アメリカ・EU間の《環大西洋貿易投資パートナーシップ》(TTIP)の交渉では、世界を変革しようという自由主義的な意志が確認された。裁判所を民間企業に奉仕させること、秘密交渉を進歩主義的美徳に仕立て上げること、そして民主主義の実質をロビイストの辣腕に委ねること、等々…彼らの創意工夫は無限大だ。しかし、条約が最終的に批准される前に超えるべき数多くの段階が残っている。TTIPの商業上の目的は、戦略的ねらいをも兼ねている。つまりロシア・中国という2大国が相互接近した場合、前者を孤立させ後者を抑えつけるという狙いである。[フランス語版編集部]
《自由貿易》を標榜するアメリカの鷲が大西洋を飛び越えて、守りの手薄なヨーロッパの子羊の群れを襲おうとしている。――欧州議会選挙キャンペーンの後、このような筋書きが世論を支配している。こういう筋書きは印象的ではあるが政治的には危険だ。というのは、アメリカの地方自治体もやがて新自由主義的規範の犠牲となる危険があり、雇用、環境、医療を守り切れなくなるかもしれず、こうしたことを理解させるには程遠いからだ。また別の理由としては、それがEU企業――たとえば、フランスのヴェオリア社やドイツのシーメンス社など――から関心を逸らせることになるからである。彼らは、自分たちの利益を脅かそうとする国々に対して法的措置をも厭わない点ではアメリカの多国籍企業と同類である。こうした筋書きが好ましくない理由の最後は、自らのテリトリーに自由貿易ゾーンを形成する上での、ヨーロッパ側の諸機関・政府の演ずる役割を考慮に入れていないことである。
《環大西洋貿易投資パートナーシップ》(TTIP)に反対する立場は、アメリカは言うに及ばず、特定の一国を標的にすべきではない。標的はもっと大きく、もっと野望に満ちているのだ。それは、あらゆる国の投資家が要求している新たな特権に関わるものであり、おそらくは自ら引き起こした経済危機の埋め合わせをするためなのだ。この分野における地球規模の闘いは、うまく進めば、現在は資本権力の連携に遅れをとっている民主主義の連携を国際的に強化することができるだろう。
本件に関して、永久に変わらないとされる「組み合わせ」をあまり信用しない方がよい。たとえば、《民主主義》と《門戸開放》の組み合わせであり、《保護主義》と《進歩主義》の組み合わせである。歴史が証明したことによれば、貿易政策といっても、それに固有の政治があるわけではない(原注1)。ナポレオン3世が《専制国家》と《自由貿易》を組み合わせたほぼ同時期に、アメリカでは共和党が自国の労働者を保護するよう主張していたが、それは、星条旗を掲げたトラスト――関税保護を懇願する鉄鋼業界の「泥棒男爵たち」――の大義をしっかり守るためだったのだ(原注2)。1884年の共和党基本綱領は次のように記している。「わが共和党は、奴隷制度への嫌悪や、全ての人間は真に自由で平等であるべきだという願望から誕生しており、国の内外を問わずいかなる形であれ、わが国の労働者を奴隷労働力と競争させるという考えには、断固として反対する」(原注3)。しかしアメリカはその時すでに中国人に目をつけていた。当時、カリフォルニアの鉄道建設会社は多くの作業員をアジアから集め、わずかな賃金で苛酷な労働に従事させていた。
それから1世紀、アメリカの国際的立場は変化し、民主党と共和党はどちらが先に最も甘美な自由貿易のセレナーデを奏でるかを競い合っている。ビル・クリントンは、大統領に就任してわずか1か月余の1993年2月26日に施政方針演説をおこない、《北米自由貿易協定》(NAFTA)を推進させたいとの姿勢を明らかにした。それは数か月後に可否を問われることになった。大統領は「グローバル・ビレッジ」[地球村]がアメリカの失業と賃金低下を促進してきたことを認めたが、それでも決めた道をまっしぐらに進むことにした。「これから話すことがわれわれの時代の真実であり、また真実であるべきです。つまり、自由貿易はわが国を豊かにし、国民に革新を促し、競争に立ち向かわせます。自由貿易は新たな顧客をわれわれに保証し、世界の経済成長を助けます。さらに、わが国の生産者の繁栄を保証します。生産者自身がサービスおよび原材料の消費者なのです」。
この時代以降、国際貿易自由化交渉は複数の「ラウンド」を経て平均関税率を1947年の45%から1993年の3.7%まで引き下げていた。しかしそれが問題ではない。平和、繁栄、そして民主主義が求めているのは、人間は常に進歩すべしということだ。故にクリントン大統領は次のように強調した。「トゥキュディデス[古代ギリシャの歴史家]からアダム・スミスまで、哲学者たちが指摘してきたように、交易の慣習と戦争の慣習は相反します。お互いの牛小屋を助け合って建てた隣人たちは、その後その牛小屋に放火などしないものです。これと全く同様に、お互いの生活水準を上げて来た人同士は敵対する可能性は低いでしょう。民主主義を信じるなら、われわれは貿易上の連帯を強化しなければなりません」。しかしながら、このルールは全ての国にあてはまるとは限らない。というのは、クリントンは1996年3月にキューバに対する経済制裁を強化する法案に署名したのだ。
クリントン大統領が退いた10年後、欧州委員のパスカル・ラミー氏――その後世界貿易機関(WTO)事務局長になるフランスの社会党員である――は、次のように再分析する。「歴史的、経済的、政治的な理由から私は次のように考えます。貿易の自由化は人類の進歩と同じ考え方に基づいており、貿易の門戸を閉じているときよりも開いているときの方が災難や紛争は起きてこなかったのです。交易の場では戦闘は停止します。モンテスキューはそのことを私よりも上手に表現しました」(原注4)。しかし、モンテスキューは18世紀当時以下のことを知ることはできなかった。1世紀後に中国市場が開放されたのは、《百科全書派の力強い信念》の賜物ではなく、《武力外交》、《アヘン戦争》あるいは《夏の宮殿の略奪》などの結果であったことを…。ラミー氏はこのことに気づくべきだった。
オバマ大統領は性格的に民主党前任者のクリントン氏ほどエネルギッシュではない。が、現職としてTTIPを守るために、アメリカの――実際には、欧州および他の全地域の――多国籍企業が掲げる自由貿易という信条を引き継ぎ、次のように演説した。「TTIPに合意すれば、わが国の輸出は何百億ドル分も増加し、アメリカとEU諸国で何十万もの追加雇用を創出し、欧・米双方の経済成長を刺激することになるでしょう」(原注5)。しかし大統領はあまり言及していないが、TTIP合意の地政学的利益は、経済成長、雇用、繁栄という面での不確かな利益よりはるかに重要なのである。アメリカは将来を見すえており、TTIPを拠り所とするのはEU市場を制覇するためではなく、ヨーロッパがロシアと再協定を結ぶあらゆる可能性を回避させるためなのだ。そして、さらに…中国を抑えるためである。
この点に関しても、EU指導者の考えは一致している。たとえばフランスの元首相フランソワ・フィヨン氏は次のように発言している。「われわれは、ヨーロッパ文明にとって危険をはらんだ新興国家が台頭するのを目の当たりにしています。これに対するEUの唯一の答が内部分裂することでよいのでしょうか? それは馬鹿げています」(原注6)。だからこそ、とEU議員のアラン・ラマス-ル氏が話をつなぐ。TTIPによって大西洋同盟諸国が「共通の規範に合意すれば、次に中国にも同じ規範を課すことができる」だろう(原注7)。アメリカが構築してきた《環太平洋パートナーシップ》[TPP]も、全く同じ目標を掲げており、これに中国は誘われていない。
TTIPに最も熱心な理論的擁護者であるリチャード・ローズクランス氏がハーヴァード大学で米・中関係研究センターの所長を務めているのは、おそらく偶然ではないだろう。昨年出版された同氏の[TTIP]擁護論は、次のような考えを展開させている。すなわち、大西洋をはさんだ2つの大きなブロックは同時に弱体化するのなら、アジアの新興大国に対抗して結束するべきだ、という考え方である。同氏は「欧米の2ブロックは再結束し、研究、開発、消費、金融などの分野において1つの総体を構成しない限り、両者とも行き場を失くしてしまうだろう。中国とインドに導かれたアジア諸国は、経済、改革、所得、最終的には軍事力でも、欧米を追い抜くことだろう」(原注8)と記している。
ローズクランス氏の議論全体は、経済学者、ウォルト・ロストウの《経済成長の諸段階》に関する有名な分析を思い起こさせる[訳注a]。つまり、ある国の経済が発展した後は、その進歩の速度は鈍る。というのは、その国はすでに最高速の生産性(教育レベル、都市化などにより)を実現させたからだ。本件の場合、西洋の経済成長率は何十年も前に成熟期に達し、中国やインドの成長率にはもう追いつくことはできないだろう。アメリカとEUの間のいっそう緊密な連帯感は、残された重要な切り札である。それによって西洋は自分たちの規範を新興国――エネルギッシュではあるがまとまりがない――に押しつけ続けることができるだろう。第2次世界大戦直後と同様に、外部からの脅威――当時はソ連からの政治的・思想的な脅威、現在は資本主義化したアジアからの経済・貿易上の脅威――の呪文によって、羊たちを優れた羊飼い(アメリカ)の杖のもとに囲い込むことができる。羊たちは新しい世界秩序という部屋の鍵がアメリカではなく中国の手に移ることをひどく危惧しているのだ。
ローズクランス氏によると、「歴史上、大国間での覇権移動は一般的に大きな紛争と同時に起きて来た」だけに、この恐怖は現実味を帯びてくるのだ。だが、「覇権がアメリカから新興列強へ移り」、それが「中国と欧米との戦争」に発展するのを抑止できそうな方法が一つある。衰退で不利になっている環大西洋同盟に、もしアジアの2大国を組み込む望みがないのであれば、その両者間に存在する対立を利用し、日本の支援を借りて新興2国をアジア内に留めることだ。中国の脅威に曝されている日本は、欧米にとって力強い「東の終着駅」となっている。
たとえこういった壮大な地政学的もくろみが文化、進歩、そして民主主義を引き合いに出してきても、メタファーの選択次第で、たいした思いつきではないことを示すこともある。「プロクター・アンド・ギャンブル社がジレット社を買収してそうしたように、一定の商品を思うように販売できない製造会社が外国企業との合併に活路を見出し、供給を拡大し市場占有率を上げる、というのはよくあることでしょう。各国も同じようにすべしとの圧力を受けているのです」と、ローズクランス氏は主張する。
自分の国や領土を日用の消耗品としてとらえている人など、どこにもいないだろう。だからこそ、TTIPとの闘いを開始するしかないのだ。
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年6月号)
All rights reserved, 2014, Le Monde diplomatique + Emmanuel Bonavita + Sengoku Aiko + Ishiki Takaharu