コソヴォ解放軍の隠されていた犯罪

ジャン=アルノー・デランス特派員(Jean-Arnault Derens)

ウェブサイト『バルカン通信』編集長

訳:今村律子

 アルバニア系住民が多数を占める自治州が、セルビアからの独立をめざしたコソヴォ紛争。その終結から12年を経て、コソヴォ解放軍(UCK)のメンバーが犯した暴虐行為が、さまざまな調査や証言を通じて明るみに出てきた。その犠牲者はセルビア系の一般市民、そしてUCKに政治的に敵対するアルバニア系の人びとだったのである。[フランス語版編集部]


 コソヴォ、1999年10月27日。6月に国連の暫定統治機構の管理下に置かれ、北大西洋条約機構(NATO)の指揮する平和維持部隊(KFOR)が進駐して数カ月後のことだ。50歳の教師、B・バリョシェヴィッチは、オラホヴァツ/ラホヴェチの町(1)のセルビア系住民が収容されていた「ゲットー」から、4人の仲間とともに逃亡を企てた。1人につき1200ドイツマルク(約8万3000円)出せば、隣国モンテネグロのロジャイエまで連れて行ってくれるというのが、ロマ人のNが持ちかけてきた話だった。Nには高値を吹っかけるだけの言い分があった。ゲリラ部隊であったコソヴォ解放軍(UCK)の元戦闘員が、NATOの監督下で「社会復帰」を果たすための組織、コソヴォ保安部隊(TMK)が彼の仕事先だったのだ。既に4度、町のセルビア系住民をうまく脱出させている。Nは石工で、新設基地の現場で働いていた。 隣町のジャコヴィツァ/ジャコヴァだ。5人はここで行方不明となる。

 Nはこう説明する。「一緒に車列を組むことになっていた義理の兄弟を呼びに行くために停車したんです。セルビア人たちは車中に残しました。家から出ると、隠れろ、という叫び声が聞こえ、見たこともない連中が彼らを連れ去っていきました。以来、あのセルビア人たちの消息は一度も聞きません」。N自身も数カ月間、「身の安全」のためセルビアのノヴィパザルに隠れることにした。バリョシェヴィッチの兄弟は繰り返し、行方不明者たちの情報を探したが、収穫はなかった。「平和維持部隊のイタリア兵や国連の警察官が面会に来ましたが、消息は得られませんでした」

 彼らのたどった運命は、悲しいほどありふれている。オラホヴァツ/ラホヴェチから数キロのところにあるセルビア系の飛び地、ヴェリカホチャ村で小さなカフェを営むV・マヴリッチに話を聞いた。行方不明者家族会の地域支部の世話人でもある。村の死者と行方不明者のリストを見せてくれた。1998年から99年にかけて拉致されたセルビア系の19名が遺体で見つかっている。他にセルビア系55名とロマ系9名の計64名が行方不明のままだ。セルビア系の一般市民が最初に殺害されたのは1998年5月12日、多数のセルビア系住民がいたオラホヴァツ一帯の支配権を巡り、セルビア警察とUCKの衝突が始まった時期である。最後の拉致事件が起きたのは、コソヴォが国際的な保護下に置かれてから1年以上も経つ2000年7月28日のことだ。

 村を囲む丘陵には葡萄畑が広がっている。その向こうには、西隣のアルバニアとの国境を画する山岳地帯がそそり立つ。シャル、パシュトリク、ハスなどが連なり、さらに北方のモンテネグロ方面には、「呪われた頂」の異名を持つプロクレティエ山が見える。村のあるオラホヴァツ/ラホヴェチ地区のアルバニア系、セルビア系の住民は、かつては問題なく共存していた。しかし1999年6月以降、セルビア系は村の700人と、町の高台に孤立した300人だけになった。1999年までは1万人近くいた彼らは、ゾチステ、オプテルシャ、レティムリェといった混住の村から追放されていった。

 地域の「行方不明者」の大部分は、UCKが一時的に町を占拠した1998年7月以降に相次いで拉致されている。レティムリェ村からは多数のセルビア系住民が、隣のセメティシュテ村にあったUCKの基地に連行された。女性は赤十字国際委員会の介入によって4日後に解放されたが、16歳の少年を含む男性に生還者はいない。2005年4月になって、数十キロ離れたクリナ郊外ヴォルヤク/ヴァリャカ村で、集団で遺棄された遺体が発見された。21人の遺体のうち数人分の身元が、レティムリェの男性と一致した。

 オラホヴァツからセルビアの首都ベオグラードに移住し、行方不明者家族会で熱心に活動しているO・ボジャニッチに取材した。消えた親類は、兄弟2人、おじ、従兄弟など、全部で10人近くに上り、うち1人の消息をオラホヴァツのアルバニア系の隣人から伝え聞いたという。その隣人たち自身も、セルビア政府と通じていると疑われ、何カ月もUCKに拘束されていた。彼らの証言によれば、地域のセルビア系住民は、当初はドレノヴァツ/ドレノヴツァ村にあるUCKの地域本部近くに抑留され、コソヴォ戦争終結後に、アルバニア国境そばハス地方のデヴァ村に移送された。1999年6月のユーゴ軍撤退後、UCKがこの村を占拠し、軍検問所の跡地を収容所に改造したらしい。その後、生存者はアルバニアの町クカス、次いで沿岸部のドゥラスに連行されたようだ。隣人たちは2001年に、このドゥラスのUCKの収容所で、生きている彼らの姿を見たという。

2つの報告書

 しかしながら、拉致されたセルビア系住民の大多数は、戦争終結前にコソヴォで殺害されたと推測される。逆に、NATO軍の展開後に拉致された人びとについては、アルバニア連行説が以前から出ているものの、行方は知れない。拉致問題に関しては、ノヴィパザル・サンジャク・ヘルシンキ委員会(セルビア・ヘルシンキ委員会の地方独自機関)のS・アロメロヴィッチ代表が、1999年秋に詳細な調査を行っていたが、調査報告書は今日では所在不明で、本人は2003年に他界している。彼は2000年に受けたインタビューで、コソヴォにあった5つの収容所を訪問できたと明言している。いずれも小規模な、多くは町外れの車庫や工場を利用したもので、10人から50人が収容されていた。これらの収容所群を統轄していたのは通称マラ司令官(本名A・アグシ)、R・ハラディナイ(2)の側近である。行方不明者の家族は、肉親を「買い戻そう」と試みたようだ。多額の金が仲介者たちに支払われたが、解放されたケースは皆無だ。セルビア側のアルバニア系捕虜との交換目的で拘束されていた者も相当数いたと見られる。800人という数字が2000年末に挙がっている。

 実際に捕虜交換があったのかどうか、これもまた確認は不可能だ。一部の情報筋によれば、2001年に多数のセルビア系捕虜が処刑されたという。セルビア政府が恩赦法を成立させ、UCKメンバーとの嫌疑で拘束していたアルバニア系捕虜を解放した際のことだ。コソヴォ内部の数カ所の収容所は、アルバニアに移送する前の「中継収容所」として使われていた可能性がある。臓器密売ではないか、と最初に示唆したのがアロメロヴィッチである。国際的な犯罪ネットワークが、UCKの狂信的メンバーの供給する臓器を買い上げていた可能性があるというのだ。

 彼が明らかにした調査結果に対して、クシュネル代表に率いられた国連コソヴォ暫定統治機構(UNMIK)はじめ、当地の国際機関はまったく取り合わず、なんの追跡調査も行わなかった。セルビアの人権活動家として知られ、ミロシェヴィッチ政権への抵抗を続けたアロメロヴィッチは、まさに「沈黙の壁」だったと語っていた(3)。歴然たる事実にもかかわらず、コソヴォには収容所などひとつもなかったと平和維持部隊は主張した。セルビア系の一般市民が行方不明となり、臓器密売に巻き込まれた可能性については、旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)のデル=ポンテ前主任検察官も捜査を試みたが、やはり「沈黙の壁」に突き当たったと自著で述べている(4)

 欧州評議会からの委託で調査報告を出したスイスのマーティ上院議員は、セルビア系の一般市民が行方不明になったことも、セルビア政府への「対敵協力」を疑われた多数のアルバニア系住民が戦争中に収監されたことも、「コソヴォでは誰もが」知っていたと、多くのインタビューで語っている。故ルゴヴァ前大統領のコソヴォ民主同盟(LDK)の支持者たちが、戦争中および戦後に文字どおり消し去られた事件について、プリシュティナの日刊紙ボタ・ソトは1999年から取り上げてきた。B・モリナ編集長によれば、事態はこうだ。「1999年以来、3000人がコソヴォで殺害されましたが、解明されたのは600件にすぎません。親族間の復讐事件だという説が出回りましたが、ほとんどは政治的暗殺だったのです」。同紙自体、身をもって代償を払わされた。2人の記者が暗殺されたのだ。モリナは長いこと、民間警備会社の武装ボディガードなしでは動けなかった。にもかかわらず、ボタ・ソト紙は民主同盟との関係から、一連の報道の信憑性をいまだに疑われている。

 「対敵協力」の嫌疑をかけられたアルバニア系住民の収容所がコソヴォやアルバニアに実在していたことも、この日刊紙は定期的に取り上げていた。2011年2月28日には、ミトロヴィツァ裁判所で裁判も始まっている。被告人は、ツァハン収容所で重罪を犯した容疑のある元UCKのS・ゲチ、R・アリャイ両司令官だ。この収容所はアルバニア北部の山岳地帯、コソヴォ国境から数キロのところにあった。

 ツァハンは小さな山村で、戦争中はUCKが物資供給拠点として、またコソヴォでの戦闘に向かう義勇兵の後方基地として利用していた。村の有力者B・ツァハニは、村民がタバコの密貿易にいそしんでいたこと、自分も1997年秋にUCKの一員となり、主に戦闘員の夜間の山越えを手伝っていたことを語ってくれた。UCKが基地に使っていたのは、1992年に閉鎖されたアルバニア軍の旧兵舎で、今も村の入口に建っている。近隣の町クルマからツァハンまでは、険しい山道を10キロ近く進まねばならない。人知れぬ村の旧兵舎には、先のマーティによれば、収容所も設けられていたのだった。

 このツァハンの「地獄」に、Zは2カ月半いた。今回の裁判で、身柄の安全を保障された主要証人の1人だ。収容所の待遇は最悪で、ひどい拷問があったと語る。互いに性関係を持つことを強要されたり、処刑の真似事をされた者もいた。「私はおそらくツァハンに最も長くいましたが、拘束されていたのはアルバニア系だけでした」と彼は断言する。サチ現首相をはじめとするUCKの最高幹部たちの姿も目撃したという。

「ドレニツァ・グループ」の影

 戦争の続いていた1999年春の時期にツァハンに抑留されていたのは、Zと同様、大半はクルマやクカスの町で拘束された民主同盟幹部だったようだ。これらのアルバニアの都市には、コソヴォからセルビア軍によって掃討された難民がなだれ込んでいた。その一部はコソヴォ共和国軍(FARK)に加わった。UCKに対抗するゲリラ部隊として、ルゴヴァの支持者によって創設されたものの、実戦ではたいして成果を上げなかった組織である。

 マーティの報告書には、彼が「ドレニツァ・グループ」と名付けたUCK内部の派閥が、とりわけ大きな役割を果たしたとの指摘がある。サチ現首相、A・シュラ、X・ハリティ、K・ヴェセリ、F・リマイ、先の2人の司令官などだ。彼らにはドレニツァ地方の出身であることに加え、もうひとつ共通点がある。全員がコソヴォ人民運動(LPK)に所属していたことだ。この非合法組織はエンヴェル式マルクス・レーニン主義の流れを汲む。つまり、かつてアルバニアにスターリン体制を敷いたエンヴェル・ホッジャ政権に傾倒しているのだ。

 この運動はスイスのアルバニア系移民の中から生まれ、コソヴォにかなり広範な地下活動家ネットワークを持っていた。1996年には、ドレニツァほかコソヴォ各地で活動し始めていた狙撃隊を連合し、UCKの創設を主導した。狙撃手のうち最も有名で、コソヴォでまさに崇拝の対象となっているのは、「伝説の司令官」A・ヤシャリで、1999年3月6日にセルビア警察によって射殺された。その従弟で、同じく筋金入りの狙撃手だったG・ゲチは、2001年に襲撃を受けたが、間一髪で生き長らえた。ドレニツァの中心部にあるラウシャ村で、オスマントルコ時代に由来する「村の騎兵隊長」の家系に生まれた人物であり、人民運動を直接の母体とするコソヴォ民主党(PDK)への加入歴はなく、ずっと民主同盟の一員として活動していた。その後に分派を結党し、前国会で議員を務めている。

 「我われはイブラヒム・ルゴヴァに忠誠を尽くしていた。人民運動のことも、共和国軍のことだって、耳にしたことはない。UCKの頭文字のもとに全戦闘員が結束するのだと考えていた。人民運動のメンバーがスイスからやって来た時だって歓迎した。資金を持っていたし、武器も約束してくれた。しかし、我われはすぐに、彼らの関心が権力にしかないことを悟った」。G・ゲチはここまで話すと、戦後に建て直した豪邸の伝統的な応接間で、しばし考え込んだ。それからこう切り出した。「いずれにしろ、彼らにはセルビア人と戦った経験がなく、NATOを当てにしていた。彼らは自分たちの絶対的権力を確立するために、他のアルバニア系勢力だけと戦ったのだ。そして戦後になると、コソヴォを搾り上げた」

 2003年にNATOが作成し、最近機密解除になった報告書も、こうした見解を裏付ける。そこでは、先に挙げたハリティが、麻薬密輸や売春といった不法な活動の大部分を取り仕切るコソヴォの「ボス」だと名指しされている。人民運動の大幹部で、スターリン主義時代のアルバニア諜報機関の工作員として鳴らした人物でもある。「ドレニツァ・グループ」の主要幹部の1人であり、このグループの上層部は、かつての人民運動とも現在の民主党とも重なっている。

 コソヴォ民主党は、その目的を達成するにあたり、強力な手段を用いることができた。先のヴェセリとシュラの率いるコソヴォ諜報機関である。その工作員だったN・ブラツァが、セルビア警察と通じたアルバニア系住民1人を殺害したことがあると公に認め、2009年末に大きな波紋を呼んだ。公判開始まで自宅で監視下に置かれている彼には、マスコミでさらに発言する機会がある。2011年1月には、日刊紙コハ・ディトレの取材に応じて、機関が殺害したのは「国際的な保護下に入ってからの数カ月間で600人、年間で1000人」に上ると明言している。

 対敵協力の嫌疑をかけられたり、UCKとは別の政治的方針を主張したりしたアルバニア系住民に対する暴力行為に関しては、沈黙が破られ始めている。その一方で、行方不明になったセルビア系住民の運命については、いまだに誰も話題にしようとしない。戦争末期になってツァハン収容所からコソヴォの町プリズレンに移されたというZは、こう語っている。「とある家の地下室に何日もの間、高齢のセルビア人7人とロマ人1人と一緒に拘束されていました。ツァハン収容所にいたアルバニア人は我われ2名で、年寄りのセルビア人たちを殴るよう看守に強いられました。私は最終的に、平和維持部隊のドイツ兵によって解放されましたが、セルビア人はそれ以前にどこかに連れ出されてしまったのです」

 臓器密売の具とされたセルビア系住民を拘束するために、ツァハン収容所が戦後も用いられていたという確証を得ることはできなかった。その一方、ここにUCK「離反者」の拷問場が設けられていた1999年春に、米軍特殊部隊の関係者が頻繁に出入りしていたことが確認されている(5)

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2011年3月号)