ロシア革命100年——社会的抗議運動の津波


エリック・オノブル(Éric Aunoble)

歴史学者、ジュネーブ大学研究者。
La Révolution russe, une histoire française. Lectures et représentations depuis 1917,
La Fabrique, Paris, 2016.の著者。


訳:生野雄一



 第一次世界大戦で荒廃し飢えに苦しんでいたロシアでは、社会に対する大衆の不満が募るなかロシア帝国は対応能力を失っていた。皇帝ニコライ二世が退位した1917年には社会は混迷を極め、大衆と思いを一にして権力を執ろうと明確な意思を持つボルシェビキだけが、革命を率いることに成功した唯一の勢力だった。[日本語版編集部]



 戦争が始まって3年後の1917年には、ロシア帝国では兵士の愛国心の熱は冷めていた。兵士の1人が看護婦にこう語る。「以前は、金持ちがどれだけいい生活をしているのか知らなかった。前線近くで徴用された家々に住み始めて、それがどれほどいい生活なのかを知った。床にも壁にも彼らが所有しているあらゆるもの......何の役にも立たない高価なもの、綺麗なものがあった。これからは、私がああいうふうに暮らすのだ、ゴキブリと暮らすのではなく(1)

 軍の総司令官であるツァーリ(ロシア皇帝)ニコライ二世は、あの怪僧ラスプーチンに皇室を意のままに操られて、皇帝としての評判を失っていた。国家総力戦に必要な経済対策を講じようにも国の無能ぶりが露呈していた。1914年から物価は2倍以上になり、為政者は前線だけでなく都市にも食糧を補給するために農民から収穫物を徴発しようとした。

 1917年3月8日(正教会暦の2月23日)の首都ペトログラードの労働者のデモがストライキになり次いで暴動になっていったときも、もう誰も政権を擁護しなかった。ツァーリは退位した。唯一かろうじて代議機関と呼べるものはドゥーマ(ロシア国会)だった。1912年の不公平このうえないルールによって選出されたこの諮問議会は「正義、平等、自由の原理」を掲げつつ「勝利するまで戦争」を続けるために「カデット」[立憲民主党(員)の通称]が過半数を占める臨時政府を指名した。

 既成秩序に対する民衆の抗議はやまなかった。国家は崩壊し信用を失墜しており新たな組織を創設する必要があった。民兵が、民衆に銃口を向けた警察に取って代わった。失敗に終わった1905年の革命の申し子である労働者代表による評議会「ソヴィエト」が創設され、すぐさまペトログラードの食糧物資の補給に取りかからねばならなかった。ソヴィエトはすべての権力を非合法化し、軍の各部隊の兵士たちに「遅滞なく代表を選出せよ」と呼びかけた。

 ソヴィエトは瞬く間に国中に組織を広げた。これらは長年の革命運動の伝統を受け継ぐさまざまなセクトの活動家によって作られた。ストに参加した者や土地の接収に参加した者、そして1905年の蜂起のあとに労働組合や生活協同組合を組織した者もいた。1917年2月には、皆が労働者のラ・マルセイエーズ[フランス国歌ラ・マルセイエーズにロシア語の社会主義的な歌詞をつけたロシアの革命歌]を歌い、「民主共和国万歳」を叫ぶ横断幕が掲げられた。しかしながら、社会革命党(SR)のスローガンが主張するように、活動家たちは権利は闘い取るものだと考えていた。こうして彼らは、体制崩壊への道を開いた。ペトログラードでは政権は動揺し、エカテリノスラフ県[現在のウクライナ南部にあたる]の知事はある労働者の代表に対して「ともに行動しよう」と提案した (2)。オルロフという男がパリコミューンでの弾圧を例に挙げて、これを拒否した。このオルロフはロシア社会民主労働党(POSDR)の穏健派であるメンシェビキの一員だった。こうした穏健派と行動をともにすれば、革命がどんな展開を辿るかはわかっていた……。

 活動家たちの急進的な態度は募りゆく大衆階層の急進的な思いと一致した。権力に対する不信感からこれまでにない「自己組織化」のプロセスが動き始めた。フランス人ジャーナリストのセルジュ・ド・チェサンによれば、「あらゆる社会階級、職業団体、専門的または政治的グループが、自分たち独自の要求を真っ先に伝えようと力ずくで前に進み、踏みつけられるのを覚悟で押し合いへし合いしている。『団結せよ! 組織せよ!』という叫び声がロシア全土に響き渡っている(3)

 臨時政府はすぐにかつての賤民である女性やロシア帝国内の少数民族に対して市民としての平等を認め、直ちに実施した。しかし、国外の脅威と内部崩壊に同時に対応しなければならない国家にとって本質的な諸問題が、社会的な緊張が高まる3つの方面──工場、軍隊、それに村──ではっきりしてきた。すでに3月からハルコフの機関車工場では「従業員代表が審議したあとでないと解雇はできない」ことを労働者側が要求し、5月末には「生産管理委員会」が全従業員によって選出された。6月には、工場長が現場管理者に対して「あの委員会にはいかなる情報も開示せず、いかなる文書も閲覧させたり交付しないよう」指示したが、効果はなかった。キエフでは、ある幹部が回想して言うには「技師と現場監督は徐々に脇役におかれ……『反革命的な傾向』は労働者集会が責任者を更迭するのにしばしば十分な動機となった」

 10月初めに、兵士たちは不器用ながら請願書を書いた。「あなた方臨時政府に早急な和平を要求する。同志ケレンスキーよ、もしあなたがそうした試みをしなければ、私たちはやがて銃を捨てて前線を放棄し、銃後に回ってあなた方ブルジョワジーを叩きつぶす(4)」。大衆に急進的なところを示すために、7月には社会主義者アレクサンドル・ケレンスキーが首相に指名されていた……。

 10月半ばには、ペトログラード地方の或る村の農民集会で「ごく一部の資本家たちの利益のための愚かな戦争……」を非難する決議をした。経済的崩壊に止まらず「このような状況は国全体を最悪の危機に曝している」。「誠実で民主的な和平」に加えて、土地と資本と生産にわたる「国全体のコントロール」を村人たちは要求した。

 この闘争は、労働者、農民、兵士の代表によるソヴィエトの勢いを加速させた。ソヴィエトは、2月には左翼として臨時政府を支持していたが、今や全くの反政府勢力になった。社会主義を標榜して、革命は権力を持つ者すべてをやり玉に挙げた。家父長、官吏、実業家、土地所有者、将校……。

 何千人もの大土地農場主や資本家のみならず、より幅広く知識階級が恐怖を抱き始めた。眼鏡は軍服の肩章と同じように “嫌悪すべきブルジョワ(bourjouï)”のシンボルとなった。インテリは、民衆の「当然の」教育者かつ精神的指導者の役割を失った。作家イヴァン・ブーニンは、良かれと思って破れた原稿の端の文章を読む練習を女中にさせていたところ、酔っぱらいの兵士に「暴君」「げす野郎」呼ばわりされた(5)! 2月には熱狂的な革命支持者だったオデッサの若い女性音楽家が、11月には「同志たち」に我慢ができなくなる。曰く、「私は、段々右寄りになっていく、おそらく、君主制擁護論者になるだろう……。今私は純粋な立憲民主党員ですが、ちょっと前までは社会革命党員でした」。それから2カ月後、彼女は将校を批判した「ユダヤ人の青二才」を罵った(6)

 インテリと大衆の冷めた関係を詩人アレクサンドル・ブロックが鮮明に感じ取りみごとに分析している。「君はいったい何を想像していたのか? 革命は清純な恋だったということか? 創造する行為はその過程で何も破壊しなかったか? 大衆は思っていた通り賢明だったか? 『手を汚した労働者と手を汚さないホワイトカラー』『教育のある人々と無教育の人々』『知識階級と大衆』これら両者間の百年越しの憎悪は『流血なし』『痛みなし』で解決するだろうか?(7)

 自分たちの足もとに亀裂が走るのを不安に感じている知識階層のなかに左翼政党の幹部たちがいた。政府にあっては、社会革命党は戦争続行を正当化し、憲法制定議会の選挙のときのように社会問題に関して忍耐を説いた。民主的共和制の枠内で、徐々に労働者組織を後ろ盾にした社会モデルを築こうとしていたメンシェビキは彼らを支持した。メンシェビキのなかで最も頭脳明晰なユーリー・マルトフは、ロシア社会民主労働党左翼のボルシェビキの成功は、未熟練の若手労働者、田舎の貧乏人、兵士といったプロレタリアートを自認するさまざまな階層を団結させることができるかどうかにかかっていると理解していた。プロレタリアートを自認するといっても、それはいわゆる「科学的な」社会学からみるととんでもない勘違いだったが。

 既成秩序と決別し大衆の運動と波長が合っていると思われる唯一の政党はボルシェビキだった。その指導者レーニンはすでに4月から、ソヴィエトを後ろ盾にして権力を握るつもりであることを明らかにしていた。初期の無政府主義運動に倣って、5,000人のマルクス主義の小さな組織は怒りに満ちた庶民を説得し徴募した。ボルシェビキは既成秩序の転覆を指導し政治的に実現する唯一の組織された勢力だった。一言でいうと、ボルシェビキは既成の権力に対抗する戦略において異彩を放っていた。彼らは11月7日(旧暦10月25日)のペトログラードでの蜂起を組織した。この日は、第2回ソヴィエト全国会議の初日であり、そこではボルシェビキが多数派であった(8)

 社会不満の津波に運ばれて、ボルシェビキはジレンマに直面していた。崩壊しつつある国家にあって、国を破滅させる危険をおかして工場や村々のソヴィエトの分権的自主管理をいつまでも促進すべきだろうか。11月に選出されたものの、信用のおけない従来の諸政党が多数派を占めている立憲議会をどうするのか。「友好国」とりわけ主要な「同盟国」であるジョルジュ・クレマンソーとフィリップ・ペタンのフランスは敵国ウイルヘルム二世のドイツと同様にソヴィエトを敵視しているが、これらの国とどうやって和平を結ぶのか?

 いくつかのレーニンの決定に関して意見が対立したローザ・ルクセンブルクは、ヴロツワフの刑務所で次のように書いている。「10月革命はロシアの革命だけでなく、国際社会主義の名誉も救った(9)」。当時の問題はロシアに止まらなかった。反乱は全ヨーロッパに広がった。春には、ドイツの冶金工、パリのお針子と、いくつものストが勃発し、夏には、フランス軍内での反乱が鎮圧されたばかりだったが、ドイツの水兵は抗議運動を起こした。6月には、イゼール県の知事が、「ロシア革命に影響されて、労働者たちはすでに労働者と兵士の委員会や革命を夢想している(10)」と報告している。ロシア革命は、始まったばかりの「ヨーロッパの市民戦争(11)の」中軸だった。この争いは、共産主義とファシズムの間で揺れ動くその後の25年間のヨーロッパの姿を映すものだ。同時にその成り行きは、プロレタリアートによる独裁かプロレタリアートに対する独裁か、ロシアでのソヴィエト政権の行方を決定することになる。





(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年10月号より)