欧州委員会は、2013年9月11日にカタルーニャの独立支持者たちが行った人間の鎖の成功もほとんど意に介さず、カタルーニャという独立国家ができたとしてもEUから事実上離脱させられることになるだろうと、あらためて明言した。最終的な決断をおこなうのはEU各国だが、EUはこのように独立派の戦略に疑問のまなざしを向けている。独立派の戦略はその基盤を、欧州統一市場やその連帯のメカニズムから得られる利益に大きく依存している。[フランス語版編集部]
2013年 9月11日は「ラ・ディアダ(カタルーニャの日)」と呼ばれるカタルーニャの祝日で、この日、バルセロナはおびただしい数の、金色と赤の独立旗に埋めつくされている。カタルーニャ広場では、アナ・フェリ氏(40歳くらいの女性教師)が、《カタルーニャへの道》作りに参加しようとやってきた無名の人々を指揮している。《カタルーニャへの道》とは40万人がつくった人間の鎖で、州の北から南までをつないでいる。
2010年新たに、カタルーニャの独立問題は議会の手に余る事態となった。この年スペイン憲法裁判所は新しい《自治憲章》の中の多くの条項を却下し、とりわけ「カタルーニャ民族」に言及した事項すべてを無効にした。だが、この《自治憲章》の法案には、カタルーニャの有権者の73%が賛成していたのである。「スペイン政府は我々の選挙の結果を尊重しませんでした。略奪にあったような思いでした」と、フェリ氏は回顧する。大規模デモが組織され、2010年7月10日には最高潮に達して150万人がデモ行進をした。このデモは《オムニウム・クルチュラル》という団体の呼びかけによって組織されたもので、この団体はカタルーニャの言語とアイデンティティの推進を目的としている。国民党を除き、大多数のカタルーニャの政党が、「われわれは一つの独立した民族。われわれで決める」というスローガンを掲げたこの憲章の発案を支持することになる。
カタルーニャはスペインで最も豊かな地域である。2012年の一人当たりの国内総生産(GDP)は27,430ユーロでスペインの平均(22,700ユーロ)よりも、そしてEUの平均(25,134ユーロ)よりも高い。しかし経済問題は民族アイデンティティーの位置づけにおいて重要なファクターではあるが、2010年のデモが示唆しているように、言語の問題がナショナリズムを推進させる。さらに、カタルーニャの権利の主張は9世紀にまでさかのぼる歴史的かつ政治的推移があり、必ずしも一定したものだったわけではないが、スペインの王国が複数の国の合体した国家であるという特色が背景にある。もともとスペインはカスティーリャ王国とアラゴン=カタルーニャ連合王国が結びついて成立したものだ。17世紀以来4度にもわたり、カタルーニャ共和国成立の宣言がおこなわれた(注6)。フランスに併合された後(1812-1814)、ナポレオン時代以来の4つの県からなるカタルーニャでは、産業革命による経済の繁栄が19世紀のラナシェンサ(ヨーロッパのロマン主義の影響を受けた文化運動)出現の条件を生み出した。スペイン内戦(1936−1939)に至るまでの時代には労働組合運動やアナーキズムの運動がおこり、これらがカタルーニャ自治運動を特徴づけている。しかし一方、《国家カトリック》と呼ばれる、フランコ体制が武力弾圧によって押し付けた保守主義が、スペイン国家主義の指標になった。
2008年以来の経済危機はカタルーニャの財政赤字の問題を明確にした。州政府によれば、確かに州はスペインでは最も豊かだが、最も借金の多い州でもあり(550億ユーロ)それはあまりに多額の金を国に納めなくてはならないからである。一見すると,カタルーニャの富の一部をエストレマドゥーラ州(スペインで最も貧しい地域で2012年の住民一人当たりのGDPは15.394ユーロ)に再配分する事はもっともな事のようにも見える。
しかし、税の再配分のルール、特に民主化プロセスにおけるカタルーニャ民族主義者の役割を決定したのは、何よりもまず政治的力関係と歴史的な地域主義なのである。言い換えれば、国内の連帯は「政治的で、相対的かつ主観的な問題」である、とマチュー・プチトンム ブザンソン大学講師(スペインにおけるマイノリティー問題の専門家)は分析している。特に、独立支持者の大半は、カタルーニャは独立したらEUのメンバーになるべきであるとし、欧州構造基金(注7)によって組織される経済的連帯に参加する事を前提にしている。
2012年、カタルーニャの民衆運動は独立派の論争において重みを増すようになった。それまで独立派の議論が形骸化していたのに対して、一連の新機軸で主導力を発揮するようになったからである。例えば、ANCの結成であり、市民的不服従や税の不払いを促すアピール、憲法改正のプロセス(注8)、さらに《カタルーニャ自由領土》(自治体の5分の1が参加している自治体グループで、スペインの行政権に対して拒否を示している)の設立などがある。それ以来、独立主義の意思表明があらゆる社会の領域で見受けられるようになった。「レステラダ」と呼ばれる星が入ったカタルーニャの旗は、多くの窓に掲げられ、その光景は人里離れた村においても、バルセロナやタラゴナの大通りにおいても同じである。半民間の社会学研究センター(CIS)によれば、75%の住民は独立に賛成している。
こうした背景のもと、2012年9月11日「ラ・ディアダ」の祝日に、150万人がバルセロナでデモ行進をした。彼らのスローガンは「ヨーロッパに新国家を」だった。これについて「われわれは選挙の前倒しを目標にしていました」と、教師でありANCの執行事務局のメンバーであるジョセップ・コロメル氏は説明する。「州議会に対して、カタルーニャ主権を宣言させ、カタルーニャ人の民族自決の権利を要求する狙いです」。カタルーニャの独自性、すなわち人民自主権の名において、民衆運動が自治政府に対する影響力を確立し、それによって間接的にスペイン中央政府へ働きかけるのである。「ラ・ディアダ」の2日後、アルトゥール・マス氏(自治州大統領、《集中と統一》(CiU)[自治州の与党——訳注] の代表をつとめる右派のカタルーニャ自治運動家)は、2012年11月28日に州議会の前倒し選挙を行うことでANCと合意し、2012年11月28日に行われたその選挙は民族自決に賛同をあらわす住民投票となった。この選挙で、カタルーニャ独立派が票を集めて《左派共和党》(ERC)が躍進したが、この党は左派の独立主義者の主要な政党である。それに対してマス氏の率いるCiUは結局議席を減らした(注9)。独立推進派の議員は議会の全135議席のうち83議席を占め、絶対的な過半数となった。
コルネリャー・デ・リョブレガートはバルセロナ近郊にあるさびれた「郊外ベッドタウン」だが、そこで人々の話に耳をかたむけることは、地方の人々のなまりを聞きながらスペイン全国を巡るのと同じ経験をすることになる。140万人がカタルーニャの著しい経済発展に引きつけられてやって来て、1950年から1975年にかけてここに住み着いたが、大半はアンダルシアやガリシアの田舎から来た人々である。フランコ独裁時代には、この移住者たちの中にはフランコを支持するフランコ主義者も含まれていて、彼らは行政・聖職者・軍の上層に配置されていた。したがってカタルーニャ社会では、州政府が推進した同化政策にもかかわらず、根深い社会言語学的な対立が続いている。コルネリャー・デ・リョブレガートでは、スペインの他の地域から移住してきた人々が人口の75%にのぼり、カタルーニャ語が話されることはめったに、いや、決してなく、選挙ではもっぱら社会労働党やマリアーノ・ラホイ氏の国民党に投票する(注10)。
実際、左派対右派の対立と、カタルーニャ自治運動対スペイン国家主義との二つの対立とが州議会の命運を絶えず非常に複雑なものにしてきた。ところが2012年11月の選挙の過程を経て、ともに地域の主権を求めて闘う団体であるCiUと《左派共和党》とが歴史的対立を乗り越えて、2013年1月23日、「カタルーニャ人民」の「政治的かつ法的な主権」を主張することになった。そして、2013年4月11日、初めてカタルーニャ議会は先取的な措置を講じ、準備的措置として《国家への移行のための諮問評議会》(Consell Assessor per a la Transició Nacional)を組織した。この機関の役割は、2014年の民族自決に関する住民投票の準備をおこない、独立した新カタルーニャのあらゆる分野において実現可能性の検討を行うことである。
これは単なる偶然の巡り合わせなのだろうか? それとも、ヨーロッパ大陸が歴史的転換点に立っているせいだろうか? スコットランド国民党の独立主義者たちがイギリス首相、デービッド・キャメロン氏と、2014年の民族自決に関する住民投票の実施で合意した。フランドル、バスク、グリーンランド、南チロルなど。ヨーロッパ統合の建設とともに、「地域国家」が自己主張の意思を明確にする傾向を示している。ユーロ圏の景気後退によって引き起こされた社会的緊張以前からある現象だ(注11)。実際、1982年以来、カタルーニャ州政府はEUに独自の経済ロビー活動団体《カタルーニャ経営者団体》を送り込んでいる(注12)。カタルーニャは欧州経済共同体への加入(1986)以来、《欧州地域会議》、《地域委員会》、《ヨーロッパ都市間特急網》、《ヨーロッパ戦車》(注13)などで活動するなかで、欧州連合地域内において重要な役割を担うようになった。
この《準外交》は2012年には明確に現れて、カタルーニャ外交委員会(ディプロカット)が設立され、パリ政治学院で民族自決における人々の権利についての一連の討論を開始したばかりだ。この活動について尋ねられたスペイン政府代表のラホイ氏は、いつものように次のように述べた。「ヨーロッパ諸国の中で存在を示すには、大きな国でなければならない。小さな国は無視されるだけだ」。実際、バルセロナはヨーロッパの無視と闘っている。というのは、多くの国は自国の独立主義派の運動を危惧しているうえ、スペインがよるとさわるとEUの4.2条項を持ち出すからである。その条項には、EUは「加盟国の領土の保全」を尊重しなくてはならないと定めている。
欧州委員会の副委員長ヴィヴィアン・レディング氏は、2012年10月4日にスペイン政府に宛てた書簡の中で、スペイン側の主張を認めた。さらに2013年9月16日、EUの執行部スポークスマン、ピア・アーレンキルデ氏は、独立したカタルーニャは「EUの他の国とは明らかに異なるもので、そこではEUの条約は適用できない」と明言した。しかし、スコットランド首相のアレックス・サモンド氏は、「スコットランドは英国から分離したら、自動的にEUのメンバーになるだろう」と述べている。
もっと慎重なスペイン憲法裁判所は2013年5月8日、同年1月23日のカタルーニャ主権宣言に無効の判決を下し、1975年の民主化移行後初めて、この問題に関する判例を作った。マス氏はこれに強く反発し、「カタルーニャ人民は、選挙によって示された民意が無視されることを容認しない」と述べた。マス氏はどこまで行くつもりなのだろうか? スペイン政府にとって、越えられない一線というのはあるのだろうか? 一つ確かだと思われることがある。それは、民族自決の権利の行使は今や、スペイン国家との関係でCiUは法律尊重主義と歴史的な決別を行うことを意味しているということだ。ところが、カタルーニャの経済界の大部分は独立に賛成の意思を表明しているが、全く同時に市場の安定にも懸念を抱いている状況である。「ですから、プロセスが前進するかどうかは、多くのカタルーニャ大衆を動員できるかどうかということにかかっているのです」と、コロメル氏は話を続けるのだ。だから、ANCは次のように繰り返し念押しをする。すなわち、ANCは2013年6月1日に「独立を求める投票のために署名を」というキャンペーンを行ったが、その目的は、国会に対して2014年5月31日までに「独立住民投票」の開催を取り付けることであり、それは独立の一方的な宣言の幕開けになるのである。
レウスはタラゴナ州の南部にある小さな労働者の町で、煙突の煙が立ちのぼる工場群に取り囲まれている。この町において、カタルーニャ独立主義の極左政党《人民連合の候補者》(CUP)が、集会において税の不払いを公然と呼びかけた。税金の支払いをスペイン政府に対してではなく、州政府に支払うことは一層頻繁に実行されつつある。
CUPは2012年11月の選挙で3議席を獲得し、カタルーニャ州議会に登場し、代議制民主主義体制についての主張(任期の更新はできず、歳費の上限は一定とする)や、代表たちの無遠慮なもの言いと身なり(Tシャツと耳ピアス)によって注目をあびた。「われわれの目的は権力の獲得ではなく、提案力を形成し、それによってカタルーニャ政府をスペインとの断絶へむけて後押しすることだ」と、闊達な30歳の議員であるジョルディ・サルビア氏は述べた。「民族の解放は必ず社会変革の過程を伴わなくてはならない」と彼は続けた。サルビア氏によれば、議会の舞台にCUPが登場することによって、カタルーニャの左翼政党ERCは、社会民主主義的な経済政策を取ることが難しくなるだろう。
どのような開発モデルを採用するかの問題はとりわけ重大である。カタルーニャがスペインで最も高いGDPを保持していることは、住民にとっては必ずしも繁栄と同義というわけではない。バルセロナだけは、貧困率は29%を超えている。カタルーニャの経済支配層は、新自由主義経済学者のザビエル・サラ・イ・マルティンやジョルディ・ガリにならって「品格ある国家」の選択と同時に、緊縮政策の正当性・柔軟な労働市場・「企業にとって魅力のある」税制などを主張している。CiUとERCの協定も、独立が労働者のためであるのと同時に企業の利益にもなるという大前提に立脚している。「独立することは、カタルーニャのブルジョワジーの政治思想を共有、擁護するということを意味するわけではありません。そうではなく、ブルジョワジーもまたこの国の一部であり、どの階級にも共通する解放の一部であることを意味するのです」と、ERCの経済問題担当アルベルト・カステリャノス氏は説明している(注14)。
バルセロナ大学の社会人類学教授ジェラルド・オルタ氏も、議会外で活動する強硬な左翼活動家である。5月末、彼は教員のグループとともに大学区本部を占拠して、大学組織の弱体化を非難した。彼によれば組織の後退は「テクノ封建モデルへの回帰」をもたらしているという。独立派の巻き返しはこのように、「痛みをともなう経済」に対する強い反発を利用している。「痛みをともなう経済」とは、「ノーベル経済学賞学者」のポール・クルーグマンが財政引き締め策を呼ぶのに使う表現である。
しかしオルタ氏によれば、カタルーニャの保守派がカタルーニャの主権を社会の解放の手段として考えたことは一度も無かったのである。すなわち、「カタルーニャがその独立を奪われてからおよそ300年になるが、その間まず最初は貴族が、さらに19世紀と20世紀にはブルジョワジーが、カスティーリャによる植民地化のプロセスに加担していた。世界の新秩序が到来するとともに、すなわち資本主義の再構築とともに、権力の中央集権化が見られるようになる。昨今ではカタルーニャの指導者たちは独立を選択することに支持を表しているが、それは階級の利益を維持したいがためである。彼らの利益がマドリードの中央政府に奪い取られる危機にさらされているからだ」。実際、経済危機を口実に、スペイン政府は政治経済の中央集権化を強く推進するようになった。銀行業務の改革の一環としては、貯蓄金庫(この地域の支配力の強力な手段の一つであった)が消えつつある。
経営者団体《カタルーニャ中小企業連合会》《Petites i mitjanes empresses i els autònoms de Catalunya》(Pimec)の指揮の下に結集した中小企業は、大半が「品格ある国家」の成立に賛成しているが、それはカタルーニャがスペインの中で、欧州統一市場の恩恵を最も受けている地方だからである。2011年以来、ユーロ圏に対するカタルーニャの輸出はスペインの他地域に対する額より多い(52.9%対47.1%)。ジョアキン・ゲイ・ド・モンテッラ氏は《労働推進》の代表だが(この団体は《フランス企業運動》(Medf)のカタルーニャ版である)[Medfはフランスの最高企業責任者の団体——訳注]、2013年5月初めに次のように公言して世の中を驚かせた。「独立した場合の利点に気づいている」。もっとも、カイシャ[La Caixa、スペイン大手の金融機関、貯蓄銀行。EUの銀行支援を受ける国内銀行のひとつ。——訳注]のような巨大金融グループだけはあまりそのような動きに従っていない。
カタルーニャの分離が実現するならばスペインは深刻な影響を受け、GDPは20%減少するだろう。またEU内での発言力を減少させ、ラテンアメリカにおける政治的影響力も無くするという苦しみを味わう可能性もある。またこのことによって、スペインの統一が崩壊することにもなりかねない。なぜなら、バスクはもとより、他の《カタルーニャ地方》、バレアレス諸島(注15)のような州がこの前例に従うかもしれないからである。カタルーニャの事態に直面したラホイ首相は中央集権化を推進することに決めたが、独立派の反抗をあおる危険を冒すことになって、政治腐敗のスキャンダルが暴きだされ、そのことが日増しに国民党を悩ませてやまないのである。
2013年の「ディアダ」の後、ラホイ首相はかなり口が堅くなり、若い女性副首相ソラヤ・サエンス・デ・サンタマリア氏に政府の方針の発表をまかせることにした。すなわち、社会主義者が要求するような憲法改正はない。独立主義者が要求するような住民投票もない。実際、スペイン保守派の内部で徹底した改革が行われた。つまり新保守主義と呼ばれるこの政治的傾向は、権威や国家の威光さらに宗教の原理を復活させることをねらっており、同時に経済の新自由主義的展望を擁護し、アメリカの《ティー・パーティー》にも似ている。2012年末には、国民党の欧州議会議員アレホ・ビダル=カドラス氏が武力を用いる強硬姿勢に言及した。すなわち、「スペイン憲法8条は、《スペインの領土》全体の保全を軍部にゆだねていて、そのことは中央政府に対して特定地域を支配下に置くことを認めるものである」と述べた。《ポスト専制的》と呼ばれることになったこの表明は、欧州議会において抗議をまきおこすことになった。
大学教員ジャン=ピエール・マシアスは欧州委員会に関係のある、欧州評議会所属のヴェネツィア委員会の専門家だが、「スペインでの地域紛争は社会の民主化の不備を物語っている」と述べている。
1975年フランコの死によって独裁体制が終わりを迎えたが、民主化と呼ばれるものは、スペインでは妥協によって成立した体制交代のことである。その期間にファシズムは全く裁かれることはなかった。したがって、ほぼ40年が経過してもいまだに《社会的フランコ主義》が絶えず出現している。例えば、警察の逸脱行為についてアムネスティ・インターナショナルによって数々の報告がなされたこと(注16)、独立性に欠ける司法(注17)の問題、汚職に関わった政治家が処罰されないこと、あるいはもっと最近では法務大臣アルベルト・ルイス=ガジャルドン氏が中絶に罰則を与える提案を行ったことなどがあげられる。
事実、カタルーニャではスペインからの、真の民主主義的決別への渇望が独立を求める気持ちの中にある。「スペイン政府は相変わらず、人々を震え上がらせる軍事的・宗教的植民地主義に従ってふるまっています。人々にとって、自分が自由にスペイン人かカタルーニャ人を選べることが重要です。ただし、邪悪なスペインから解放されたことが条件です」とフェリ氏は会話を締めくくった。
(ルノー・ランベール)
「財政緊縮策はスペインの医療制度を壊滅させるつもりなのだろうか?」《ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル》は、実施したばかりの調査報告の最初の数行目からすでに、この問題に対する答えを提示している(注1)。
5人に一人が貧困のレベル(一ヶ月に612ユーロ)以下で暮らしている国で、福祉と医療サービスの予算が2012年に13.65%削減された。第一の被害者は不法滞在の移民だが、法令は彼らから医療支援を取り上げてしまった(救急医療、小児科及び出生前診療を除く)。薬代の還付金が十分支払われないために60%も値上がりし、一般労働者には高過ぎる。病院のベッドの3分の1が閉鎖され、夜間救急診療も削減された。この調査のなかで質問を受けたある医師は次のような話をした。「2日前、私は心臓外科の患者を至急搬送しなくてはならなかったのですが、どのブロックも全部満員か閉鎖されていたのです。結局ある私立病院に患者を移送することができましたが、それはつまり、人々が民間組織にお金を払って手術をしなくてはならなくなるということです。自分の住んでいる地区の病院が閉鎖されて手術が不可能になっているのですから…」。他の人々の話によれば、それは全く偶然というわけではないという。医療機関の経営に関わっている者は「ぜんぶ民間の保険業界の連中」なのであるとある医師は指摘した。「彼らの意図は明らかです。つまり、医療を民営化してビジネスにすることなんです」。
その結果は?「スペインはユーロ圏で実施されている(緊縮)政策の妥当性を証明しているところなのです」と経済・競争力大臣のルイス・デ・ギンドス氏は最近述べている。「私たちは不人気な改革をしています。(…)しかし、トンネルの向こう側には明かりが見えているのですよ(注2)」。政府は2013年に医療分野の新予算計画を発表した。
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年10月号)
All rights reserved, 2013, Le Monde diplomatique + Emmanuel Bonavita + Sakiyama Akiko + Ishiki Takaharu