私の隣人は国民戦線に票を投じた


ウィリー・ペルティエ(Willy Pelletier)

社会学者
共同執筆の著作“Les Classes populaires et le FN. Explication de vote
(未邦訳、Éditions du Croquant、2017年1月)からの抜粋


訳:村松恭平


 ある政党を敵とみなした場合、その政党の支持者たちを非難することにもなるのだろうか? 人種差別に反対する極左のさまざまな団体に長い間関わってきた社会活動家であるペルティエ氏が、国民戦線(FN)に対抗するために採用し、結局は失敗に終わった闘い方を振り返る。彼の証言を聞くことによって、FNがいかにして次の仏大統領選の主役候補の一つとなれたのかが理解できよう。[フランス語版編集部]



 私はFNの集会に打撃を与えることを狙ったイベントに参加し、この政党が関わったいくつかの「事件」を告発したり、彼らの政策プログラムに一貫性がないことを「専門家」としての立場で証明してきた。気分は良く、感情も高まり、私なら何か役立てるだろうという気持ちだった。ところが、こうしたイベントで人々の怒りが噴出しようと、マリーヌ・ルペンを支持する声は衰えない。「滅びの大天使」[訳註1]のような[FNを敵視するイベントの参加者たちは]ルペンに投票する者も、FNの党員も、誰一人として知らない。彼らはルペン支持者たちを下品で粗暴、そして恐ろしい熱狂に取り憑かれた人間だと想像するが、そうしたモラルの優越感は、彼ら自身に内在する「階級差別」(1)の存在をとりわけ示しているのではないかと疑問にすら思える。

 多くの例の中から二つを挙げよう。2013 年11月15日に人権擁護連盟が発表した公式声明には、「愚かな言動とシニカルな態度を払いのけ、憎悪と人種差別を拒もう!」というタイトルが付けられている。そして、その中で彼らは「社会生活のあらゆるメカニズムに染み込む愚かな言動と無知」を非難している。一方、ロマン・グピルは雑誌“La Règle du jeu”(2012年2月11日発行版)の中で、「カビが生え、悪臭を放つフランスのあらゆるものをFNは寄せ集めている。一日一回、彼らを罵ろうではないか」と読者を促している。そして、彼はこう提言する。「言いたいことは遠慮なく言おう。(.......)彼らを説得するのはもう無駄だ」。

 2002年4月21日、18時。私たちはパリのミュチュアリテ[伝統的に左派政党の集会が行われてきた会場]にいた。熱狂的な選挙キャンペーンを終えてくたくたになり、選挙の行く末を気にかけていた。落ち着かない時間が続いた。その結果に確信が持てず、不安に覆われた2時間だった。なかなか発表されない結果に、集まった活動家たちはいら立っていた。

 20時、最終結果が発表された。なんと[ジャン=マリー・]ルペンがジョスパンを下したのだ! 私たちは総会に参加した。茫然自失となり、動転し、失望し、目から涙が溢れそうだった。勝利を手にしたその敵に私たちは打ち砕かれた。だが、すぐに私たちは一つになった。両こぶしを上げながら[革命歌]「インターナショナル」を何度も大声で、ほとんど叫ぶように歌った。

 こうした歌やスローガンは「私たちの考えに共感しない人々」を遠ざけ、(とりわけ?)「私たちと同じ考えを持つ人々」の団結と確信を強くもした。そこにいたのはどんな人たちだったのか? 少々知識を持ち過ぎたゆえ、その立場からしてみれば「バランスが悪かった」平均クラスの賃金労働者、その責務の限界と見直しに直面せざるをえなかった社会活動のプロ——彼らはそうした限界と見直しに抗っていた——、「目的を果たす」には反体制的な態度が行き過ぎていた組合員、何よりもまして行動的だった学生、あらゆる学問的訓練を積んだインテリとなるにはあまりに政治活動に没頭してしまった「知識人」、そして、もしむやみに政治に関わっていなかったならば教授資格を得ていたであろう教師、そうした人たちであった。

 その後の夜の時間は夢のような体験として記憶に残っている。誰からその情報が伝わったのかは誰も知らない。私たちは群集の中で密接し、押し潰されながら、車のほうへと向かった。目的地はオデオン。40人、50人、そして100人、200人とその人数は増えていった。他の者たち、すなわちRas l’Front[FNに対抗する闘争組織ネットワーク]、無政府主義者、学生、エコロジスト、コミュニストたちもすぐに合流した。何をするために? よく分からなかった。ルペンに抵抗するために私たちはそこにいたのだ。どのように? まったく分からなかった。ただ、そこにいたのだ。皆が同じように狼狽していた。異論を挟む余地のないあらゆる価値観、あらゆる明白な信念を問題視するこの「フランス人たちの投票」によって、私たちは顔が引きつっていた。そうした価値観や信念が私たちの生活を形作っていたのだ。学校の教師で[教育業界の労働組合]Sud-Éducationの組合員、そして20年前から革命的共産主義者同盟(LCR)(2)のメンバーだったソフィーは、その場に居合わせたことについて、「なんて幸せなのでしょう! 始まったのよ。どこまで広がるかは分からないわ」と語った。彼女は、「もし彼[ルペン]が権力の座につけば、私たちは間違いなく収容所送りよ」と繰り返し言いながら、ミュチュアリテの中でさまざまなグループの間を行き来していた。看護師でLGBT委員会(3)に属するフランソワーズが言うところの「私たちがありのままでいる」権利を要求しようと、自分たち自身を盛り立てるスタンディング・オベイションのようなものも沸き起こった。

 私たちは互いを暖め合い、この状況を「耐え抜いた」。その場にやって来る人々のことを多くの人は知っていた。彼らにキスをし、しばらくの間抱き締め合った。抱擁をやめることはなかなかできなかった。人々のまなざしは悲しみに溢れていたが、優しくもあった。そして、隣同士で感謝を伝え合った。

 そこにはすぐに数千人が集結し、渦のように入り乱れた状態となった。頬を真っ赤にして自転車で駆けつける人々もいた。またある人々は旗で身を包み、それを振った後、ベンチの上に残したままどこかに行ってしまった。手を取り合ったパートナーたちや子供たちもいた。私たちはどこに向かっていたのか? この人の群が清掃の行き届いていない歩道へと突然溢れ出る中、私たちはどこに向かっていたのか、まったく分からなかった。人々は熱狂した状態であちらやこちらで歩き始め、脇道へと入っていった。手を繋ぎ、リズムの揃っていない踊りを披露する人たちもいた。周囲の建物のバルコニーからは拍手が送られていた。暖かい快適な夜だった。私たちは苛立ち、心が傷つき、激怒もしていたが、こうした生暖かさの中で気持ちは和らいでもいた。40歳ぐらいで、「深層ウェブ」[訳註2]を擁護する生物学者のアルノが私に言った。「ここにいる人たちはルペンにとっては美し過ぎるよ」。

 夜の空が白みがかり、ピンク色へと変わっていった。苦々しさと陽気さが混ざり合う中、この大勢の人々の流れはその後も長く続いた。10区と11区全体へと広がり、12区、20区それぞれの境目にまで到達していた。翌日に朝早く起きる必要のなかったデモの参加者たちが集結した。しかしながら、庶民界隈やパリの外環状道路の向こう側ではこの出来事のことを耳にする人はいなかった。これと似たような動きは、他のどこにも起こらなかった。自分たちのものにしたいと考えていた「社会」との断絶を、ルペンの勝利によって突然感じた人々がデモを行ったのは、彼ら自身の選挙地区、居住地区、そして「似た者同士」が集まった地区においてであった。FNに投票する人々は私たちを見なかった。彼らは私たちの界隈には住んでいないのだ。

衰退し続ける空間の中で

 私と妻は3年前からエーヌ県[パリ北東部]に住んでいる。ショニ、ソワソン、ノワイヨン、ヴィク=スュル=エーヌの中間の場所で、ビート畑と森、ヤマウズラやキジたちに囲まれて暮らしている。そこは20軒からなる小集落だ。私たちのように互いに行き来し合う二組のカップルを除けば、皆が人との交流を避けている(多くの年金生活者たちは引きこもって生活している)。エリックとアニサは私たちの「ほぼ隣人」で、車で10分行った所に住んでいる。エリックの兄は農場用の家具を私たちに売ってくれた。「レモンの木を栽培することが僕の夢なんだ」とエリックは言う。「温室が大好きなんだ。その中にいると何もかも忘れるし、うんざりさせられるような馬鹿もいない。(.......)アニサのお父さんはレモンの木の栽培を実際に続けているんだ。彼は僕が大好きな温室の中で24時間ずっと働いていて、そこで故郷を思い出しているんだ」。

 48歳のエリックは、ポリエステルやプラスチック加工のポリ塩化ビニールを扱う産業用梱包材の熟練工だ。彼はかつてサン=ゴバン[企業名]で16年間働いたが、勤務工場はソワソンにあった。「ガラス製のものはもうぜんぶダメだ」と彼は言う。アニサは43歳で、衣料品店で店員をしている。彼女の両親は1970年代にモロッコからやって来た。店の閉店のせいで、彼女は3度も解雇された。「よく泣きたくなる」と彼女は言う。それは、彼女の「二人のちびちゃん」にあまり会えないからだ。彼女は前の夫と急に別れ、エリックを選んだ。前の夫は子供たちにほとんど会わせてくれない、と彼女は言う。アニサとエリックは結婚しており、節約をし、彼女が言う「石でできた本物の家」をローンで購入した。エリックは職場で何人かの研修生を引き受けているが、このように私に話した。「彼らは僕の話をほとんど聞かないんだ。ビデオゲームやら何やらのことばかりに夢中で、まるで中毒だよ。この間も、機械の動かし方を知りたいからメールしてくれと僕に頼んでくるやつがいたんだ。教えたばかりだったのに。彼は耳を持っていないか、僕を馬鹿にしているね」。この会社は持ちこたえられるのだろうか?「この会社はすべてがアメリカっぽいんだ。受付さえもね。僕は全然理解できないよ。それで、どんどん従業員が解雇されていく。もうどうしようもないね」。

 エリックとアニサは私たちにレタスやカボチャ、ラディッシュをくれる。私たちはクルミとフランボワーズを彼らにあげている。私たちは一緒にアペロを楽しんでいる。ある晩、彼が「長い間、僕はちょっとした人種差別主義者だったんだ」と私に言った。だが、セネガルを訪れて以降(それはクラブ・メッドを仲介して実現した唯一の彼らの旅行だった)、もうそういった人間ではないという。その夜は「徹夜で」ホテルの従業員たちとドミノの勝負をしたという。「ごつい男たちだったよ」[とエリックは言った]。[それ以前に]エリックが「ちょっとした人種差別主義者」に変わったのは、アニサが「ある黒人の若者から小切手を受け取ったことで、危うくまたクビになるところだった」のがきっかけだった。「それは高額な小切手で、偽物だったんだ……。彼女は身分証明書を要求したのに」。

 ある午後の遅い時間、私たちは温室の中にいた。肥沃な土の上の空気は重苦しかったが、お酒を飲み続けた。エリックが私に言った。「アニサには言わないでね。君は“パリジャン”だから、彼女は君にこの話を聞かれたくないんだ。僕はマリーヌに投票したんだ、2回も……。マリーヌの言葉を聞くと全身が震えるんだ……なぜか分からないけれど。彼女はフランス人のことを語ってくれているようで、誇らしく感じるんだ……。この近くにマリーヌを支援する団体があって、彼らにとても助けられた人々を僕は知ってる……。会費とかも払いそうになったけれど、それはやめたよ。投票もね……。僕たちは1年間、それが原因で[友人の]ティエリー、マリー=ポールと喧嘩したんだ……。彼女は共産党員で、中学校の食堂で働いている。僕は怒らなかったよ。だって、馬鹿馬鹿しいから……。彼らは僕たちにもう会いたがらなかったよ。君だったらそんなことが原因で怒るかい? 君はこれが重大な過ちだと思うかい?」

 私は答えなかった。酔っていて、温室の草木が発していた刺激が強く重々しい匂いの中で息苦しくなっていた。私もそれが重大な過ちだと思わなかったのは、私の生活圏がこの孤立した小集落の周辺に限られていたからだろうか? あるいはここ3年間、活動家たちをあまり目にしていないからだろうか? 私は「100%の活動家」から「後退した活動家」となり、かつて多大なエネルギーと時間を割いていたグループに関わることが減ってしまった。あるいは他の理由として、活動家としての生活がこの狭い界隈ですでに「認められて」いることから、私が模範的な活動家だと証明する必要がなくなったからなのかもしれない。あるいは、エリックと別れる際、私がいい気分のままでいられるからなのかもしれない。

 ルクレールやカルフールに行くたびに、私は社会から見捨てられた一文なしの人々とすれ違った。周りには穴のあいたアスファルトの道路や通行止めになった県道が見える……。いくつかの地区を通ってみたところ、郵便局もなければ医者も、看護師もいない。薬局もなく、ビストロもほとんどない。インターネットもつながらない。店はどこも閉まっていて、窓には青・白・赤の旗が時々置かれている。小学校も教会も閉鎖されている。スポーツクラブもすべて廃業した。狩猟団体にもバトンガールチームにも新たなメンバーは加わっていない。EDF[フランス電力公社]への電気料金の未払いが急増している。若者たちはできるだけ早くこの町から逃げようとする。隣人による税務署への告発、家庭内暴力、もう少しで暴行事件となるような少女たちへの「ナンパ」も増加している。ここに仕事はない。周辺の村では、古く傷んだ家々が売りに出されている。ノワイヨン、ショニ、コンピエーニュ、ソワソンでは、冬が来るたびに電車の本数が削減されている。田舎のほうでは長距離バスもだんだんと減ってきている。

解体する交流の場

 それぞれの地区の入り口には中央に眼(水色の虹彩)が描かれた派手な黄色の看板が置かれ、「隣人が見ている」という警告の文字がそこには書かれている(しかし、実際には泥棒による被害はとても少ない)。これらの場所では20年前からあらゆるものが絶えず荒廃している。交流の場だけが解体しているのではない(それに携わる人間がいない)。道路やお金、公共交通網など、そこに行くための手段もなくなっている。ショニ、ソワソン、ノワイヨン、ヴィクの中間にある町や村は、そのほとんどが廃墟と化している(ただし、数少ない裕福な人々の居住地は除く)。年長者たちはあまりに貧しく、彼らの子供たちを助けることができない。そして子供たちのほうもまた貧し過ぎて、彼らの親を助けることができない。こうした背景の中で、FNは多くの票を得ているのだ(4)

 エリックの兄は120ヘクタールの家族経営の農場を引き継いだ。エリックは彼の手伝いをしている。彼らは抵抗したものの、結局その農場を売ることに決めた。ビートの大規模な単作からしか収益は出なかった。小さな農家はできるだけ彼らの土地を処分し、それを大地主たちが安く買う(多くの場合、こうした大地主の一族が町役場を牛耳っている)。エリックと彼の兄は3頭の馬を飼っているが、それをどうすればいいか分からずにいる。コストがかかり過ぎるのだ。ローン契約は重い投資だ。彼らの家の改築工事は中断した。エリックにもアニサにも失業のおそれがある。彼らの集落やその周辺地域では、隣人同士が貧しい高齢者か、あるいは解雇された元会社員だ(夫婦のどちらか一方はしばしば仕事が見つかっていない)。だが、彼らが“パリジャン”と呼び、「ぬくぬくと暮らしている」ようにみえる人々もまたそこに住んでいる。それは会社の幹部や[医者や弁護士など]自由業に就いている家族のことだ(コンピエーニュ、ソワソン、アミアンで彼らは働いている)。彼らは農場の建物を、その「風情」(とその安い価格)に魅了されて購入している(そして、それを改装している)。エリックは仕事上では「若者たち」から敬われていないと感じている。彼は後輩のサッカーチームの面倒を見ていたが、そのクラブも他のクラブと合併してしまった。そこに暮らすことで、彼は衰退しつつある空間から身動きできず、「もうもたない」世界の崩壊を目の前にして何もできずにいる。それでも(農場の難局を)なんとか切り抜けられると信じていた。彼の住む地区では“パリジャン”たちが増加している。こんな状況の中で、エリックはどうして「誇り」を感じることができるだろうか?

 エリックがした投票について、私はそれを「重大な過ち」だとは思わなかった。[ジャン=マリー・ルペンが左派のジョスパンを下した2002年]4月21日であったなら、私はその行為を率直に憎んだだろう。その行為を「あまりに重大な過ち」だとみなし、罵ることさえしたかも知れない。しかし、今日において私は、彼の中にその「最大の敵」がなかなか見えない。




  • (1) Claude Grignon et Jean-Claude Passeron, «  Racisme et racisme de classe  », Critiques sociales, n° 2, Treillières, 1991年12月参照。
  • (2) (フランス語編集部注)革命的共産主義者同盟(Ligue communiste révolutionnaire、LCR)は2009年に反資本主義新党(Nouveau Parti anticapitaliste、NPA)に引き継がれた。
  • (3) (フランス語編集部注)[性的マイノリティーである]レスビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの総称。
  • (4) 2015年の地方選挙(第1回投票)の際、エーヌ県では「マリーヌ・ルペン」の選挙リストが有効投票の43.5%を獲得してトップに立った。グザヴィエ・ベルトラン氏を代表とする右派のリストは25%の得票率だった。しかし、決戦(第2回)投票で起こった左派票の「なだれ現象」のおかげで、後者が逆転勝利した。


[訳註1] 「滅びの大天使」“archanges exterminateurs”は、旧約聖書に登場する表現である“anges exterminateurs”「滅びの天使」、すなわちユダヤ人を苦しめたエジプト人に罰を与えるため、エジプトの初子を皆殺しにする天使(ロワイヤル仏和中辞典より)を筆者が「モラルの優越感」と結びつけて比喩的に用いたと考えられる。
[訳註2] 深層ウェブ(deep web)とは、ウェブ上で公開されている情報のうち、通常のサーチエンジンでは検索できない情報のこと(デジタル広辞苑より)。


(ル・モンド・ディプロマティーク2017年1月号)