強硬策に出たアサド政権

パトリック・シール(Patrick Seale)

ジャーナリスト

訳:日本語版編集部


 独裁者ベン=アリ失脚後のチュニジアが、将来に向けた体制づくりを迫られているのと並行して、シリアでは4月初め以降、自由を求める叫びが高まっている。体制打倒を呼びかける声が、多くの町で決然と上げられるようになった。バシャル・アサド大統領は、自分の政治生命を守り、父ハフェズが1970年に樹立した体制を存続させようと必死だ。アサド王朝はもはや末期にあるのだろうか。ダルアをはじめ、各地で軍が反体制勢力の鎮圧に乗り出したことは、政権が暴力の道を選んだことを示している。[フランス語版編集部]

 シリアに迫る脅威への対応と、周辺地域の政治危機とに没頭していたバシャル・アサド大統領は、自国は他のアラブ諸国で荒れ狂う嵐の圏外にあると思っていた。2011年1月31日付のウォールストリート・ジャーナル紙のインタビューで、エジプト情勢とシリア情勢が似てはいないかとの質問に対して、こんなふうに応じたほどだ。「見方を変えて、こう尋ねていただきたいものです。なぜシリアは、状況が悪化しているにもかかわらず、安定を保っているのか、と。エジプトが米国から財政支援を受けてきたのに対し、わが国は世界の大部分から制裁措置を受けているのですよ。(・・・)にもかかわらず、わが国民は蜂起などしていません。基本的ニーズや改革の問題というだけでなく、思想信条や、守ろうとする大義の問題も関わっているわけです。大義のあることと、思想信条が空っぽであることは、まったく別の話です」

 勘違いも甚だしい。シリア国民もまた、同じように要求しているのだ。恣意的な逮捕や警察の暴力をやめること、政治犯を解放すること、報道の自由を認めること、バアス党が「国家と社会を指導する」と定めた憲法8条を廃止すること、1963年に同党が政権を握って以来施行されてきた非常事態法を解除することを。

 すべてはダルアから始まった。ヨルダンとの国境に近い南部の町だ。3月のこと、体制批判の落書きをした未成年10人あまりが逮捕されたのがきっかけだ。憤慨した住民たちが、街頭に繰り出した。シリアに詳しい外国人識者のひとり、ジョシュア・ランディスは次のように指摘する。「ダルアは非常に貧しく、住民はイスラム教徒(スンニ派)だ。シリアの問題が集約されたような町だ。経済は破綻し、人口は爆発、知事は無能で、治安部隊は強圧的、というふうに(1)」。その治安部隊が、群衆に向けて実弾を発射したことが(おそらくは致命的な)間違いだった。

 そうした危機的状況が生ずるまで、アサド大統領には従来のアラブ独裁者のような構えはなかった。45歳の彼は控え目な感じで、生まれながらの権力者がもつ高圧的な態度はなかった。1994年、ロンドンで眼科医になる勉強をしている時に、父ハフェズから後継者に指名されていた兄バセルが事故死したことで、政治の舞台に引きずり出されたという経緯がある。流血の弾圧という今回の事態が起こるまで、多くの国民は彼を支持していた。教育のある現代的な人物で、改革を志向し、必要な変革をもたらすのに打ってつけの指導者だと見ていたからだ。

 バシャルが父の跡を継いだ2000年、シリアはグローバル化とハイテク化の進む世界から取り残されていた。彼が最初に行ったのは、金融と貿易の改革だった。2004年には民営の銀行と保険が許可され、その5年後の2009年3月には証券取引所が開設された。世界貿易機関(WTO)への加盟交渉も進行中だ。携帯電話やインターネットが導入され、多くの私立の学校や大学がつくられた。

 新大統領はトルコとの政治的・経済的な提携も進めた(ビザの廃止など)。国境地帯で盛んになった貿易は、とりわけアレッポの町に追い風となった。首都ダマスカスの旧市街は活気を取り戻した。旧式家屋は改修され、多くのレストランとホテルが新設されて、次々とやって来る観光客を迎え入れた。

 だが、これらの改革の結果、社会の不平等は悪化し、失業者は増加した(2)。一方で、チュジニアやエジプトよりもずっと深刻な汚職の問題もある。国民の3分の1が貧困ライン以下の暮らしで、もともと少なかった石油収入は細り、数年来の旱魃のせいで小麦の輸入国に舞い戻っている、という状況だ。

少数派の恐怖心

 目下のデモは、政治的に組織化されておらず、リーダー不在のままだ。他のアラブ諸国と同じく、数十年にわたる弾圧のため組織的基盤はほとんどなく、人々は自主的に連携を取り合っている。もうひとつの問題は、国民が様々な宗派・民族に分かれていることだ。スンニ派のアラブ人が多数を占めるが、少数派のアラウィ派(3)が12〜15%(アサド一族および軍と政府の幹部の宗派)、キリスト教徒が10%にのぼり、さらにドルーズ派やクルド人(4)もいる。そのため、一体どういうグループが反政府デモの主体となっているのかがよくわからない。イスラム主義勢力が強い影響力をもっているのは確かだ。この点は大統領も暗に認めている。スンニ派の宗教指導者との会合後、最初に行った改革のひとつが、ニカブ(目出しベール)を着用した女性教師の職場復帰、それに国内に1軒だけあったカジノの廃止だった。シリアのムスリム同胞団は弱体化しつつも一定の影響力をもっており、デモ隊が口にするスローガンの中には、アラウィ派やキリスト教徒などへの反感を表すものがある。政権はこうした緊張状態につけ込こんではばからない。

 そうした光景の上に暗雲のように漂っているのが、1982年のハマの虐殺の記憶である。ムスリム同胞団の武装蜂起が、ハフェズ・アサドによって粉砕されたのだ。同胞団は1977年から一連の反体制テロを実行し、体制支持者を殺害していた。彼らが中部の都市ハマを掌握し、バアス党員と政府官僚(とりわけアラウィ派)を暗殺すると、政権は容赦ない反撃に出た。報復として町を爆撃し、多数の住民を殺害した。正確な死者数は不明だが、1万人から2万人と見られる。30年を経た現在、イスラム勢力の一部は復讐を思い描く。他方で政権側は、スンニ派に対するアラウィ派や他の少数派の恐怖心を利用する。

 バシャル・アサド大統領が4月16日の演説で、政党や報道に関する新しい法律、そして憎悪の的となってきた非常事態法の解除など(5)、一連の改革を進めていくと述べたのは事実だ。しかし、治安部隊が一般人への発砲を続けていることが明らかとなり、これらの措置の効果は消え失せた。軍のダルア侵攻と虐殺に関する情報が断片的に流れ始めたことで、事態は新たな局面に入ったようだ。

 就任後の歳月を経て、大統領はより強硬に、より強権的になった。メディアや大学、経済を含め、社会全体をコントロールしようと意欲を燃やした。その媒介となったのは、携帯電話会社などを経営する従弟のラミ・マフルーフら一族の人間や(6)、腹心の部下である。バアス党はといえば、ボトムアップの大衆組織となる代わりに、忠誠には報償、造反には処罰を与える動員機関に成り下がった。表現の自由はまったくない。政治的決定は、大統領と治安部隊を取り巻く少数グループに独占されている(7)。しかも、バシャルは父親と同様、とやかく言われることが嫌いで、圧力に譲歩することを望まないらしい。

 そのつもりがあればの話だが、真の改革を実施するためには、一族郎党や諜報機関・軍幹部(なかでも共和国防衛隊長で最強硬派のひとりである実弟マヘル)、アラウィ派の有力者、政権に近いダマスカスのスンニ派豪商の利害を無視する必要がある。少数ながら有力な新興資産家層が蓄財を進められたのは、国家統制経済から市場経済への移行によるが、彼らはバシャル自身にも期待している。大統領には、警察と治安部隊の暴虐(という自らゴーサインを出した手法)をやめさせるつもりがあるのだろうか。疑わしいと言わざるを得ない。他の地域諸国と同様、シリアでも強権体制の根は深く、そうした手法は50年かそれ以上にわたって続けられてきたのだから。

 政権は他方で、レバノンやヨルダン、イラクやサウジアラビアにいる敵も勘定に入れなければならない。イスラエルは言うまでもない。ロンドンやパリ、ワシントンにある亡命シリア人ネットワークも問題だ。その一部は米国に支援されている。ウィキリークスによって暴露され、2011年4月17日付のワシントン・ポスト紙に掲載された外交公電によると、米国務省は2005年から2010年の間にシリア反体制派(特にロンドンのネットワーク)に対し、総額1200万ドルの秘密資金を提供していた。

死活問題としての対外政策

 息子バシャルの体制は、父ハフェズの体制の延長線上にある。ハフェズはハッダーム副大統領や、忠誠心の厚い他の実力者ではなく、バシャルを選ぶことにより、強大な大統領を中心とした強権的な中央集権体制をそのまま後継者に引き渡した。地域レベル、国際レベルの味方と敵についても同様だ。そうした内外の要因が、シリア政治を長期的に方向付けてきた。現在の事態が要請するような大規模な内政改革の構想と実施には、優先順位の根本的な転換が必要である。というのも、アサド体制は過去数十年にわたり、対外政策を死活問題として多大なエネルギーを注いできたからだ。

 ハフェズ政権もバシャル政権も、イスラエルとの紛争に制約されてきた。シリアは自国に敵対的な中東情勢を生存闘争の舞台としなければならなかった。それは1967年6月の戦争でのイスラエル側の圧倒的な勝利であり、ゴラン高原を含む広大な領土の占領であり、イスラエルと米国の緊密な同盟関係である。いわば両国の覇権が確立された形であり、シリアはそこからの解放を目指してきた。1973年にはエジプトと組んで、包括和平を実現するための戦争に打って出た。当初は若干の勝利を挙げたものの、1979年にエジプトが戦線を離脱し、イスラエルと個別に和平を結んだため、残された地域はいっそうイスラエルの優位に圧倒されることになった。

 こうした脅威に直面したシリアは、イランに新たに樹立されたイスラム政権と手を結んだ。1982年にイスラエルが、パレスチナ解放機構(PLO)の一掃とレバノンの衛星国化を目的に、レバノンに侵攻すると、シリアは同国南部のシーア派抵抗運動と同盟した。ヒズボラはその後も、イランとシリアから物資と武器の支援を受けつつ、ゲリラ戦を続行し、2000年5月にイスラエルを追い出して、国土を解放することに成功した。そうした流れの中で、地域における米国とイスラエルの主要な対抗軸となるシリア・イラン・ヒズボラ・ハマスの同盟関係が強化されることになる。

 この対抗軸を打ち壊し、抑止力獲得を阻止するために、米国とイスラエルは努力を惜しまなかった。核開発計画に乗り出したイランは、制裁と軍事的脅威に直面した。ヒズボラはイスラエルの脅威への抵抗を余儀なくされ、2006年7月から8月には戦争を仕掛けられる羽目になった。シリアは恫喝と孤立、米国の制裁にさらされ、2007年9月にはイスラエルから、核関連とされた施設への攻撃を受けた。

 バシャル・アサド大統領は厳しい実地研修を課され、先代と同様、一歩間違えば致命的な数々の危機の解決を迫られた。彼は自国に一定の安定と安全を確保したことに慢心したのかもしれない。破壊的な戦争に見舞われたレバノンやイラクの人々に比べ、シリア国民は自らの運命に満足すべきではないか、と。「祖国の安全こそが自由の最高形態である」。4月25日付の政府系紙ティシュリンはこう書いた。

 だが、そんな物言いはもう通用しない。率直な論調とパレスチナ支持、米国干渉への反対で知られるロンドンのアラブ系日刊紙アル・クッズは、アブドゥルバリ・アトワン編集長による3月27日付の社説でこう指摘している。「レバノンの抵抗運動(ヒズボラ)と連帯し、他のアラブ諸国から門前払いを食わされているパレスチナ組織(特にハマス)の幹部を迎え入れてきたことは、敬意を表すべき姿勢である。われわれはシリア政権に感謝しているし、シリア政権は高価な代償を支払ってきた。とはいえ、そうした姿勢を取ることと、シリア国民の要求に応えることが矛盾するとは思えない。仮に矛盾があるのならば、われわれは政権がパレスチナ民族とその大義への支援を停止し、自由の拡大と汚職対策を求める自国民の要求に応えることを望む。(・・・)虐げられた国民に、占領地を解放する力はなく、独裁政権の軍隊に、戦果を上げる力はないからだ」

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2011年5月号)