リビアのカギ握る部族集団

アリ・シバニ(Ali Chibani)

ジャーナリスト

訳:土田修


 2011年2月15日の夕刻、リビア第二の都市ベンガジの市民は集結した、要求は、弁護士フェトヒ・タルベルの釈放だ。1996年にトリポリのアブ・サリム監獄で起きた銃撃で犠牲になった受刑者家族の代理人を務めてきたタルベルが、「監獄が炎上しているというテマを流した」という名目で逮捕されたからだ。彼は釈放されたが、事態は収まらず、2日後に「怒りの日」と銘打って集まろうという呼びかけが、ベンガジの街を駆けめぐった。17日当日には、アラブ各地で見られたのと同様、数千人のデモ参加者が街頭に溢れ出た。

 参加者の逮捕も、実弾の発射も、空軍機による爆撃も、沈静化にはつながらなかった。カダフィ大佐は2月22日にテレビ出演し、事態が沈静化しなければ内戦になると脅したが、デモ参加者はますます決意を固くした。

 運動が広がるにつれ、一部の兵士は反政府側に転じた。離反には二つの理由があった。部族による呼びかけ、それに軍隊内の外国人傭兵の存在だ。

 北アフリカのあらゆる国と同様、リビアでも伝統文化の保存や独立闘争において、部族制度が中心的な役割を果たしてきた。「だが、イドリス1世(1951~69年)の治世下では、部族は政治的な力をまったく持てなかった。部族主義を否定する王に対して自己主張するために、社会は組合や団体を結成した。部族を政治に組み入れたのが、他ならぬカダフィだった」と、リビアの作家で人権活動家のアブデル・モンシフ・アル・ブリは言う(1)。歴史家のピエール・ヴェルムランは次のように語る。「カダフィが全リビア人の最高指導者を名乗るために、部族の存在感を薄めようとしたのは事実だ。だが、他のマグレブ諸国では既に部族制度が消滅していた中で、彼は体制の内側でも外側でも部族制度を維持した。カダフィ自身もシルト地方の部族出身で、サヌーシー教団の長でもあった王を倒した部族(カダファ族)の一員だとされてきた。彼はいつも部族制度を手段に使ってきた。たった600万人ほどでしかないのに、フランスの3倍の広さの国土に散らばって住んでいる国民の支配を容易にする、役に立つ制度だからだ」

 革命指導者として躍り出た1969年9月1日のクーデター以後、カダフィは権力保持の後ろ盾として、諸々の部族と同盟を結んだ。アル・ブリはこう指摘する。「カダフィは自分の体制に最も忠実な者たちを革命委員会に据えたが、彼らは最も無能な政策運営者でもあったかもしれない」。カダフィは、分断により支配を強化するために、一部の部族を取り立て、他は冷遇した。また、複数の国にまたがるトゥブ族(2)のような反抗的な部族を抑え付けるために、アラビア語、ベルベル語、トゥブ語といった言語の違いも利用した。リビア救国トゥブ戦線を率いるイサ・アトゥバウィは、トゥブ族の置かれた状況のひどさを訴える。「われわれの子供には学校に通う権利も、病院に行く権利もない。われわれの妻は家族手帳も出生証明書も持てない」

 カダフィは複数の部族に金を払ってきた。政党や組合その他の反対勢力を無力化し、ジャマヒリヤなる自分のユートピアを実現するためだ。それは、一種の大衆民主主義で、国家も政府も政党も存在しない政体であるとされる。1970年代に学生が反乱を起こした際には、これらの部族が鎮圧に使われた。「あらゆる表現手段が検閲されていることで、部族の政治的役割を強まる。民衆は不平不満を伝える窓口として部族を使い、部族が当局と民衆の仲介者となるからだ」とアル・ブリは説明する。

 2月の終わり、リビアの諸部族は前面に出て、民衆を支持せよと軍人に呼びかけた。東部の石油の基幹パイプライン沿いに住むズワイヤ族の賢人会議は、弾圧を続けるならば欧州への原油輸送を遮断すると脅した。有力部族のひとつで、伝統的に政権と手を結んできたワルファラ族は、カダフィに出国要請を突き付けた。トゥアレグ族は早期からデモに加わっている。

 ある情報提供者は(匿名を条件に)、軍人が民衆側に合流しているのは部族への忠誠心からであり、「自分の兄弟や子供が死ぬのを目撃した」ためだと語る。彼はさらにこう付け加えた。「同じ国民だという感情も働いている。外国人傭兵がリビア人を射殺するのを見て、部隊の指揮官たちはデモ隊を守ろうと決意したのだ」

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2011年3月号)