新たな同盟関係:ヴェトナムと米国

グザヴィエ・モンテアール特派員(Xavier Montheard)

ル・モンド・ ディプロマティーク編集部

訳:木田剛


 「米越関係、1945〜1967年」と題された極秘報告書が一般公開され、米国政府がヴェトナム戦争に関して述べていたウソが明らかになった。しかしヴェトナム政府の側では、戦争のことはすでに過去のことと見なしている。その象徴的な例が、2010年の夏、米兵が最初に上陸した場所で行われた両国の合同軍事演習だ。[フランス語版編集部]

 ヴェトナム南部、カムラン湾。現地では「東の海」と呼ばれる南シナ海が、風で波立っている。左右を有刺鉄線に囲まれた狭い道路が、ヴェトナム戦争中に米軍が拠点とした海軍航空基地まで、くねくねと続いている。多くは老朽化した検問所が、乾燥した地峡地帯に点在し、兵士や入国審査官がぶらぶらしている。軍用港への訪問者は迷惑千万、だいたい何をしにやって来るというのか。もう長いこと、カムラン湾はさびれているというのに。

 だが、このような停滞状態も終わりつつある。2010年10月、ズン首相は、カムラン湾への世界中の船舶の来航を今後は受け入れると発表した。米国も名乗りを挙げている。2003年以降で10隻前後の米国軍艦が、この旧敵国に寄港している。今回は武器も物資も持ち込まず、賓客として、アンクル・サムの兵士たちが「アンクル・ホー」の国に戻ってきたのだ。歴代5人にわたる米国大統領(1)によって激烈に繰り広げられた戦争の歳月が、あたかもヴェトナム人の記憶から消え失せたかのようである。1975年4月のサイゴン陥落で終結した怒りと恐怖の20年、続けて自分たちを打ち負かした小国への国際援助に対し、大国が執拗に行った阻害行動。1994年まで維持された経済制裁。これらはみな忘却の彼方にあるようだ。

 2010年8月、第1回米越防衛会合がハノイで開催された。同じ月、1965年に米軍が上陸を開始した地点にほかならないダナン沖合の洋上に浮かぶ米空母ジョージ・ワシントンに、ヴェトナム軍の幹部が乗り込んだ。第7艦隊の主力で、米海軍の擁する巨大空母11隻のひとつである。港には、駆逐艦ジョン・マケインが停泊していた。2008年の大統領選をオバマと争った共和党候補の名は、ハノイで受けが悪いものではない。マケインは爆撃機のパイロット、つまり後に自ら語っているように「戦犯」として、ヴェトナムで5年半投獄された。苦難の捕虜生活の見返りに叙勲され、米国世論の一部で英雄視されるようになった。クリントン大統領が1995年7月に米越関係の正常化を宣言するにあたり、マケインはこの経歴の威力によって、保守派の反対の声を黙らせた。このことをヴェトナム人は、過去の恨みぬきに評価しているのだ。ホーチミン市の有名なヴェトナム系ファーストフード・チェーン店には、クリントン大統領の初来訪時の写真が飾られている。そして現在、その妻ヒラリー・クリントン国務長官は、両国の歩んだ道のりをこう称賛する。「われわれは互いに、かつての敵国ではなく、パートナー、同輩、そして友人として相手を見ることを学んだ。オバマ政権には、米越関係をより高い段階へ引き上げる準備がある(2)

 ヴェトナム政府から見れば、米国への接近は第一に経済上の理由による。2001年に発効した通商協定以来、両国の貿易は着実に拡大している。2000年時には年間10億ドルだった貿易額は、2010年に183億ドルに達した。在越米国商工会議所のジョスリン・トラン会頭は、2020年までに350億ドル台に至ると見込んでいる(3)。貿易収支はヴェトナム側の大幅な黒字である。対米輸出は繊維や履物が中心で、2010年には輸出収入の5分の1以上にあたる148億ドルを稼ぎ出した。

 このような米国との密接な関係のおかげで、ヴェトナムは国際経済システムへの仲間入りを果たし、2007年に世界貿易機関(WTO)の150番目の加盟国となった。以来、一人当たり国内総生産(GDP)は年間1000ドルを超え、世界銀行の基準による中所得国になった。

「われら、サイゴンに戻る!」

 この繁栄の幕開けの代償として、戦時中の死者300万人、破壊された大地、崩壊した家族、といったことは過去の歴史にしなければならなかった。そのためには、歴史の周到な書き換え作業が不可欠となった。歴史家のウイン・W・ガドカー=ウィルコックスは次のように述べる。「1990年以降、ヴェトナム人の研究者は、対米関係において1954〜75年の時期を相対化するとともに、1941〜1945年の時期を重視するようになった。この時期、米国はヴェトミンと協力関係にあり、戦略任務局(CIAの前身)の中にはホー・チ・ミンと交友のある者が何人もいた。(・・・)歴史家たちは研究領域の拡大も行った(・・・)。ファム・サンは、ロバート=ホプキンズ・ミラーが編んだ資料集『米国とヴェトナム、1787〜1941年』をもとに、ジェファーソン大統領(在任1801〜1809年)がヴェトナム南部でのコメの収穫に関心を抱いていたことや、19世紀初頭に米国がヴェトナムで数多くの探検調査を行ったことなどを力説している(4)

 ヴェトナム人口の半数は26歳未満である。戦争は遠い過去のように見え、米国への関心は強い。ドル札と「アメリカン・ドリーム」の威力、つまり懸命に働けば豊かになれるという期待感からだ。米国の大学で学ぶヴェトナム人学生の数は1万3000人、東南アジアの国では最大規模を誇る。

 歴史的な経緯もあって、とくにヴェトナム南部が、米ドル投資の受け皿となっている。ホーチミン(旧サイゴン)郊外に2010年10月に進出したマイクロプロセッサ大手インテルの工場は象徴的である。同社の組立・試験工場としては世界最大で、推定10億ドルが投じられた。同社サイトのブログには2009年9月時点で、「われら、サイゴンに戻る!」という書き込みが登場している。

 両国の蜜月関係に禍根が皆無というわけではない。米国はすぐに人権擁護をもって任じようとするからだ。2010年、ヴェトナム共産党の方針に反する表現活動を理由として、24人が逮捕され、14人が有罪判決を受けた。その中にはジャーナリストやブロガーが大勢いた。2010年12月10日、ハノイでの記者会見でミカラク在越米国大使は「残念なことに、3年間に及ぶ私の在任中、人権分野での進歩はなだらかではなかった」と、遠回しに述べている。対するヴェトナム側は、東欧の「カラー革命」における米国の組織的関与の記憶が鮮明で、不信感を募らせている。米政府が推し進めようとする「穏やかな進展」は、ヴェトナム政府にとっては現政権を排し、自国の文化的アイデンティティを抹殺する試みに映るだろう。

まとまりつつある原子力協定

 けれども、これらの摩擦は、過去の憎しみの遠い残響にすぎない。2011年には、両国が戦略的パートナーシップを結ぶことさえ予定されている。技術移転やインフラ整備での協力を目的とした原子力協定がまとまりつつあり、将来有望な市場への米国企業の参入が見込まれている。ヴェトナムは今後20年間で、総発電容量1600万キロワットになる13基の原子炉増設を目指しているのだ。米国は他国に対し、理論上は軍事用核開発に結び付きかねないウラン濃縮の権利を放棄するよう、圧力をかけるのが常であるが、この協定にはウラン濃縮を禁止する条文は含まれていない。ヴェトナムに有利な今回の規定を、米国・インド間で結ばれた2007年の原子力協定と比較する専門家は多い(5)

 しかし、ニューデリー政策研究センターのブラフマ・チャラネイ所長は、2つの協定はそれほど似ていないと述べる(6)。「インドは核不拡散条約(NPT)の加盟国ではないため、米国法に照らして特別な制限が課される。このため米国政府は、免除の特例措置の承認を議会に求める必要があった。NPT加盟国であるヴェトナムの場合、そのような手続きは不要だった。また、核兵器保有国であるインドとの協定では、それを踏まえた条文を作成しなければならなかった」

 したがって、2つの協定の類似性は、それらの性質よりも目的にある。「米国は、緊密な協力関係を構築するための戦略的手段として、インドやヴェトナムとの原子力協定を利用している」というのがチャラネイの見解だ。そこからすれば、原発計画に近年着手した「核利用の新興国」の中で、ヴェトナムは最も有利な協定を締結できる可能性が高い。逆の一例が、2009年に米国との間で、国内でウラン濃縮を行う権利の放棄を明示した協定を結んだアラブ首長国連邦である。ダブルスタンダードではないだろうか。広報担当のクロウリー国務次官補(当時)は、「米国は、この種の協定を国や地域ごとのケースバイケースで進める」と述べるにとどめている(7)

 米国政府にとって、軍事関係の強化や原子力分野での協力には、ひとつの目的がある。太平洋地域における米国の覇権を維持することだ。例えば2010年には、台湾へ60億ドルの武器を売却し、東ティモール、アチェ、パプアでの住民虐殺に関与したインドネシア特殊部隊(コパスス)との関係修復を発表した。また、南シナ海における航行の自由を主張しており、これをクリントン国務長官は「米国の国益」に属することだとする。さらに米国は、黄海で韓国との合同軍事演習を実施している。中国と日本が領有権を主張している釣魚島・尖閣諸島で衝突事件が起きた際には、必要とあらば、日本は日米安全保障条約の下で支援を得るだろうとの認識を示した。これらの措置のほとんど全ては、中国の台頭に対処したものである。中国の躍進が、その近隣諸国との戦略的価値を上方修正する方向へと、米国を自ずと突き動かしているのである。「4年ごと国防計画見直し2010年版」には、インドネシア、マレーシア、ヴェトナムが安全保障分野での潜在的なパートナーであると記されている。東アジア・太平洋担当のキャンベル国務次官補の発言はさらに明快である。「東南アジアの友好諸国を眺めわたせば、最も将来有望なのはヴェトナムとの関係だと思われる(8)」。米国という大国にとって、ヴェトナムは再び役立つ駒となった。今回は共産主義ではなく、想定上の中国の拡張主義に対抗するためである。

封印された1979年の対中戦争

 この強迫観念に呼応するものがヴェトナム側にもある。数世紀来、ヴェトナムは中国の影響から逃れようとしながらも、その勢力圏内にあり続けている。経済的依存度は依然として高く、多くの輸入品がこの北の隣国のものである。ヴェトナムの専門家であるニュー・サウス・ウェールズ大学(キャンベラ)のカーライル・セイヤー名誉教授が、「ヴェトナム政府に対して中国ほど自信を持ち、影響力のある国はない」と言い切るほどだ(9)。ヴェトナム外交の基本姿勢は、北京から自立するために可能な限り多くの国々と友好関係を築くことでありつつも、この隣の大国との特別な関係の維持も望んでいる。中国とのそうした関わり方は、複数の東南アジア諸国と共通する。ディン・ホアン・タン元大使は、難しい問題であることを否定せず、「米越関係の改善は第三国の利益を損ねるものではないと、ヴェトナムが中国に理解させることができるなら、それひとつでも大きな成果だ」と言う(10)。米国にとっても、状況は簡単なものではない。「アジアから地理的に遠いことや、対中でも対越でも関係が不均衡であることで、これらの国々との関係についての米国の理解は歪められている」と、ヴァージニア大学で国際関係学を講ずるブラントリー・ウォマック教授は述べる(11)。中国側の姿勢は、往々にして高圧的である。中国共産党の機関紙、人民日報に次のような論説が掲載された。「ヴェトナムは、2つの大国に挟まれて、危うきこと累卵のごとき自国の状況の中で、危険なゲームを演じていることをすでに悟っているはずだ。(・・・)仮に、中国とヴェトナムが軍事衝突に突入せざるを得ない事態が現実となったとしても、いかなる国からも、ヴェトナムの安全を保証してくれる空母がやって来ることはないだろう(12)

 20世紀末には、西沙および南沙諸島をめぐって、南シナ海の領土紛争が顕在化した(13)。艦隊を近年強化したといっても、ヴェトナムが中国に敵うわけもない。そのため「ヴェトナムは南シナ海に関与する国が増加することを望んでいる。それが自国の安全につながるからだ。外から支援を受け、カムラン湾の港湾施設の拡大と近代化を進めることも望んでいるにちがいない。米海軍はこの戦略的な要衝を利用できるだろうが、他国の海軍も同様だろう。ただし、ひとつだけ例外がある。無論、中国海軍だ」。以上がアジア太平洋地域の防衛問題の専門家リチャード・ビツィンガーの分析である。

 米国が中国の意に反してまでヴェトナムを支援することはあり得るだろうか。もしそのようなことがあれば、過去の歴史からして皮肉な展開だろう。ヴェトナム民主共和国が1945年9月2日に独立を宣言した後、ソ連に10日ほど先駆け、この新生国家を1950年1月に承認した最初の国は、毛沢東率いる中国だった。ヴェトナムを影響下にあると見なす2つの共産主義国家は、やがて表立った対立を始める。ヴェトナムは両者の間で均衡を保つという難題を抱えたが、ホー・チ・ミンとその後継者たちは25年間にわたり、その解決に成功してきた。ソ連からの援助は冷戦の終結によって消滅した。中国との間では、1970年代末に公然たる紛争状態に陥ったが、これに触れることは現在もヴェトナム外交の最大のタブーである。数万人の死者を伴った1979年2月〜3月の短期的な戦争は、その後30年以上経った今なお語られることがない。メディアでも学校の教科書でも取り上げられることはない。公式には、中国との関係はすべてにおいて良好だとされる。

 強大な近隣諸国の地政学的思惑に巻き込まれることが、ヴェトナムにとっていかに危険であるかは、歴史の示すところである。それを忘れる者はヴェトナム政府にはいないだろう。外交官のホアン・アン・トゥアンは最近こう指摘した。「(ヴェトナムは)米国と緊密かつ長期な交渉を行ってきた世界で唯一の国かもしれない。(・・・)互いの信頼と理解が大きく進展したとはいえ、重大な食い違いが再び起こらないという保証はない。(・・・)したがって、一方の国の地政学的利益ではなく、米国とヴェトナム双方の国益を考えるのでない限り、対等で長期的な二国間関係を確立することはできない(14)」。今のところ、幸先はよさそうだ。だが、「地理の専制(15)」がヴェトナムという国の命運を左右するのをやめたとは言い切れない。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2011年6月号)