やケネディ大統領の涙を誘い、[閣僚になりフランスの]閣議卓にもついた。ド・ゴール将軍の時代のことだ。1950年6月3日、アンナプルナにフランス国旗を掲げるため、すなわち史上『最初の8000m峰登頂』[訳注1]で、両手と両足に重度の凍傷を負ったモーリス・エルゾーグは、試練を大勝利に、その怪我を勝利の記念に換えることができた。多くの言語に翻訳され1,000万部以上を売り上げ、彼の話は遠征登山という冒険を崇高なものにし、あらゆる大陸において、冒険への情熱を呼び覚ました(1)。しかしながら1990年代に、埋もれていた資料が明るみに出ると、「エルゾーグによって語られた夢のように見事な物語は、あやしい作り話に変貌し、偶像破壊者たちが石つぶてを投げ始めた」と作家で登山家のアメリカ人デヴィッド・ロバーツ氏は語る(2)

 青年・スポーツ担当高等弁務官になったかつての遠征隊長は、2012年12月に亡くなったが、彼の娘から「性的偏執狂」と追及された過ちのために再び取り沙汰された中でのことであり(3)、他の登山家たちも冷淡であった。彼らはエルゾーグがザイル・パーティー[訳注2]の精神をおとしめたことを許さなかった。エルゾーグは話を取りつくろい、彼より熟達したリヨネル・テレイやガストン・レビュファといった仲間のことは一顧だにせず手柄を独り占めにしていた。彼らはエルゾーグの向こう見ずな行動のため頂上に立てなかったのに、遠征の取り決めで彼ら自身は5年間証言を公表することを禁じられていた。さらに重大なのは、この「英雄」がザイル・パーティーの仲間ルイ・ラシュナル――彼はエルゾーグの命を救うために両足を犠牲にした――の役割を格下げしていたことである。ラシュナルが1955年に夭折したことをいいことに、彼らの登頂において最も重大ないくつかのシーンを執筆中の原稿から削除していたのだ(4)

 1786年のジャック・バルマとミッシェル・パッカールによるモンブランから、1953年のエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイによるエベレストまで、ほぼ全てのメジャーな主峰の初登頂は、共同作業で行われた。あまたの山岳小説が、何のためにこれら「無益な」登山をするのかと問い続けているが、この問いかけから、エマニュエル・マクロン大統領の、ザイル・パーティーの先頭に立つ人々[les premiers de cordée]になぞらえたメタファーが不適切であることがわかる。彼は、大金持ちのなかでも最も裕福な部分に属する人々への動産税の廃止という贈り物を正当化しようと目論んでいるのだ。

 ロジェ・フリゾン・ロシュの入門的な小説『ザイル・パーティーの先頭に立つ人』〔Premier de cordée〕(Arthaud出版,1942年)[訳注3]は、ある山岳ガイドの息子の経験を描きながら、この表現を不滅のものとした。「ピエール・セルベッタは登山家だけが得られる最高の満足感を経験したところだった。それはザイルの先頭を歩くことだ。彼はただ穏やかに安心しきって盲目的について行くのはやめていた。リーダーになっていたのだ。リーダーとは、命じ、闘い、仲間の責任を負い、そして託された仲間の命は彼次第なのである」。しかし、この雄弁さは物語の最初のうちだけで、結末はまったく別の意識に目覚める。ピエールがジョルジュとエギーユ・ヴェルト登攀でパーティーを組んだ時、「かつて彼はこれほど自分に固い信頼を感じたことはなかったし、前日の不安は悪い夢のように消え去った。さしあたり彼は友の前進を確保することだけを考える。二人の命は彼らを同じ危険に結び付けているザイルによって固く繋がれている」

 商業登山でない登攀の場合、大抵の登山家たちがそうするように、ピエールとジョルジュは「交替」に進む。各々が最も調子がいいときに先頭に立ち、交互に相手に任せることにより信頼が深まる。このようにして、ジョルジュは足の先を切断した痛手から自信を取り戻し、一方ピエールはめまいを克服する。フリゾン・ロシュは、山岳ガイドであれ、探検家であれ、レジスタンス運動家であれ、どんな危機に直面しても、相互の助け合いが人に与えるこの力を称賛した。とりわけ、サヴォア県の山岳地帯でナチスの部隊に立ち向かう『夜の山岳レジスタンス(未邦訳)』〔Les Montagnards de la nuit〕(Arthaud出版,1968年)において、そうだった。

 現代フリークライミングの生みの親の一人で、クライミングシューズの考案者であるピエール・アランはこう書いていた。「一見して実益には乏しいが、登山家は、わずかではあるが無意識に人間を人間たらしめている理由に貢献している(5)。アルピニズムが提起しうる普遍的価値は、日常からの逃避に因るものではない。むしろ逆で、その歴史は、協力と競争、利他主義と市場原理の間で生じているような、現代社会の緊張の中で描かれる。自然の真っ只中にいても、審判や競技場がなくても、この著者は早くも1948年にこう語っていた。「ええ確かに、我々の世界にも、競争はあります。現実は認めなければなりませんし、本当のことをごまかそうとしてはいけません」

 だがこの競争は、天候悪化や滑落の際に、パーティーの前進やパーティー間の救助に必要不可欠な協力と両立しうる。1957年のヴァンサンドンとアンリ事件[affaire Vincendon et Henry]まで、山岳救助隊は熱心な愛好家による相互扶助的な組織だった(洞窟探検においては今でもそうである)。国家が道路や海上でのように、専門的で無料の公的サービス機関を設ける決断をするためには、組織的な救助ができなかったため、遭難した2人の若い大学生に命を落とさせてしまったシャモニーの職業ガイドたちによる事件が必要だったのだ。

 レーガンとサッチャーの時代にもう一つ別の登山の形態が増加したのは偶然ではない、自我礼賛の垂直な拡大投影、単独登攀だ。当時多くの登山家が、個人の知名度を上げる偉業達成への悪循環に陥っていった。高い知名度はスポンサーを惹き付け、彼らの助成金がさらなる完璧な成功を後押しする、これらすべては、惨劇と同じくらい偉業にも貪欲なメディアによって刺激される。この時代を総括してみれば容易にわかることだが、現在50歳から70歳になっているはずの、この世代のフランスの「英雄たち」は、クリストフ・プロフィットを例外として全員亡くなっている......。

 富がそうであるのと同様に、名声は欲望の的になるし、増大することへの欲求に際限がなくなるが、彼らにとってはもっと危険な落とし穴であることが判明した。この罠は、最も良識ある人間の命さえ奪い得る。例えばジャン・クリストフ・ラファイユは、その2年前に「8000へのレース」を告発していたのだが、2006年にマカルー(8,463m)の斜面で、[フランスのTVチャネル]TFIとフランス2の生中継の直後に消息を絶った。この長いリストの最後はウーリー・ステックで、2017年4月にヌプツェ(7,861m)で滑落死したのだが、それは彼が主張していたシシャパンマ(8,027m)とアンナプルナ南壁の単独登頂成功の信憑性について、重大な疑惑を載せた記事が出版された直後だった(6)。彼の作り話は、このスイス人クライマーが他方では彼の同輩達をはるかにしのぐ才能を示していただけに、より一層痛ましく思われる。

 商業的な面ではどうだろうか。「登山の商業化はその歴史の最初から存在し、まだ未発達だったレジャー“産業”のうち最初に実現化されたものと考えられる」と一人の登山家でもある経済学者は言う(7)。イギリス人資産家が登攀の技法を考案しながら気晴らしをするため、地元の「ガイドたち」のサービスにお金を払った。うまい儲け話はあっという間に職業になり、その規定も作られた。しかし契約書の制約条項に大胆な行動を認める余地はほとんどなく、前世紀の主たる登攀のほぼすべては「ガイドなし」か、愛好家として活動するガイドたち、つまりは客なしの形態に帰着する。

 人が近づかない山頂への選び抜かれたルートのこの探究のほかに、一部の物神崇拝の対象となる山、たとえばエヴェレスト(8,850m)は、1人7万ユーロで冒険の真似事をする裕福な顧客の引き立て役となっている。顧客は、山岳使用人と「8,000」における努力を「6,000」のに減らせる呼吸補助器に補佐されている。何たる裏切り行為、これら商業的登山はアルピニズムの本質――大地に人間が適応し、その逆はない――を踏みにじる。登攀の最初から最後まで岩壁にザイルが固定されており、「冒険家たち」は列になって進むだけで、決して「先頭」の責任を体験することはない。

 登攀や登山のクラブはまったく違うアプローチをとっている、自主性の訓練や登山の俗化への抵抗だ。それと軌を一にする、ロッククライミングの発展についての最近のドキュメンタリーは、当人のレベルがどうであれ「先頭に立つこと」の大切さと、大多数の人がこうした体験ができるようにした方法を映し出している(8)

 ザイル・パーティーの精神を実現するのに必ずしもザイルは必要ない。山スキーの人気の高まりがその証しで、がっかりするようなスキーリゾートの世界から遠く離れて、スキー板の裏に滑り止め用シールを貼り自然の雪山を登るのだが、ツアーに参加している男女がザイルの端に繋がれることは滅多にない(クレバスがある場合は別だが)。しかし、諦める時を知ったり、方位磁石を見て動いたり、雪崩が起きた場合に捜索の先頭に立ち、救助隊に通報したりするのに、他の人間の存在はやはり必要だ。それに何よりも、数時間の苦労の後、山頂に到達したとき、そしてパウダースノーの中を滑り下りる前に、恩恵のひと時を共有することができる。

 12月中旬、ブリアンソンの近くで[訳注4]、移民たちを凍死から守ろうと訴えて、互いをザイルで結び合った数百人の山岳関係者たちは、 何が世界中の人すべてを結び合わせるのだろうか、との問いを投げかけていたのだ。なぜなら、ザイルの精神をないがしろにすることは、山をないがしろにすることだろうから。それは「日々の歩み[営み]」を「地平線が示してくれる方向[目標](9)」から切り離してしまうことなのだ。登山家が自分の命より他の人の命を優先するとき、登山家が、2番目、3番目の人のペースに合わせて人間の集団が進むことを証明するとき......もっとも素晴らしい偉業は常にザイル・パーティーの最後の人のものだということを証明するとき、彼はその方向[ザイルの精神]を身をもって示している。



  • (1) Maurice Herzog, Annapurna. Premier 8000, Arthaud, Grenoble-Paris, 1951年
  • (2) David Roberts, Annapurna, une affaire de cordée, Éditions Guérin, Chamonix, 2000年
  • (3) Félicité Herzog, Un héros, Grasset, Paris, 2012年
  • (4) Pour la version non expurgée : Louis Lachenal, Carnets du vertige, Éditions Guérin, 1996.
  • (5) Pierre Allain, Alpinisme et compétition, Arthaud, 1948年
  • (6) Rodolphe Popier, « Annapurna 1, South face, Ueli Steck, 8-9 October 2013年10月 » (PDF), www.pioletsdor.net
  • (7) Gilles Rotillon, La Leçon d’Aristote. Sur l’alpinisme et l’escalade, Éditions du Fournel, L’Argentière-la-Bessée, 2016年
  • (8) Damien Vernet et Jo B., « Des montagnes dans nos villes », Fédération sportive et gymnique du travail, 2017年
  • (9) Paul Keller, La Montagne oubliée. Parcours et détours, Éditions Guérin, 2005年

  • 訳注1]邦訳『処女峰アンナプルナ 最初の8000m峰登頂』

  • 訳注2]ザイル・パーティー:クライミング用ロープ(ザイル)で繋がれた登攀(とうはん)チーム。

  • 訳注3]邦訳『ザイルのトップ』

  • 訳注4]フランスアルプス山中の小都市。イタリアとの国境に近く、近年、移民の経路になっている。冬季は、凍死する例も発生している。2017年12月、国際移民デーに、山岳関係者、移民支援団体などにより各種の行事が行われた。その中で、参加者が、列になって国境の峠を越えて歩くというイベントも行われた。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年1月号より)