単一通貨を廃止し、共通通貨を!

ユーロ離脱? だが、どのように?


フレデリック・ロルドン

エコノミスト。著書に『過剰の危機――破綻した世界の再建』(未邦訳)がある。
Frédéric Lordon, La Crise de trop. Reconstruction d’un monde failli,
Fayard, Paris, 2009.


訳:仙石愛子


 「事実上、わが国はユーロ圏からすでに抜けている」とキプロス大統領、ニコス・アナスタシアディス氏は認めた。同国のユーロ紙幣はもはやギリシャやドイツのそれと同じ価値を持っていない。単一通貨の分解が始まったのだろうか? ユーロを離脱したらカオスに到るという筋書に反対し、入念に準備・計画したうえでのユーロ脱退というアイデアが始動している。ユーロとドル・円との交換レートは現在と同じく変動相場制とする一方、ユーロ圏内に「ユーロ・フラン」「ユーロ・リラ」等をつくり、お互いの平価調整ができる「共通通貨」のアイデアだ。[フランス語版・日本語版編集部]





ユーロは生まれ変われるのか?


 多くの人々、特に左派はユーロが変わると信じ続けている。つまり、現行の緊縮ユーロが最終的には姿を変え、更新されたユーロ、進歩主義的で福祉政策的なユーロに移行するだろうという。だが、そのようなことが起こるとはとても思えない。現在の統一通貨の制度的枠組みには、政治的なテコ入れ機能が欠落している。ユーロが更新され得ないことを理解するためにはこのことを思い起こしさえすれば十分であろうに…。しかし、このようなテコの不在はさらに強力な論拠に起因しており、それが三段論法のように現れるのである。


 大前提、現在のユーロの元になった構造は資本市場に全面的な満足を与え、EUの経済政策を主導するという効果があったし、そういう狙いもあった(注1)。小前提、重要なユーロ改革プロジェクトは全て、事実上、金融市場の力を骨抜きにするプロジェクトであり、公共政策の立案分野から国際投資家たちを排除するプロジェクトだ。結論、(1)市場はこのようなプロジェクトの推進を黙ってみていることは決してない。というのは、そういうプロジェクトには市場からそのコントロール権を奪うという明らかな目的があるからだ。(2)このようなプロジェクトが、たとえわずかでも政治的実力を持ち、動き出す可能性を手中にするや、熱狂的投機や市場の深刻な危機にぶつかることになる。代わりの通貨体系を制度化させる時間はなく、状況の切迫ゆえに、唯一の解決策は各国通貨に戻るということになるだろう。


 ゆえに、《ユーロを信じ続ける左派》には、二つの選択肢しか残されていない。いつまでも無力なままでとどまるか、あるいはこれまで避けよと主張してきたこと(各国通貨への復帰)に舞い戻るか、である。後者はユーロ改革プロジェクトをまじめに考えるようになるとすぐに出てくる選択肢だ。


 さらに、ここで言う「左派」がどういう人たちのことか理解しなければならない。《社会党》ではないことは確かだ。社会党はもはや左派の理念とは、名前だけの無気力な関係しか持っていないし、欧州主義というひとまとまりのグループとも関係を維持していない。このグループは、平穏でおめでたい20年間を過ごしたあと、今になって党の大切な目標に欠陥があることに気づき、愕然とし、党がばらばらになって消え去る可能性もあることを実感している。


 しかし、長い間続いたしあわせな知的眠りは一瞬では覚めない。最後の頼みの綱を求めての共同作業が真夜中の目覚めのごとく静かに始まったが、それにも軽いパニック状態でのことであり、全面的な準備不足である。


 実に、欧州統合主義が最後の望みをかけている貧弱な構想は、もはや空疎な言葉の羅列でしかない。例えば、ユーロ債、「経済政府」、あるいはさらに都合よく「民主的な飛躍」——このオランド=メルケル流儀はわれわれの目には「歓喜の歌」に見える——、何も尋ねようとせず、そのため何も理解していなかった《ポチョムキンの張子の村》(注2)の可能性がある。そもそも理解することよりも認めることが重要なのだ。EU構造の特異性を、「政治的引き算」という巨大な営為として最終的に認めることが…。


民主主義からの引き算


 しかし、一体何を引き算していたのか? 差し引かれるのは人民主権以上でも以下でもない。右派系の左派で、図らずも熱狂的な欧州統合主義者となった者を見分けるとっておきの方法は、彼らが「主権」という語を聞くと耳をそばだてるということだ。しかし、「主義」が付いて「主権主義」[各国の主権を重視するEU離脱主義のこと——訳注]となって信用を失墜してしまうのだが。おかしな話だが、この「左派」グループの心に一瞬たりとも浮かばないことがある。それは、「主権」はまず人民主権として理解されるべきで、民主主義の別名にほかならないということだ。彼らは「民主主義」と言いながら、その前に全く別のものを思い浮かべるのだろうか?


 いずれにせよ、主権の拒絶は一種の暗々裏の告白によって、まさにヨーロッパにおける民主主義の否定である。そうすると、「民族への回帰」という言葉は、こういった「わずかな欠落」を忘れさせるためのこけおどしの文句となる。25%の人々が《国民戦線》を支持していることで大きな騒ぎになったが、人々はこの数値——確かに憂慮すべきことだ!——が、主権の破壊とわずかでも関わりはないのか、決して自問しようとはしない。それも、国家への狂信的賛美としてではなく、自らの運命をコントロールする人民の能力としての主権である。


 EUはその経済政策——予算と通貨に関する——を憲法条約によって中立的に行なうという選択を、決然と行なったばかりか、その政策を、条約に書き込まれた運営規範に服従させることにした。こうしたEU機構の中に、実際にどれほどのものが残っているのだろう? 2005年の《欧州憲法条約(TCE)》に「賛成」した加盟国は、「反対」した側の主要な論拠が条約の第三部にあることを、見て見ぬふりをしていた。確かにこの第三部はマーストリヒト条約(1992年)、アムステルダム条約(1997年)およびニース条約(2001年)でも承認されたものではあったが、こういった全ての条約批准を通して、内部では問題が噴出し続けていたのだ。問題とは、公共政策から民主主義の中心的基準を取り外していることである。民主主義の中心的基準とは自己の再吟味と転換がいつでもできるということだ。


 動かしがたい条約条文の中にはっきりとすべて記述するという選択がなされたら、何ももうやり直すことができないし、議論をしても無駄である。金融政策、予算措置による操作、公的債務の規模、赤字融資のさまざまなやり方、こういった全ての基本的なテコ入れ効果が凝固してしまった。完全独立の中央銀行に物価上昇率の決定権が委ねられたら、その望ましい水準はどのように議論すればいいのだろうか? 組織の予算が予め決定され(「黄金比率」)、現行の予算に上限が設けられたら、予算政策はどうやって審議できるのだろう? 各国がもはや資本市場以外で資金調達できなくなれば、負債の放棄はどうやって決定するのだろうか?


 《EU版・レピーヌ発明コンクール》(注3)のごとき貧しい発想は、こういった質問にいささかも回答を出すことが出来ず、むしろ質問の方がこうした制度的現状に暗黙の承認を与えることで、問題の核心を一貫して逸らすようになっているのだ。


 まさに、統治すべきものが何もなくなったとき、つまり統治にまつわる全てが統治にかかわる議論を行われず、条約の中に閉じ込められたとき、ユーロ圏の「経済統治」という構想、すなわち社会党がこの20年間振りかざしてきた空論がどういう意味を持っているのか、が問われることになる。


 ユーロ債は、金融技術の高度化により大躍進したかのように見えたし、しかもその時点で「技術的」歯車になるというEUの戦略に結びついたように見えたが、今となっては、考案者たちが期待した価値は何も残っていない。ドイツは、自分たちが市場で借金するときは最低の利率を享受しながら、悲惨な南部加盟国を支援することになれば大変なコストがかかるということを、よく自覚している。実際にドイツが《EU前進の理想》という名目でその代償を受け入れることになれば、金融相互制への参加を理由に、そういった国々の経済政策に極めて厳しい監視と介入を行なうことを要求してくるだろう。——まさに、ドイツが通貨相互制に参加したとき、条約や協約を通じて同様の政策を強要したように…。


偏狭な感情論


 言い換えると、ユーロ債は現制度の政策的欠陥をいささかなりとも軽減するどころか、逆にそれをかつて経験したことのないような深みに落とし込んでしまうだろう。ドイツは、相互債務の融資連帯制、すなわち1か国でも履行が果たせない場合、他の全加盟国が自動的に支払いを課せられるようなシステムへの加入には、まず同意しないだろう。仮に同意するとしたら、必ずや強化されたコミッション(欧州委員会)の介入を通して、「同盟国」のいささかの違反に対しても仮借なき永続的な監視権およびそのための監督権を要求してくるだろう。より効率化された運営と全域化した《トロイカ体制》——コミッション(欧州委員会)、ECB(欧州中央銀行)およびIMF(国際通貨基金)の三者による加盟国監視体制——はユーロ債の唯一の成果だ。まさに政策危機のさらなる深刻化のせいである。ヨーロッパはすでにその深みの中にはまりつつある…。


 こういった事態の中で主権の全面的剥奪の原則を貫いたのはドイツである。経済、とりわけ通貨の運命を他国と共有すべきときに、ドイツが容認した唯一の解決法が主権の剥奪だった。ドイツは問題のある加盟国らが最悪の目的にしか主権を行使できないと判断した。そこで全面的な無力化政策をとったのだ。ドイツの主権だけはずっと元気で、EUの経済・通貨体制の中に無傷でいる。


 ドイツに非難されることで恐怖の叫びが定型化して続くので、それを鎮めるために本論を論議するよりもむしろ叫んでいる国々のことを語るのに時間が費やされている。反転した人種主義者——相手のことを内心では認めていないのに誠実さを見せるために大げさに好意を示す人たち——によく見られることだが、実はドイツに最も悩まされている国々とは、ドイツ好きを自発的に叫んでそれ以上なにも考えない国々かもしれないのだ。


 《愛》と《憎》という対極から等距離にあって、いかなる知性も活動し得ないと信じられている位置に、構造的特質・歴史的経緯・親和性、非親和性の関係を客観的に分析できる場がある。こういったものは、異質な国々をある程度の高水準でまとめる必要があるとき結果的に生じるものである。今、偏狭な感情論に囚われていると、ドイツがユーロ崇拝の信仰集団を自ら設立したことをしかと認識できなくなる。ドイツはこれをあまりに高い賭け金でつくり上げたので、この問題では少しの譲歩もできないのだ。ドイツがユーロ体制に参加したのは、この通貨に自国の制度を押しつけることができるという条件でのことだった。いわばドイツのコピーを創ったのである。


 ドイツは、1923年の同国の超インフレがナチズムの前兆だったという(誤った)考えの中に迷い込んだのかもしれない。もっとも、1931年のデフレについては、おそらくナチ化の原因となったのだろうが、今となっては重要な問題ではない。しかし、ドイツはそう信じておりこの信念に従って行動している。ドイツが抱える歴史、その歴史に関してドイツが作り出した物語についても、誰もドイツを責めることはできない。通貨秩序のあるべき姿とかけ離れたビジョンを着想したからといって、誰もドイツを責めることはできないし、ドイツが自分の考えと違う秩序体制に参入するのを拒否することを誰も非難することはできない。しかし、自分たちの固定観念をすべての加盟国に強要することでは、ドイツは非難されてしかるべきだ。また、ドイツが通貨の強迫観念にとらわれるのを傍観するのは全く正しいのだが、ドイツとの同一行動を望まないのもまた正しい判断だ。こういった通貨原則が他の国々の社会経済のしくみに適さず、強行されれば何か国かが破綻に追い込まれるような場合には、特にそうである。


 一部の加盟国はユーロ切り下げを必要とし、別の国は赤字の増大を放置せざるを得ず、また別の国では負債の一部放棄を、また他の国ではインフレを必要としている。そして全ての加盟国が特に必要としているのが、こういった問題が再び民主的な議論の場に持ち出されることなのだ。しかしドイツ的原則は条約に書いてあるとおりで、そのことを禁じている…。


 オランド大統領とメルケル首相が提唱した「民主的な飛躍」に統合主義が望むものは何一つない、という言い方はたぶん婉曲表現だろう。いずれにせよ、今なお統合主義のプロジェクトの復活の見通しは立っていない。それが何から構成されているかも不明で、また実現のための条件は吟味されてもいない。統合進展主義者たちにまず要請したいのは、われわれに奇跡を見せて欲しい、ということだ。ドイツが一貫して排除してきた問題点の全てを民主的論議の場に復帰させるという奇跡を、である。次に彼らに問わなければならないのは、こういった問題点の討論を合憲的に禁止してきた統合主義は、彼ら自身から見て今でも《民主的な飛躍》(注4)であるのか、ということである。


 それでも試しに、彼らの言う《完璧なEUの民主主義》という仮説に耳を傾けてみよう。そこにはその名にふさわしいEUの立法権があり、当然ながら二院制で、最大限の特権を与えられ、議員は普通選挙で選ばれ、EUの執行部も選挙で選ばれる(そもそもそれがどのような形式をとるのかはわからないが)。「EUを改革して危機を乗り越えよう」(注5)と夢のようなことを考えている全ての人たちに投げかけられているのは、「もし最終議決権をもつこの議会が、ECBからの支配権奪回、加盟国への財政融資の可能性、さらに財政赤字の上限撤廃を決定したとすると、ドイツがそういった決議に服従すると思っているのか?」という疑問である。それは決してないだろう。一般的議論として、もしEUで議決された法律がフランスに社会保障の全面民営化を迫ってきたら、同じ答——もちろん否——になるだろう(この場合にはそうなることを願う)。ドイツが独自の通貨秩序を押しつけてきたように、もし実際にフランスが全EU加盟国にフランス独自の社会保障制度を押しつけ、それを最後通牒にしていたらどうなっていただろう?


 民主主義の理念は形式的な制度ではその精髄を尽くすことができない、少数派を説得して多数派の案に同意させるには感情の共有が必要で、それがなければその民主主義は生きてもいなければこれから生きていくこともできない、多数決の前に審議を尽くすのが民主主義だ、——こうしたことを統合主義者たちは認識すべきだ。ところが、こういう問題は高級官僚——あるいは経済学者——には理解できない分野なのだ。彼らは国家やEUの政策担当の中枢を成していながら、政策的素養の一切を欠いている。この知性の欠如が、主権の原則を知らない組織怪物を定期的につくり出しているのだ。民主主義に必要な情緒的条件と、それを多国家との枠組みの中で満たす難しさを、「民主的な飛躍」なるものは早くも全面的に無視しようとしている。


通貨主権の回復


 各国通貨の復活は、そういった条件全てを満たしている。適切な側面対策(特に資本統制に関して)(注6)が伴えば、技術的には実現の可能性をまだ残している。このことを思い起こせば、欧州統合の理念を完全に棄て去らずにすむのではないか。ただし、単一通貨ではありえない。単一通貨が固有の政治構造を前提としているからだ。こうした政治構造は今のところ不可能である。それに代わって《共通通貨》を考えてみてはどうだろうか、ヨーロッパ統合の好ましい論拠がまだ残っているだけに…。ただし、不合理性が合理性に勝ることがなければ、の話である。


 もし単一通貨に代わって各国のユーロ、たとえばユーロ・フランとかユーロ・ペセタなどの共通通貨が考えられるようになれば、最終的には国家間のバランスが好転するだろう。国別ユーロは、ユーロ圏外の通貨(ドルや元など)との直接交換や圏内の相互交換はできない。通貨交換は、ユーロ圏内外を問わず全て新しい欧州中央銀行を通して行なわれる。新ECBは両替所のような役割を務めるが、通貨政策の権限は全く持たない。政策権限は各国の中央銀行に返還され、中央銀行の統制権を政府に戻すかどうかは各国の政府自身が決める。


 圏外との通貨交換は従来どおり国際為替市場において変動相場制で、ただしECBを通して行なわれる。ECBは、EU内の行為者(公共であれ民間であれ)の利益のために動く唯一の仲介機関である。一方EU圏内、すなわち各国ユーロ間の交換はECBの窓口で行なわれ、そのレートは固定相場であり政治的に決められる。


 ここにわれわれは、EMSの時代(注7)には通貨危機の温床だった欧州為替市場から解放され、新ユーロを介してEUを超えた為替市場から保護されることになる。共通通貨の力はこの二重の属性によって発揮される。


 ヨーロッパ経済が「自動的に」統一されるだろうという幻想が消え去った今、一部の国の経済は通貨切り下げを——特に現在の危機的状況の中では——必要としているだろう。これが共通通貨EU内交換システムであれば、こういった切り下げが新たに、しかも平穏にできるのだ。完全自由化された金融市場の中で交換レートをきちんと調整するのが不可能だということは、1980年代~90年代の経験がよく示している。為替市場から災いの種を取り除くことができればユーロ圏は安定し、全面的に政索過程を通して切り下げが実施される。新しい為替レートがどうなるかは、国家間の交渉次第ということになる。


 通貨切り下げだけではない。このシステム全体は1944年にジョン・メイナード・ケインズが提唱した《国際清算同盟(ICU)》に似せてつくられたと言われている。ケインズは、大きな赤字を抱える国に通貨切り下げを提案すると同時に、黒字国に対しては切り上げを推し進めようとした。もしこのシステムを[ユーロ圏に]導入していたら、黒字率のしきい値を連続的に(たとえばGDPの4%、その次は6%のように)設定して段階的な切上げが義務づけられるので、ドイツは早い時期にユーロ・マルクの切り上げを受け入れ、ユーロ圏の需要を支えることで圏内の不均衡是正に寄与していたはずである。と同時に、黒字国による拒否も為替調整のルールによって予測でき、その調整は交渉の場でできただろう。


 新自由主義の伝道師たちは、「通貨切下げ」という言葉を聞くや「効き目がない」とか「インフレになる」などと叫ぶ。効き目については、彼らには想像力が欠けていると言わざるを得ない。というのは、「通貨切下げ」は新自由主義者自身が強く推し進めてきたものだからだ。にもかかわらず、彼らは賃金(これをさらに下落させる失業)問題を取りあげて、対外為替レートの切り下げよりもむしろ内部での切り下げ…、つまり通貨調整よりも構造調整を望んでいるのだ。ドイツが仮にユーロを離脱して単独行動をとるようになり、新マルクの切り上げを実施すれば、10年間の賃金抑制がわずか2日で水泡に帰すのをドイツは目の当たりにするだろう。


 ところで、インフレには通貨調整よりも構造調整が必要だと言われるが、デフレ(物価の全面下落)の脅威が迫っている時期のインフレ政策は《心霊体》[実体のない恐ろしいもの——訳注]のようなものである。もし負債の軽減だけが目的であるならば、少なくともそれはデフレと同じくらい危険であり、実際には統制リフレーション[インフレにならない限度での通貨再膨張政策——訳注]が必要となるだろう。


 しかし、こういった債務軽減が、切り下げを原因とする債務増加に凌駕されることにはならないだろうか? ドルに対して10%切り下げるということは、自動的にフランスのドル建て債務を10%増やすことになる。しかしこれを除けば、ジャック・サピール(注8)が示すように、フランスの債務の85%は自国の法律のもとに契約されているため、切り下げによるいかなる影響も受けない。


新たな国家群をつくる案


 いずれにせよ、《共通通貨》案は、単なる通貨切り下げ案よりもずっと進んでいる。通貨切り下げは、特に現時点では非常に自由な状況にはあるが、普遍的な解決策ではないことは確かだ。今のユーロ圏を抜けることは、マクロ経済の一大事ではなく――確かに!そうではあるのだが――、「人民主権」を前提とする民主主義の断固たる存在にかかわる一大事である。


 超国家レベルでの人民主権のための情緒的な前提条件がまだはるか彼方にしかないとすれば、現実主義的にみて、「ヨーロッパの野心」から超国家人民主権は取り下げることになろう。ただし、完全にそれを放棄するという意味ではない。たとえば、人民主権は、経済だけではなく他の全ての分野で――「各国主権復活」に対抗するためにも――できるだけ明確に追求されなければならない。経済的野心に関しては、それをどの国と協力するかが重要だ。28か国とか17か国ではないことは確かで、数の多さはわざわざ失敗を保証するようなものだ。決定の基準は矛盾のない客観的な類似度であり、それは生活様式の最低限の均質性――社会通念や環境問題に対する同一か類似した考え方――、および経済政策の大原則についての事前合意を前提としている。こういった類似性はまず手始めに少数の国でしか持ち得ないものだろう。やがて、統一指標の基礎として真価を認められるときが来るだろう。マーストリヒト条約の指標ではそうは行かない…。


 たとえば、もし共通通貨のための基盤として大きな市場をつくる必要があるとしたら、そこには社会生産的規範やコスト構造の類似した経済国だけが参入すべきだろう。つまり、新しい欧州経済通貨システムに加盟が認められるのは、平均または最低賃金が、他の加盟諸国のその平均額の75%以上――またはそれに代わる適切な参加条件――の国に限られるということだ。このEUの全面的な構造改革は、通貨・金融の正統性とか構造的調整とかの妄想、さらには「仁義なき」競争の悪弊と縁を切るよいチャンスになるだろう。全ての構造的、社会的そして環境問題上のゆがみに順応し、実際にはそれを激しい勢いで悪化させようとするのは、競争そのものだからだ。


 さてここで、記事冒頭の三段論法にもどろう。現在のユーロから漸進的な改革ユーロに移行するという考えは無意味な空想にすぎない、という話だ。統合していることでユーロが進歩主義的だとしても、現在全ての権力を握っている金融市場がそうはさせないだろう。選択肢は2つある。1つは、二流の思いつきで少しばかり修正した自由ユーロ圏、すなわち「民主主義の引き算」の本質的な理論を全く修正することなく「経済政府」やユーロ債などのつぎはぎを当てただけのユーロ圏の中に埋没してしまうこと。もう1つの選択肢は金融市場に正面からぶつかって行くことだ。これは確かに膠着状態を打破するだろうが、同時に全てを失うことにもなろう。しかしこれに「勝利」すれば、ユーロが破壊され、再建の条件が創り出され、今度は市場そのものが排除されるだろう。


 しかし、無理やり各国通貨へ戻そうとすれば、それは失敗のように響くだろう。政策的には負の効果しかもたらさず、EU再建プロジェクト全体を阻んでしまうのは確実である。故に、他の条件が全て同じだとすれば、再出発の見込みは間違いなくユーロからの抜け方次第ということになる。各国通貨への暫定期間を乗り切るときのためにヨーロッパの政治的エネルギーを貯えておくには、「共通通貨の理念」に到ることが重要になる。つまり、この対立で、各国通貨という出口なしの解決策しか示せないよりも、むしろこのプロジェクトを発表しこれをヨーロッパの一部の国々の政治的野心として示すことで、市場の爆発を引き起こすのである。各国通貨への復帰は避けられないであろうが、その復帰の仕方によって新ユーロが出発できるかできないかが決まるだろう。


EU中枢部の責任を問う


 いずれにしても、ヨーロッパが反社会的ユーロの中で決定的な知覚麻痺に陥らない限り、この問題に立ち戻らざるをえないだろう。これは、進化できない構造体をつくり全ての自由を自ら奪い去ったことへの報いである。超堅牢な構造体には、外部からの衝撃が強すぎない限り、抵抗すること以外に選択肢はない。さもなくば解体だ。いずれにしろ迎合という選択肢はない。


 統合主義者たちは、EUは進歩し続けていると主張するだろう。欧州金融安定基金(EFSF)、欧州金融安定メカニズム(ESM)、欧州中央銀行(ECB)によるソブリン債買いもどし(注9)、銀行同盟等々の前進があり、おそらくかなりのコストがかかったものの、実現したことは事実である。しかし不幸にも、また驚くことでもないが、この中の何一つとしてEUの中枢に響くものはない。景気後退と反民主主義的成果は全てこの厳格な中枢部から産み出されているというのに…。たとえば、金融市場への経済政策開示、独立性の強い中央銀行、反インフレという強迫観念、赤字となれば自動的に調整にかかること、融資の拒否などである。しかも、「前進」は未だ周縁部分のみで、そのつぎはぎ布の目標は、聖域化された非情な「中枢部」が最も悲惨な結果を産み出せるように調整してあげることなのだ。EUは原因究明に取り組むことなど決して望まず、成果のつぎはぎに固執し続ける。EUは最も簡単な基本改革もできず、自らに与える唯一の運命が《激変》であることすら認識していない。






(1) François Denord et Antoine Schwartz, «Dès les années 1950, un parfum d’oligarchie», Le Monde diplomatique, juin 2009.
(2)都合の悪い実態を隠すため、間に合わせに外見だけ立派なものを作って見せること。[訳注]
(3)本物の《コンクール》には役に立つ発明品が出品されるが、《EU版コンクール》に出品される「発明品」(つまり改革案)は役に立たないものばかり、と筆者は痛烈に批判している。[訳注]
(4) Serge Halimi, «Fédéralisme à marche forcée», Le Monde diplomatique, juillet 2012.
(5) Thomas Piketty, «Changer l’Europe pour surmonter la crise», Libération, Paris, 17 juin 2013.
(6)たとえば、ある種の金融取引を制限・禁止するなど。
(7)欧州通貨制度(EMS, 1979年~1993年)は固定相場制であったが、基準値の上下約2.25%の変動幅が許容されていた。資本移動が自由な状態では、この基準値を維持するのが難しくEMSは何度も危機に直面した。
(8) Jacques Sapir, «Quand la mauvaise foi remplace l’économie : le PCF et le mythe de “l’autre euro”», RussEurope, 16 juin 2013, russeurope.hypotheses.org
(9)EFSFとESMは債務国を支援する基金。ECBによるソブリン債買い入れプログラムはOMTという。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年8月号)