東欧の極右

ミヒャエル・ミンケンベルク(Michael Minkenberg)

ヴィアドリナ欧州大学教授、フランクフルト・アン・デア・オーダー

訳:土田修


 急進右派は東欧においては、国家社会主義に対抗して、次いで新たな経済自由主義秩序に対抗して形成された。そうした潮流が存在すること自体に特に不思議はなく、急速な近代化を始めた社会全般に固有の特徴とみなす専門家もいるほどだ。東欧における急進右派を考える意義は、むしろその地域的な特性にある。

 東欧の急進右派は、多くの点で西欧のそれとは異なっている。体制転換以降、東欧の急進右派は、選挙でしばしば相当な票を集めてきた。ただし、場所と時期によって大きな変動がある。

 もう一つの特徴は、これらの潮流の前民主的もしくは反民主的なイデオロギーに関連している。西欧の急進右派と違って、かつての専制体制へのノスタルジーを声高に唱えており、かつてのごとく民族と領土に基づいて「国民」を捉えているのだ。とはいえ、こうした激烈なナショナリズムにも若干のバリエーションがある。一方には、ファッショで権威主義的な右派がある。両大戦間期の独裁体制の流れを汲んでおり、ことにロシア、ルーマニア、さらに近年ではブルガリアで伸長している。ソ連帝国の崩壊によって生じた「民族共産主義」と同系である。他方には、自民族中心主義的で人種差別的な右派がある。同じく領土の見直しを主張しており、ハンガリーやチェコで伸長している。

 国境の引き直しという願望は、ナショナリストたちが19世紀以来「凍らない海」を手に入れたいと夢みてきたロシア固有のものではない。例えば、「共和」を称するチェコ共和党(SPR-RSC)は、旧チェコスロヴァキア時代の国境線への回帰を主張しており、そこでは「単一的」な国民のみに市民権を認めるという考えを抱いている。ルーマニアでは大ルーマニア党(PRM)が、両大戦間期の国境線に戻してモルドヴァを併合することを主張している。領土回復の衝動が最も激しいのはハンガリーだ。ハンガリー正義生活党(MIEP)、より良いハンガリーのための運動(ヨッビク)の両党は、トリアノン条約(1)を改正し、国境を旧ハンガリー王国時代の規模まで広げるべきだと論じている。これらの急進右派政党はいずれも、ハンガリーの矢十字党やルーマニアの鉄衛団など、1930年代のファシズムの運動と体制のシンボルを活用している。

 ポーランドの場合は、宗教原理主義の浸透も見られる。既に20世紀初頭に、国民民主主義の理論家ロマン・ドモフスキは、カトリックだけが良きポーランド人を作ると説いていた。1990年代のキリスト教国民連盟(ZchN)も同様の発想の下、カトリックの教義は国の柱となるべきであり、東欧各地に四散した全ポーランド「民族」の利益を擁護すべきであると主張した。その流れを汲むのがポーランド家族同盟(LPR)だ。同党は、消滅した同系政党(ZchN、ポーランド再生運動=ROP、市民フォーラム=PO)のネットワークにテコ入れすることで、ラジオ・マリヤの支持を取り付けた。数百万人のリスナーに向けて、伝統主義、外国人嫌悪、反ユダヤ主義の主張を流しているカトリック保守の放送局だ。

 これらの政党は、多くは暴力を信奉しており、どの国の場合も多かれ少なかれ、選挙や体制内政治への侮蔑、人種差別の傾向、強力な指導者への信奉という共通点がある。例えばポーランドでは、さまざまな都市で数百人の活動家が集まって、ファシスト的で反ユダヤ主義的な落書きで壁を埋め尽くしている。2006年まではLPRの傘下にあった全ポーランド青年は、暴力的行動で知られている。チェコでは、とりわけロマ人を標的とした過激な襲撃「シーン」が増えており、それが一部の国民の共感を得ている。1990年代のハンガリーには、スキンヘッドのグループが推定4000人いた。ロシアでは、メディアによれば同種のグループが少なくとも5万人いるほか、アレクサンドル・ドゥギン率いる正教保守勢力や、不法移民反対運動(DPNI)などの暴力集団がある。

 とはいえ、東欧の極右は西欧諸国に比べて、さほど組織化されていない(他の大部分の政党も同様だが)。これらの政党は選挙の度に浮沈を繰り返し、再編を繰り返してきたため、つかみどころのないほど流動的だ。急進右派のさまざまな政党や運動の間の境界線、あるいは急進右派と保守系右派との境界線はきわめてあいまいなものになっている。

歴史の遺産

 EU新加盟諸国のこうした特徴は、彼らが体験した体制転換に加え、地域固有の歴史によって説明できる。歴史の遺産が、民主主義の空間の上に、タマネギの皮のように折り重なっているのだ。東欧の極右が何ものなのかを知るためには、この皮を剥いて剥いて剥き続けなければならない。

 最初の皮は1989年に始まったソ連崩壊の過程の直接的な結果から出来ている。民主主義と市場経済への移行も、EU加盟をめざす旧ワルシャワ条約機構諸国が行った適応のための甚大な努力も、即興的に進められてきた。こうした激動の中で、東欧社会は大変な試練にさらされた。それまでは存在しなかった貧富の格差が拡大し、国民の需要と利用可能な資本(信頼という資本も含む)との差が急速に開いた。極右勢力は、こうした困難な変革期における国民の不満にうまく乗じてきたのだ。

 二番目は、かつての共産体制の重たい遺産である。変化に適応できない官僚制、寛容性に縁の薄い政治文化、新システムに適合した教育を受けていないエリート層、社会にあまり根差していない政党、半世紀に及ぶ権威主義的中央集権が足かせとなっている経済といったものだ。それらの一掃が乱暴に図られたために生じた恨みつらみが、構造化の不十分な政治空間において、極右の肥やしとなっている。西欧各地でスケープゴートとされているのは移民だが、東欧にはあまりいないため、その役割は国内マイノリティや隣接国に振られている。このことは諸国間の関係に長期的な悪影響をもたらすことになるだろう。

 三番目のタマネギの皮は、さらに厚い。長期にわたる民主主義の経験の欠如である。この地域のすべての国は独立以来それに悩まされてきた(顕著な例外はチェコスロヴァキアだけだ)。それゆえ、第二次大戦後のドイツやオーストリアのエリート層と違って、これら諸国のエリート層は、新たなリーダーの装いをまとってみせるのに苦労してきた。そうした状況で、極右に対する数少ない反撃が、もっぱら国家体制の中から発されているのは、驚くべきことではない。

 東欧における急進右派の躍進には、さらに根深い歴史が関わっている。この地域を占める諸国民の歴史だ。その形成は、19世紀に開始され、20世紀に何度も中断され、今日なお完遂していない。ベルリンの壁崩壊によって独立を勝ち取った国のほとんどは、西欧と違って、第一次大戦までロシア、オーストリア=ハンガリー、オスマンといった多民族帝国に属していた。19世紀を通じて築かれていった彼らの国民意識は、それを掬い取る国家が存在しなかったため、民族的な考え方に終始していた(2)

 それゆえ今日なお、国家と国境の継続性が安定的に確立されているとは言いがたい。これら諸国の三つどもえ関係は、1918年以来ほとんど変化していない。国民国家があり、国内には「外国」の少数民族がおり、国外各地には「母なる祖国」への復帰を大なり小なり望む住民の飛び地がある、という関係だ。そうした緊張関係は、ソヴィエト社会主義の時代には、インターナショナリズムの建前によって覆い隠されていたが、1989年以降は再び表面化するようになり、過激ナショナリストによって煽られ、利用されてきた。

 1989年の蜂起によって生じた反共産主義の圧力の行き着いた先が、東欧諸国における国民国家観の見直しだった。それゆえ、ナショナリズムや自民族中心主義のレトリックは、二次的な現象にとどまるものではなく、公共的・政治的な活動を構造化する中心軸のひとつとなっている。そこにエリート層への拒否反応と、政治家に対する幻滅が加われば、東欧社会がますます右傾化しているのももっともかもしれない。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2011年1月号)

* 註(1)内「ユーゴスラヴァア」を「ユーゴスラヴィア」に訂正(2011年1月25日)