黒海の港をめぐる

ジャン=アルノー・デランス特派員(Jean-Arnault Derens)

『バルカン通信』編集長

ローラン・ジェラン特派員(Laurent Geslin)

ジャーナリスト

訳:日本語版編集部


シノップ(トルコ)

 2010年5月1日、トルコの港町シノップ。アタテュルク広場では労組がメーデーの集会を開いている。湾内には原発反対のスローガンを大々的に掲げたトロール船が集まっている。「シノップに原発は要らない」

 原子力発電所の建設計画には、黒海に面したこの小都市の住民の憤りが凝縮されている。トルコの海岸は、イスタンブールからシノップまではまだ自然が保たれているが、ここから東のグルジア国境にいたる約600キロはコンクリートで固められてしまった。高速道路が通ったせいで、沿岸の町々は浜辺から切り離された。随所に新たな集落が出現し、おびただしい数の建物が並ぶが、多くはまだ施工中だ。よりましな生活を期待して、最近山から下りてきたばかりの人々が住む。

 高速道路が海岸ぎりぎりに作られているような地帯は、浸食の危機に瀕している。それを食い止めるため、数キロごとにコンクリートの突堤が築かれているが、逆効果かもしれない。潮の流れを妨げて堆積物を留め、浸食部を数百メートルずらしているだけだからだ。ところどころ、漁船が停泊している突堤も見かけるが、こうした新しい港は、高速道路を渡らないと行けないし、特段の便益があるわけでもない。船の多くは使われていないようだ。

 黒海の漁業は、かつては栄えたが、今や水産資源の涸渇に脅かされている。ロシアはトルコに厳しい漁場制限を課している。しかも黒海の水域は有機物、特に藻類が増えすぎて、ことのほか富栄養化が深刻だ。農業に用いられる窒素やリンなどの過剰な栄養素が海に流れ込んでくるせいだ。富栄養化は海を「窒息」させ、酸素の循環を減らす。こうした事態が黒海でとりわけ著しいのは、ドニエストル川やドナウ川のような大河が主立った流入源のため、塩分が少なめになるからだ。

 黒海汚染防止協定委員会をはじめ、さまざまな国際機関が何年も前から警鐘を鳴らしてきたが、実際的な権限をもたないため、勧告を出すぐらいのことしかできない(1)。当座のところ、環境保護は沿岸諸国の優先課題ではなさそうだ。

 トルコ政府は、海岸をコンクリートで固め、続いて発電所の開発を当て込んでいる。15年ほど前にエネルギー市場が民営化され、国営企業TEKの独占がなくなって以来、ダムの計画が目白押しだ。政府は政府機関EPDKを介した調整役に徹し、民間企業に49年間の河川利用権を与えている。ダムの計画は全国で1300件は下らず、黒海地方では600件に上ると思われる。

 「反対運動をやって、ここの谷の発電所計画を当面は食い止めることができました」と、フィルティナ渓谷で小さなホテルを営むセルジョ・ギュナイは言う。「全国のエネルギー需要の0.14%を満たすダムになるという話ですが、我々の計算では、電力網全体で30%以上が送電によって失われているんですよ」。ギュナイはフィルティナ渓谷の環境保護派の広報役だ。この地方一帯はダム反対で一丸となっている。トルコは以前、ブルガリアからエネルギーを輸入していたが、現在は自給できている。しかし民間企業は、イスタンブールなど大都市で電気代が急上昇しているにもかかわらず、カフカス地域などへの輸出をめざしているのだ。

サムスン(トルコ)

 「もう6世代前から、チェルケス人は魚を食べません」と、サムスン・チェルケス人協会のオトハン・デョグバイ会長は言い切る。チェルケス人がトルコに移住したのは、黒海北岸部がロシアに征服されて以後のことだ。「我々の祖先はノヴォロシスクからソチにいたるまで、現ロシア領の沿岸一帯に住んでいました。19世紀初めになると、帝政ロシアがチルカシア(2)の征服に打って出ました。彼らが最終的に目的を達成したのは下って1864年です。チェルケス諸部族はクバアダの戦いで壊滅しました。生き残った者はオスマン帝国に逃れるほかありませんでした。海岸近くの各地に集結し、乗せて行ってくれる船を待ったのです(3)。あの辺は不潔な地域でしたから、多くの者がマラリアその他の病にたおれました。洋上で死んだ者もいました。死体は船べりから投げ捨てられました。だから我々は今でも魚を食べないのです」

 400万から500万人いるとされるトルコのチェルケス人は現在、ある重要な運動に結集している。2014年にソチで開かれる冬季オリンピックへの反対運動だ。主要会場に予定されているのが、ソチを見下ろす山地にあるスキー場、クラースナヤ・ポリャーナ、これはクバアダの戦いの古戦場なのだ。「『クラースナヤ・ポリャーナ』はロシア語で『赤い林間地』という意味で、ロシア人は、あそこに生える羊歯が赤い色をしているからだと言いますが、私たちは、あの場所を赤く染めたのは我々の祖先の血だと知っているのです」と語るデョグバイの語気はけわしい。

 チェルケス人の諸団体は国際オリンピック委員会に訴えかけたが、満足のいく回答は得られていない。チェルケス人の「民族虐殺」があったことを認めよと彼らは主張する。この4月初め、アメリカに拠点を置くチェルケス世界会議の代表団が、グルジアの国会議員に面会した。ロシアへの対抗に手段を選ばないサアカシヴィリ政権の姿勢からすると、グルジアがチェルケス人の「民族虐殺」を認める最初の国となるかもしれない。

トラブゾン(トルコ)

 黒海沿岸はまた、20世紀を通じ、さまざまな住民の盛んな混淆の場でもあった。トルコの沿岸部には「ポントス人」と呼ばれるギリシャ人(4)がいたが、1923年のローザンヌ条約でギリシャとトルコの住民交換が実施されてからは、ほとんどいなくなった。古代にはギリシャ人の町トレビゾンドだったトラブゾンは、今はトルコ民族主義の牙城だ。2007年1月19日にイスタンブールでアルメニア系ジャーナリスト、フラント・ディンク(5)を殺害したとされる容疑者は、この町で生まれ育った。

 ギュルテキン・ユジェサンは、この町の人権擁護団体の主宰者だ。ある日の夕刻、彼は長い時間をかけて私たちに、軍やさまざまな諜報機関にとって、トラブゾンは今なお象徴的な存在なのだと説明した。「ケマル主義(6)はここでは健在です」

 だが町では、イスラム教の戒律のごちごちの遵守が、これ見よがしに励行されるようになっている。港のあたりまで下りていかないと、公然と酒を出すバーは見つからない。春をひさぐ女たちの相手も行きずりの船員だ。トルコ人ではなくロシア人である。

 というのも、トラブゾンとロシアのソチの間は、毎日何隻ものフェリーが行き来するからだ。船体は老朽化し、時間も不正確だが、おおぜいの乗船客が慌ただしくひしめきあう。私たちの旅の道連れは、売りさばきやすい衣服や小間物をバッグ何個分も持ち帰る「トランク貿易」に精を出すロシア人の女性たち。2008年の戦争以来、母国とロシアの直行便が途絶えたため、トルコを経由しなければならないロシア在住のグルジア人労働者たち。それにたくさんのカフカス系の人々だ。

 筋骨たくましい若い男性のグループが、ロシア語とカフカス系の言葉で何か怒鳴り合いながら乗り込んでくる。彼らが引きずっていた大きな荷箱の中身は、トルコの税官吏が検査に来た時にコーランの山とわかった。このちょっと特殊な荷物は、ソチでの入国の妨げにはならなかった。ソチではオリンピックの準備が着々と進んでいる。選手の宿泊所となる海外沿いのアドレルからは、クラースナヤ・ポリャーナまでの高速道路が建設中だ。この小さな海水浴場の町は、分離独立を宣言したアブハジアとの国境のすぐそばにある。

スフミ(アブハジア、グルジア)

 「もちろん、オリンピックの経済効果を期待していますよ」と、アブハジアの大統領顧問、ヴィアチェスラフ・シリクバはうなずいた。ソ連版リヴィエラの「真珠」と謳われたアブハジア(アブハズ語ではアプスニ、「魂の国」の意味)は、8000人以上の死者を出した凄惨な戦闘の末に、1993年にグルジアから分離し、2008年8月のグルジア軍とロシア軍の戦争後は事実上の独立国となっている。この小さな共和国の25万の住民には、アルメニア人やロシア人、ポントス人もおり、アブハズ人は今日では45%ほどだ。25万人いたグルジア人の大半は、1993年の戦争後に逃げるか追われるかしており、戻ってくることは考えにくい。「もし難民が戻ってきたら、新たな戦争になるだろう」とバガプシュ大統領は語気を強める。「ほとんどが、手を血で汚しているのだから」

 アブハジアは現在も、ほとんどの国が追随したグルジア主導の禁輸措置の影響を被っている。首都スフミの港は巨大なアブハジア国旗を掲げつつも、定期的にトラブゾンからの貨物船を受け入れている。グルジアのバトゥミに行くはずの船が、海上で針路を変えて、アブハジアで荷物を降ろすのだ。

 海に面したカフェには、地元スフミの人間は集まってきても、観光客の姿はまだほとんど見られない。モスクワから多額の資金が投じられているが、ロシアの手駒にすぎないとの見方をアブハジア政府は否定する。「国民をグルジア軍から守るため、ロシアの軍事基地を2つ、要員1万人を受け入れている。1994年以来初めて、安心して眠れるようになったのだ」。バガプシュ大統領はそう釈明してから、厳しい口調でまくしたてた。「アブハジアがロシアの保護領なら、グルジアはアメリカの保護領ではないか。コソヴォは独立国として認め、アブハジアは認めないなんて、そんな道理があるものか」

 スフミ周辺は生気を取り戻している。建物は、今にも崩れ落ちそうとはいえ、人が住んでいる。ここかしこに、カフェや商店が出現した。湾沿いの国立大学は、戦争の爪痕を校舎に留めつつも、1万人近くの学生でごった返す。スフミから50キロほどの町グダウタから来た20歳ぐらいの学生、グディサ・ツカリアはここで国際関係を学んでいる。夢は、外交官になって、赴任先で自国の代表として働くことだ。しかし今のところ、独立を承認したのはロシア、ニカラグア、ベネズエラ、ナウル、それにドニエストル、南オセチア、北キプロス・トルコ共和国だけだ。国連をバックにグルジアが主導した協議は停滞している。しかもアブハジアは、2009年6月に国連ミッションを撤退させることに成功し、EUの軍事監視団の立ち入りをはね付けている。

バトゥミ(グルジア)

 アブハジアとグルジアの「国境」の通路は、イングリ川に架かる歩行者専用の橋だ。そこで、アブハジアに住むグルジア人の一群が、対岸のグルジアの町ズグディディに買い出しに行くのに出くわした。橋を渡りきれるかどうかは、アブハジア民兵とグルジアの警官の腹ひとつだ。そして国境地帯では、ひっきりなしに事件が発生している。

 今年6月8日には、アブハジアの国境警備員が1人殺された。グルジアは今なおアブハジアを武力で取り戻すことしか考えていない。サアカシヴィリ大統領は、2003年11月の「バラ革命」で政権に就いて以来、分離独立を宣言したアジャリア、アブハジア、南オセチアをグルジアに再統合しようと執念を燃やしてきた。唯一の成果がアジャリアだ。

 以来、きわめて親欧米的なグルジア政府は、アジャリアをグルジアの洒脱なショーケースに仕立てようとしてきた。要職は大統領の側近で占め、政府はバトゥミに目一杯の資金を投じてきた。むかしは海水浴場だったこの古めかしい町に、豪華なホテルがぼこぼこと出現しつつある。4月1日には24階建てのシェラトンがオープン、ほかにもハイアットやヒルトン、ラディソンなど多数が建設中だ。観光客の足は2008年の戦争以後さっぱり遠のいたが、バトゥミはトルコからの観光客に期待を寄せている。目玉はトルコでは禁制のカジノ。林立するホテルすらしのぐ数だ。

 旧市街のすぐそばにある商港も、お色直しの真っ最中だ。49年間にわたる港湾の管理権が、カザフスタンの石油持株会社カズトランスオイルに付与されている。アゼルバイジャンやカザフスタン、トルクメニスタンからバトゥミ方面に鉄道で運ばれる原油は、2009年現在で700万トンに上る。

 ここの港長室には2人の大統領の写真が飾られている。サアカシヴィリ大統領と、カザフスタンのナザルバエフ大統領だ。ズラブ・シュルガヤ港長は、22年に及ぶソ連外交官時代の多くをアラブ諸国で過ごし、経済協力に携わった。次いでグルジアの大使としてカザフスタンに赴任した。外交官を辞して、カザフスタンのためにバトゥミ港の責任者になってほしい、とカザフ政府が持ちかけてきたのだと打ち明ける。

 カザフスタンは、ロシアときわめて緊密な結び付きを保ちながら、グルジアに多額の投資を行っている。これについて、事情通の間では、二通りの解説が出回っている。カザフ企業の背後にはロシア資本がいるのではないか、さもなければ逆に、カザフスタンがロシアとの抜き差しならない排他的な関係から抜け出すために、新たな販路を探しているのだろうという。シュルガヤ港長は、グルジアとロシアの実質的断交状態が損であることを認めつつも、つとめて楽観的に、こう断言した。「どんな戦争にも終わりがあります」

ポチ(グルジア)

 バトゥミの北方およそ50キロ、2008年8月の紛争でロシア黒海艦隊から壊滅的砲撃を受けたポチ港でも、49年間の管理権が(アラブ首長国連邦の)ラスアルハイマ首長国に付与されている。ポチの復興は順調に進んでおり、カフカスと中央アジアへの入り口をなす主要港となることだろう。

 ウクライナのオデッサに本部のある黒海港湾協会のマクシム・ショーニンは、ポチとブルガリアのヴァルナ港との関係を発展させることが大事だと語る。黒海の東西両岸の交流が深まれば、ロシアは脇に追いやられる。1998年には、欧州連合(EU)と地域14カ国の間で、欧州・カフカス・アジア輸送回廊(TRACECA)計画が発足した。カスピ海および中央アジアの石油・ガス資源の輸送に加え、小アジア地域へのアクセスにも主眼を置いている。ポチ港はアルメニアに通じており、そこを経由すれば容易にイランに到達できる。

 オデッサとヴァルナの両港は熾烈な競争関係にある。現在進行中の両岸交流は、2010年2月7日の大統領選以降ロシア寄りに軌道修正中のウクライナも、のけものにする方向に働くからだ。とはいえ、事はそう簡単には運ばない。ポチとヴァルナの連合は、ロシアとトルコの関係に比べ、まだマイナーなものでしかない。ショーニンの見るところ、「ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を抜ける船の80%近くはロシア船か、ロシアに向かう船のどちらかです」

セヴァストポリ(ウクライナ)

 この港は長い間、ウクライナとロシアの緊張関係を象徴的に示すものだった。ソ連時代は、ウクライナに組み入れられた現クリミア自治共和国には含められずに、特別な地位を与えられていた。1991年のウクライナ独立後も、ロシアはこの新生国家のセヴァストポリに対する主権を長らく認めず、同市は「閉鎖都市」の地位を維持した。ここに入るには特別な通行証が必要だった。1997年、両国間で協定が結ばれた。ロシアはセヴァストポリに対するウクライナの主権にもはや異を唱えず、かわりに港湾の租借権を得た。この4月に、ウクライナのヤヌコヴィッチ新大統領は協定を延長し、租借期間は2042年までとなった。セヴァストポリに駐留するロシア軍人は推定2万人近く、多くが家族帯同だ。

 投錨地には、巨大なレーニン像と並んで、ロシア海軍水路部のビルが建っている。塗装は色褪せ、愛国的な装飾はソ連時代そのままだが、エフゲニー・ゲオルギエヴィッチは満面の笑顔と屈託のない握手で私たちを迎えた。「黒海艦隊が注意警戒に当たっています」と、このウクライナ国籍のロシア人将校は請け合った。事実、2008年8月の紛争の時、ほかならぬセヴァストポリから出撃した軍艦が、ポチのグルジア艦隊を粉砕したのだ。

 アンドレイ・ソボレフは、町を見晴らす欄干に肘を付いて、その隅々まで知り尽くした港を眺めている。日刊紙セヴァストポリ新聞の社主であり、市内で大人気の寄席芸人でもある。「多くの住民にとって、セヴァストポリは何よりも戦争中にナチスに抵抗した都市、ソ連の誇りです。その過去は今も脈々と息づいています。ソ連とその英雄的神話は今も私たちのうちに生き続けているのです。セヴァストポリはウクライナの一部ではありえませんが、ロシアだと言いきることもできません。それはひとつの港、それ自体でひとつの世界をなす、特別な都市なのです」

 ソボレフは声高に、自分の夢を語り始める。戦争の町セヴァストポリは、平和の町になり、一種の治外法権を享受するのだ。ロシアの黒海艦隊の駐留は続くだろう。この「砦」を手放そうなどとロシアがつゆほども思うはずのないことは、周知の事実なのだから。北大西洋条約機構(NATO)がブルガリアとルーマニアの基地を強化して以後はなおさらだ。

オデッサ(ウクライナ)

 ウクライナの対ロシア関係はここ数カ月で正常化したが、対ルーマニア関係は緊張が続いている。不和の種はドナウ川のデルタ地帯だ。3500平方キロ近くにわたって両国の間に広がっている。このデルタは、ヨーロッパを流れるドナウ川水系から黒海への入り口となるばかりではない。ヨーロッパで比類のない自然地帯として、1991年にユネスコの世界遺産に指定された。そこには植物1200種、鳥類300種、魚類45種が棲息する。

 「デルタの保護にはルーマニア政府との協力が必要です。生態系には国境はありませんからね」と、オデッサ水理学研究所のニコライ・ベルリンスキー教授は訴える。「私は水路建設に反対はしません。ドナウ川の航行についてはなおさらです。でも、デルタの整備のやり方はめちゃくちゃですよ」

 ウクライナ政府は2004年に、デルタにいたる天然の支流であるビストロエ水路を航行可能にするための工事を開始した。3年間の工事を経て2007年5月14日より、貨物船とコンテナ船が黒海からドナウ川をさかのぼり、ヨーロッパの内陸部まで行けるようになった。ウクライナにとって貿易上、大きな意味のある工事だ。ルーマニアの関税の一部を払わずにすむし、ウクライナの外貨収入の増大をもたらす新航路が開けるからだ。

 「この水路の整備は、ばかげた考えです」とベルリンスキー教授は悲嘆に暮れる。「河岸の集中的な開発のせいで、大量の堆積物がドナウ下流に流されて、毎年およそ40メートルずつデルタが広がっています。大水深の航路を維持するためには、恒常的に水路を浚渫しなければいけませんし」。ビストロエ水路で浚渫された堆積物は5キロ先の沖合に投棄されているが、それらは海流によって北から南へと運ばれて行く。運ばれる先は、ルーマニア側の航路であるスリナ水路の出口付近だ。これがまたルーマニア政府を苛立たせている。

 ソ連崩壊以降、両国は領海の境界線をめぐって争ってきた。ここの大陸棚の下には、1000億立方メートルの天然ガスと1000万トンの原油が眠っているのだ。紛争はハーグの国際司法裁判所に持ち込まれ、2009年2月3日に判決が言い渡された。ウクライナに認められたのは対象水域の20%に当たる2500平方キロ、残り80%、9700平方キロはルーマニア領とされた。

ヴィルコヴォ(ウクライナ)

 市街を走る運河網から「ウクライナのヴェネツィア」と呼ばれ、人口は8000人足らずの小都市ヴィルコヴォは、こうした地政学上の問題には縁遠い。2004年に政府の幹部は、水路によって4000人の雇用が生まれると確言したが、経済はどん底の状態にある。「人々は出て行くわ、仕事はなくなるわ、ソ連時代の港も工場も閉鎖されましたしねえ」と、軍を退役して観光ガイドをしているニコライ大尉は嘆く。「今でも実入りのある事業といえば、葦を刈ってオランダに輸出するぐらいのものですよ」

 ヴィルコヴォの真向かい、対岸のルーマニアとの往来はほとんど不可能だ。道路もなければ橋もなく、デルタ地帯にあるルーマニアの大都市トゥルチャとの船便は途絶えている。ルーマニアに向かうには、何時間もかかる悪路を行くしかない。「ルーマニアがEU入りした今では、ビザが求められるようになりました」とニコライ大尉は付け加える。葦や沼が広がる風景の中では場違いな、ウクライナ警察の詰め所が通行を監視している。「国境管理はソ連時代よりも厳しい。新たな鉄のカーテンがデルタを分断しておるのです」

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2010年8月号)