広東のアフリカ商人たち

トリスタン・コロマ特派員(Tristan Coloma)

ジャーナリスト

訳:七海由美子


 中国はこの3月に、6年ぶりの貿易赤字を記録した(27.4億ドル)。経済は今なお輸出型であり、その先頭に立つのが広州だ。この町で働くのは、民工と呼ばれる国内移民だけではない。アフリカから来た移民たちもいるのだ。[フランス語版編集部]

 ここでは、彼らを目にしても誰もとやかく言わない。ここは全く中国というわけでもなく、かといってアフリカでもない。中国南部、香港から列車で2時間、広東省広州市の大通り、小北路と広園西路に挟まれた区域だ。公式には2万人(1)、香港大学の研究者によれば10万人近く(2)のアフリカ人が、高速道路と高架道路と鉄道に挟まれたこの「アフリカ・タウン」に定住あるいは宿泊する。中国人が「チョコレート・シティ」と名付けた10平方キロほどの区域は、商業一色に染まっている。イボ語やウォロフ語、リンガラ語が、中国標準語と広東語に交じって聞こえてくる。

 国際貿易の表舞台に躍り出た中国は、旧欧米植民地諸国を引き寄せる力を持つようになった。シンクタンクの欧州外交評議会(EFCR)を率いるマーク・レナードの表現によれば、「中国は緑茶、孔子、ジャッキー・チェンでもって、マクドナルド、ハリウッド、ゲティスバーク演説に対抗できることを証明している(3)」。しかし、アフリカ人たちが押し寄せているのは中国の文化ゆえではない。猛烈な経済成長を遂げ、軽工業製品の卸売市場が生まれているからだ。有機化学の博士号を持ち、15年来アジアを渡り歩いてきたギニア商人アブ・カバは、若者たちが大挙してやって来ることに驚く。彼らは「広州を中継して、そのまま欧州に行けるか、ちょっと地下鉄に乗れば東京に着けると思っているのです」

 1800万人の住民と何万もの町工場でごった返す都市での彼らの商売ぶりは、原油契約や巨大建設工事などメディアを賑わせる中国のアフリカ事業とは、際立った対照をなす。輸出熱に駆られた龍に飛び乗ろうと、獅子がやって来る。「黒人だろうが何だろうが、ビジネスによければいいの」と、商業地区の東風で電化製品の店を出している女性が、立て続けの電話の合間に緑茶を一飲みして怒鳴る。広東は世界の工場、省都の広州はそのショーウィンドーであって、お金に色はない。「グローバリゼーションのアフリカ人歩兵たち(4)」は「中国の奇蹟」の分け前に与ろうと懸命である。彼らがアフリカに輸出する品物は、ものすごい組み合わせだ。発電装置、靴、綿棒、原付自転車、建設資材、人毛、おもちゃ、等々。カメルーン人露天商のジョゼフが冗談を飛ばす。「中国では何でも見つかる、黒人までもね」

 中国アフリカ関係の秘められた一面だ。その規模は思いもよらないほどである。毎年数千のコンテナがダカール、モンバサ、アビジャン、ドゥアラに向けて発送される。数字を見ても、2003年から2007年の間に294%増である(5)。2009年11月8日、温家宝首相は第4回中国アフリカ協力フォーラムの際に、2008年の中国アフリカ間の貿易は推計1068億ドル、前年比45.1%増に達したと熱く語った(6)。アフリカ商人たちは、アジアとドバイの伝統的な足場を捨てて、活動の場を急速に中国へと移してきた。

 両者の接近は忽然と起こったかのように見えるが、もとをたどれば1955年4月のバンドン会議にさかのぼる。この会議は、ソ連の支配、欧米の帝国主義と植民地主義的傾向のどちらにも抵抗しようとする非同盟諸国を結び付けた。中国はアルジェリア、アンゴラ、また南ローデシア(現ジンバブエ)などの独立闘争を支援し、そのおかげで1971年、それまで台湾に与えられていた国連安保理の常任理事国ポストを奪還した。その後ようやく1980年代になって、冒険心あふれた最初のアフリカ商人たちが当時は英国領だった香港にやって来る。そして、2001年9月に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟すると、商人たちは安い商品の産地へと直接買い付けに出向くようになった。

 「アフリカ市場に出回る商品の90%近くは中国、タイ、インドネシアから来ます」と広州ギニア人会のスルタン・バリー会長は分析する。「中国では一つのコンテナに異なる商品を同梱できる。より柔軟なんです」。広州のアフリカ人(7)の90%がそうであるように、バリーも商売人である。かつては宝石商として「アメリカン・ドリーム」を温めていたが、今では「黄河資本主義」の勃興に加わっていることを誇りに思っている。祈祷室と殺風景な商談ルームに挟まれた彼のオフィスが、天秀大厦のワンフロアーを取り仕切る。この35階建ての高層ビルは、多彩な事業が入り乱れるバベルの塔だ。省内の製品見本に埋め尽くされた店舗、代理店、輸送業者、合法またはもぐりのアフリカ料理店、散髪屋に週貸しの家具付きマンション・・・。

 稼ぎをどんどん増やしたいなら、生活と仕事が一緒くたにならなければならない。コートジヴォワール人企業家イブラヒム=カデル・トラオレはそう主張する。「遊びに来たわけじゃない。商売はうまく迅速に、だ。アビジャンではまだみんなフランス一辺倒だが、フランスだと25年間で1万ユーロがせいぜいだ。中国だったら、5年で10万ユーロ貯められる」。こういうわけで、かつての奴隷の道や閉ざされた欧州の国境に背を向けて、東洋へと冒険に来る者は後を絶たない。

悩ましきビザ

 2003年から2007年の間に、アフリカ人移民の数は年30%から40%の勢いで増加した(8)。「一部の後発途上国(LDC)と中国との関係強化によって、この世界最大輸出国で活動するアフリカ商人は増える一方です」と香港大学の研究者であるバリー・サウトマンは言う。

 大量の移民を前に、かつてこの種の「問題」に見舞われたことのなかった中国政府は困惑している。2006年には胡錦濤国家主席がアフリカ48カ国の首脳を北京に盛大に迎え入れ、友好を請け合った中国だが、2007年は移民希望者たちに冷や水を浴びせる年となる。「中国は移民の目的地ではない。新たな規制によって、高度な技能を持つ外国人の誘致をめざす(9)」。中国当局は、2004年8月20日に移民担当部門の報道官ハオ赤勇が掲げた古い主張を引っ張り出してきた。アフリカ人へのビザ発給を減らすと公言したようなものだ。自分たちが突如としてペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)にされたとの印象をアフリカ人は抱いた。

 「アフリカ人の人口は減りました」とバリー会長は嘆く。「以前は、アフリカ人は有効期間1年、滞在期間無制限の数次ビザをもらえました。ところが2008年、北京オリンピックの直前に、中国当局は大掃除をしようとした。ビザの現地更新を全くやらなくなったのです。商用ビザを更新するには帰国しなければならなくなりました」。それ以来、ビザは求めても求めても手に入らないものと化し、時にはおかしな日常を生み出している。偽ブランドTシャツを売る不法滞在コートジヴォワール人のラッジは、主にマカオで更新したビザの何十ものスタンプを臆面もなく披瀝する。「ビザの有効期間は30日しかない。だから1カ月に1度は中国本土から出なければならないんだ」

 オリンピックの時、当局は身分証チェックを強化した。「チョコレート・シティ」では、きたる11月に広州で開かれるアジア競技大会が、アフリカ人にとっても中国人にとっても懸念の種だ。「義理の兄弟のテレビ工場の製品は、私が半数以上をアフリカ人に売っているのよ」と、ある売り子は数え上げた。「彼らが必要なのに、いなくなってしまうのが心配だわ」

 2009年7月、公安の手入れがあらぬ方向に展開しかけた。警官から逃れようと、二人のナイジェリア人が窓から飛び降りた。一人は窓ガラスを割った際に腹を裂き、もう一人は頭から落ちて数日間昏睡状態に陥ったが、二人とも一命をとりとめた。ところが彼らが死亡したとのうわさが町中を駆け巡り、在中の外国人移民による初のデモが起きたのだ。およそ100人が広州市内の警察に押しかけた。外国の大手メディアは二人が死んだものと確信して、お決まりの人権侵害批判をここぞとばかりに繰り出した。「一斉検挙がまた始まった」と先のアブ・カバは話す。「妻が家の戸を開けると、ビザのチェックに来た公安でした。でも書類を持っていたのは私でした。警官は怒鳴り、子供たちが泣き出しました。牢屋行きだと言われたのですが、うちの家族はちゃんと移民登録しています。公安は我々が合法滞在であることを承知しているんです」

 2009年10月6日の国営新華社通信の記事で、省の公安局移民管理部門の副責任者モー・リャンはこう語っている。「昨年に不法入国とビザ失効で拘束された外国人の70%はアフリカ人でした。2009年の上半期は77%にまで上昇しています」。アフリカ人たちが「猛攻」あるいは「陰謀」と見る事態を前に、闇商売が成り立つようになった。ラッジが言うには、安心の保証を得るには「正規」のビザを手に入れるしかない。「中には2000ユーロも払うアフリカ人もいる。民間業者に電話して、行政当局を買収するのさ」

 悪循環だ。「中国政府は移民を食い止めようとして、移民たちをアフリカ人の闇ネットワークの手に陥れている」と、ナイジェリア人会の会長で「ミスター・アフリカ」として通っているオジュク・エンマは憤る。「ばかげた状況が生まれています。到着したての者が金欲しさに自分のパスポートを売り、公安に国外追放されると、今度は国で身元を偽って、またやって来る始末です。麻薬売買や売春に身を落とす者までいる。こういうことがアフリカのイメージに泥を塗るんです」

 そこでエンマ会長は猛然と立ち向かうべく、軍事政権ばりのやり方で、広東のアフリカ人社会全体の襟を正すことにした。「我々のコミュニティは犯罪と闘います。50人くらいの若者で『治安隊』を結成しました。鉈を手にアフリカ人犯罪者をつるし上げ、警察にしょっ引きます。我々のイメージを良好に保つためです」

道でも病院でも

 この種の取り組みのおかげで、2009年11月には、彼の言うところの一種の「恩赦」が、関係当局に自主的に出頭するアフリカ人に与えられることになった。「2010年3月8日、ビザが失効したナイジェリア人400人が中国から去りました。私は罰金を半額にしてもらう交渉もし、現在300ドルになりました。そんなわけで私は移民管理当局に日参しています。他のアフリカ人会の会長たちも大概そうですがね」。それに「出国者たちはお金が出来次第、合法的に戻って来られますよ」と彼は言う。ただし、罰金と帰国便代を払えない人々については語らない。中国の国外追放制度には、無料の強制送還は規定されていない。貧しい者たちは直接刑務所行きで、一説によれば国営工場で働かされることすらあるという。そうした状況にあるアフリカ人の数は、当然ながら政府から公表されてはいない。

 厳しい取り締まり制度が緊張を生み、アフリカ人コミュニティは偏見を持たれるようになる。メディアが彼らを無法者呼ばわりすることで、中国人の間で強烈なナショナリズムが高揚する。「中国人は今でもアフリカ人に恐怖感を抱いています。当局は、社会の調和を維持するためには、移民の過大な流入から人民を守らなければならないと考えている」と、広東の大学の教授は匿名で語る。

 中国系作家ユン・チアン(張戎)はベストセラーとなった自叙伝『ワイルド・スワン』の中で(10)、1970年代に中国の学生がアフリカ人についてどう習ったか描いている。「彼らはまだ文化が十分に発達しておらず、本能を抑制することができません」。大半の中国人にとっては、欧米でも同じことだが、アフリカはマスメディアの色眼鏡越しにしか見えていない。エイズと飢餓、紛争と旱魃にさいなまれて迷走する大陸、どう見ても未来のない世界の一角、というふうに。

 他国人より人種差別的というわけではないにせよ、中国人はとかく差別感情を表しやすい。中国に住んで5年になるナイジェリア人のヴィンセントの話がこれを裏付ける。「インドネシアやマレーシアの方がひどいにしても、『黒鬼子』とか罵られるのはいつものことです。公共交通機関では人々が鼻をつまんでみせるし、道では私が近付くと子供たちが逃げたりする。我慢しないと暮らせません」。ほかにも屈辱的な経験がある。コンゴ人学生ジャン=ベデルは言う。「病院では、ちょっとでも熱があると、医者はものすごい数の採血管に血を採って、もれなくHIV検査をする。自国民に対してはしない振る舞いです。おまけにどの検査でも厳重に手袋をはめている。こんなこと、黒人に対してだけですよ」

 タクシーの運転手も、アフリカ人に呼ばれても時折、聞こえぬふりをする。「黒鬼子は麻薬や売春をやっているからね」とあるタクシー運転手は言う。「料金の交渉までしてくる。俺は絶対止まらないね。どのみち、行き先だって何を言っているのかさっぱり分からないんだ」。こうした無理解の背景には、短期滞在のアフリカ人たちの大半が現地社会に溶け込もうとしないこともある。「中国社会の周縁で生き、飛び地のような居留地を作りがちで、異文化をそのまま保っている。中国人とアフリカ人は互いをよく知らない」とエクス・マルセイユ大学のブリジット・ベルトンセロ教授と開発研究所(IRD)のシルヴィ・ブルドルー所長は報告している(11)。アフリカ人の側では、中国人のせいだと言う。「近付くのは難しい。中国人の大半は私たちに悪口雑言をぶつけ、同等には見てくれないのですから」というのが、先のバリー会長の結論だ。

 他者との関係について、毛沢東は全く違った説を唱えていたと歴史家のフランク・ディケターは指摘する。「1963年、毛は『アフリカにも、アジアにも、世界中いたるところに人種差別がある。しかし現実には、人種問題とは階級問題だ』と宣言した。人種差別に走るのは欧米人のみであり、中国人は白人帝国主義に対する歴史的闘争における『有色人被害者』の旗手だったとの見方が、公式のプロパガンダによって助長された(12)

 階級を経済的成功に置き換えれば、現代中国の実態が見えてくる。「中国人の偏見と人種差別は、個人でも社会でも、経済社会的レベルの成功に立脚しています」とニューヨーク市立大学政治学教授の孫雁は言う(13)。政治や法と同じく人種差別もまた、ビジネスが始まるところで停止する。商業と貨物の町である「チョコレート・シティ」では、中国人はアフリカ人が自国の繁栄に役立つことを理解するようになったが、ほかの地域ではアフリカ人はまだ敵視されている。トウ小平の言葉を借りれば「一国二制度」である。

南南協力の関係?

 広州市当局による入管規則の強化と中国人の排外主義にもかかわらず、中国にいるアフリカ人たちは二つの大陸に「橋(14)」を架けてきた。アフリカ商人たちは受入国の人々と本国のつなぎ目となっている。「国」という漢字は四方を壁に囲まれているが、アフリカ人たちはそこに入る扉を見つけたのだろうか。1988年に南京大学で起こったような黒人に対する暴動は今は昔のこととなった。あの時は、中国人がアフリカ人学生に暴行を加え、何千人もが「黒鬼子に死を!」と唱えながら町を練り歩いた。デモのきっかけは一人の中国人学生が殴り殺されたことだったが、非難の矛先はもっぱらアフリカ人たちが中国娘に言い寄ることに向けられていた。

 それが今では、小北路の界隈では国際結婚も、その子供たちも目に見えて増えてきた。「中国の開放により、ここにいる有色の外国人にも希望が出てきた」とヤン・スフィアンは力説する。「彼らの文化に適応して、彼らの掟に従うようにしている」。このニジェール人の若者は8年前に「ほとんど文無しでやって来て、紅茶はともかく、緑茶なんて知らなかった」と言う。5年前に中国人のハンナと結婚して、10カ月の息子アラファトがいる。「妻の実家が結婚に反対したことはない。あの人たちの心配事は、いつか我々がニジェールに発ってしまうのではないかってことだけだ。妻は私のことを恐がらなかった。中国にずっといるアフリカ人は適応力ばっちりだって分かってたからね。アフリカ男はガッツがあるし、絶対すすんでる。女性を大切にするし、家事も手伝うし」

 石室聖心大教堂前の広場で、国際結婚は300から400組に上るとエンマ会長は語る。「だから協会を立ち上げて、できるだけ離婚がなくなるようにしようとしています」。というのも、文化の違いがあるだけでなく、在留許可証目当ての結婚もあるからだ。これを裏付けるように、ラッジが平然と言う。「会社を興すには、中国人女性と結婚しなきゃね。兄がそうだった。我々みんなの夢だよ」

 中国に来てから大学あるいはアフリカにも多数開校されている孔子学院(15)などで、中国語を学ぶアフリカ人が増えている。彼らはさらに、中国人に対する指南役や教育者を自任する(16)。バリー会長はあきれ顔で、ないないづくしだった中国人たちを思い出す。「アフリカ人がやって来たことで、中国人は自分たちの商品の売り方が分かるようになったのです。我々が雇った秘書たちは、英語が一言も話せませんでした。我々がいるおかげで、英語、フランス語といった外国語学習熱が高まったんです。中国人は国際取引のイロハも知りませんでした。信用供与、信用状も知らず、現金を手渡しでしたからね。そりゃ取引とは言いませんよ」

 こうした自然発生的で制度の枠にはまらない交易が、両地域の社会を結んでいる。南南協力をうたいあげる中国が、後発途上国の「離陸」にあたり、その国と関係する工業国との人的交流が拡大することを忘れるわけにはいかない(17)。中国はそれに対して、自国のイメージを損なうことなく対処していかなければならない。中国人のアフリカへの移民が批判を集めるなかで、外国人受け入れ政策を厳しくする余地はないのだから(18)

 中国を拠点とし、サハラ以南アフリカを安物商品で埋め尽くす「多国籍アフリカ商人ブルジョワ層(19)」が出現しようとしているのだろうか。そうした開発モデルは限界を見ることになるかもしれない。当地の繁華街を囲むように立ち並ぶカフェの一軒で、ブルンジ出身の男性がおずおずと言った。「中国はヨーロッパの4、5倍安い商品をアフリカにたらふく食らわしている。間接的には購買力が伸びる。でも、地元では何も作らなくなる」。アフリカ経済はさらに不当競争(無関税、ダンピング)に苦しめられる。それが「インフラ対資源」式の協力協定にもまして、中国の新植民地主義という印象をアフリカで生み出している。貿易相手国に対する内政不干渉という口実のもと、中国は自国の利益を第一に押し通そうとしているのではないだろうか。

 「中国は政府と取引しようとしますけど、アフリカ人と直接取引した方が経済的に利益が大きいことに中国人は気付くことでしょうよ」とバリー会長は論ずる。アフリカ人が中国と商売すること、でも居留せずに、というのが中国指導部の望みである。しかし広東のアフリカ人の90%は、アフリカの顧客と中国の工場の間を取り持つ仲買に従事している。彼ら抜きの商売などありえない。「中国の吸引力はその経済力ですが、これは長続きするものではありません」と国際関係学者の閻学通は分析する。「拝金主義だけでは誘惑の道具立てとして不十分です。道徳的な威信も必要です(20)」。アフリカ人移民を大事にすることが、中国の得になるということだ。

 「中国の市場開放はドアがちょっと開いただけ。とりわけ許可証を取ることの難しさときたら」とマリ商人のザンゴは腹を立てる。「未来はどこか別のところにある・・・例えばインドとかね」

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2010年5月号)

* 註(8) 年号重複を修正(2010年6月1日)