学校は学びの場であり、学びの場は学校にある

サンドリーヌ・ガルシア(Sandrine Garcia)

パリ第九大学社会学助教授

訳:エマニュエル・ボナヴィタ


 フランスでは2002年以降、学校教育に関する法案が相次いでいる。教員養成学校(IUFM)を廃止しよう、成績不振者支援ネットワーク(RASED)を廃止しよう、読本の教え方を見直そう、土曜午前の学習時間の代わりに平日に「補習タイム」を設けよう、学区制を緩和しよう、といった内容だ。

 政府は学校教育の「効果」向上を掲げた改革を正当化するために、大学の中退率が高いことや、小学校の学習達成度が低いこと(1)をがなり立てる。なかでも大量に報道されたのは、庶民層の高校生を対象としたグランド・ゼコール(特別高等教育機関)入学優先枠の拡大や、少し古いところでは、2007年にペクレス高等教育研究大臣が推進した学士号取得促進プランだ。一連の改革で特筆されるのは、落ちこぼれ防止策として、幼稚園に週2時間の補習タイムを設けていることだ。小学校では「勉強見守り制度」や成績向上プログラム(2)といったものが広がっている。

 政府の言う効果的な学校教育は一見すばらしいものに見えるが、そこには大きな矛盾がある。周知のように、幼稚園での教育により、基本知識に大きく差が付く。読本の授業が始まる前の小学校1年生の段階で、すでに格差が存在するのだ。読むことも書くこともきちんとできないまま中学校に入れば、成績不振は深刻化する一方だ。学外で補習を受けさせる金銭的な余裕が家庭にない場合はなおさらだ。したがって、年齢が上がるほど拡大する格差を食い止めるためには、学内での授業や課外時間の割り振りが依然として重要だ(3)

 学力差が明確化するにつれ、読み書き計算の基本が身に付いた「良い生徒」の親は、子供を似たような生徒と付き合わせようと懸命になる。中学に上がる段階は重要だ。どの生徒と付き合わせ、どの生徒と付き合わせたくないかと積極的に戦略を立てる(4)。小学校ではまだあまり差はなくても、学習内容が増え、授業方式も多様化する中学校では、手に負えないほど差が開くからだ。成績不振が深刻化することは必至である。だからこそ、教育の効果を軸とした民主的な学校制度を考えていかなければならない。

 小学校の段階が、中学以降の成績を保証するわけではないにしても、肝心な時期であるのは明らかだ(5)。教授法や(6)、教員が授業や課外活動に充てる時間の配分、教え方などについて論じるのはもっともなことだが、政府の言う「効果的な学校教育」には問題がある。

「勉強見守り制度」なる措置

 たとえば幼稚園では、学習内容をきちんと評価すべきだと言われるなかで、土曜午前の2時間が削られたが、それがどう教育の向上につながるのかの理由付けはない。年間時間数は936から864に減った。代わりに一部の園児を対象とした補習タイムが設けられたにしても、学習時間こそが学力向上の決定的な要素なのだから、この措置の意義は疑問だ(7)

 高校を対象にした一連の改革、とりわけ最近の措置の中にも、これと同様の論理が見出せる。一方では全員を対象に授業時間を減らし、他方では一部の生徒を対象に学内外での補習を増やしているのだ。

 こうした二重の動きから、ある重大な傾向が読み取れる。課外時間を細かく管理しようとしているが、それが教育に役立つのかは疑問だ。そうした方向のものとして、1990年から2007年の間に出された6つの通達のほか、2006年1月18日付の社会的結束法に基づく措置がある。近年導入された「勉強見守り」制度は、政府の公式見解によれば学力向上を目指すもので、「学力向上のために子供が必要とする支援や資源を学校のほかに提供するための一連のアクションである。ここで言う支援とは、その子供の家庭や社会的環境では得られないものを指す」とされる(8)。政府が行っているのは、学区制の緩和も同様だが、1980年代から推進されてきた政策の継続と強化である。そこにある理念は、学習の効果を評価できるよう教え方を考えるというよりも、「学習意欲」や「新しいことを覚える楽しさ」といった紋切り型の羅列にすぎない。

 勉強見守り制度に対する評価はどうかというと、これを重点政策とするほど有効であるとは思えない。社会学者のドミニク・グラスマンはこう述べる。「勉強見守り制度に期待できる成果は、すでにアメリカが試みた補助教育程度のものだろう。ごくわずかでしかなく、学力差は縮まらない」。彼はさらに、「意図せざる作用によって、烙印を強化してしまったり、生徒相互の排他的グループ化を進めたりすることになるかもしれない。支援効果の薄い生徒に関してはなおさらだ」と言う(9)

 効果的な学校教育という看板を一方では掲げながら、有効性が疑わしい政策を拡大するという矛盾の陰には、社会構造の問題がある。勉強見守り制度が行おうとしているのは、成績の良い子供の家庭環境のメリットを他の子供にも提供することだ。学校こそが「学力向上」の鍵であると考えるならば、学習自体を重視すべきだが、そうした考え方は暗に否定されている。勉強見守り制度の基本は家庭環境に置かれている。恵まれた階層のメリットと思しきものを再現・真似するということだ。

 勉強見守り制度では、これまでずっと学校が担ってきた教育の平等・民主化という使命が、とりあえずの研修を受けただけの一般人に委ねられている。しかも、成績不振の責任は家庭に転嫁される。このような学外委譲は、政府の支出を抑えるという点で経済的なのかもしれないが、理にかなったものではない。というのも、子供が一番長くいる場所はあくまで学校であり、そこで過ごす時間が一番有益だからだ。親の立場からすれば、学校というのは生徒全員に対して効果的な場であって、家庭では手立て(や時間)がないためにできないことをしてくれる、と期待してよいはずだ。

保護者重視の2つの論理

 家庭では何をしてあげているかというアンケート調査によると、ミドルクラス以上は子供の教育に「積極的に」に関与している。落ちこぼれかけていると見れば、親が自分でサポートする。そこには物理的な側面もある。子供が普段から親しめるような蔵書を備え、教材を買い与えたり、さらには学習内容を先取りして教えたりもする。学外学習に関する措置の多くは、家庭の関与を求めているが(10)、その物理的な側面を軽視している。庶民層の期待に応えて、そうした物理的な側面を学外学習において重視するという姿勢はない。

 たとえば中学校37校で試行された措置では「保護者教育」、なかでも「教養が低い」保護者の教育が重視された。研究教育ネットワーク「パリ・スクール・オヴ・エコノミックス」のエリック・モーランのチームの評価によれば、保護者の関与を求め、自分たちも子供の教育に有意義な役割を果たせることを理解させようとするという点で、効果的なアプローチだったという。だが、そうした評価は何を根拠にしたのだろうか。家庭と学校の関係が改善し、保護者の「関与」によって生徒の素行が良くなった、というのが主な根拠だ。だが、学校生活が改善されたといっても、学力自体への影響は「僅少」だった(11)

 生徒の素行が良くなったのは喜ばしいことだ。だが果たして学校教育の主要な目的は、他の生徒が普通に勉強している間に、保護者を教育したり、「問題児」を矯正したりすることなのだろうか。

 保護者が教育に果たす役割を評価する裏には、2つの論理が働いている。1つは学校の使命を学外に移すことであり、もう1つは成績不振の責任を(文化資本に格差のある)家庭に転嫁することだ。学校を学力向上の中心的な場と見なすのをやめるなどとは、重大な変化である。しかも、その一方で成績不振者支援ネットワークを廃止するというのだ。成績不振の問題を学外の人々に請け負わせるという意味で、勉強見守り制度の推進には、教員との一種の妥協の側面もある。それは政府と教員との衝突を回避するにしても、果たして教育自体の問題なのだろうか。

 政府の政策では中身が間違っているが、効果の問題が学校教育の重要なポイントなのは事実である。勉強見守り制度は、学習の代わりに子供との「関係」を中心に置くものだが、それだけで文化資本の格差を埋められるかは疑問だ。まさに学ぶことこそ、公教育が断固擁護すべきものだ。一部の措置では「子供中心主義(12)」が喧伝されている。学習の効果とは無関係に、注意を払い、成長を促し、楽しみを与え、活動させるということだ。それには特段の専門知識は必要ない。しかし平等に知識を伝えるという仕事には、教師の専門知識が必要なのだ。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2010年10月号)

* 註(3)の雑誌名を訂正(2010年11月19日)