「テラ・ヌリウス」
—— アボリジニーを追いやる根強いフィクション


マクシム・ランシアン(Maxime Lancien)

ジャーナリスト


訳:村松恭平


 2000年に開催されたシドニー・オリンピックの際、オーストラリアは陽気なムードの中、先住民[アボリジニー]とヨーロッパ系入植者の子孫の間で実現した国民的和解を祝福していた。オープニング・セレモニーでは先住民の歴史が演出され、その一人であるキャシー・フリーマンがオリンピック聖火を灯した。それから17年が経った今、土地への権利や植民地時代の「負債」の問題が、再びこの国の社会をかき乱している。[フランス語版編集部]



 2015年5月30日、西オーストラリア州パースの中心に位置するヘリソン島で、100人ほどの活動家が集まって行動していた。先住民のヌンガー族である彼らは3月以降、その場所にテントを張って抗議活動を行ってきた。黒、黄、赤からなる彼らの民族旗が、設営されたスタンドではためいている。ヌンガー語で「マタルガラップ」(Matargarup)と呼ばれるこの聖なる島にはイェーガンの像が置かれている。彼は植民地化に抵抗した英雄とみなされ、戦士たちのリーダーだった。その頭部は人類学上の好奇心の対象となり、19世紀にリヴァプール[イングランド北西部]の街で展示されていた。そして、1997年にようやくオーストラリア本国へ返還された。抗議キャンプの企画者は「自国の難民」となり果てた先住民たちのさまざまな権利について討論しようと、毎月毎月、白人・黒人問わず市民たちに声を掛けていた。

 抗議運動の発端は2014年11月に遡る。自由主義者である西オーストラリア州首相コリン・バーネット氏は、その州に存在していた274のコミュニティーのうち、150を近いうちに閉鎖すると発言した。「[電気、水、あるいは教育といった]生活に不可欠な社会サービスのための予算をカットするという連邦政府の決定が非難されるべきです。115のコミュニティーには平均して5人の住民しかいません。彼らのコミュニティーを維持するにはコストがかかり過ぎるのです」と彼は言った。

 パースから北に2,000キロメートル離れた場所にあるキンバリー地域には、いくつもの「僻地のコミュニティー」(remote communities)が存在する。何軒かの「ぼろ屋」が不毛の大地の真ん中に点在し、その土地に必要な最低限のインフラを国が保証している。その地に暮らす家族たちにとって、彼らの文化を支えている土地への愛着こそが、そこにとどまろうとする理由となっている。2014年の調査によれば、今日オーストラリアには先住民とトレス海峡の島々の住民合わせて71万3,600人が暮らしている(1)。すなわち、この大陸に住む2,300万人の3%だ。そして、そのうちの5万人強が「遠く離れた地域」[というカテゴリー]で、9万人が「僻地」で暮らしている。オーストラリアに住む部族たちの稀に見る多様性は、言語的な多元性によっても評価されている。その存在が知られている先住民たちの250種に及ぶ言語のうち、120が日常的に話されている。

 彼らが暮らす「ぼろ屋」の撤去がもし実行されれば、数百人がその生き方を変えなくてはならなくなるだろう。都市の周縁部に身を落ち着けるか、あるいは公園の中で生き抜くことになる。[バーネット氏の]脅しは先住民たちの自尊心を傷つけた。彼らは普段、社会運動にほとんど参加しない。だが、その大きな距離の隔たりにもかかわらず、オーストラリア東海岸とキンバリー地域に住む大多数の人々の間で、連帯が再び生まれたのだ。経験されてきたさまざまな出来事、その英雄たち、そのシンボルとともに、長い戦いの歴史が瞬く間によみがえった。たとえば、ヘリソン島での政治集会は1967年5月21日 —— その日には、先住民たちを全国調査の対象に含めること、つまり「正真正銘の市民」という社会的地位を彼らが獲得することにオーストラリア人の90%が賛成した —— を祝う5月末の「融和の週」に意図的に催された。1992年に下された連邦最高裁の判決のことも誰もが覚えている。トレス海峡出身のエディー・コイキ・マボが[原告代表として]裁判手続きを推進した「マボ対クイーンズランド州事件」のことだ。「オーストラリア先住民やトレス海峡の原住民には土地との特別な結び付きがある。それは植民地化よりも前から存在しており、今日も依然として存在している」という判決内容だった。この判決は「テラ・ヌリウス」[無主地]、すなわち「先住民たちがその土地を開墾していなかったため、植民地化された時のオーストラリアは“誰のものでもなかった”」というフィクションを否定したのだ。

 「歴史に関する偏った選択と解釈が意図的になされたのです」と初期の開拓者たちが残した文献を研究するブルース・パスコー氏は説明する。「英国人たちの名声を高めない資料、たとえば、彼らが侵略した土地にはすでに先住民たちが住み着いており、十分に開拓されていたといった事実が排除されました。英国人たちは、先住民たちがその土地を使用していなかった、あるいは、彼らはそもそもそこにすらいなかったと主張しようとしました」(2)。[マボ判決と]同じ1992年に、オーストラリア労働党員として首相を務めたポール・キーティング氏は、シドニーの庶民街レッドファーンにて今もなお有名な演説を行った。「先住民たちから彼らの所有物を奪ったのは私たちです。私たちは彼らの伝統の土地を奪い、彼らの生活様式を壊したのです。私たちは彼らに災難をもたらしました」。

 マボ判決の後に導入された「先住権原法」により、主要な共同体には先住権原登記所の設置が認可された。その登記所は、政府や私的な利益に異議を申し立てるような土地を巡る争いについて、先住権原審判所に提訴する資格を持っていた。しかし、鉱山開発会社からの圧力を受けていた自由主義者たちは、先住権原法が「あまりに多くの権利」を付与しているとして、この法律を何度も修正した。

 無産階級の者たちに対するこうした法的保護は、和解の可能性の基礎をなしていた。そしてそれは、賃金労働者の搾取のみならず、その土地が産出するボーキサイト、鉄、銀、金の鉱山開発もまた認めないものだった。[法律の修正によって]こうした和解の可能性が遠のいただけではない。2014年11月、G20サミットの会議とは別の席で、当時首相だったアンソニー・アボット氏(自由党)は英国首相ディヴィッド・キャメロン氏にこう説明していた。「最初の船団が到着した1788年より前には、[オーストラリアには]叢林以外に何もなかったとみなすのはとても困難なことでした」。 —— アボット氏はこの言葉によって、四半世紀に渡る政治的前進と、考古学研究によって実証された5万年の人類史を一掃したのだ。「船乗りたちは月に到着したと考えたに違いない。何もかもが未知のものに見えたはずです」と彼は付け加えた(3)。アボット氏はソーシャル・ネットワークが炎上するほどの抗議を受けたにもかかわらず、2015年3月にあらためて自らの考えを明確にした。「オーストラリア社会のためにならない生き方の選択に対し、私たちはいつまでも補助金を出すことはできません(4)」。

 その翌月、メルボルンの主要駅フリンダース・ストリート駅周辺において、先住民コミュニティーを支持しようと4,000人が街頭に繰り出した。超大富豪であるルパート・マードック氏の複合企業、ニュース・コープ社[ニュース・コーポレーション]が保有するヘラルド・サン紙がこのような見出しをつけた。「エゴイストのごろつきどもが街を封鎖している」(2015年4月11日)。保守主義者たちによって支配された国では、日中に一つの駅がふさがれることも彼らにとっては許し難い恥なのだ。

 コミュニティーの閉鎖は、鉱山開発とも少しは関連があるのだろうか? 考古学の研究家で、組合活動家のクレイトン・ルイスとともに遺産保護を目的とする団体「オーストラリア先住民遺産活動連合」(Aboriginal Heritage Action Alliance)を設立したエリザベス・ヴォガンはそう確信する。「オーストラリアで最も重要な問題の一つは、鉱山開発が進む可能性がある中で、先住民たちの遺産を保護することです。彼らの文化や遺産に対する攻撃が明らかになされています」。2014年末に西オーストラリア州議会で可決された、人々の排斥を容易にするために作られた法律についてルイスは指摘する。その際に、礼拝所を保護する「聖なる場所」という概念が新たに定義し直された。この勿体ぶった呼び名は、今では祭式が行われる場所にしか付与されない —— こうした宗教的実践は…… オーストラリア先住民の文化には存在しない。こうして、23のコミュニティーが[リストから]消し去られた。たとえば、パースの北にある、1,000年以上前に彫られた岩石彫刻で知られるムルジュガのような土地だ。シェブロン、BHPビリトン、そしてウッドサイド・ペトロリウムといった企業にとっては幸運なタイミングだった。彼らはこの「たくさんの岩」から数キロメートル沖合で入手可能な液化天然ガスを、その時までは採掘することができなかった。

 ルイス氏は、「“聖なる場所”を規定する法律が可決され、次に、デモの自由を制限する法律もまた作られました(5)。結局、数十の『僻地のコミュニティー』が閉鎖されようとしています。これは土地の獲得と、その土地にある天然資源の開発を巡る戦いなのです」と分析する。こうした緊張は、1970年代のクイーンズランド州での出来事を思い起こさせる。この冷戦期にクイーンズランド州首相を務めていたジョー・ビエルキ=ピーターセン氏は、権威主義と人種差別主義を掲げながら、彼自身の開発政策を推し進めた。歴史にその名を残した活動家のチャールズ・パーキンスがオーストラリアの各州を先住民の名前に改名するよう提言した日には、ピーターセン氏は彼に対し、「やぶから出てこい」と挑発した。そして彼を、砂漠に生息し、先住民が食用にしていたボクトウガの幼虫になぞらえたのだ(6)

 時代遅れの食習慣、現代性とは相容れない「生き方の選択」、そして[その生活を支えるための]追加予算。だが、先住民コミュニティーの段階的閉鎖を正当化するために述べられたこうした理由も、「子供たちを守る」という口実ほどには世論を引き付けはしなかった。2011年、未成年者が被害に遭った暴行事件の後、キンバリー地域にあるコミュニティーのオオンバルグリー(Oombulgurri)が閉鎖された。この出来事はメディアや政界の一部の人間によって大々的に利用され、「ペドフィリア[小児性愛]が地方で慢性的であるならば、遠い場所にあるコミュニティーの閉鎖はやむを得ないだろう」、という考えが助長された。

 ペドフィリアに関する訴訟はけっして新しいものではない。「ブーング」や「クーン」[どちらもオーストラリアの先住民を指す](7)にその責任が帰されたさまざまな反社会的行動の中で、「子供たちへの性的暴行」はずっと以前から人食いの風習に取って代わっていた。2006年6月21日にABCチャンネルで放送された番組『レイトライン』には、ある一人の「若者の代表」が出演していた。(「安全性を理由として」)顔を隠した彼はノーザンテリトリーを「戦争地帯」と呼び、そこで彼が目撃した性奴隷の闇取引について語っていた。このなぞの証言者グレゴリー・アンドリュー氏は先住民問題に関わる部署で公務員として働いていた。心理的なパニックの波に乗じて、当時の保守派の首相、ジョン・ハワード氏は「子どもたちを救う」ためにダーウィンへ軍隊を送るのは良いことだと判断した。奥地に響く「軍靴の音」は侵略とみなされた。カナダの人類学者、シルヴィー・ポワリエはこう指摘する。「こうした緊急措置は、研究者たちからは“トロイの木馬”とみなされました。彼らによれば、国はこうした手段を用いて先住民コミュニティーと彼らの土地を管理しようとしたのです(8)」。

 この口実はそれ以降も決まって繰り返し使われるようになった。2007年、先住民問題担当大臣だったマルコム・ブラフ氏は、ノーザンテリトリーにおいて「想像も及ばないほど多くのペドファイルのギャングが存在」していると告発した。政府は先住民たち自身によるコミュニティーの管理を廃止し、子どもたちに対しては身体検査を課した。このエピソードは、私たちの集団的記憶の中に存在する「奪われた世代」のエピソードを思い起こさせる。19世紀の終わりから1960年代のはじめまでに、およそ5万人の[アボリジニの]子供たちが「彼らのため」(9)だとして強引に孤児院に入れられたのだ。「インディアンを芽のうちに摘み取る」ことを狙ったカナダの先住民寄宿学校も同様だった。ペドフィリアに関わる犯罪の存在や、いくつかの僻地のコミュニティーにおけるアルコール中毒の広まりを誰も否定はしないとしても、三面記事的な出来事が社会全体に及ぶ特徴となった背景には人種差別や産業界における利権があった。カナダや米国における土着のコミュニティーでも同様のケースがみられた。

 政治リーダーたちは、もし彼らが若者たちにも気を配っていたならば、他の「想像も及ばないほど多くの」人々に対して考えを巡らすことができたであろう。西オーストラリア州において、先住民の若者は2013年に10歳から17歳までの人口の6%を占めていたが、同時に彼らは投獄された未成年者の人数の78%を占めていた。オーストラリア国全体では彼らは白人と比較して、26倍も服役するリスクがあるのだ(10)

 このように先住民の若者の投獄率があまりにも高いことをどう説明できるだろうか? ヘリソン島にテントを張っていた人々は、彼らの生活状況の改善を望めるのだろうか? 2015年6月18日、パース警察は力づくでヘリソン島の「難民」たちを排除した(11)。社会活動家たちの側は、その場所に「何度も何度も帰ってくる」と約束していた。2016年の一年間、彼らは諦めることなくそのように行動した。

 上院議員で環境保護を訴えるロビン・チャップルは、2016年5月にパースで「コミュニティーの強制的な排除」を阻止するための法案を提出した。西オーストラリア州政府は一年間の協議を経て、2016年7月に「僻地のコミュニティー」に対する具体的な政策を発表した(12)。そのうちの10のコミュニティーが12月に特定され、今後「町」へと変更される見込みだ。他方、およそ110のコミュニティーについては、政府からはすでにもう何の援助も受けていない。

 シドニーの町が作られてから200年後の1988年1月、社会活動家のバーナム・バーナムは[英仏海峡に面した英国の都市]ドーヴァーでオーストラリア先住民の旗を立てた。それは象徴的な行為だった。「私はバーナム・バーナム、古代オーストラリアの貴族だ。先住民族の名において、私は今ここで英国を占領する。(.......)私たちは、良き礼儀作法、洗練された振る舞い、新たな出発を意味する“クーンパルトゥー”の可能性をあなた方に届けに来た。あなた方の中で最も知的な人物には、複雑な言語であるピジャンジャジャラを差し上げましょう。大地との精神的な関係をどのようにすれば結べるか、そして、やぶの中でどのように食物を見つけることができるかをあなた方に教えましょう」と彼は言った。こうした象徴的逆転は、政治的にはまだ実現されてはいない。




(ル・モンド・ディプロマティーク2017年1月号)