スーダン分離の経緯と余波

ジェラール・プリュニエ(Gerard Prunier)

フランス国立学術研究センター(パリ)研究員、
エチオピア研究フランス・センター(アジスアベバ)所長

訳:清水眞理子


 「我われは新しい南部の国家を支え、その安定に手を貸すであろう。我われは隣人であり、今後も友人であることに変わりはないからだ」。2011年1月25日、スーダンのバシル大統領はこう宣言した。南部で住民投票が実施され、大多数が独立に賛成する票を投じた数日後のことだ。アフリカでは前例のない「協議による」分離独立である。数十年に及ぶ紛争に終止符を打つことが期待されているが、地域安定のカギとなる石油収入の配分と南北の国境線の問題には、まだ決着がついていない。[フランス語版編集部]

 2011年1月9日から16日にかけ、南部スーダンで歴史的な住民投票が実施された。半世紀にわたる内戦で引き裂かれたこの国だけでなく、アフリカ全体にとっても画期的な出来事だ。植民地時代に由来する国境線の不可侵性が、初めて問い直されることになったからだ。

 1963年にアフリカ統一機構(OAU)が設立されて以来、植民地勢力によって1885年から1926年の間に押しつけられた(時として不条理な)国境線への異議申し立てはしないことが了解事項となっていた。唯一の例外は、1993年のエリトリア独立である。しかし、これには特殊な事情が働いていた。イタリア植民地だったエリトリアは、52年に国連によってエチオピアに編入されたという経緯があるからだ(1)

 1961年のカタンガ(旧ベルギー領コンゴの一部)や67年のビアフラ(ナイジェリアの一部)の分離独立の企ては、アフリカ統一機構や国連の徹底的な拒絶にぶつかった。より最近では、91年にソマリランドが(60年に実施された)イタリア領ソマリアとの統合を見直すことを宣言したが、事実上の独立にもかかわらず、法的にはいまだ決着を見ていない(2)。それゆえ、南部スーダンのケースは前例の打破であると考えられる。今回の極めて合法的な住民投票で、多数の賛成票を集めた南部スーダンの国土は、かつての植民地の線引きとは一致しないからだ。

 分離独立という考えは、植民地時代末期の1956年に芽生えていた。1898年に英国によって無理やり統合された南北の反目は、南部の黒人が北部のアラブ奴隷商人に駆り集められた時代にさかのぼる。南部の黒人の一部はイスラム教徒のアラブ人との違いを強調しようと、キリスト教への改宗を選んだ。その結果、スーダン植民地の内部に大きな分断が生まれた。英国はなんら統合策をとらず、南北をほぼ別々に管理した。社会的・経済的投資の大半は北部に集中していた(3)

 南北の内戦は独立以前から始まり、1972年まで続いた。アジスアベバ協定の調印により、南部はかなり広範囲の自治権を獲得した。南部政府がジュバに置かれ、内戦時の反政府勢力であった諸州を10年あまり統治した。国土の一体性を脅かしていた溝は埋められたように思われた。

 しかし米国のシェヴロン社が南部で石油を発見すると、再び緊張が走る。スーダンの現行の油井の85%は南部に集中している。ヌメイリ大統領は、南部がようやく獲得した自治権を壊しにかかった。ジュバの自治議会を閉鎖、南部政府を廃止して軍政をしき、黒人連隊の武装解除を試みた。1983年5月、反乱が勃発する。それは19年続くことになる。

 国軍から脱走した南部の士官、ジョン・ガランに率いられたスーダン人民解放軍(SPLA)は当初、反帝国主義運動の旗印を掲げた。そして親ソ連メンギスツ軍事政権下のエチオピアを拠点とし、モスクワから武器を供与された。スーダン政府の側は米国の支援を受けた。

米国の介入による和平成立

 1989年に北部はイスラム主義政権となり、米国の支持を失った。それがなければ、1991年のソ連崩壊により、北部の最終的な勝利は確実になっていたかもしれない。91年から94年にかけての3年間、南北は外国の支援なしに戦った。次いで、南アフリカのアパルトヘイトが廃止されると、南アとその同盟国であるニエレレ政権のタンザニア、ムガベ政権のジンバブエが、ガランを密かに支援した。

 米国はやがて腰を上げた。2002年、「迫害された南部スーダンのキリスト教徒」の側に立つ宗教極右勢力に突き上げられたブッシュ大統領は、南北に交渉を強いた。3年後に、包括和平協定(CPA)とも称されるナイロビ協定が調印される。その規定の一つが、6年半の暫定期間を経たのちに、分離独立を問う住民投票を実施することだった。

 しかし、広大で多様性に富み、南北の対立だけでは割り切れないスーダンでは、他にもさまざまな矛盾が長年の戦争により激化していた。南部同様に冷遇されてきたダルフール、コルドファン南部、青ナイル州、紅海沿いの丘陵地帯もまた、中部のアラブ・イスラム系の「心臓部」から距離を置いてきた。これらの周辺地域は、さまざまな異民族集団(いずれもイスラム教徒)が住み着いているが、従来漠然と北部の一部と見なされていた。このような中心と周辺の矛盾が深まれば、国内の少数派にすぎないアラブ人イスラム教徒の全国支配が疑問視されるようになるだろうと、分離独立主義者ではないガランは考えていた。CPA調印の数週間後、首都ハルツームを訪れたガランは、大半がアラブ人の群衆に熱狂的に迎えられた。彼は北部にも運動支部を作り、勢力を拡大していった。2010年の選挙でガランが勝つ公算は非常に大きかった。2003年2月にダルフールで反乱が勃発したことも、彼の戦略の正しさを裏づけるものだった。しかしガランは2005年7月30日、イマトン山地のヘリコプター事故で死亡する。

 ナイロビ協定は富、政治権力、軍事力の配分について仔細に定め、可能な限り中立的で平等な配分を意図していた。南北は6年という暫定期間を通じて、2011年1月の住民投票の日まで、「統一を魅力的なものとする」よう協力しなくてはいけなかった。その後の半年間は、より民主的で平等な統一国家「新生スーダン」に向け(ガランはそれを望んだ)、あるいは分離独立に向けた移行期間となる。ガランの死後に優勢となったのは後者である。彼の同志たちは、自由への望みは合法的な分離によってこそ実現されると考えたのだ(4)

 この協定は、外交面でも組織面でもよく練られてはいたが、最初から成否相半ばのものだった。治安対策という面では現実の効果を上げた。小競り合いは繰り返されたものの、最終的に大事には至らなかった。南部の自治政府へ石油収入の半分を付与するという規定も遵守された。しかしその一方で、政治・行政権力の配分は失敗に終わった。1989年6月のクーデターで強権体制を樹立したイスラム主義政党の国民会議(NCP)には、協定ゲームに乗るつもりは全くないからだ。ハルツームの挙国一致政府に加わった南部の閣僚はすぐに、NCP側からの絶え間ない締めつけの下で職務を遂行するのは不可能であることを察知した。失敗の責任の一端は、ほかならぬガランにある。スーダン人民解放運動(SPLM)の名称も持つSPLAを独断専行的に運営し、学識のある在外メンバーを遠ざけていたからだ。

積み残された問題

 しかもSPLAには、一つではなく二つの国家、つまり南部の自治政府と北部の挙国一致政府の二つに充当できるほどの人的資源はなかった。協定に定められた6年の暫定期間に、NCPが実施したことは二つだけだ。南部の油田から最大限の利益を引き出そうとすることと、ジュバの南部政府の邪魔をしようとすることだ。「統一を魅力的なものとする」ための努力は皆無だった。そのため、まだ少数ながら南部に残っていた統一支持派は徐々に消えていった。2009年以降は、住民投票が予定通り行われたら結果は独立という情勢が確定的となっていた。

 悲観的な予測にもかかわらず、住民投票は大過なく実施された。だが、南部の合法的な分離独立という結果は、いくつもの問題をはらんでいる。

 住民投票プロセスが最終的にうまく回った原因は、スーダンの複雑さ自体に求められる。NCP国家は2000年代初め、国内の勢力関係の変化に直面した。ダルフールの反政府勢力は、分裂状態ではスーダン政府の工作に引きずり込まれるおそれがあることに気づき、相互に連携をとり始めた。同じ頃、スーダンの周辺地域はいずれも、南部の分離独立によりNCP国家と直接対峙せざるを得なくなる事態に備えて、武力による権利主張を視野に入れるようになった。さらにSPLAの北部支部は、南部の住民投票が民主勢力とイスラム主義体制との決定的な闘いの始まりになると考え、住民投票に向けて全精力を注ぎ込んだ。こうした中で北部の住民は、20年に及んだ内戦による緊張と犠牲のあげくが、南北の分断という国民的屈辱になることを察知した。しかもそれは、北部住民も少しはおこぼれにあずかっていた唯一の富、石油へのアクセスを失うことでもあるのだ。

北部の動揺

 強権的で腐敗にまみれたスーダン政府は、国の発展の牽引役だという看板を掲げてきた。しかし、民衆の不平不満はもはや最高潮に達している。半世紀にわたる無為無策の政権運営で賞味期限切れのアラブの古い諸政党ですら、何か手を打ち、民主化要求を考慮に入れざるを得ないと感じている。

 北部はもはや体制転覆の話でもちきりだ(5)。NCP自体にも内部分裂がある。穏健すぎるとみなされ、ここ1年ほど干されていたタハ副大統領の復権は、政権内の「強硬派」にとっては寝耳に水だった。野党勢力の側では、高齢のイスラム主義指導者ハサン・トゥラビが住民投票のさなか、スーダンはチュニジアが切り開いた道に進むべきだと公言した。彼は即座に逮捕され、支持者も家宅捜査された。

 スーダン政府は確かに孤立を深めつつあるようだ。2009年に国際刑事裁判所(ICC)がバシル大統領の逮捕状を出したとき、アラブ諸国が示した強い連帯心は、一過性のもので終わった(6)。中国が支持してくれるのではという期待もすぐに破れた。スーダンの油田の50%を支配し、スーダン政府への武器供与の大部分を担っている中国は、死活的な重要性があるとは思われない問題をめぐって「国際社会」と悶着を起こすつもりはない。組織性には欠けるが50年来の待望のチャンスを逃すまいとする南部を前に、NCP独裁政権はにわかに守勢に立たされている。逆説的ながら、住民投票後は南部よりも北部のほうが危地に立つことになる。

 住民投票が平穏理に実施された背景には、このような北部の危機感の高まりが働いていたと言ってよいだろう。立場の弱まったバシル大統領は、南部にいい顔をするようになった。投票期間が始まる直前のジュバ訪問は、紛れもない「和平宣言」としか考えられず、大きな驚きを呼んだ。背面の障害を取り除くことで、内紛に備えようとしたのかもしれない。彼が南部に要求したことはたった一つ、南部に逃げ込んだダルフール反政府勢力の幹部の追放だけだった。

 南部の指導層はいそいそと応じた。彼らにとって重要な意義を持つ住民投票の平穏な実施が、わずかな対価で買えることに喜んだからだ。これをもって、ガランの死後に引き継いだ使命をほぼ果たした南部政府のキール大統領は、住民投票完了後に引退する意向を表明した。

 後継者は誰になるのだろうか。南部スーダンはまだ政治的な経験に乏しく、権力欲は容易に激化する。後継者争いは危険である。本命視されているのはマシャル副大統領だが、パガン・アマム、ジェームズ・ワニ・イッガ、ルカ・ビオン・デンといった他の部族や地域の指導者の支持を固める必要がある(マシャルはヌエル族で、上ナイルの出身)。将来の南部政府がうまく機能するためには、細かな分断をはらんだ国内情勢にかんがみて、民族的・地理的な均衡に配慮しなくてはならないだろう。

 今後の見通しは残念ながら立っていない。住民投票前に解決されなかった問題、特に国境の全面的な画定と石油協定の締結はいまだ協議の途上である。北部で何が起こるか誰も予測はできないものの、ハルツームの政権がピリピリしているために、不確実で一触即発の情勢となっているのは明らかだ。今後に重大な影響を与えかねない南北の協議は、厳しい状況下で行われることになる。南部の長い行軍は終わった。しかし、独立の具体化と永続化に向け、なおも乗り越えなければならない障害は、北部政権内部の矛盾である。南部は図らずもその人質にとられているからだ。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2011年2月号)