南アフリカに渡ったフランス人移民


シャルロット・グラヴリ(Charlotte Gravli)

社会科学高等研究院(EHESS)博士課程


トマ・ルサフル(Thomas Lesaffre)

政治学者


訳:一ノ倉さやか



 歴史を振り返ると、移民労働者はしばしば受入国側から侮蔑と人種差別の対象であった。しかし、1960年代南アフリカ工業地帯に新天地を求めたフランス人移民のエピソードは従来の見解をくつがえす。というのも彼らは南アフリカにおいて白人の統治を強化する立場にあったのだ。複雑な歴史・政治的背景を持った南アフリカを新たな視点で検証する。(本文のインタビューは共同研究の一環として行われた)[日本語版編集部]



 「アパルトヘイトがどんなものかは良く知っていたよ」。ロレーヌ地方にあるシエール溶鉱炉の製鉄工場でベテラン部品仕上げ工員として働いていたジャンにとって南アフリカへの移住は人生の一大決心であった。ロレーヌ・レピュブリカン紙の折込広告は、1960年代の政治ムードと労働組合に辟易し、スト破りを行ったジャンにとってアフリカ行きを決定する十分なきっかけとなる。「南アフリカへの移住に興味を持つ人々」への呼びかけは、南アフリカ最大手の鉄鋼公社イスコールでの就業と現地での住居を保証するものだった。落下傘兵として派遣されたアルジェリア戦争から帰還した後「ファシスト」と見なされたマルセルと同様、ジャンは、アフリカ大陸の「白人最後の砦」に加わるチャンスを捉えた。飛行機は1968年の5月、6月には飛ばなかったが、7月早々にジャンはフランスを発った。

 2万人ものフランス人が南アフリカへ移住した理由は政治的背景だけではなかった。1960年~70年代は鉄鋼、鉱山業界の不況により失業者が目立っていた。多くのフランス人は労働力確保のため欧州移民を奪い合うカナダやオーストラリアよりも、深刻な人手不足から迅速な移住が約束された南アフリカを選ばざるを得なかった。当時鉄鋼産業は目覚しい発展を見せ熟練労働者を探し求めていたが、同時に雇用者は南アフリカの白人国家の行く末をも模索していた。1960年代初めには明らかに黒人の人口数が白人を上回っていたが、その一方で南アフリカの政権は非植民地化の政治的圧力に晒されて追い詰められた状態に置かれていた。「黒人の脅威」に直面し、『アパルトヘイトの構築者』として知られる社会学者で当時南アフリカ首相でもあったヘンドリック・フルウールトが、このような集団雇用を考案した。彼は白人の移民がやって来れば機械化の進展と相俟って黒人労働者による手作業の需要が減り、彼らを黒人の指定移住区へ退去させることになるだろうというのだ(1)

 メッツのカールトンホテルの煌びやかなラウンジでイスコールの人事担当者は選別の基準に見合った人物がいるかどうか目を光らせる。志願者には十分なキャリアに加え南アフリカのアパルトヘイト社会への適合能力が問われる。大家族を優先させ、できればカトリックでないこと(アフリカーナ[南アフリカの白人]は大半がカルヴァン派だ)が望ましいが、とはいえ独身の労働者やかつてのフランス領アルジェリアの居留者、スト破りも同様に歓迎した。運よく選抜された者は南アフリカについて事前の知識は皆無だった。従って彼らの到着は常に混乱を伴った。ヨハネスブルグで何泊かした後、経済の中心地から南へ80kmの新興工業都市ファンデルヴァイルパークへと連れて行かれるのだった。

 「ここにはテレビも無い。本当に何も無いんだ」。シモーヌのように、多くのフランス人は移住地の辺鄙さにショックを受ける。イスコールがあるヴァール地方は、金採掘地ロンドの労働組合の暴動から影響を受けないよう、まさに鉄鋼業労働者を隔離する目的で選ばれた場所であった。開拓者専用ホテルでの短期滞在の後、家族一同は自分たち専用の家に向かう。そこには欧州の様々な国からやってきた移民労働者がいた。「ファンデルヴァイルパークでは、ポルトガル人が果物や野菜を売っていたり、ギリシャ人が小さなスーパーを営んでいた。何でも揃っているカフェが幾つかあって、もっぱらフランス人たちがよく利用していたよ。時に12人、いや15人がたむろして、皆がおごりたがっていた」とマルセルは回想する。

 このような状況はフランス人移民に、フランスの工場へ出稼ぎに来ていた移民たちを思い出させる。「郷に入っては郷に従うとはこのことでした」と、ジャンは1960年代初めに北フランスへ移住してきたスペイン人労働者について語る。「私の状況と比べてみたのです。当時、彼らが抱えていた問題をどのように見ていたか?彼らはフランス語を話すことを強いられていました。だから私も現地の言葉であるアフリカーンス語を真剣に学びました。それが功を奏し、異国の地での生活が順調だったといえます」。白人の政権者は英語もしくはアフリカーンス語でコミュニケーションを取った。広い庭付きの大きな家や使用人と引き換えに、彼らは新規労働者とその家族に白人国家コミュニティーの規律、規則を守ることを要求した。学校では髪を短く刈りこみ、兄妹は離れ離れにされ、フランス語は禁止された。一部の学校では、授業は英語で行われ、聖書はアフリカーンス語で学ぶ。少年にとって、ラグビーの地元チームへの参加は無理があった。代わりに、荒れて凸凹した土の上でサッカーをすることで満足しているようだった。そこではイタリア、スペイン、ドイツ系移民の息子たちがそれぞれの気晴らしに没頭していた。

 家の中では白人と黒人とが同じテーブルで食事を取ることが許されない。1948年に制定されたアパルトヘイトは旧くから存在した分離政策の延長上にあるものだった。国民党が政権を取ると国の関与する範囲が広がり日常生活全般を支配することになる。主である白人の家での黒人の寝泊りが禁止されたため、主人は裏庭に黒人専用の小屋を建てる。1952年工場労働者の都市集中化の統制を強化するとともに、政府は16歳以上の黒人男女の移動を厳格に規制した。工場が稼働している時間帯を除いては白人居住区へ足を踏み入れることを禁止し、毎晩18時にファンデルヴァイルパークでサイレンが鳴り響くと白人以外の労働者は黒人居住区であるタウンシップへと姿を消し使用人たちは翌朝まで道を歩くことも禁止された。

 マルセルは人種差別的政策に対して道徳的にも政治的にも特に疑問を抱くことはなかったが、彼の独身男性という立場は、この政策の内容と相容れなかった。「アパルトヘイトがもたらす困難な事情は黒人女性と関わりを持つことが許されないということでした」。カフェでは同じテーブルに座ることが許されず、実際数ある差別的法規の中でも「背徳法(1950)」によれば、黒人と白人の性的関係は同人種内の姦通罪より罪が重かった。白人の独身者たちは、彼らを対象とする黒人売春婦がいる南アフリカに四方から取り囲まれた国レソトに通った。やがて、初めてヨハネスブルクに白人専用の売春宿が設置された。その流れとともに、週に一度彼らはそこに通うようになった。とはいえ、国家にとって家族帯同が移民の定住を促す何よりの鍵であったため、労働者の夫に同伴するよう既婚女性を説得する動きが出てくる。政府は1963年に「南アフリカで専業主婦に」と銘打ったパンフレットを制作することを思いつく。

 売春という領域以外では、人種隔離政策は多くのフランス人にとっては見えにくいものだった。「私たちは実のところ意識することなく生活していました」とマルセルと同様イスコールで雇われていたマリーは回想する。そのことを後悔する人さえいる。「私は当時台所のドアを常にオープンにしていましたが、誰も入ってこようとはしませんでした。18時には黒人は自宅へ帰り、サイレンが鳴った後には一人残らずいなくなっていました」

 隔離が統治の方策となるような社会において、黒人、アフリカーナー、新規の移民の統合は実現困難であることを露呈した。フランス人は芳しくない評判に苦しむが、それでもモザンビークやアンゴラ、マディラ島等の植民地から新規参入した「白いゴキブリ」と揶揄されたポルトガル人と比べると、まだましな方だった。アフリカーナーコミュニティーとの関係についてマリーは回想する。「私たちは彼らといることがいつも気詰まりでした。嫌われていると気づいていました。子どもたちから、家で彼らが何を話していたかを聞かされていたので」。白人の移民は「本物のアフリカーナ―」になり得るというアパルトヘイト指導者の理論からは程遠く、南アフリカの労働者たちは、一貫してフランス人を「フレンチー」[フランス人を侮蔑する表現]とみなし、軽蔑するだけだった。「私たちはよく『クソ移民ども!』というセリフを耳にした」。そういうジャンの自己弁護はアフリカーナ―に彼らの祖先がオランダ人やユグノーであることを思い出させるものだった。「アフリカーナ―こそ出自がわからないじゃないか。頭に来たときはそう彼らに言ったものだ」。工場に就業が決まった女性は予想通りの非難を受ける。「夫たちから仕事を奪ったと非難を浴びました」。フランス人女性はみな、身持ちの悪さを意味するあだ名をつけられていた。

 白人系移民は、20世紀初めに芽生えた憎悪の代償を払わねばならなかった。困窮したアフリカ―ナ―が仕事を求めて地方から都市に流れ込み、炭鉱や鉄鋼業の分野の仕事で職業訓練を積んでいた熟練移民労働者の新たなコミュニティーと真っ向からぶつかった。さらに工場で働くフランス人コミュニティーには、「海外の(某)共産主義国を手助けするスパイ」というもう一つの汚名が、実にアパルトヘイトが廃止される最後の瞬間まで噂されていた。幹部は古株の工員に新参者を監視するよう要請しさえする。

 それでも、かつて不安定な身分で、小作人の子供あるいは大家族の出だったヨーロッパ人たちに、さらに上の社会階級を目指そうとする野心が芽生えた。「ヴァカンスにはケープタウンへ発った。サヴォアの叔母の家に…」。子供たちには個室が与えられ使用人は家事を請け負う。3年の契約が切れ、イスコールでの労働契約更新の見通しが立たなくなると、ある者は金鉱山での就業を試みるか、あるいは東部の新しい工業地帯へ働きに出る。

 1980年代半ばにはアパルトヘイト終焉の気配が白人コミュニティーに重たくのしかかる。白人政権が崩壊するという見通しから人々はいよいよ神経質になった。「白人は皆怖れていた。マンデラではなく全ての黒人を」とマリーは断言する。多くの白人がそうしたように、マルセルは身を守るために手際よく準備をする。「1994年(ネルソン・マンデラが大統領になった年)自宅では全て準備ができていた。1カ月間は外に出なくても生き延びられるように。ガソリン缶を窓へ投げ込まれた場合に、カーテンを外す熊手、2本の銃と少なくとも250発の弾を用意したんだ」。彼は一度もそれらの武器を使うことなく2000年代に処分することになる。

 いくつかの当時の表現は今日でも生き残っている。よく使われた侮辱する言葉もそうだ。例えばKafir(カフィール)という言葉はアラブ語で法に違反する「不誠実」に由来し、ポルトガル語を経由しフランス語で「cafard」となった。これは、新しい隣人たちや、TV5モンド[フランコフォンあるいはフランス語学習者向けの国際放送]を彩る黒人の俳優たちのことを指す時にフランス人の頭に浮かぶ言葉だ。フランス人移民が新天地を求めてから半世紀が経ち、彼らの大部分は定年を迎えている。最古参の人たちは早期退職制度の恩恵に与り、黒人労働者はその分だけ職を得ることになった。より若い世代はまだ現役で働き続けているが、彼らは新しい同僚たちとうまくやっていかなければならなかった。ただし、ヴァ―ル谷の鉄鋼所にかつて彼らを導いたイデオロギー的枠組みは、今もなお残存している。




(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年9月号より)