アフガン派兵の現実に揺れるドイツ

フィリップ・レマリ特派員(Philippe Leymarie)

ジャーナリスト、ブログ「国防オンライン

訳:エマニュエル・ボナヴィタ、斎藤かぐみ


 アメリカの大規模な増派にもかかわらず、北大西洋条約機構(NATO)はアフガニスタンを制圧できずにいる。2010年11月のリスボン首脳会議の際、NATOは現地の軍・警察への権限移譲期限を2014年と定めた。当初は「治安支援」と位置付けられていた活動が、紛れもない戦争と化している。ヨーロッパ諸国の政府と世論は動揺し、「手を引く」道を探っている。3番目に多い要員を送り込んでいるドイツでは、派遣期間の延長をめぐり、ドイツ政治の根幹にも関わる議論が展開されている。[フランス語版編集部]

 「ショックは大きかった。何か隠し事があるとは思っていた。何もかもが不明瞭だった。死者の数も、移送された遺体も・・・」。こう話すのは、ドイツ国際政治・安全保障研究所(SWP)所属のドイツ政治専門家、ツィタ・マースである。あの事件の起きた日、彼女は公用でアフガニスタンに滞在中だった。2009年9月4日のことだ。国際治安支援部隊(ISAF)に加わっているドイツ部隊の隊長の1人が、反政府勢力に奪われた2台のタンクローリーを爆撃するよう、NATO空軍に要請した。陸路で奪還を試みればドイツ兵に危険が及ぶと主張したのだ。

 そして142人の犠牲者が出た。大半が一般市民である。この事件は間もなく「クンドゥズの不祥事」と呼ばれるようになる。ドイツが掲げていたイメージは砕け散った。ドイツのアフガン関与の軍事的側面は長いこと否定されてきた。アフガンへの関与は「軍の援護下での開発支援」のため、欧米式民主主義の実現、女性の解放、女子教育の促進など、人道的で理想的な活動のためだとされていた。反徒制圧作戦とはかけ離れている。

 「戦争の実態は、人道支援というベールの陰に隠されていた」とマースは述べ、ドイツ国防省のホームページの内容に言及した。アフガン政府への支援、食糧配給、難民の帰国といったことを並べ立てる一方で、治安回復にどういう手段を使っているかについてはほとんど何も書かれていなかったのだ。「ドイツ政府はクンドゥズ事件が起きるまで、現実よりも幸せで明るいアフガニスタンのイメージを振りまいていた。情勢については外交的な言辞を弄するだけで、詳細はあまり伝えていなかった」。安定化の年になるという触れ込みだった2010年は、ISAFが発足した2003年以来、最も殺人と暴力に満ちた年となった。

 ドイツ社会も議員も騙されたという気持ちを抱いた。それをなだめるために国会による調査が開始され、連立政権の交代によりうやむやになるまでの間に、国防相と国防次官、参謀総長の辞任という結果を生んだ。2010年4月、メルケル首相は就任後初めて、アフガニスタンで殉死したドイツ兵7人の遺体を空港で出迎えることになる。そして、それまでタブーだった「戦争」という言葉を(渋々とながら)ついに口にした。

 ベルリンの左派系日刊紙ターゲスツァイトゥング(TAZ)は(1)、チェックポイント・チャーリー(2)から数メートルのところにある。同紙の記者スヴェン・ハンセンに話を聞いた。「ドイツの指揮官がランボーのように振る舞っていたことをいきなり知らされたわけさ。その役はずっとアメリカ人のものだった。まず撃つ。尋問は後回し。僕たちは善玉で、復興を支えるという位置付け。まず質問して、命の危険があればそこでようやく、決められた警告の言葉を発するという・・・」

 比較的安全だとずっと考えられていたアフガン北部に配置され、復興を担当するドイツ兵。そのイメージがいきなり狂ってしまった。普段は控えめな教会も政府を見放した。ドイツ福音主義教会の中で最も影響力があり、教区監督を務めていたマルゴート・ケースマンは(3)、2010年1月1日の説教で「アフガニスタンにいいことなんか一つもない!」と述べて波紋を呼んだ。カトリック教会のフライブルク大司教ロベルト・ツォリチュも、政策を変更することが「キリスト教の倫理からして不可避の必要」であると訴えた。アフガン帰りの従軍牧師が大学やNGOや教会で、講演会や討論会を開くことが数年前から増えている。彼らの話を通じて、ドイツ軍派兵の公式目的と現実とのギャップが明らかになってきた。

 事態をさらに悪化させたのが、2010年8月のウィキリークスによる暴露である。タリバン幹部の掃討に当たり、殺害や即時拘留を行っているアメリカの部隊に、ドイツの特殊部隊が協力していることが明るみに出たのだ。主要週刊誌シュピーゲルの報道によると、殺害対象リストに何人かのタリバン幹部が追加されたのは、ドイツ連邦軍の提言に基づくという。

 ドイツ外務省に言わせると、特殊部隊の任務は公表されており、活動内容は透明で、国会とも頻繁に議論を重ねているという。緑の党の元スポークスマンで、まさにアフガニスタンが専門のヴィンフリート・ナハトヴァイの意見は違う。ウィキリークスの暴露によって「表に出せない事柄」のあることがはっきりした、アフガンへの関与は「常軌を逸して」おり、ドイツの国防とは全く関係がないと言う。この紛争で「分かっているのは、よく分からないということだ」と、彼はうめいた。

米英に次ぐ第3の規模

 ドイツ国防省が入っている建物の一つがベンドラーブロックだ。第一次世界大戦時には海軍参謀本部が置かれていた。1944年7月20日に未遂に終わったヒトラー暗殺計画の謀議の場でもあり、計画に加担したシュタウフェンベルク大佐その他の高級将校の処刑場ともなった。現在のドイツ連邦軍の創設は1954年に、かつてのドイツ国防軍の影を払いのけるべく、連合国とドイツ連邦議会の承認(および監視)の下で決定された。このドイツ連邦軍が民主主義の柱としているのが、ナチズムに抵抗した(数少ない)先述の軍人たちの崇拝だ。

 ベンドラーブロックで取材に応じてくれた将校は(4)、ドイツ軍がらみでこれほどの犠牲者が出ているのは第二次世界大戦以来初めてのことだとあっさり認めた。しかも、新たな交戦規則への重大な違反を最初に犯したのはドイツ部隊の指揮官だった。新規則は、前ISAF司令官のマクリスタル大将が(5)、まさに一般市民に被害が及ばないように設けたものだ。

 それから1年あまり後に再訪したベンドラーブロックは、むしろ「前向きに捉えよう」という姿勢に変わっていた。一連の事件やスクープは、戦場での存在感が薄いと数年前から言われてきたドイツ部隊が、タリバンの侵攻を受けるようになったアフガン北部で立派に戦闘に加わっている証拠ではないか、というわけだ。ドイツ政府は2010年2月には、アメリカの強い要請により500人の増派に応じ、規模で第3の座を固めている(要員数は国会によって上限5350人に設定されているが、おおむね4600人前後で推移してきた)。アメリカ(13万人)、イギリス(1万人)に次ぎ、フランス(3850人)を上回る。

 うち400人あまりが200人の警察官とともに、アフガン警察の養成に専従している。軍の予算は倍増され、装甲や火砲の強化、無人機など、危険に対処するための装備が整えられた。ある士官は「私見によれば、アフガニスタンのドイツ兵の装備は最上のものだ」と豪語し、ドイツ連邦軍が作戦の揺るぎない一員であること、他国の部隊と同じ交戦規則に従っていることを強調する。唯一の違いは、国会承認の下での展開地域が北部に限られていることだけだ(6)

 この士官は、それだけになおさらドイツ軍とドイツ社会の間に「食い違い」があるのは残念だと言う。ストレートに「戦争」と呼ばれるようになった事態に直面している彼の主張によれば、問題のポイントは世論や政治家に「適正水準の暴力を受け入れてもらうこと」にある。

 外務省では、クンドゥズ事件の際のドイツとアフガニスタンの反応が対照的だったという話を聞いた。ドイツではすさまじい反響を呼んだのに対し、アフガン現地当局はむしろ同情的で、不穏な情勢下での軍の通常の対応と見なしたという。この外交官は、空爆の犠牲者の家族には2010年8月から「補償金」を出していて(NATOの基準により5000ユーロ)、それも法的に義務があるわけではなく、「現地の習慣に基づいた弔問金」として自発的に行っているのだと強調した。

 アフガン問題に加え、経済危機という厳しい状況下で迎える2011年は、創設55年の歴史を持つドイツ連邦軍にとって、かつてない激動の年となりそうだ。連邦雇用庁(BA)のヴァイゼ長官を座長とする委員会報告書には、連邦軍は「成果に比べて規模も費用も過大な官僚機構」で、任務を果たせる状況ではないと書かれている(7)。アフガン派兵の年間費用は、ドイツ経済研究所(DIW)によれば(国防予算として計上された10億ユーロ[8]ではなく)30億ユーロにも上る。2001年から、撤退開始が見込まれている2013年までの累計で、360億ユーロとなる勘定だ。

 支出の抑制と軍の効率化をめざすグッテンベルク連邦国防相は、国外展開可能な部隊を倍増する一方で人員は3分の2(18万人)に減らしたいと望んでおり、メルケル首相にも支持されている。1955年の再建以来ドイツ軍の柱となってきた兵役義務の事実上の廃止も考えている。徴兵制は(期間が半年に短縮されて以降)不平等で軍事的意義の薄いものになっており、自由民主党(FDP)、緑の党、左翼党は廃止を支持している。しかし、キリスト教民主同盟(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)が、それぞれ2010年11月、10月の党大会で維持を方針としたため、徴兵制にかわる自発的社会奉仕活動が2011年7月より拡大される見込みが高い。

重ねられてきた国外派兵

 民主的で平和的なものとして構想され、「市民兵」から成り立っているたドイツ軍は、当初からフリーハンドを得ていたわけではない。1990年まで、ドイツ連邦共和国(西独)とドイツ民主共和国(東独)は完全な主権を備えておらず、いわゆる国際平和維持活動に参加していなかった。統一条約が発効し、主権が移譲されたのは、ベルリンの壁崩壊後、「4+2」協議(9)を経た1990年10月2日のことだ。統一ドイツ全域に適用された西ドイツの基本法は、国外派兵には国会の承認が必要であると定めている。フランスなど多くの国には見られない規定だ。

 そのため、派遣期限の延長といった重要な決定は、常に「内政上の綱渡りのきわみ(10)」となり、一連の制約を加えられる。軍の側では、政治的指導者に全面的に支持されているわけではないとの感情を抱く。しかもドイツ連邦軍は日常的に、防衛監察委員の注視を受ける。防衛監察委員は連邦議会(下院)の秘密投票により5年の任期で選任され、その身分は議員でも公務員でも、ましてや軍人でもない。選任の目的は「基本的人権の保護のために、および連邦議会が議会による統制を行う場合の補助機関として」である。

 ドイツ軍の展開が世論に徐々に受け容れられるよう、政府はかねて条件を整えてきた。ヨーロッパ域外、そしてソ連という敵がなくなって以降は、「国境なき」機構たらんとするNATOの本来の介入圏外への展開だ。最初の国際的活動への参加は1993年のカンボジア、医療部隊を派遣した。続けて94年にはソマリアに、同じく人道支援の枠組みで展開した。

 「控えめの文化から、実力の発揮へ(11)」の移行が本格化したのは1999年のことだ。社会民主党(SPD)のシュレーダー首相によって決定された最初の出動は、対セルビア作戦とコソヴォ戦争への参加だった。次いで、2001年9月のテロの後には、アメリカとともに「テロとの戦い」に加わり、2003年にISAFを発足させた。経済大国たる統一ドイツが、「主権をもたなかった歴史的例外状況(12)」を脱し、「普通の国」として自己主張を始めたのだ。それを担っているのは戦後に生まれた新世代の指導者たちだ。彼らは「ナチス時代のことを記憶する義務は、もはやドイツが国際舞台に出て行くのを阻害するものではない」と考えている。

 以降、ドイツ連邦軍は国外介入に力を入れるようになり、2006年にはコンゴ民主共和国、2007年にはチャド、2008年以降はインド洋のソマリア海賊対策に出動している。とはいえ、これらの活動はいずれも、期間と地域が限定され、国会の入念な統制を受け、国際協力や紛争後復興という観点から実施されている。ドイツの安全保障に関わるとの理由付けがされたわけではなく、武器の使用は要員の防護に限定されている。

 他のヨーロッパ諸国と同じくドイツでも、アフガンの山中で起きていることが自分たちの自由に関わっているという主張は世論にあまり響かない。「なぜ今なおとどまらなければならないのか」と、かつて欧州議会の防衛小委員長を務め、欧米の介入を支持したカール・フォン・ヴォガウ(CDU所属)は問う。この欧州外交の重鎮は、「われわれの敵は国際テロであって、タリバンではない。それは軍の仕事ではなく、警察の仕事だ」と断じ、ドイツ参加の目的は、コソヴォの時と同じくアフガニスタンの安定化だったはずだと指摘する。優先すべきは警察組織、司法組織、教育制度だということだ。

 バルカンの問題に際しては、ドイツ人は真剣に心配し、ヨーロッパの国で虐殺が起きるのを止めるために派兵が必要だと考えた。それに比べてアフガニスタンは遠い。コンゴとチャドというアフリカへの派兵も「支持を取り付ける」のは難しかった。理想的な条件を備えていたのはインド洋の対海賊作戦だけだ。一般市民の犠牲はなく、戦うのは海賊と兵士というプロ同士だし、盗賊団だの南洋だの一種のロマンもある。貿易ルートを守るための公益任務であり、多国間の活動だ。

大統領の失言

 アフガニスタンについてTAZ紙のハンセンは、要員を増やしているのに事態は悪化しており、現行の戦略もまずいと述べながらも、では他に戦略があるのかと問う。かつては第三世界主義、反軍事主義を奉じていた彼は、同紙の編集部と同じく揺れていると言う。「現行の介入はたいして役に立っていない。でも、どうすればよいというのだ。アフガン人に訓練を施して、それで引き揚げろというのか。NATOが去ってしまったら、なけなしの成果も総崩れになるのではないか」

 「アフガニスタンで、ドイツの安全保障と基本的人権のために戦っているのだ」と、メルケル首相は他のヨーロッパ主要国首脳と同様に力説する。それに輪をかけるように、ある外交官は「ドイツは今まで運がよかった。だが、ロンドンで、マドリードで、テロは起きている」と述べ、およそ40カ国がISAFに参加していることを強調し、「みなが行っているのだ」と言う。ただし「アフガニスタンを新たなスイスに変える」ことは断念された。

 アフガン紛争は中央アジア全域に関わっており、石油パイプラインや原料資源にとどまらない地政学的な意味を持っている、というのがドイツの取材先で耳にした見解だ。「地滑りになりかねない地域であって、安定化を要する」というわけだ。それが長期的な支援が必要な理由だと明言した者もいる。ドイツは1970年代以降3度にわたり、アフガン警察の養成を行っている。アフガニスタンは、60年代にはドイツの最大の支援先だった。そして今日再びその座に舞い戻ってきた(13)

 両国の関係は100年近く昔にさかのぼる。1919年に、敗戦した旧帝国ドイツが孤立から脱するのを、当時のアフガン国王が助けている。第二次世界大戦中には、(アフガン人をアーリア人として捉えた)ヒトラーが、英軍を回避するために同国を利用しようとした。ソ連占領下のアフガニスタンからは、亡命者が西独に迎えられ、学生が東独の大学にやって来た。カブールには、フランスやトルコの教育機関と張り合うジャーマン・アマニ・スクールという高校があり、両国の古くからの親交のあかしとなっている。こうしたことを踏まえると、アフガン人の目に、ドイツがソ連やアメリカのような侵略者に見えるわけがないと、取材相手たちは主張した。それだけに、クンドゥズ事件のショックは大きかったはずだ。ドイツ世論はそこで初めて、自国の善良な「開発のための兵士」が、友好国で狼藉を働く戦争屋に成り下がっているのを知ったのだから。

 クンドゥズ事件の衝撃は示唆的だ、ドイツはアフガニスタンのおかげで、自分の考える普通の国になり得たのだ。統一後も経済大国であり続けてきたドイツにとって、「政治小国」にとどまり、自国軍があまり重んじられない状況は堪えがたいものかもしれない。ケーラー大統領は2010年5月、アフガン駐留部隊の視察から帰国した後、ドイツもまた「商売と交易の自由という自国の利益を軍事的に守る」べきだと明言して、知友の間ですら顰蹙を買った。「経済的利益はアフガニスタンへの展開の根拠とはならない」とグッテンベルク国防相が反駁するのを聞いて、彼は辞任する道を選んだ。

 使命感によるにしろ、選択の余地がなかったにしろ、平和的で、復興を助け、人道支援に貢献してきたというドイツの自画像は、クンドゥズの悲劇そして大統領の発言によって、完膚なきまでに打ち砕かれてしまった。ケーラーは発言が誤解されたとして、アフガン派兵のことではなく、インド洋海運の安全を守るためのEUのアトランタ作戦のことを示唆したものだと言うが、後の祭りだった。SWPのマースはこう論評する。「ドイツでは、国益の観点で語ることになじみがない」

 さしあたり、1月12日にドイツ政府は、ISAFへのドイツ連邦軍の派遣期限延長を決定した。期限切れとなる同月28日には、連邦議会も承認する見込みである(14)。撤退開始は2011年末からということで、諸派はほぼ一致している。即時撤退を主張しているのは左翼党(旧共産党と社会民主党左派で結成)だけだ。逆に、2012年1月28日に切れる次の期限の延長に関しては、それまでに政治的・軍事的情勢が好転しないかぎり、連邦議会の承認は容易には得られないだろう。緑の党、SPD、CDUの相当数が「反対」陣営に回る可能性があるからだ。マースは言う。「アメリカを喜ばせ、ニューヨークの高層ビルへの攻撃に応じてNATO共同防衛条項を適用するというだけの理由から、アフガニスタンで戦争をやるのはもう無理だ。ドイツ人が『アフガニスタンのために死ぬ』ような切迫した理由は何もないのだから」

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2011年2月号)